末端が腐るのは除去すればいい。
中枢が腐るのは除去すればいい、では済まされない。
すなわち破綻である。
企業が傾くのはいつもその結果である。
それはいつの時代も変わらない。
・・・・・
しかし末端も中枢も同じ人間である。
そこに価値の上下はない。
役割分担があるだけだ。
しかし往々にして人は勘違いをする。
時に自分には特別な価値があると…。
その勘違いこそ腐らせる原因である。
今回の件はそこに尽きると。
何事も失敗は付き物である。
失敗すれば、それを認め真摯に対応すればいい。
それだけのことである。
まあ、それが結構難しいのだが。
ともかく日常は事で満ちている。
事は事であり、それは概ね末端の仕事である。
中枢は直接事に当たる必要はない。
適切に処理されているか見ているだけでいい。
そして必要があれば指示をする。
為には見識と覚悟が必要である。
この見識と覚悟こそ重要なのだ。
中枢は日々それを磨かなければならない。
それでこそ組織の柱となる。
・・・・・
これは脳と手足等との関係にも似ている。
手足がケガをすれば脳はそれに対処する。
最悪腐ってしまったら、切断することも辞さない。
脳はそれを決断するのだ。
だがそれは喜んでするのではない。
激しい懊悩の中でするのである。
脳を守る為ではない。
命(全体)を守る為である。
もとより脳と手足等は一体である。
本来どの部分も失いたくないのだ。
なら脳がおかしくなればどうする。
手足等には何もできない。
脳は自分で自分自身に対処するしかない。
それには自分自身を捨てる覚悟が必要だ。
それでもダメかも知れない。
でも少しは対処できるだろう。
最悪は保身の為に手足等を切り捨てることである。
はて日大はどうする。
・・・・・
戦後は個人主義がもてはやされている。
個人主義は利己主義と紙一重であるのに。
そのことに注意せねばならない。
だがどうも無頓着のようである。
只々個人主義を良しとする。
その弊害がいま現れている。
末端(の個人)が利己的になっても、それは対処の方法がある。
中枢(の個人)が利己的になったら、その時組織は腐る。
そんな危うさに満ちている。
日大の件もそうである。
学校でいじめ問題が起きた時もそうである。
全体主義こそ生物の本来の姿である。
生命は個で成り立ってるのではない。
個の繋がりで成り立ってるのだ。
人の身体は60兆個もの細胞(命)でできていると謂う。
超連合体なのである。
全体で一つ(一人)なのであり、それが私なのだ。
私はまた私一人で生きてるのではない。
他の人々との関わりの中で生きている。
他の生物との関わりの中で生きている。
言わずもがな…。
・・・・・
戦後は大いに騙しの中にある。
全体主義は悪魔のように扱い、これを排除しようとする。
個人主義はそれが当然だとし、無分別にもてはやす。
一方を否定し、一方に流れる。
これは欧米思想の一大欠陥である。
そも個人主義と全体主義はともに存在そのものである。
捉え方の問題でしかないのだ。
一方だけを排除することはできない。
全体は個の為(集合)、個は全体の為(部分)、である。
利己主義と対極の利他の心は、他(全体)を思う時に生まれる。
そんな利他の精神を良しとする日本人は、
全体主義(他を慮ること)を倣いとする。
東日本大震災時の被災者の行動もそのことで理解できるだろう。
日本はそういう国柄である。
その象徴が天皇であり、奴隷制がなかったという歴史にも繋がる。
どちらにせよ行き過ぎたら弊害はあるだろう。
戦後世界は断固として全体主義を否定するが、
それはナチスドイツの影響もあろうかと思う。
彼の全体主義はむしろ歪んだ個人主義と謂っていいだろう。
自民族だけを良しとしたのだから。
博愛ではなく友愛という訳である。
あくまでも自己中心であったのだ。
私は胆に命じている。
戦後の半端な知識人に惑わされてはいけないと。
・・・・・
さてである。
日大(の中枢)は学生やその父母、そこで働く教職員、
さらにOB・OG、さらには世の中のすべての人々に、
応えなければならない。
見識と覚悟を持って。
中枢が腐るのは除去すればいい、では済まされない。
すなわち破綻である。
企業が傾くのはいつもその結果である。
それはいつの時代も変わらない。
・・・・・
しかし末端も中枢も同じ人間である。
そこに価値の上下はない。
役割分担があるだけだ。
しかし往々にして人は勘違いをする。
時に自分には特別な価値があると…。
その勘違いこそ腐らせる原因である。
今回の件はそこに尽きると。
何事も失敗は付き物である。
失敗すれば、それを認め真摯に対応すればいい。
それだけのことである。
まあ、それが結構難しいのだが。
ともかく日常は事で満ちている。
事は事であり、それは概ね末端の仕事である。
中枢は直接事に当たる必要はない。
適切に処理されているか見ているだけでいい。
そして必要があれば指示をする。
為には見識と覚悟が必要である。
この見識と覚悟こそ重要なのだ。
中枢は日々それを磨かなければならない。
それでこそ組織の柱となる。
・・・・・
これは脳と手足等との関係にも似ている。
手足がケガをすれば脳はそれに対処する。
最悪腐ってしまったら、切断することも辞さない。
脳はそれを決断するのだ。
だがそれは喜んでするのではない。
激しい懊悩の中でするのである。
脳を守る為ではない。
命(全体)を守る為である。
もとより脳と手足等は一体である。
本来どの部分も失いたくないのだ。
なら脳がおかしくなればどうする。
手足等には何もできない。
脳は自分で自分自身に対処するしかない。
それには自分自身を捨てる覚悟が必要だ。
それでもダメかも知れない。
でも少しは対処できるだろう。
最悪は保身の為に手足等を切り捨てることである。
はて日大はどうする。
・・・・・
戦後は個人主義がもてはやされている。
個人主義は利己主義と紙一重であるのに。
そのことに注意せねばならない。
だがどうも無頓着のようである。
只々個人主義を良しとする。
その弊害がいま現れている。
末端(の個人)が利己的になっても、それは対処の方法がある。
中枢(の個人)が利己的になったら、その時組織は腐る。
そんな危うさに満ちている。
日大の件もそうである。
学校でいじめ問題が起きた時もそうである。
全体主義こそ生物の本来の姿である。
生命は個で成り立ってるのではない。
個の繋がりで成り立ってるのだ。
人の身体は60兆個もの細胞(命)でできていると謂う。
超連合体なのである。
全体で一つ(一人)なのであり、それが私なのだ。
私はまた私一人で生きてるのではない。
他の人々との関わりの中で生きている。
他の生物との関わりの中で生きている。
言わずもがな…。
・・・・・
戦後は大いに騙しの中にある。
全体主義は悪魔のように扱い、これを排除しようとする。
個人主義はそれが当然だとし、無分別にもてはやす。
一方を否定し、一方に流れる。
これは欧米思想の一大欠陥である。
そも個人主義と全体主義はともに存在そのものである。
捉え方の問題でしかないのだ。
一方だけを排除することはできない。
全体は個の為(集合)、個は全体の為(部分)、である。
利己主義と対極の利他の心は、他(全体)を思う時に生まれる。
そんな利他の精神を良しとする日本人は、
全体主義(他を慮ること)を倣いとする。
東日本大震災時の被災者の行動もそのことで理解できるだろう。
日本はそういう国柄である。
その象徴が天皇であり、奴隷制がなかったという歴史にも繋がる。
どちらにせよ行き過ぎたら弊害はあるだろう。
戦後世界は断固として全体主義を否定するが、
それはナチスドイツの影響もあろうかと思う。
彼の全体主義はむしろ歪んだ個人主義と謂っていいだろう。
自民族だけを良しとしたのだから。
博愛ではなく友愛という訳である。
あくまでも自己中心であったのだ。
私は胆に命じている。
戦後の半端な知識人に惑わされてはいけないと。
・・・・・
さてである。
日大(の中枢)は学生やその父母、そこで働く教職員、
さらにOB・OG、さらには世の中のすべての人々に、
応えなければならない。
見識と覚悟を持って。
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