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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

世界の宗教地図2

2016-05-06 14:17:50 | 日記・エッセイ・コラム
世界の宗教地図では、
色は概ね三つである。
そうなのだが、
仏教は本来は宗教ではなかったと思う。
むしろ最先端の学問だったのだろう。
宇宙の不可思議、
存在の不可思議、
その不可思議の核心を追求する。
・・・・・
言葉だけでそれを得ようしても無理である。
言葉は借物であり、しかも常に有限である。
有限のもので無限を捉えることはできない。
それに言葉は身体のごく一部(大脳)を使うだけのものだ。
人間の身体は60兆個の細胞でできているという。
ならば、それを総動員すべきであろう。
その方法が瞑想等の修行というものだ。
脳だけに頼るのは偏りが激しく、場合によっては危険なのである。
現代文明が破綻しかかっているのも無理はない。
それはさておき、
お釈迦様はそれを極めようとなされた。
そして修行の果てに極められた。
菩提樹の下の悟りである。
だからこれは学問である。
全身全霊を使った学問なのだ。
その成果を付き従う弟子たちに伝えられた。
あくまでも弟子たちにである。
これが仏教である。
それが今では広く民衆の信仰になっている。
となれば信仰の対象が必要だ。
菩薩とか如来とか言われるものがそれだろう。
だからまあ宗教なのである。
これは一般には大乗仏教と言われるのだが、
はてさて、どこでそうなったのか。
・・・・・
三つの色の圏外で大きな地域が二つある。
それはインドとシナである。
インドはヒンズー教である。
これはご存知の通り多神教であり、
その成立経緯はよくは知らないが、
古来からあるものである。
シナは共産党政権下で表向きは無宗教なのだが、
一般的には儒教と言われている。
でも私は儒教は宗教ではないと思っている。
これは世渡りの術でしかない。
信仰の対象がないのである。
信仰的なものがあるとすれば、
それは祖先崇拝である。
しかし祖先崇拝はどんな宗教にも当然にあるもので、
無神論者でもたぶんあるのだろう。
だから、それだけでは宗教とは言い難い。
で結局のところ、よく分からない。
道教と言われるものもあったのだが、
はて。
・・・・・
心は在る、確かに在る。
私が私であり、彼方が彼方であるように。
でも心はあまりに不確かで取り留めのないものである。
だから何か頼るものが必要だ。
それが信仰である。
無宗教だと言っても信仰は必ずある。
気が付かないだけだ。
でも分からないのは、シナ。
大いなるものへの信仰はないのか。
祖先崇拝しかないのか。

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