ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

脳科学者の言葉

2021-01-25 09:04:16 | 日記・エッセイ・コラム
時々引っ掛かるのです。
他人の言葉に。
友人知人や家族の言葉はもちろん、
テレビや新聞などの報道も含めて。
これは「つぶやき」を見てです。
ちょっと引っ掛かってしまいました。
当人の真意は分かりませんし、
とやかく言うつもりはないのですが、
引っ掛かってしまったのです。
・・・・・
ちらっと見ただけで定かではないが、
保守系の意見に対して、
抽象化して本質を見抜く能力がない、
とか小馬鹿にするように呟いていた。
これに引っ掛かったのです。
脳科学者がどれだけ偉いっちゅうんや、
ただの脳オタクじゃないんかい、
このおたんこなすが、
…なんっちゃって。
てかつい引っ掛かってしまい、
頭の中で呟いてしまいました。
でもである、
今あらためて考え直しても、
その思いは変わりません。
ちょっと言葉は過ぎていますが、
でも実際に言ったわけではない、
悪しからず。
・・・・・
脳は脳です。
身体の一器官にすぎません。
確かに中心的ではある。
確かに情報処理の中枢には違いない。
すべての情報が集まる。
そして処理する。
そして必要なら各器官に伝える。
だから重要には違いない。
だから危険を察知すれば、一番に頭を守ろうとする。
頑丈な骨に保護されていてもです。
そのようにできている。
でも脳は一器官に過ぎない。
脳はまんま私ではない。
それを知ろう。
物思う行為もそうです。
一見、脳が物思いしてるように見える。
でも脳だけの仕業ではない。
先ず末端の細胞(耳や目に手足など)が物思う。
それが脳に伝わって、脳も手伝って物思う。
それが物思うという所作である。
感応すると言い換えても同じだ。
身体の全細胞が感応する装置を持っている。
脳はそこからの情報を取りまとめる。
そして感応する。
それが脳の物思いです。
・・・・・
末端は現実にある。
末端は具象に対応する。
その具象が脳に入り、脳がそれに感応する。
脳もその限りでは具象の中にある、はずだった。
だが具象からはみ出した。
言葉を持ったのだ。
はみ出したから言葉を持ったのか、
言葉を持ったからはみ出したのか。
それは同時としか思えない。
それはさておき、問題はここから。
言葉とは概念である。
概念とは抽象である。
でも生命は具象の中にある。
具象の中にしか在りえない。
言葉が具象を捉えていれば問題はない。
言葉が具象を離れればどうなる。
言葉は抽象だから離れても存在できるのです。
虚構の中で存在できてしまう。
とどのつまりは嘘になる。
このことをずっと思っている。
確かに抽象を捉えれば本質が見える。
例えば、目である。
私の目があれば彼方の目もある。
人間の目があれば犬の目もある。
具象としては皆別物です。
言葉はそこで力を発揮する。
共通項を切り出せるのです。
それを一般化という。
それを抽象化という。
言葉を持った脳にはそれができる。
感応の上に感応を重ねられる。
幾重にも幾重にも重ねられる。
そのとき新しい世界が開ける。
それでもそも具象から始まるのだから、
それに寄り添っていれば問題はない。
だが往々にしてはみ出すのです。
昨今はその力が強くなっている。
どんどん強くなっている。
困ったもんだ。
・・・・・
ちなみに、
脳科学者は脳にこだわる。
それは当然である。
彼らは皆脳オタクなのだ。
馬鹿にしてる訳ではない。
学者とは即ちそもオタクなのだ。
だから学者バカと言う言葉があるのです。
良い意味でも悪い意味でも。
てかむしろ良い意味である。
一つのことに打ち込む人、だから世間には疎くなる。
でも脳科学者はちょっと心配だ。
脳が分かれば人間が分かると勘違いしてる、かも。
そのような節が見られる。
それに上から目線が多い。
そこがどうも。

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