ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

仏という名の神

2014-12-11 15:52:43 | 日記・エッセイ・コラム
お釈迦様は修行をして、
悟りを開いた、
と言う。
・・・・・
悟りとは何か。
よく分からない。
宇宙の真理あるいは存在の真理というべきものを追い求め、
それを感得することか。
それにしても、悟りを開くとはあくまでも自力である。
自力ゆえ修行が必要なのである。
修行によって自力を大きく発揮させるのである。
修行とは所謂学問とは違う。
学問は主に知力を鍛えることであり、
それは脳を鍛えることである。
しかし、脳は身体の一部に過ぎない。
もとより人には限界があるが、
脳だけに頼るのは尚更である。
大いに限界を超えようとするとき、
身体全体を使うのである。
修行とは身体全体を使って「もの思う」、
その所作なのだ。
・・・・・
お釈迦様は自力を頼むのであるから、
ことは身の内で完結する。
だから絶対他者(神)を想定しない。
絶対他者(神)を想定すれば祈りになり、
それは他力である。
世界の多くの仏教は祈りを持っている。
人であるお釈迦様を絶対視し祀っている。
つまりは仏教が変質しているのである。
どこで変質したのか知らないが。
たぶん大乗仏教が起こった当たりではないだろうか。
とりわけ日本の仏教がそうである。
お釈迦様を神様にしている。
神仏習合である。
一般的には仏教が根で神道が現であると言われる。
私はそうは思わない。
神道が仏教を取り入れたと思っている。
いろんな神様のなかに仏様を加えたのだ。
仏という名の神である。
・・・・・
結局のところ、
日本人はすべからく神道の者である、
ということだ。
「神ながらの道」、
「自然の道」、
道の人なのである。