ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

宗教の根

2016-05-12 10:24:50 | 日記・エッセイ・コラム
人類の宗教は根は同じである。
一つは自然崇拝である。
当たり前のことだが、
人はそこから誕生したのであり、
そこで生き、
そこで生命を産み、
そこで終える。
そこは永遠の生命を担保する場である。
存在する物、
存在する現象、
目に見えるもの、
目に見えないもの、
諸々あるが、
そのすべてが生命を担保する。
時に有難く感謝し、
時におののいて恐怖する、
それが自然だ。
畏敬するのは当然である。
だから祀るのである。
諸々の物や現象を。
古代文明のシュメルやエジプトやギリシャ・ローマも、
すべからく多神教であった。
多神とは自然そのものであり、
自然の実相を投影したものだ。
実に多神は祈りの原点である。
・・・・・
現今は一神教が幅を利かしている。
一神とは何か。
それは決して目に見えるものではなく、
現実を投影してるものでもない。
それは頭の中で抽象化された概念でしかない。
全体を無数の集まりとせず、
つまり現実を横に置き、
全体を一つとすれば、
確かにそうなる。
それは一見高度に見えるが、お化けや幽霊などと変わらない。
人間の頭の中にあるだけで幻想でしかない。
一神教が多神教より優れてると思うのは間違いだ。
むしろ多神教こそ根本である。
根があってこそであり、根を枯らしてはダメである。
まして軽んじたり否定するのは論外だ。
いつも思うのだが、
脳だけで判断するのは偏りでしかない。
脳は身体の一部でしかないのだ。
そこは注意しよう。
原点を忘れてはならない。
・・・・・
一神教を信奉する欧米は、
現実への感性を横に置き、
脳の中の亡霊を振り回す。
ために自然は征服するものだと。
自然は人間が自由にしていいと。
傲慢なり。
でも、ほんとうは違うだろう。
心底では畏敬していると思う。
たぶん忘れているだけだ、
長年の悪弊で。
まあその内、気付くだろう。




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