宗教の根の話をした。
ここで言った根とは、
自己(の魂)を通して見る畏敬の対象であり、
思いの向う所である。
思いは複雑であり、向う所も一つではないだろう。
だから先ずは多神的発想になる。
それを絞れば最後は一神になる。
まあそういうことだ。
・・・・・
だが対象があっても、
それだけでは根とは言えない。
さらに重要な要素がある。
それは祈りである。
対象への祈りがあってこそである。
それらを合わせて信仰という。
これこそ根である。
信仰こそ宗教の根である。
・・・・・
でも信仰は宗教ではない。
根ではあっても。
俗に「信教の自由」と言われるものがある。
それはどんな宗教の信徒であっても、
それを理由にいかなる不利益も課されない、
ということである。
これを「信仰の自由」とは言わない。
それは当然で、心は本来自由なのだ。
たとえ手枷足枷をかけられてもだ。
だから言う意味がない。
・・・・・
宗教はその根の上に衣が必要だ。
教祖・教義・教典並びに教団組織等…。
あくまでも宗の教なのである。
教えがあるのだ。
教とはつまり心に枠をはめることである。
心は本来自由なのだが、
だからこそ枠を求める、
そして安寧を得る。
宗教が存在する所以だ。
・・・・・
私は宗教はあまり好きではない。
枠をはめられるのが嫌いだから。
もっぱらの自由人である。
これは私だけではなさそうだ。
日本人は多くがそのようである。
だから問われれば無宗教だと言う人が多い。
でも信仰が無いのではない。
皆持っている。
ただ気付いてないだけだ。
・・・・・
神道は宗教ではない。
教ではなく道である。
だから教義・教典がない。
あるのは祈りである。
ただひたすら祈るのみである。
そんな神道が大好きである。
日本では信仰が問われることはほとんどない。
でも敢えて問われたら、
神道の者である、と言う。
そんな私だから、
宗教というはどうも馴染めない、
むしろ胡散臭く…。
ここで言った根とは、
自己(の魂)を通して見る畏敬の対象であり、
思いの向う所である。
思いは複雑であり、向う所も一つではないだろう。
だから先ずは多神的発想になる。
それを絞れば最後は一神になる。
まあそういうことだ。
・・・・・
だが対象があっても、
それだけでは根とは言えない。
さらに重要な要素がある。
それは祈りである。
対象への祈りがあってこそである。
それらを合わせて信仰という。
これこそ根である。
信仰こそ宗教の根である。
・・・・・
でも信仰は宗教ではない。
根ではあっても。
俗に「信教の自由」と言われるものがある。
それはどんな宗教の信徒であっても、
それを理由にいかなる不利益も課されない、
ということである。
これを「信仰の自由」とは言わない。
それは当然で、心は本来自由なのだ。
たとえ手枷足枷をかけられてもだ。
だから言う意味がない。
・・・・・
宗教はその根の上に衣が必要だ。
教祖・教義・教典並びに教団組織等…。
あくまでも宗の教なのである。
教えがあるのだ。
教とはつまり心に枠をはめることである。
心は本来自由なのだが、
だからこそ枠を求める、
そして安寧を得る。
宗教が存在する所以だ。
・・・・・
私は宗教はあまり好きではない。
枠をはめられるのが嫌いだから。
もっぱらの自由人である。
これは私だけではなさそうだ。
日本人は多くがそのようである。
だから問われれば無宗教だと言う人が多い。
でも信仰が無いのではない。
皆持っている。
ただ気付いてないだけだ。
・・・・・
神道は宗教ではない。
教ではなく道である。
だから教義・教典がない。
あるのは祈りである。
ただひたすら祈るのみである。
そんな神道が大好きである。
日本では信仰が問われることはほとんどない。
でも敢えて問われたら、
神道の者である、と言う。
そんな私だから、
宗教というはどうも馴染めない、
むしろ胡散臭く…。
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