言葉は分けるものと、そう言った。
分けて分けて分ける、そしてそれだけ。
お分かりだと思うが、それはつまり言葉はデジタルだと。
分断が本領であって、それゆえ分かったと言えるのです。
現実は繋がっている。
そもアナログでありそこに分断はない。
一言で言えば「ものごと」であり、
その在り様は運動振動波動である。
だからか聖書は、
それを神の口から出る言葉である、
と言っている。
つらつらと、
そんなこと、
勝手ながらに思っている。
・・・・・
だからさらに想う。
分断が本領だから、ほっとけば分断される。
それを避けるには、その使い方に注意が必要。
それは神の言葉に寄せること。
それを真言(まこと)と謂う。
具体的には、
もっぱら現実に寄り添うこと、
もっぱら自然にまかせること、
良くも悪くもまんまに受け入れて。
もうひとつ、
それは言葉を捨てること。
言葉の生き物・人間はそれができない。
それをすれば人間を止めることになる。
すなわち本当に虫になる。
これ人間存在の絶対矛盾。
でも一時的に離すことはできる。
言葉の意味を伏せればいいのだ。
意味とは脳が創るもの、
脳に問う限りは無理で、
なら身体に問えばいい。
脳も含めた身体全体(60兆個の細胞)に問えと。
波動を全身で、すなわちすべての細胞で感得する。
ときに言葉(意味)から解放される。
てかそれは実は日常的にしていると。
それを意識して取り戻せばいいのだ。
その方途を呪術という。
その呪術の究極は祈りです。
祈りには相手(神)が必要です。
その相手に全身全霊をゆだねる。
時に言葉を唱えるがそれは方便。
波動を交換する為の方便である。
ただし良き言葉であるべしかと。
なお自分に問う方法もある。
それを修行と言い、
それが成ったとき、
それを悟りと言う。
それは全身で受け止めた波動を、
全身で応じて同期同調するもの。
但しこれは難しい。
少なくとも私には。
さらにひとつ、
ここ一番で使える簡便なやり方がある。
とことん迷ったら、最後は身体に訊く。
つまり「腑に落ちる」ことに従うのだ。
腑とは食物や液体の溜まる臓器のこと。
はらわたつまり腸のことか。
ときに脳だけに任せないと。
こんな言い回しがあるのだ。
日本っていいな~。
・・・・・
ところで少しまえ、
安倍元総理の国葬があった。
それに対して騒ぐ者が目立っていた。
少数だからこそ目立つように仕向けられたか。
それは国(民)が分断されたと大声で言いたいからか。
人間誰でも好き嫌いがあり、
思いはそれぞれであって、
そこは致し方ないかと。
でも敢えてのそれも尖がった反対に何の意味があろう。
意味はそも脳の技なり。
それをするには意図がある。
先に言ったが分断は言葉がする。
それは意図をもって脳で創られると。
そしてありもしない分断を見せるのです。
それは勿論日本を弱体化させるため。
世界は初めから分断が常態、
ゆえにそれがない日本が目障りか。
戦後は大方そのために仕組まれた。
そして言葉過多で万事きれいごと。
そんな状況に益々追い込まれてる。
いい加減だまされるのは止めよう。
心底では分かっていると思いたい。
でも表向きは酷くなる一方。
しかも心優しき人こそ騙される。
まことに心痛む日々。
今はまだ堪えるときか。
昭和天皇の言葉を想う。
さながら日は沈んでもまた昇る。
あの自衛隊旗の図柄を見よ。
かならずや復活すると。
幕末明治の維新や昭和の戦後復興を思えば。
ただ目を覚ませばいいだけ。
難しくはない。
喝!
・・・・・
つらつらと考えているが、
そも日本語で考えている。
日本語だからこそ思いつくことが多い。
そのことに驚くほどです。
言葉は「ものごと」を分断して、
分かったような気になるもの。
だがそこに言霊があるのだ。
ただしまことの内にだけ。
日本語はそこを押える。
日本の歴史伝統文化を知ろう。
生き方の総体としての文化を。
ゆえ日本の文学を知ろう。
日本語は詠う言葉、
文字通り歌うように語る言葉、
それは脳にも伝わるが、
それは身体に伝えるもの。
それが心魂に伝わる。
だから天皇陛下は歌われる。
だから天皇陛下は詠うように語られる。
そう思っている。
私ごときの思いだから、
どうでもいいとしても、
真に畏れ多い限りです。
分けて分けて分ける、そしてそれだけ。
お分かりだと思うが、それはつまり言葉はデジタルだと。
分断が本領であって、それゆえ分かったと言えるのです。
現実は繋がっている。
そもアナログでありそこに分断はない。
一言で言えば「ものごと」であり、
その在り様は運動振動波動である。
だからか聖書は、
それを神の口から出る言葉である、
と言っている。
つらつらと、
そんなこと、
勝手ながらに思っている。
・・・・・
だからさらに想う。
分断が本領だから、ほっとけば分断される。
それを避けるには、その使い方に注意が必要。
それは神の言葉に寄せること。
それを真言(まこと)と謂う。
具体的には、
もっぱら現実に寄り添うこと、
もっぱら自然にまかせること、
良くも悪くもまんまに受け入れて。
もうひとつ、
それは言葉を捨てること。
言葉の生き物・人間はそれができない。
それをすれば人間を止めることになる。
すなわち本当に虫になる。
これ人間存在の絶対矛盾。
でも一時的に離すことはできる。
言葉の意味を伏せればいいのだ。
意味とは脳が創るもの、
脳に問う限りは無理で、
なら身体に問えばいい。
脳も含めた身体全体(60兆個の細胞)に問えと。
波動を全身で、すなわちすべての細胞で感得する。
ときに言葉(意味)から解放される。
てかそれは実は日常的にしていると。
それを意識して取り戻せばいいのだ。
その方途を呪術という。
その呪術の究極は祈りです。
祈りには相手(神)が必要です。
その相手に全身全霊をゆだねる。
時に言葉を唱えるがそれは方便。
波動を交換する為の方便である。
ただし良き言葉であるべしかと。
なお自分に問う方法もある。
それを修行と言い、
それが成ったとき、
それを悟りと言う。
それは全身で受け止めた波動を、
全身で応じて同期同調するもの。
但しこれは難しい。
少なくとも私には。
さらにひとつ、
ここ一番で使える簡便なやり方がある。
とことん迷ったら、最後は身体に訊く。
つまり「腑に落ちる」ことに従うのだ。
腑とは食物や液体の溜まる臓器のこと。
はらわたつまり腸のことか。
ときに脳だけに任せないと。
こんな言い回しがあるのだ。
日本っていいな~。
・・・・・
ところで少しまえ、
安倍元総理の国葬があった。
それに対して騒ぐ者が目立っていた。
少数だからこそ目立つように仕向けられたか。
それは国(民)が分断されたと大声で言いたいからか。
人間誰でも好き嫌いがあり、
思いはそれぞれであって、
そこは致し方ないかと。
でも敢えてのそれも尖がった反対に何の意味があろう。
意味はそも脳の技なり。
それをするには意図がある。
先に言ったが分断は言葉がする。
それは意図をもって脳で創られると。
そしてありもしない分断を見せるのです。
それは勿論日本を弱体化させるため。
世界は初めから分断が常態、
ゆえにそれがない日本が目障りか。
戦後は大方そのために仕組まれた。
そして言葉過多で万事きれいごと。
そんな状況に益々追い込まれてる。
いい加減だまされるのは止めよう。
心底では分かっていると思いたい。
でも表向きは酷くなる一方。
しかも心優しき人こそ騙される。
まことに心痛む日々。
今はまだ堪えるときか。
昭和天皇の言葉を想う。
さながら日は沈んでもまた昇る。
あの自衛隊旗の図柄を見よ。
かならずや復活すると。
幕末明治の維新や昭和の戦後復興を思えば。
ただ目を覚ませばいいだけ。
難しくはない。
喝!
・・・・・
つらつらと考えているが、
そも日本語で考えている。
日本語だからこそ思いつくことが多い。
そのことに驚くほどです。
言葉は「ものごと」を分断して、
分かったような気になるもの。
だがそこに言霊があるのだ。
ただしまことの内にだけ。
日本語はそこを押える。
日本の歴史伝統文化を知ろう。
生き方の総体としての文化を。
ゆえ日本の文学を知ろう。
日本語は詠う言葉、
文字通り歌うように語る言葉、
それは脳にも伝わるが、
それは身体に伝えるもの。
それが心魂に伝わる。
だから天皇陛下は歌われる。
だから天皇陛下は詠うように語られる。
そう思っている。
私ごときの思いだから、
どうでもいいとしても、
真に畏れ多い限りです。