ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

頑張れ日大

2018-06-04 14:32:31 | 日記・エッセイ・コラム
末端が腐るのは除去すればいい。
中枢が腐るのは除去すればいい、では済まされない。
すなわち破綻である。
企業が傾くのはいつもその結果である。
それはいつの時代も変わらない。
・・・・・
しかし末端も中枢も同じ人間である。
そこに価値の上下はない。
役割分担があるだけだ。
しかし往々にして人は勘違いをする。
時に自分には特別な価値があると…。
その勘違いこそ腐らせる原因である。
今回の件はそこに尽きると。
何事も失敗は付き物である。
失敗すれば、それを認め真摯に対応すればいい。
それだけのことである。
まあ、それが結構難しいのだが。
ともかく日常は事で満ちている。
事は事であり、それは概ね末端の仕事である。
中枢は直接事に当たる必要はない。
適切に処理されているか見ているだけでいい。
そして必要があれば指示をする。
為には見識と覚悟が必要である。
この見識と覚悟こそ重要なのだ。
中枢は日々それを磨かなければならない。
それでこそ組織の柱となる。
・・・・・
これは脳と手足等との関係にも似ている。
手足がケガをすれば脳はそれに対処する。
最悪腐ってしまったら、切断することも辞さない。
脳はそれを決断するのだ。
だがそれは喜んでするのではない。
激しい懊悩の中でするのである。
脳を守る為ではない。
命(全体)を守る為である。
もとより脳と手足等は一体である。
本来どの部分も失いたくないのだ。
なら脳がおかしくなればどうする。
手足等には何もできない。
脳は自分で自分自身に対処するしかない。
それには自分自身を捨てる覚悟が必要だ。
それでもダメかも知れない。
でも少しは対処できるだろう。
最悪は保身の為に手足等を切り捨てることである。
はて日大はどうする。
・・・・・
戦後は個人主義がもてはやされている。
個人主義は利己主義と紙一重であるのに。
そのことに注意せねばならない。
だがどうも無頓着のようである。
只々個人主義を良しとする。
その弊害がいま現れている。
末端(の個人)が利己的になっても、それは対処の方法がある。
中枢(の個人)が利己的になったら、その時組織は腐る。
そんな危うさに満ちている。
日大の件もそうである。
学校でいじめ問題が起きた時もそうである。
全体主義こそ生物の本来の姿である。
生命は個で成り立ってるのではない。
個の繋がりで成り立ってるのだ。
人の身体は60兆個もの細胞(命)でできていると謂う。
超連合体なのである。
全体で一つ(一人)なのであり、それが私なのだ。
私はまた私一人で生きてるのではない。
他の人々との関わりの中で生きている。
他の生物との関わりの中で生きている。
言わずもがな…。
・・・・・
戦後は大いに騙しの中にある。
全体主義は悪魔のように扱い、これを排除しようとする。
個人主義はそれが当然だとし、無分別にもてはやす。
一方を否定し、一方に流れる。
これは欧米思想の一大欠陥である。
そも個人主義と全体主義はともに存在そのものである。
捉え方の問題でしかないのだ。
一方だけを排除することはできない。
全体は個の為(集合)、個は全体の為(部分)、である。
利己主義と対極の利他の心は、他(全体)を思う時に生まれる。
そんな利他の精神を良しとする日本人は、
全体主義(他を慮ること)を倣いとする。
東日本大震災時の被災者の行動もそのことで理解できるだろう。
日本はそういう国柄である。
その象徴が天皇であり、奴隷制がなかったという歴史にも繋がる。
どちらにせよ行き過ぎたら弊害はあるだろう。
戦後世界は断固として全体主義を否定するが、
それはナチスドイツの影響もあろうかと思う。
彼の全体主義はむしろ歪んだ個人主義と謂っていいだろう。
自民族だけを良しとしたのだから。
博愛ではなく友愛という訳である。
あくまでも自己中心であったのだ。
私は胆に命じている。
戦後の半端な知識人に惑わされてはいけないと。
・・・・・
さてである。
日大(の中枢)は学生やその父母、そこで働く教職員、
さらにOB・OG、さらには世の中のすべての人々に、
応えなければならない。
見識と覚悟を持って。

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