歴史とは魂の軌跡だと私は思っている。
勿論当然事象(行動の記録)なのだが。
人間以外の生物にも歴史はあるのだろうか。
歴史という考え方があるのだろうか。
時の経過の中でどう行動したか、
という意味では同じであろうが。
だから一見すればあると言うことになる。
だが私の結論は無いである。
・・・・・
他の生物には明確な自我が見られない。
自我は言葉を持たなければ明確化しないと思う。
勿論自我そのものはあるだろう。
だがそれを概念化した上で、己を振り返らねばならない。
それがないと明確な自我とは言えない。
それでは歴史は語れない。
歴史とは人々の来歴を文字による記録で著したものである。
だから歴史時代とは文字の記録で辿れる時代ということだ。
文字の無い時代は考古学という。
とはいえ、事象の変遷をなべて歴史と言ってもいいだろう。
文字に代わるものをもって表わせば。
それが提示できるならだが。
他の生物についても観察記録としては提示できるだろう。
だがそれは歴史とは言わない。
それはその種の生態を研究する学問である。
歴史という言葉はそぐわない。
・・・・・
魂とは物である身体に宿る気(精神)である。
唯物論のごとく世界は物だけで出来ていると考えるなら、
彼方も私も同じような物であり大きな違いはない。
同じホモサピエンスなのだ。
でも現実は彼方は彼方であり私は私である。
その違いは身体的にもあろうが、何より思いの違いである。
魂の表出の違いなのだ。
それこそが違いなのだ。
現下の世界は唯物論が席捲しているが、
唯物論とは便法であり、
扱い難いものである魂は取り敢えず横に置いて、
先ずは物だけで考えよう、
というものである。
しかるに、その前提を忘れてしまったようだ。
それが昨今の情勢である。
この世界が歪むのは当然の成り行きだ。
それはさておき、
・・・・・
歴史とは魂の軌跡と謂うは故なのだが、
それは言葉があってこそ現れる。
言葉が自我を浮かび上がらせ、それが思いとして表出する。
その結果の行動の積み重ねが歴史である。
だから人間特有のものなのだ。
小さくは自分という個人史、大きくは国史・世界史など…。
狭義では歴史とは文字の記録をいうのだが、
それは元を糺せば言葉であり、
言葉はそも音(声)であり文字は後付けでしかない。
だが文字は記録として残こる。
だから歴の史(ふみ)なのだ。
歴史とは言えないが、似たものに神話がある。
神話は事実の記録ではないようだ。
その内容は時に奇想天外でもあり。
でも大きな意味・意義があり、すこぶる価値あるものなのだ。
それは時代を生きた人の魂が宿っている。
歴史が結局は魂の軌跡なら、神話もそれに違いないのだ。
しかもそれに特化している。
それに何がしかの事実の反映でもあろうし。
・・・・・
日本には最古の歴史書として古事記・日本書紀がある。
いろいろ言われているが、それらは日本の正史である。
その最初は神話で始まっている。
だから歴史書としては認めがたいと言う人がいる。
笑止!
だから素晴らしいのだ。
初めに純然たる魂の表出から始まっているのだ。
その上で魂の軌跡である事象が記されている。
素晴らしい。
なお古事記は厳密には正史とは言えないかも知れない。
だが古事記こそ日本人の魂だと思う。
彼の本居宣長先生も言ってるように。
勿論当然事象(行動の記録)なのだが。
人間以外の生物にも歴史はあるのだろうか。
歴史という考え方があるのだろうか。
時の経過の中でどう行動したか、
という意味では同じであろうが。
だから一見すればあると言うことになる。
だが私の結論は無いである。
・・・・・
他の生物には明確な自我が見られない。
自我は言葉を持たなければ明確化しないと思う。
勿論自我そのものはあるだろう。
だがそれを概念化した上で、己を振り返らねばならない。
それがないと明確な自我とは言えない。
それでは歴史は語れない。
歴史とは人々の来歴を文字による記録で著したものである。
だから歴史時代とは文字の記録で辿れる時代ということだ。
文字の無い時代は考古学という。
とはいえ、事象の変遷をなべて歴史と言ってもいいだろう。
文字に代わるものをもって表わせば。
それが提示できるならだが。
他の生物についても観察記録としては提示できるだろう。
だがそれは歴史とは言わない。
それはその種の生態を研究する学問である。
歴史という言葉はそぐわない。
・・・・・
魂とは物である身体に宿る気(精神)である。
唯物論のごとく世界は物だけで出来ていると考えるなら、
彼方も私も同じような物であり大きな違いはない。
同じホモサピエンスなのだ。
でも現実は彼方は彼方であり私は私である。
その違いは身体的にもあろうが、何より思いの違いである。
魂の表出の違いなのだ。
それこそが違いなのだ。
現下の世界は唯物論が席捲しているが、
唯物論とは便法であり、
扱い難いものである魂は取り敢えず横に置いて、
先ずは物だけで考えよう、
というものである。
しかるに、その前提を忘れてしまったようだ。
それが昨今の情勢である。
この世界が歪むのは当然の成り行きだ。
それはさておき、
・・・・・
歴史とは魂の軌跡と謂うは故なのだが、
それは言葉があってこそ現れる。
言葉が自我を浮かび上がらせ、それが思いとして表出する。
その結果の行動の積み重ねが歴史である。
だから人間特有のものなのだ。
小さくは自分という個人史、大きくは国史・世界史など…。
狭義では歴史とは文字の記録をいうのだが、
それは元を糺せば言葉であり、
言葉はそも音(声)であり文字は後付けでしかない。
だが文字は記録として残こる。
だから歴の史(ふみ)なのだ。
歴史とは言えないが、似たものに神話がある。
神話は事実の記録ではないようだ。
その内容は時に奇想天外でもあり。
でも大きな意味・意義があり、すこぶる価値あるものなのだ。
それは時代を生きた人の魂が宿っている。
歴史が結局は魂の軌跡なら、神話もそれに違いないのだ。
しかもそれに特化している。
それに何がしかの事実の反映でもあろうし。
・・・・・
日本には最古の歴史書として古事記・日本書紀がある。
いろいろ言われているが、それらは日本の正史である。
その最初は神話で始まっている。
だから歴史書としては認めがたいと言う人がいる。
笑止!
だから素晴らしいのだ。
初めに純然たる魂の表出から始まっているのだ。
その上で魂の軌跡である事象が記されている。
素晴らしい。
なお古事記は厳密には正史とは言えないかも知れない。
だが古事記こそ日本人の魂だと思う。
彼の本居宣長先生も言ってるように。
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