ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

川崎市のこと

2017-11-23 06:50:31 | 日記・エッセイ・コラム
川崎市がヘイトスピーチの事前規制のガイドラインを作るという。
事前規制のガイドラインと謂うは、その前に規制の条例があるのだろう。
条例そのものもどうかと思うが、更にその上を行くのか。
とうとうここまで来たか。
・・・・・
暴力とは力の濫用である。
武の力はよく誤解される。
一律に暴力というレッテルを貼られる。
要は使い方次第なのに。
ガキ大将が一喝してイジメを止めさせれば、それは正義の力だ。
警察の存在もそうだ。
リベラル人士はそれを暴力装置だと言うが。
要は使い方なのに。
知の力(言葉)も誤解される。
それは往々にして正義を装う。
使い方によれば暴力となるのに。
それを時にヘイトと言う。
勿論酷い言葉が良いとは思わない。
でも言葉には良い意のものも悪い意のものもある。
それは現実を反映しているのだ。
現実を表現するのに必要なのだ。
良い言葉だけにすれば、言葉が減るだけでなく、何も表現できなくなる。
それはもはや現実ではない。
言葉に力がなくなる。
言葉は知でなくなる。
・・・・・
言葉は人を差別しない。
人を差別するのは人であり、人の心だ。
差別心が無ければこの世に差別語など存在しない。
逆に差別する心を持ってすれば、すべてが差別語となる。
なのになぜ差別語狩りをするのか。
差別語狩りする心こそ差別する心であり、差別そのものなのに。
昨今はそんな差別語狩りが横行している。
ヘイトスピーチというのもその道具の一つだ。
安易にレッテルを貼って排除するなかれ。
魂は本来自由なのだ。
本来自由な魂のその表出をむやみに妨げるな。
好き嫌いは誰にでもあり、それは何人も否定できない。
コインの裏表で、裏だけを排除はできないのだ。
確かに差別は良くない。
だが差別もまた現実である。
この世界に差別のなくなることはないだろう。
その現実もまた認めよう。
その上で、取り分け酷い差別は何とかしなければならない。
そこでだ、時に縛りを掛けるのも止むを得ない。
法律という言葉で。
・・・・・
この世界が何の問題もない楽園なら、
法律等という無粋なものは要らないだろう。
だが、実際は悪に満ちている(と思う)から必要なのだ。
つまり法律とは必要悪なのだ。
だからこそ無闇に作れば只の悪になる。
それにしても最近の風潮は…。
何でも法律(言葉)によって解決しようとする。
何でも法律(言葉)を作れば解決できると思っている。
そういう風潮を危惧している。
胆に命じよ!
法律とは事を治めるものであり、
魂を縛るものではないのだ。
それにしても一向に聞こえてこない。
戦前・戦中を生きた日本人へのヘイトスピーチを止めろ、とは。
沖縄に駐留している米軍兵士へのヘイトスピーチも。
むしろ積極的に叫んでいるようだ。
その一方でシナや朝鮮のことは…。
ウイグルやチベットのことはどうでもいいのか。
無垢な市民の拉致は無視か。
余りに度し難い!