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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

歴史論争の不毛

2014-05-13 11:12:30 | 日記・エッセイ・コラム

歴史とは魂の軌跡である。

思いの系譜である。

これが私の考えである。

同じ事実でも思想や立場によって思いは異なる。

当然である。

だから歴史観は人それぞれである。

もちろん事実に関して大きな齟齬があるのは良くない。

それは正さなくてはならない。

そうでなければ嘘がはびこる。

嘘も百回つけば真実になる、などと言う者がおる。

自分の都合をゴリ押ししたい人の考えである。

日本の歴史・伝統・文化にはそれはない。

嘘は嘘である。

どこまでも嘘である。

明鏡止水、心を鎮めて己に問い、現実を直視する。

だから歴史を科学にできる。

・・・・・

歴史観の相違を問題にする必要はない。

違うのが当然である。

でも、

あなたと私が同じ思いでないのはおかしい、

あなたは間違っている、

などと訳の分からないことを言う人がおる。

始末に困る。

意味不明。支離滅裂。

それにしても韓国という国の歪さにはあきれる。

もう10年以上も前であろうか、

日本は一方的に悪い訳ではない、

という本が出版された。

その本は悪書であるとして発禁処分になった。

推して知るべし。

韓国の子供達は事実を教えられていない。

自分の都合を事実として教えられている。

だから歴史は科学にならない。

どこまでも政治なのである。

大きな声では言えないが、日本も大して変わらない。

それが自虐史観である。

違うのは日本は自由だということだ。

事実を記した本が一杯出版されている。

そこは大いに違うのである。

・・・・・

そもそも根本的に間違っている。

教育とは洗脳ではない。

教育は現実を見極める力を与えるものである。

魂を自由に飛翔させるものである。

それが本旨である。

嘘を押し通すための道具ではない。

ちなみに、

リベラルは洗脳により幻想を見ている、

保守はままの現実を見ている。

と私は思っている。