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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

ま~ね

2018-09-10 13:18:27 | 日記・エッセイ・コラム
何のこっちゃ?
マネーの話である。
当方は学者でもジャーナリストでもない。
ただの庶民である。
でも思うことはある。
ありきたりの義務教育と少しばかりの読書を基として。
でもそれは脳だけの技ではない。
脳を通して全身に降ろし、それを再び脳に戻す。
そしたらそこに現れる。
それが私の思いである。
勿論大したことはない。
ただの庶民だから。
・・・・・
マネーとはつまり数字である。
交換価値を表わす数字である。
コンピュータの時代になって、それがはっきりした。
価値の交換を数字で取り行うのだ。
その数字をマネーと言う。
現下ではまだ貨幣が使われている。
その内すべてが数字になるかも知れない。
その昔の自給自足社会なら物は物と交換した。
でも分業社会になればそれは難しくなる。
数多の物品の交換において基準(物差し)が必要になる。
だからマネーが現れる。
最初は希少価値のある物をその基準とした。
金銀銅などである。
とりわけ金なのだ。
だからお金と言う。
当初は金そのものを使っていた。
それは持ち運びに不便であり、ときに危険でもあった。
だから預り証で代用するようになる。
硬貨から紙幣になるのだ。
言うまでもないが、
お金とは交換価値を計る物差しでしかない、
価値そのものではないのだ。
だから現下は金でもなく、預り証でもなく、ただの紙きれになってしまった。
その内さらに単なる数字になるだろう。
ともかくそれで用は足りるのだ。
・・・・・
以前はマネーの価値を金が担保していた。
兌換紙幣といって、金との交換が保証されていたのだ。
確かに金はそれ自体に価値があるだろう。
稀少性に優れ、使用価値もいろいろある。
だが水や空気や食物のように人間にとって本当に必要なものではない。
その価値は社会が生んだ共同幻想のようなものである。
故にそのものよりも基準(物差し)としての効用の方が大きいのだ。
つまり金である必要がないのだ。
だから今やすべて不換紙幣となっている。
ただの紙きれなのである。
だがこの時何か仕掛けられたように思う。
基準(物差し)は価値そのものではない。
なのに価値そのものに変身するのである。
一応納得してるが、でも不可解なのです。
ただ確信してることがある。
それはマネーを担保してるのは人だということです。
つまり本当の価値は人の働きなのです。
それが物であってもサービスであっても。
それらの価値実体を得るために使用する物差しがマネーなのです。
だから先記の通り、数字だけでいいのです。
それがマネーとして認められれば。
・・・・・
日本円は日本人が担保している。
日本人の働きが担保している。
日本円は日本に持ってくると日本人の働き(の成果)と交換できる。
これが日本円の価値です。
日本円が暴落するとは、日本人が壊れることです。
近い将来そんなことは考えられない。
あの敗戦後においてもそうだったように。
だから日本円は暴落しない。
日本人が日本人である限り。
戦後は相当酷いインフレではあったが、
それでもハイパーインフレにはならなかった。
それは日本人がいたからです。
歴史・伝統・文化に育まれた日本人がいたからです。
日本人の働きがあったからです。
それなのに円が暴落すると言う輩がいる。
何ともはや!