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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

宗教はどうも

2016-05-23 11:03:18 | 日記・エッセイ・コラム
宗教の根の話をした。
ここで言った根とは、
自己(の魂)を通して見る畏敬の対象であり、
思いの向う所である。
思いは複雑であり、向う所も一つではないだろう。
だから先ずは多神的発想になる。
それを絞れば最後は一神になる。
まあそういうことだ。
・・・・・
だが対象があっても、
それだけでは根とは言えない。
さらに重要な要素がある。
それは祈りである。
対象への祈りがあってこそである。
それらを合わせて信仰という。
これこそ根である。
信仰こそ宗教の根である。
・・・・・
でも信仰は宗教ではない。
根ではあっても。
俗に「信教の自由」と言われるものがある。
それはどんな宗教の信徒であっても、
それを理由にいかなる不利益も課されない、
ということである。
これを「信仰の自由」とは言わない。
それは当然で、心は本来自由なのだ。
たとえ手枷足枷をかけられてもだ。
だから言う意味がない。
・・・・・
宗教はその根の上に衣が必要だ。
教祖・教義・教典並びに教団組織等…。
あくまでも宗の教なのである。
教えがあるのだ。
教とはつまり心に枠をはめることである。
心は本来自由なのだが、
だからこそ枠を求める、
そして安寧を得る。
宗教が存在する所以だ。
・・・・・
私は宗教はあまり好きではない。
枠をはめられるのが嫌いだから。
もっぱらの自由人である。
これは私だけではなさそうだ。
日本人は多くがそのようである。
だから問われれば無宗教だと言う人が多い。
でも信仰が無いのではない。
皆持っている。
ただ気付いてないだけだ。
・・・・・
神道は宗教ではない。
教ではなく道である。
だから教義・教典がない。
あるのは祈りである。
ただひたすら祈るのみである。
そんな神道が大好きである。
日本では信仰が問われることはほとんどない。
でも敢えて問われたら、
神道の者である、と言う。
そんな私だから、
宗教というはどうも馴染めない、
むしろ胡散臭く…。










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