時々引っ掛かるのです。
他人の言葉に。
友人知人や家族の言葉はもちろん、
テレビや新聞などの報道も含めて。
これは「つぶやき」を見てです。
ちょっと引っ掛かってしまいました。
当人の真意は分かりませんし、
とやかく言うつもりはないのですが、
引っ掛かってしまったのです。
・・・・・
ちらっと見ただけで定かではないが、
保守系の意見に対して、
抽象化して本質を見抜く能力がない、
とか小馬鹿にするように呟いていた。
これに引っ掛かったのです。
脳科学者がどれだけ偉いっちゅうんや、
ただの脳オタクじゃないんかい、
このおたんこなすが、
…なんっちゃって。
てかつい引っ掛かってしまい、
頭の中で呟いてしまいました。
でもである、
今あらためて考え直しても、
その思いは変わりません。
ちょっと言葉は過ぎていますが、
でも実際に言ったわけではない、
悪しからず。
・・・・・
脳は脳です。
身体の一器官にすぎません。
確かに中心的ではある。
確かに情報処理の中枢には違いない。
すべての情報が集まる。
そして処理する。
そして必要なら各器官に伝える。
だから重要には違いない。
だから危険を察知すれば、一番に頭を守ろうとする。
頑丈な骨に保護されていてもです。
そのようにできている。
でも脳は一器官に過ぎない。
脳はまんま私ではない。
それを知ろう。
物思う行為もそうです。
一見、脳が物思いしてるように見える。
でも脳だけの仕業ではない。
先ず末端の細胞(耳や目に手足など)が物思う。
それが脳に伝わって、脳も手伝って物思う。
それが物思うという所作である。
感応すると言い換えても同じだ。
身体の全細胞が感応する装置を持っている。
脳はそこからの情報を取りまとめる。
そして感応する。
それが脳の物思いです。
・・・・・
末端は現実にある。
末端は具象に対応する。
その具象が脳に入り、脳がそれに感応する。
脳もその限りでは具象の中にある、はずだった。
だが具象からはみ出した。
言葉を持ったのだ。
はみ出したから言葉を持ったのか、
言葉を持ったからはみ出したのか。
それは同時としか思えない。
それはさておき、問題はここから。
言葉とは概念である。
概念とは抽象である。
でも生命は具象の中にある。
具象の中にしか在りえない。
言葉が具象を捉えていれば問題はない。
言葉が具象を離れればどうなる。
言葉は抽象だから離れても存在できるのです。
虚構の中で存在できてしまう。
とどのつまりは嘘になる。
このことをずっと思っている。
確かに抽象を捉えれば本質が見える。
例えば、目である。
私の目があれば彼方の目もある。
人間の目があれば犬の目もある。
具象としては皆別物です。
言葉はそこで力を発揮する。
共通項を切り出せるのです。
それを一般化という。
それを抽象化という。
言葉を持った脳にはそれができる。
感応の上に感応を重ねられる。
幾重にも幾重にも重ねられる。
そのとき新しい世界が開ける。
それでもそも具象から始まるのだから、
それに寄り添っていれば問題はない。
だが往々にしてはみ出すのです。
昨今はその力が強くなっている。
どんどん強くなっている。
困ったもんだ。
・・・・・
ちなみに、
脳科学者は脳にこだわる。
それは当然である。
彼らは皆脳オタクなのだ。
馬鹿にしてる訳ではない。
学者とは即ちそもオタクなのだ。
だから学者バカと言う言葉があるのです。
良い意味でも悪い意味でも。
てかむしろ良い意味である。
一つのことに打ち込む人、だから世間には疎くなる。
でも脳科学者はちょっと心配だ。
脳が分かれば人間が分かると勘違いしてる、かも。
そのような節が見られる。
それに上から目線が多い。
そこがどうも。
他人の言葉に。
友人知人や家族の言葉はもちろん、
テレビや新聞などの報道も含めて。
これは「つぶやき」を見てです。
ちょっと引っ掛かってしまいました。
当人の真意は分かりませんし、
とやかく言うつもりはないのですが、
引っ掛かってしまったのです。
・・・・・
ちらっと見ただけで定かではないが、
保守系の意見に対して、
抽象化して本質を見抜く能力がない、
とか小馬鹿にするように呟いていた。
これに引っ掛かったのです。
脳科学者がどれだけ偉いっちゅうんや、
ただの脳オタクじゃないんかい、
このおたんこなすが、
…なんっちゃって。
てかつい引っ掛かってしまい、
頭の中で呟いてしまいました。
でもである、
今あらためて考え直しても、
その思いは変わりません。
ちょっと言葉は過ぎていますが、
でも実際に言ったわけではない、
悪しからず。
・・・・・
脳は脳です。
身体の一器官にすぎません。
確かに中心的ではある。
確かに情報処理の中枢には違いない。
すべての情報が集まる。
そして処理する。
そして必要なら各器官に伝える。
だから重要には違いない。
だから危険を察知すれば、一番に頭を守ろうとする。
頑丈な骨に保護されていてもです。
そのようにできている。
でも脳は一器官に過ぎない。
脳はまんま私ではない。
それを知ろう。
物思う行為もそうです。
一見、脳が物思いしてるように見える。
でも脳だけの仕業ではない。
先ず末端の細胞(耳や目に手足など)が物思う。
それが脳に伝わって、脳も手伝って物思う。
それが物思うという所作である。
感応すると言い換えても同じだ。
身体の全細胞が感応する装置を持っている。
脳はそこからの情報を取りまとめる。
そして感応する。
それが脳の物思いです。
・・・・・
末端は現実にある。
末端は具象に対応する。
その具象が脳に入り、脳がそれに感応する。
脳もその限りでは具象の中にある、はずだった。
だが具象からはみ出した。
言葉を持ったのだ。
はみ出したから言葉を持ったのか、
言葉を持ったからはみ出したのか。
それは同時としか思えない。
それはさておき、問題はここから。
言葉とは概念である。
概念とは抽象である。
でも生命は具象の中にある。
具象の中にしか在りえない。
言葉が具象を捉えていれば問題はない。
言葉が具象を離れればどうなる。
言葉は抽象だから離れても存在できるのです。
虚構の中で存在できてしまう。
とどのつまりは嘘になる。
このことをずっと思っている。
確かに抽象を捉えれば本質が見える。
例えば、目である。
私の目があれば彼方の目もある。
人間の目があれば犬の目もある。
具象としては皆別物です。
言葉はそこで力を発揮する。
共通項を切り出せるのです。
それを一般化という。
それを抽象化という。
言葉を持った脳にはそれができる。
感応の上に感応を重ねられる。
幾重にも幾重にも重ねられる。
そのとき新しい世界が開ける。
それでもそも具象から始まるのだから、
それに寄り添っていれば問題はない。
だが往々にしてはみ出すのです。
昨今はその力が強くなっている。
どんどん強くなっている。
困ったもんだ。
・・・・・
ちなみに、
脳科学者は脳にこだわる。
それは当然である。
彼らは皆脳オタクなのだ。
馬鹿にしてる訳ではない。
学者とは即ちそもオタクなのだ。
だから学者バカと言う言葉があるのです。
良い意味でも悪い意味でも。
てかむしろ良い意味である。
一つのことに打ち込む人、だから世間には疎くなる。
でも脳科学者はちょっと心配だ。
脳が分かれば人間が分かると勘違いしてる、かも。
そのような節が見られる。
それに上から目線が多い。
そこがどうも。
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