ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

霊(こころ)を見失った中韓

2014-07-01 11:27:38 | 日記・エッセイ・コラム

霊(こころ)を定めるには芯がいる。

日本には神仏がある。

それが芯である。

欧米などはキリスト教、中東などはイスラム教、

タイなどは仏教、インドはヒンズー教など、

はたまたその土地固有の精霊、等々。

世界はそれぞれ畏敬する対象を持っている。

・・・・・

仏教は宗教ではない、存在の哲学である、

という人がいる。

霊を扱わないからであろう。

私もそう思う。

儒教は宗教ではない、処世の実学である、

という人がいる。

私もそう思う。

孔子は言った「我れ鬼神を語らず」と。

語らずと言ったのは、鬼神を否定したのではない。

語るのが難しいからである。

合理的に語れるものだけを扱おうとした。

それが処世の実学であり、

鬼神は合理的には語れないのだ。

・・・・・

哲学は神学に近い。

実学は科学に近い。

だから、仏教は宗教といってもいいだろう。

しかし、儒教は実学であり宗教からは遠い。

孔子は鬼神を否定していないが、

その教えを大事にした者は鬼神を外した。

否定しなくとも、外すことが習い性となった。

そして霊を見失った。

それが中韓である。

彼らには実学としての処世術はあるが、

それ以上の芯がないので、

ただ自分の都合があるだけである。

どこまでも自分の都合だけである。

そう捉えれば、

中韓の行動がよく分かる。

・・・・・

イスラムの人々は日本に好感を持っている。

違いがあるのは当然だが、

考え方が似ていると思っているようだ。

たぶん霊の定め方が似ているのだ。

それに比べれば、

中韓は地理的には近いが、

考え方は全然違う。

水と油だ。

必要最低限で付き合えばいい。

後はほっとこう。


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