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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

さらに呪術

2022-10-03 08:28:01 | 日記・エッセイ・コラム
言葉は分けるものと、そう言った。
分けて分けて分ける、そしてそれだけ。
お分かりだと思うが、それはつまり言葉はデジタルだと。
分断が本領であって、それゆえ分かったと言えるのです。
現実は繋がっている。
そもアナログでありそこに分断はない。
一言で言えば「ものごと」であり、
その在り様は運動振動波動である。
だからか聖書は、
それを神の口から出る言葉である、
と言っている。
つらつらと、
そんなこと、
勝手ながらに思っている。
・・・・・
だからさらに想う。
分断が本領だから、ほっとけば分断される。
それを避けるには、その使い方に注意が必要。
それは神の言葉に寄せること。
それを真言(まこと)と謂う。
具体的には、
もっぱら現実に寄り添うこと、
もっぱら自然にまかせること、
良くも悪くもまんまに受け入れて。
もうひとつ、
それは言葉を捨てること。
言葉の生き物・人間はそれができない。
それをすれば人間を止めることになる。
すなわち本当に虫になる。
これ人間存在の絶対矛盾。
でも一時的に離すことはできる。
言葉の意味を伏せればいいのだ。
意味とは脳が創るもの、
脳に問う限りは無理で、
なら身体に問えばいい。
脳も含めた身体全体(60兆個の細胞)に問えと。
波動を全身で、すなわちすべての細胞で感得する。
ときに言葉(意味)から解放される。
てかそれは実は日常的にしていると。
それを意識して取り戻せばいいのだ。
その方途を呪術という。
その呪術の究極は祈りです。
祈りには相手(神)が必要です。
その相手に全身全霊をゆだねる。
時に言葉を唱えるがそれは方便。
波動を交換する為の方便である。
ただし良き言葉であるべしかと。
なお自分に問う方法もある。
それを修行と言い、
それが成ったとき、
それを悟りと言う。
それは全身で受け止めた波動を、
全身で応じて同期同調するもの。
但しこれは難しい。
少なくとも私には。
さらにひとつ、
ここ一番で使える簡便なやり方がある。
とことん迷ったら、最後は身体に訊く。
つまり「腑に落ちる」ことに従うのだ。
腑とは食物や液体の溜まる臓器のこと。
はらわたつまり腸のことか。
ときに脳だけに任せないと。
こんな言い回しがあるのだ。
日本っていいな~。
・・・・・
ところで少しまえ、
安倍元総理の国葬があった。
それに対して騒ぐ者が目立っていた。
少数だからこそ目立つように仕向けられたか。
それは国(民)が分断されたと大声で言いたいからか。
人間誰でも好き嫌いがあり、
思いはそれぞれであって、
そこは致し方ないかと。
でも敢えてのそれも尖がった反対に何の意味があろう。
意味はそも脳の技なり。
それをするには意図がある。
先に言ったが分断は言葉がする。
それは意図をもって脳で創られると。
そしてありもしない分断を見せるのです。
それは勿論日本を弱体化させるため。
世界は初めから分断が常態、
ゆえにそれがない日本が目障りか。
戦後は大方そのために仕組まれた。
そして言葉過多で万事きれいごと。
そんな状況に益々追い込まれてる。
いい加減だまされるのは止めよう。
心底では分かっていると思いたい。
でも表向きは酷くなる一方。
しかも心優しき人こそ騙される。
まことに心痛む日々。
今はまだ堪えるときか。
昭和天皇の言葉を想う。
さながら日は沈んでもまた昇る。
あの自衛隊旗の図柄を見よ。
かならずや復活すると。
幕末明治の維新や昭和の戦後復興を思えば。
ただ目を覚ませばいいだけ。
難しくはない。
喝!
・・・・・
つらつらと考えているが、
そも日本語で考えている。
日本語だからこそ思いつくことが多い。
そのことに驚くほどです。
言葉は「ものごと」を分断して、
分かったような気になるもの。
だがそこに言霊があるのだ。
ただしまことの内にだけ。
日本語はそこを押える。
日本の歴史伝統文化を知ろう。
生き方の総体としての文化を。
ゆえ日本の文学を知ろう。
日本語は詠う言葉、
文字通り歌うように語る言葉、
それは脳にも伝わるが、
それは身体に伝えるもの。
それが心魂に伝わる。
だから天皇陛下は歌われる。
だから天皇陛下は詠うように語られる。
そう思っている。
私ごときの思いだから、
どうでもいいとしても、
真に畏れ多い限りです。