ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

魂の軌跡

2018-11-12 13:58:35 | 日記・エッセイ・コラム
歴史とは魂の軌跡だと私は思っている。
勿論当然事象(行動の記録)なのだが。
人間以外の生物にも歴史はあるのだろうか。
歴史という考え方があるのだろうか。
時の経過の中でどう行動したか、
という意味では同じであろうが。
だから一見すればあると言うことになる。
だが私の結論は無いである。
・・・・・
他の生物には明確な自我が見られない。
自我は言葉を持たなければ明確化しないと思う。
勿論自我そのものはあるだろう。
だがそれを概念化した上で、己を振り返らねばならない。
それがないと明確な自我とは言えない。
それでは歴史は語れない。
歴史とは人々の来歴を文字による記録で著したものである。
だから歴史時代とは文字の記録で辿れる時代ということだ。
文字の無い時代は考古学という。
とはいえ、事象の変遷をなべて歴史と言ってもいいだろう。
文字に代わるものをもって表わせば。
それが提示できるならだが。
他の生物についても観察記録としては提示できるだろう。
だがそれは歴史とは言わない。
それはその種の生態を研究する学問である。
歴史という言葉はそぐわない。
・・・・・
魂とは物である身体に宿る気(精神)である。
唯物論のごとく世界は物だけで出来ていると考えるなら、
彼方も私も同じような物であり大きな違いはない。
同じホモサピエンスなのだ。
でも現実は彼方は彼方であり私は私である。
その違いは身体的にもあろうが、何より思いの違いである。
魂の表出の違いなのだ。
それこそが違いなのだ。
現下の世界は唯物論が席捲しているが、
唯物論とは便法であり、
扱い難いものである魂は取り敢えず横に置いて、
先ずは物だけで考えよう、
というものである。
しかるに、その前提を忘れてしまったようだ。
それが昨今の情勢である。
この世界が歪むのは当然の成り行きだ。
それはさておき、
・・・・・
歴史とは魂の軌跡と謂うは故なのだが、
それは言葉があってこそ現れる。
言葉が自我を浮かび上がらせ、それが思いとして表出する。
その結果の行動の積み重ねが歴史である。
だから人間特有のものなのだ。
小さくは自分という個人史、大きくは国史・世界史など…。
狭義では歴史とは文字の記録をいうのだが、
それは元を糺せば言葉であり、
言葉はそも音(声)であり文字は後付けでしかない。
だが文字は記録として残こる。
だから歴の史(ふみ)なのだ。
歴史とは言えないが、似たものに神話がある。
神話は事実の記録ではないようだ。
その内容は時に奇想天外でもあり。
でも大きな意味・意義があり、すこぶる価値あるものなのだ。
それは時代を生きた人の魂が宿っている。
歴史が結局は魂の軌跡なら、神話もそれに違いないのだ。
しかもそれに特化している。
それに何がしかの事実の反映でもあろうし。
・・・・・
日本には最古の歴史書として古事記・日本書紀がある。
いろいろ言われているが、それらは日本の正史である。
その最初は神話で始まっている。
だから歴史書としては認めがたいと言う人がいる。
笑止!
だから素晴らしいのだ。
初めに純然たる魂の表出から始まっているのだ。
その上で魂の軌跡である事象が記されている。
素晴らしい。
なお古事記は厳密には正史とは言えないかも知れない。
だが古事記こそ日本人の魂だと思う。
彼の本居宣長先生も言ってるように。

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