ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

震源地

2024-09-02 08:30:31 | 日記・エッセイ・コラム
ちょっと驚きました。
過日の宮崎県南部での地震のことです。
気象庁は南海トラフ地震臨時情報として「巨大地震注意」を出しました。
思い切ったことをするものである。
てかこんなことは初めてだと思う。
出すには何か事情があったのかも。
地震が予知出来ないとはもう常識。
でも可能性ならそれは100%だろう、可能性だけなら。
日本は地殻変動を起こすプレートの交わりにある。
四つの大きなプレートの。
ゆえ予知より対策である。
地球はどうも変動期に入ったようだし。
しても四六時中身構えているのも問題。
つまりは普通が大事ということか。
それも覚悟を持った普通がである。
あらためてそれを思うのです。
それにしても思い切ったことをしたもんだ。
事前に取り決めでもあったのかな、
それとも他に何かが、
まあよく分りません。
・・・・・
上は地震の話である。
しても世界は別の意味で今激しく振動している。
この震源地は既に何度も言っているが三つある。
上になぞらえれば、それは三大プレートと言えるだろう。
それがあちこちで鳴動しています。
ひとつリベラル、ひとつ中華思想、ひとつ原理主義、
この三つである。
その中心にあるのが「リベラル」です。
ちなみにこれは私の持論である、あくまで私のです。
政治とは仕切りです。
人を如何に仕切るかが要諦である。
ために必要なのが言葉である。
それが人々を納得させる。
そこに法律が現れる。
これは大いなる仕切りとなる。
この仕切りの重しになっていたのは神や仏。
てか人は言葉を持ったときに神に出会っている。
これも私の持論だが、それが根底にあると。
それが重しになった。
日本も例外ではない。
してもその在り方は違います。
神を直接の重しにはしません。
神はそれぞれの内に在る。
だから法とは人と人との約束でしかない。
法が先にあるのではない。
あくまで人間同士の約束。
その一部を明文化したのが法。
そう言うことである。
だから口約束と書面とに違いはない。
だから嘘を嫌うのだ。
だから信を重んじる。
だから誠を標榜する。
あの新選組もである。
しても自然界を見ればである、
言葉なく法律もない。
でも秩序は整ってる。
人間も自然物である。
そも秩序はあるのだ。
でも言葉を持ったが故そこが乱れた。
ゆえの法であろうと。
ならそれはやはり必要であり、
それも最大公約数でいいかと。
まあ少ない方がいいのである。
無くてもいいならそれが最高。
ゆえ私は必要悪と言っている。
本当に必要なものは法以前の秩序である。
それを言葉で言えば道義道徳礼儀である。
それがなければ法に意味なし。
今はそこが曖昧になっている。
てか誰もそれを言わない。
法がすべてかのよう。
そしてついに立法司法行政すべてが、
その本義を見失い形骸化。
そして今リベラルが暴走。
法を弄ぶだけでなく、
己の言葉を神とする。
自由・平等・友愛・権利・差別ほか多文化共生とか、
これらはレッテルでしかない。
なのにレッテルの貼り得状態。
なかでも最悪なのがポリコレ。
ここにリベラルの正体がある。
これでもうお仕舞い、
時猿渡。
・・・・・
ところで、
リベラルとは言葉を弄ぶもの、
しかして自分中心の個人主義。
これが私の定義です。
これでお分かりかと、
これ中華思想に同じ。
なにも変わりません。
原理主義も同じかと。
人の言葉を神の言葉と偽って、
一字一句も変えさせない。
イスラム法学者とは、
それがいけないから、
止むを得ずそれをときに再解釈するもの、
と私は理解している。
てかサウジアラビアはその兆しあり。
ちなみに、
原理主義はイスラムに限ったことではない。
宗教には往々にしてあるもの。
問題は宗教にあるのではない。
原理主義に固まって言葉を失うこと。
であるからこれはリベラルそのもの。
ということで、
この三つは大方重なっている。
てかほぼ同じもの、
うん!