霊(こころ)を定めるには芯がいる。
日本には神仏がある。
それが芯である。
欧米などはキリスト教、中東などはイスラム教、
タイなどは仏教、インドはヒンズー教など、
はたまたその土地固有の精霊、等々。
世界はそれぞれ畏敬する対象を持っている。
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仏教は宗教ではない、存在の哲学である、
という人がいる。
霊を扱わないからであろう。
私もそう思う。
儒教は宗教ではない、処世の実学である、
という人がいる。
私もそう思う。
孔子は言った「我れ鬼神を語らず」と。
語らずと言ったのは、鬼神を否定したのではない。
語るのが難しいからである。
合理的に語れるものだけを扱おうとした。
それが処世の実学であり、
鬼神は合理的には語れないのだ。
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哲学は神学に近い。
実学は科学に近い。
だから、仏教は宗教といってもいいだろう。
しかし、儒教は実学であり宗教からは遠い。
孔子は鬼神を否定していないが、
その教えを大事にした者は鬼神を外した。
否定しなくとも、外すことが習い性となった。
そして霊を見失った。
それが中韓である。
彼らには実学としての処世術はあるが、
それ以上の芯がないので、
ただ自分の都合があるだけである。
どこまでも自分の都合だけである。
そう捉えれば、
中韓の行動がよく分かる。
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イスラムの人々は日本に好感を持っている。
違いがあるのは当然だが、
考え方が似ていると思っているようだ。
たぶん霊の定め方が似ているのだ。
それに比べれば、
中韓は地理的には近いが、
考え方は全然違う。
水と油だ。
必要最低限で付き合えばいい。
後はほっとこう。
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