お釈迦様は修行をして、
悟りを開いた、
と言う。
・・・・・
悟りとは何か。
よく分からない。
宇宙の真理あるいは存在の真理というべきものを追い求め、
それを感得することか。
それにしても、悟りを開くとはあくまでも自力である。
自力ゆえ修行が必要なのである。
修行によって自力を大きく発揮させるのである。
修行とは所謂学問とは違う。
学問は主に知力を鍛えることであり、
それは脳を鍛えることである。
しかし、脳は身体の一部に過ぎない。
もとより人には限界があるが、
脳だけに頼るのは尚更である。
大いに限界を超えようとするとき、
身体全体を使うのである。
修行とは身体全体を使って「もの思う」、
その所作なのだ。
・・・・・
お釈迦様は自力を頼むのであるから、
ことは身の内で完結する。
だから絶対他者(神)を想定しない。
絶対他者(神)を想定すれば祈りになり、
それは他力である。
世界の多くの仏教は祈りを持っている。
人であるお釈迦様を絶対視し祀っている。
つまりは仏教が変質しているのである。
どこで変質したのか知らないが。
たぶん大乗仏教が起こった当たりではないだろうか。
とりわけ日本の仏教がそうである。
お釈迦様を神様にしている。
神仏習合である。
一般的には仏教が根で神道が現であると言われる。
私はそうは思わない。
神道が仏教を取り入れたと思っている。
いろんな神様のなかに仏様を加えたのだ。
仏という名の神である。
・・・・・
結局のところ、
日本人はすべからく神道の者である、
ということだ。
「神ながらの道」、
「自然の道」、
道の人なのである。
悟りを開いた、
と言う。
・・・・・
悟りとは何か。
よく分からない。
宇宙の真理あるいは存在の真理というべきものを追い求め、
それを感得することか。
それにしても、悟りを開くとはあくまでも自力である。
自力ゆえ修行が必要なのである。
修行によって自力を大きく発揮させるのである。
修行とは所謂学問とは違う。
学問は主に知力を鍛えることであり、
それは脳を鍛えることである。
しかし、脳は身体の一部に過ぎない。
もとより人には限界があるが、
脳だけに頼るのは尚更である。
大いに限界を超えようとするとき、
身体全体を使うのである。
修行とは身体全体を使って「もの思う」、
その所作なのだ。
・・・・・
お釈迦様は自力を頼むのであるから、
ことは身の内で完結する。
だから絶対他者(神)を想定しない。
絶対他者(神)を想定すれば祈りになり、
それは他力である。
世界の多くの仏教は祈りを持っている。
人であるお釈迦様を絶対視し祀っている。
つまりは仏教が変質しているのである。
どこで変質したのか知らないが。
たぶん大乗仏教が起こった当たりではないだろうか。
とりわけ日本の仏教がそうである。
お釈迦様を神様にしている。
神仏習合である。
一般的には仏教が根で神道が現であると言われる。
私はそうは思わない。
神道が仏教を取り入れたと思っている。
いろんな神様のなかに仏様を加えたのだ。
仏という名の神である。
・・・・・
結局のところ、
日本人はすべからく神道の者である、
ということだ。
「神ながらの道」、
「自然の道」、
道の人なのである。