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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

覚悟の杜

2015-09-07 16:30:54 | 日記・エッセイ・コラム
生は必死の行為。
必死は完膚なきまでの公平な世界。
昨今は何かと結果を問うが、生の結果は皆同じ。
必死である。
ならば、生は結果を問うことに意味なし。
生とは経過である。
経過の中にこそ価値がある。
いかに生きるか、
いかに生き切るか、
である。
・・・・・
生の目的は生である。
生を繫ぐことである。
人以外の生物を見ればよく分かる。
生そのものが目的である。
人もまた同じ。
さりながら、人はすぐれて魂の生物である。
魂の声、すなわち言葉を持つ。
言葉で己を鼓舞する。
生の目的、すなわち生を遂行するのに己を鼓舞する。
使命という言葉でもって。
使命を遂行するには必要なものがある。
それは覚悟である。
・・・・・
新旧大陸は我の世界である。
我の生が何より大事なのだ。
日本人は違う。
基本的には同じだろうが、ちょっと違う。
日本人の我は場に活かされている我である。
場とともに在る我である。
我が大事なのは当然だが、場も大事なのである。
我と場は一体なのである。
場とは家や故郷や国であり、その象徴は天皇である。
それは戦前も今も同じであり、
何も変わっていない。
・・・・・
だから特攻なのである。
だから神風特別攻撃隊があったのだ。
彼らの思いはどうだったか。
皆それぞれで色んな思いがあっただろう。
残された手紙等の遺品がある。
それを見れば分かる。
家族やその生の場を守るため逝ったのである。
覚悟を決めて逝ったのである。
天皇陛下万歳と言って突撃したと言われるが、
それはよく分からない。
でも、そう言ったとしてもおかしくはない。
天皇は場(生)の象徴なのだから。
・・・・・
彼らは靖国の杜に祀られている。
もちろん、祀られているのは彼らだけではない。
でも、彼らと同じような人達である。
そんな靖国である。
誰が参拝しようと、他国にとやかく言われる筋合いはない。
さりながら、同じ日本人なのに誹謗する者もおる。
情けない限りだ。
何も言わずに参拝すればいいのに。
何しろ靖国は覚悟の杜である。
こぞって参拝すれば何よりの抑止力になる。
戦争しないというのは自分の意思で為せる。
させないためには力がいる。
少しばかりの武器と覚悟があればいい。
武器は自衛隊にまかせて、皆は覚悟を示せばいい。
覚悟こそ武器なき盾なのだから。
靖国への道は平和への道である。













後を絶たない「いじめ」による自殺

2015-09-03 16:53:22 | 日記・エッセイ・コラム
一番の問題は学校だ。
戦後の学校教育には欠けているものがある。
現実をしっかり見据え、その上で問題があれば対処する。
それを教えなければならない。
しかし、事実を教えない。
ときに、平気で嘘を教える。
さらに、耳障りの良い観念論を振り回す。
そういう教育をしてきた。
そんな環境で子供が育つのである。
そんな子供が大人になって先生になる。
そんな子供が大人になって父母になる。
戦後教育のもたらした悪循環だ。
・・・・・
いじめによる自殺が後を絶たない。
学校は何をしてるのか。
先生は何をしてるのか。
何もしていない。
見て見ぬ振りをしている。
それは悪意ではないだろう。
何んとかしたいとは思っているのだ。
でも、どうしていいのか分からない。
当事者能力に欠けているのだ。
そういう教育を受けてきたから。
そういうことだろう。
・・・・・
区別は差別の始まりである。
だから区別するのは止めよう。
為のレッテル貼りは止めよう。
とリベラル人士はよく言う。
そのリベラル人士が言葉によるレッテル貼りに奔走している。
それはあからさまな悪意のある区別である。
そして善意の人間をも悪人に仕立てる。
これがリベラルだ。
まったく矛盾している。
・・・・・
彼らは責任を追及するのは好きである。
そのくせ自分のことになればひたすら責任逃れである。
本当に大事なのは「覚悟」と「けじめ」である。
覚悟があれば自分のしたことには責任を取る。
それが「けじめ」だ。
責任は取るもので、取らせるものではない。
取らせるものは罰という。
うんざりである。
彼らはいつも正義の審判者の顔をする。
もういい加減正気に戻ろう。
現実を直視しよう。
現実がすべてである。
この世界の現実を。