これは前から言っているが、
日本語は凄い言語であると。
これも既に言ったことだが、
日本語は始まりの言語であろうと。
でなくともそれに最も近い言語であると。
少なくとも最終氷期を生き抜いた人類にとって。
ちなみにその極寒期が終わったのが約一万年前。
そも寒暖には波があり、ときに今も氷期だとか。
てか私は上のように思ってるのだが、
最近同じような話をよく聞くのです、
YouTube を見ていてのことだが。
てか以前からあったようですが、
それが増えているのである。
しかも言ってるのが日本人ではなく、
外国の人でしかも言語学者のようで、
そこはまあ一応そういうことらしく、
ゆえこのこと自画自賛の類ではなく
それなりの根拠があってのことかと。
私にとっては我田引水な話ではある。
まあそういうことです。
・・・・・
言葉には声音と文字がある。
でも間違いなく声音から始まる。
てか文字は文字で決定的に重要なのだが。
しても始まりは音です。
これも前に言ったことだが、
その初めの音は所謂母音か、
子音だけでは音にならない。
日本語はそこが明白・明確。
それが「あいうえお」であるが、
もとは「あえいおう」かと、
その方が発話がスムーズに。
ここに言葉が始まり、
これが言葉の骨格となる。
・
ひとつは「あ」、これは感嘆をあらわす。
これはコトをシキして捉えたとき発する。
ひとつは「え」、これは疑問をあらわす。
これはシキしたがゆえの惑いをあらわす。
ひとつは「い」、これは納得をあらわす、
これはその惑いを収めたときにあらわす。
ひとつは「お」、これは応答をあらわす、
これはその始末の後先の疎通をあらわす。
ひとつは「う」、これは構えをあらわす。
これは動きに移る前の姿勢を整えること、
しかしてそれは息を詰めるさま。
・
これが骨格であり、
これだけでは数があまりにも少なく、
これに子音を付けてその数を増やす。
ここに50音表がなる。
でも音の主役はあくまで母音、
母音以外は母子音で一音とするのである。
そしていよいよ言葉が始まる。
永きオノマトペの世界を経て。
・・・・・
言葉とは物事を分けてイを付けシキするもの、
しかしてこれは表象(レッテル)に過ぎない。
最初にイを付けるときは実を捉えてるが。
このイこそ言葉の始り。
このイには色々な意趣があるが、
先ずはその「イ」のことを想う。
そこには共通する意がある。
事実イには色んなイがある。
その初めは、意味のイ。
その次には、命のイと息のイ、
この命のイと息のイは繋がっている。
現下での命の終焉の定義は知らない。
日本では古くから息が止まることとしている。
ゆえそれを「息を引きとる」と言う。
思えば、
人の臓器の中で意識して整えられるのは息だけである。
あのアニメ・鬼滅の刃でも登場する。
ときに臨んでの要として、水の呼吸てら火の呼吸てら。
これと同じようなことを聖書も言う。
エゼキエル書三十七章、枯骨の復活。
谷の面には多くの枯れた骨があった、
神はその骨に言すべき言葉を彼に与えた、
彼はそれに従って預言を唱えた、
そしたら骨が繋がり肉もついた、
でもそこに命はなかった、
そこで神は息に預言して言えと、
するとそこに息がはいった、
ときに彼らは生きその足で立ったと。
しかしてである、
息のイは命のイであり生きるのイであり、
それは意味のイである。
イとは「あえいおう」の真ん中にあって、
それはある意味言葉そのものである。
そこで「い.の.り」である。
ここで勝手ながらに漢字を持ち出す。
まことにご都合主義ではあるが。
ならばこれは「意の理」となる。
意は和語ではココロと読む。
てか字義は立つ日の心だから光の心、
心とはまさに「こと」の核心。
理は和語ではコトワリと読む。
これは事を割るで、まさに言葉のこと。
祈りとはつまり神(の言葉)に向き合うこと。
そしてそこで人の言葉を捧げるもの。
その言葉は感謝であり願いであり、ときに懺悔である。
てかこれは神の事の場に人の事の場を繋げるもの。
ここに欧米と日本の違いがある。
彼らはまさにここで神と繋がるのです。
でも日本人はそも神の事の場からは離れていない。
日本の神はいつでもどこでもあるもの。
生きることは祈ること、
祈ることは生きること、
それが日本人の信仰である。
その中心にあるのが陛下である。
中心の中心たる所以は、その祈りにある。
その祈りに私はないのです。
てか陛下の私はすべての私。
ゆえそこには仕切りがない。
しかもそれ日々切れ目なし。
これまったき信仰そのもの。
てかこの信仰が宗教をつくることに。
宗教は信仰の後付けであり、
しかしてその教義はあくまで人の言葉である。
ゆえ教義に拘り過ぎるのは、
神への信仰ではなく、人への信仰となる。
宗教が政治になってしまうのは故である。
神の言葉は本来何も仕切らない。
人の言葉はつまりは仕切るもの。
そうならざるを得ないもの。
それを覚える。
・・・・・
言葉を持ってアダムとイヴは辱を覚えた。
己が裸であることを知って。
ゆえ覆うものを身に付けた。
罪を覚えたのはその後です。
それは言葉を持ったがゆえだが
その言葉は神の言葉ではなくあくまで真似たもの、
そこに罪の根があると。
まんまに神の言葉なら虫(無私)に生きられるが、
人の言葉の宿命か、それがデジタルだということ。
人の事の場は実は穴だらけなのです。
幾ら点を増やしても隙間はなお膨大、
決して埋まることなし。
それに気付かないことこそ罪である。
日本人には基本的に罪の意識がない。
それが分かってるからです。
それは日本語に現れている。
行間を読む、言外の言、余白の美、などなど。
それに何事もマ(間)を重要視する。
それゆえ歌心を良しとし理屈を嫌う。
とかてかです。
てかこれ恥の文化と謂われるが、
その通りかと。
向き合うものを尊重し自らはへりくだる。
相手が人であれ他の生物であれ。
それゆえ謝から始めること多し。
これは罪の文化とは正反対です。
彼らは己が上位となり相手を下手に置こうとする。
ときに罪の問い合いになりがち。
謝は特に謝罪はめったにしない。
ちなみに、
私は日本人は聖書の民だと思っているが
それはその精神の神髄が日本にあるからです。
でも聖書の記はほぼユダヤの歴史である。
ですから既に言ったが、
そこから日本はすぐに離れてしまったと、
てかその真髄が日本にあるなら、
てかそう思う私だから
離れたのはユダヤのほうであり、
そこで書き残したのが聖書(旧約)であると。
でもイエスは知っていたか、
人はパンのみにて生きるにあらず、
神の口から出る一つひとつの言葉による、と
てかヨハネも知っていたか、
言葉は神だとまで言ったのです、
そしてともにその精神の神髄に戻ろうとした。
それは い.の.りに違いなし。
それが聖書(新約)である。
てか、
日本語は凄い言語であると。
これも既に言ったことだが、
日本語は始まりの言語であろうと。
でなくともそれに最も近い言語であると。
少なくとも最終氷期を生き抜いた人類にとって。
ちなみにその極寒期が終わったのが約一万年前。
そも寒暖には波があり、ときに今も氷期だとか。
てか私は上のように思ってるのだが、
最近同じような話をよく聞くのです、
YouTube を見ていてのことだが。
てか以前からあったようですが、
それが増えているのである。
しかも言ってるのが日本人ではなく、
外国の人でしかも言語学者のようで、
そこはまあ一応そういうことらしく、
ゆえこのこと自画自賛の類ではなく
それなりの根拠があってのことかと。
私にとっては我田引水な話ではある。
まあそういうことです。
・・・・・
言葉には声音と文字がある。
でも間違いなく声音から始まる。
てか文字は文字で決定的に重要なのだが。
しても始まりは音です。
これも前に言ったことだが、
その初めの音は所謂母音か、
子音だけでは音にならない。
日本語はそこが明白・明確。
それが「あいうえお」であるが、
もとは「あえいおう」かと、
その方が発話がスムーズに。
ここに言葉が始まり、
これが言葉の骨格となる。
・
ひとつは「あ」、これは感嘆をあらわす。
これはコトをシキして捉えたとき発する。
ひとつは「え」、これは疑問をあらわす。
これはシキしたがゆえの惑いをあらわす。
ひとつは「い」、これは納得をあらわす、
これはその惑いを収めたときにあらわす。
ひとつは「お」、これは応答をあらわす、
これはその始末の後先の疎通をあらわす。
ひとつは「う」、これは構えをあらわす。
これは動きに移る前の姿勢を整えること、
しかしてそれは息を詰めるさま。
・
これが骨格であり、
これだけでは数があまりにも少なく、
これに子音を付けてその数を増やす。
ここに50音表がなる。
でも音の主役はあくまで母音、
母音以外は母子音で一音とするのである。
そしていよいよ言葉が始まる。
永きオノマトペの世界を経て。
・・・・・
言葉とは物事を分けてイを付けシキするもの、
しかしてこれは表象(レッテル)に過ぎない。
最初にイを付けるときは実を捉えてるが。
このイこそ言葉の始り。
このイには色々な意趣があるが、
先ずはその「イ」のことを想う。
そこには共通する意がある。
事実イには色んなイがある。
その初めは、意味のイ。
その次には、命のイと息のイ、
この命のイと息のイは繋がっている。
現下での命の終焉の定義は知らない。
日本では古くから息が止まることとしている。
ゆえそれを「息を引きとる」と言う。
思えば、
人の臓器の中で意識して整えられるのは息だけである。
あのアニメ・鬼滅の刃でも登場する。
ときに臨んでの要として、水の呼吸てら火の呼吸てら。
これと同じようなことを聖書も言う。
エゼキエル書三十七章、枯骨の復活。
谷の面には多くの枯れた骨があった、
神はその骨に言すべき言葉を彼に与えた、
彼はそれに従って預言を唱えた、
そしたら骨が繋がり肉もついた、
でもそこに命はなかった、
そこで神は息に預言して言えと、
するとそこに息がはいった、
ときに彼らは生きその足で立ったと。
しかしてである、
息のイは命のイであり生きるのイであり、
それは意味のイである。
イとは「あえいおう」の真ん中にあって、
それはある意味言葉そのものである。
そこで「い.の.り」である。
ここで勝手ながらに漢字を持ち出す。
まことにご都合主義ではあるが。
ならばこれは「意の理」となる。
意は和語ではココロと読む。
てか字義は立つ日の心だから光の心、
心とはまさに「こと」の核心。
理は和語ではコトワリと読む。
これは事を割るで、まさに言葉のこと。
祈りとはつまり神(の言葉)に向き合うこと。
そしてそこで人の言葉を捧げるもの。
その言葉は感謝であり願いであり、ときに懺悔である。
てかこれは神の事の場に人の事の場を繋げるもの。
ここに欧米と日本の違いがある。
彼らはまさにここで神と繋がるのです。
でも日本人はそも神の事の場からは離れていない。
日本の神はいつでもどこでもあるもの。
生きることは祈ること、
祈ることは生きること、
それが日本人の信仰である。
その中心にあるのが陛下である。
中心の中心たる所以は、その祈りにある。
その祈りに私はないのです。
てか陛下の私はすべての私。
ゆえそこには仕切りがない。
しかもそれ日々切れ目なし。
これまったき信仰そのもの。
てかこの信仰が宗教をつくることに。
宗教は信仰の後付けであり、
しかしてその教義はあくまで人の言葉である。
ゆえ教義に拘り過ぎるのは、
神への信仰ではなく、人への信仰となる。
宗教が政治になってしまうのは故である。
神の言葉は本来何も仕切らない。
人の言葉はつまりは仕切るもの。
そうならざるを得ないもの。
それを覚える。
・・・・・
言葉を持ってアダムとイヴは辱を覚えた。
己が裸であることを知って。
ゆえ覆うものを身に付けた。
罪を覚えたのはその後です。
それは言葉を持ったがゆえだが
その言葉は神の言葉ではなくあくまで真似たもの、
そこに罪の根があると。
まんまに神の言葉なら虫(無私)に生きられるが、
人の言葉の宿命か、それがデジタルだということ。
人の事の場は実は穴だらけなのです。
幾ら点を増やしても隙間はなお膨大、
決して埋まることなし。
それに気付かないことこそ罪である。
日本人には基本的に罪の意識がない。
それが分かってるからです。
それは日本語に現れている。
行間を読む、言外の言、余白の美、などなど。
それに何事もマ(間)を重要視する。
それゆえ歌心を良しとし理屈を嫌う。
とかてかです。
てかこれ恥の文化と謂われるが、
その通りかと。
向き合うものを尊重し自らはへりくだる。
相手が人であれ他の生物であれ。
それゆえ謝から始めること多し。
これは罪の文化とは正反対です。
彼らは己が上位となり相手を下手に置こうとする。
ときに罪の問い合いになりがち。
謝は特に謝罪はめったにしない。
ちなみに、
私は日本人は聖書の民だと思っているが
それはその精神の神髄が日本にあるからです。
でも聖書の記はほぼユダヤの歴史である。
ですから既に言ったが、
そこから日本はすぐに離れてしまったと、
てかその真髄が日本にあるなら、
てかそう思う私だから
離れたのはユダヤのほうであり、
そこで書き残したのが聖書(旧約)であると。
でもイエスは知っていたか、
人はパンのみにて生きるにあらず、
神の口から出る一つひとつの言葉による、と
てかヨハネも知っていたか、
言葉は神だとまで言ったのです、
そしてともにその精神の神髄に戻ろうとした。
それは い.の.りに違いなし。
それが聖書(新約)である。
てか、
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