地獄論やカウンセリングを受ける前に、などの草稿記事をいくつか書いていたのですが、横道に逸れる記事をいくつか書く必要が出てきました。
まずは、友岡雅弥氏の 「ブッダは歩む、ブッダは語る」 について一部反論することから。。。。
アホのそううそが友岡氏の書籍を反論しても反論になっていないかもしれませんが、これから先の話の筋道上、必要だと思うのでやはりこれも書いておきます。
●「仏法は勝負」ってなんなのでしょうか?
またまたプンニカーおばさんの登場です。(笑)(^_^;A 詳しくは過去記事を読んで下さい。
友岡氏は、バラモンとプンニカーおばさんの会話のやりとりについて、
「バラモンさん、もう水に入ることなんか止めたら?体をこわしちゃうよ?」(P22 主旨)
この様に書かれています。そしてそのすぐ後の行に
「勝負あり!」
と書かれていますね。カルト論、MC論などを学んで、そこから創価学会の言動を考えると、常に 「仏法は勝負」 という事を”池田氏や学会本部”に教えられ、学会員は口にすると思います。なので、ここで創価学会員は 「確かにプンニカーおばさんは勝った。」 そう思う可能性が大きいのかもしれません。
説得しようとしたプンニカーおばさん、つまりは折伏側の人が言い勝った。。。。
学会員にとっては微妙なニュアンスや誤解を生む可能性があると思います。
確かにプンニカーおばさんが「水浴びを続けると体をこわす」「水浴びを続けても天国に行けない」という論理が正しいのですが、改めて考えて欲しいのは、人の立場やおかれた状況はどうだったのでしょうか?
論理が正しいという事と、人の立場やおかれた状況、それぞれ別だと思います。
(過去記事に何度も書いてきたとおり創価学会員は言動において何もかもごちゃ混ぜにして話をする傾向があります。それは小説人間革命が原因のような気がします。日蓮の伝説や、実際の歴史、宗教の解釈、学会員の体験談、(場合によっては実在した人物がモデルになっていたりします。)牧口氏や戸田氏の人生体験で本当の事も書かれているでしょうし、池田大作氏の数々の嘘も書かれているでしょう。
この様に小説人間革命にごちゃ混ぜに書かれているからではないでしょうかね?)
さて、話を元に戻すと、「水浴びを続けると体をこわす」などの”論理が正しい”、のです。では、人の立場やおかれた状況、はどうだったのでしょうか?
バラモンさんは水浴びを止める事で体をこわす可能性が低くなりました。また、”水浴びを続ければ汚れを落とすかのように悪業を洗い流して天国に行ける”という思想も変える事が出来ました。
つまり、プンニカーおばさんの優しい?親切な?慈悲のある?言葉で具体的に人生の立場や状況を変える事が出来たのは、バラモンさんなのです。
創価学会では「幸福を勝ち取れ!」「人生勝利!」とか嘯きますが、家庭訪問にしろ、折伏にしろ、そしてブログ訪問にしろ、創価学会員は指導にありがちな「言いきれ!」「言いきって来い!」「これだけは言っておく」というのがありますね。学会員と折伏や仏法対話をした一般の人で聞いた事のある人もいるでしょう。そして「これだけは言っておくが、あなたは地獄に堕ちるから」(私は勝った。私は成仏する、私は天国に行く、という裏返しやニュアンスにもとれる。)
(あまり創価思考を書きたくはないのですが)「幸福を勝ち取った」のはバラモンなのでは?
プンニカーおばさんはバラモンさんを勝たせてあげたのではないでしょうかね?
もちろん、●「友岡氏の書籍をよく読めば自明」なんですが、学会員には「言いきれ!」「言いきって来い!」「これだけは言っておく」というのが見え隠れします。最近の学会員さんは私の幸福体験だけは言い切っておきます。ということでしょうかね?
おかしな話です。私、そううそが退会してから得た幸福やキリスト教などの他宗の人の幸福を否定するんですかね?それとも人間革命や宿命転換などの「変わる事」は創価学会でしかできない?変わる事は学会員でなくても可能です。
言い切る、というこの言い方自体、特に年明けから春にかけて問題に感じていました。というのも会話終了だからです。
言い切る、ということは、言って、そして、切って、終わり?人を切って終わりなんですかね?宗教者側からの会話の断絶は問題です。これは別途記事にします。
最近は日蓮仏法を再考している、とあるブログでも 「仏法は勝負」 という誤解を解く事が書かれています。
私も同感です。
「”水浴びを続ければ汚れを落とすかのように悪業を洗い流して天国に行ける”」というのは、現代では通用しないでしょう。
現代においては「常識」であり「道理」だと思います。常識や道理という議論の内容や方法でどちらが正しいのか?という事だと思います。
「仏法は勝負」つまりは敵味方扱いや、ねじ伏せるかのような言い方は仏法ではないでしょう。
常識や道理で相手を勝たせてあげる、相手がより幸福感を得られる、、というのが仏法であり、宗教者なのでは?
友岡雅弥氏がどの様なつもりで勝負あり、と書いたのかは不明ですし、書籍のトータルな主旨からしてその様には読めませんが、学会員によく見られる「私が勝った!」「創価が勝った!」という創価思考、カルト思考を念の為に否定しておきます。
「仏法は勝負」ということに”話を絞って”一つ記事を書きました。上記の通り「言い切る」は別途記事にします。また「仏法は勝負」という創価思考ですが、勝負には相手が必要です。この宗教的な思想として「勝たせる相手」、「相手」という事も別途記事にします。
●「友岡氏の書籍をよく読めば自明」
P23より主旨。
ブッダの教えが彼女にもたらした物、それは寒い時に水浴びをするバラモンを見てそれを自分の事のように感じられる感性。
自分が苦しい目にあった分、他人のつらさ苦しみが分かる心です。
この上記の感性も最近の学会員さんには全くないですね。独りよがりと言うか自分中心、自分視点、「自分が」言い切ればいい、ということなのでしょうか?
もしも最近の学会員さん達に「相手」という視点があるならば相手の話を良く聞くでしょう。例えば、私であれば本物の仏法対話をする人ならばブログを良く読むようにするでしょう。
良く読めば当然、1-21の記事を読んで、「人の悩み事を聞く事が出来ればその折伏は出来たも同然だ」という創価の指導を知っている私ですから、普通の感覚の持ち主であれば、創価学会を信用していない私、そううそが悩み事をネットで学会員に話すはずもありません。
一方的に学会員が体験談や自己主張を書いて去ってゆくのは、01番記事を読んでいないのにコメントを書きました、というのがよく分かります。
あるいは一度も活動をした事のない未活動家であり、ネット弁慶なだけの学会員なのでしょう。
私の「ブログ訪問」して仏法対話でなく「創価カルト思考対話」をする前に私のブログで「家庭訪問」で検索して読んで頂きたい物ですね。
それから仏法対話がどういうことであるか?というあたりから批判的合理主義に基づいてお互いに思索しましょう。
●「師弟不二」
師弟不二、ということも学会員の創価思考、カルト思考で根強いですね。
私のブログで学会精神や学会正義、師弟不二は何度も否定してきました。「正義」や「師弟不二」で検索するかリーダー論の記事を読んでみて下さい。
友岡雅弥氏の 「ブッダは歩む、ブッダは語る」 にも師弟不二が書かれていますね。(P184)
アーナンダの言葉として「未曾有の道を切り開いた偉大な師ですから、、、」と書かれています。創価学会でも池田大作氏を「未曾有の道を切り開いた偉大な師」として日蓮大聖人の生まれ変わりだとか、仏法を世界中に広めたとか、つまりは ガンジーやキング牧師と同列の偉人、ノーベル平和賞間違いなし!というカルト思考です。
友岡氏の本では池田氏=未曾有の師とは書かれていませんが、学会員は普通に池田氏を想像するでしょう。
池田氏を偉大な師匠、人生の師匠、と思うのは一学会員、一個人として良き思い出があるのでは?そんな気がします。
しかし思い出のない場合、”距離の遠い師匠”がどこまで師匠といえるのでしょうか?過去記事の通りです。
キリスト教も絶対神を説いてはいますが、歴史的に見ても人類の絶対的幸福ではありませんし宗教によって戦争も起きました。。。それでもマザーテレサの様な人物達が出ています。キリスト教的な良い師弟や良い教えが受け継がれたのでしょう(不二)
もうネットに書かれていますが、同時中継ではカットされている所で日蓮正宗僧侶を罵倒したり、秋谷氏を罵倒するのが池田氏です。末端の会員も日蓮正宗や退会者を罵倒しています。罵倒という事では末端の学会員は良く池田氏と師弟不二していると思います。
友岡氏自身が創価学会員に分かる言葉として「師弟不二」を使い、創価の池田氏崇拝、池田氏絶対なカルト思考を否定したのか、それとも池田氏を肯定する「師弟不二」なのかは私には分かりません。
しかし私が友岡氏の書籍を読んでいると過去記事やコメントに書いたとおり、現在の池田大作氏の言動はバラモン的、カルト的だと思います。
というわけで、友岡氏の書籍について「勝負あり!」や「師弟不二」についてちょっとだけ批判してみたりしました。トータルとしては肯定しているのが分かると思いますが、どうでしょうか?
以上。
'07.10.14 誤記訂正 赤文字
まずは、友岡雅弥氏の 「ブッダは歩む、ブッダは語る」 について一部反論することから。。。。
アホのそううそが友岡氏の書籍を反論しても反論になっていないかもしれませんが、これから先の話の筋道上、必要だと思うのでやはりこれも書いておきます。
●「仏法は勝負」ってなんなのでしょうか?
またまたプンニカーおばさんの登場です。(笑)(^_^;A 詳しくは過去記事を読んで下さい。
友岡氏は、バラモンとプンニカーおばさんの会話のやりとりについて、
「バラモンさん、もう水に入ることなんか止めたら?体をこわしちゃうよ?」(P22 主旨)
この様に書かれています。そしてそのすぐ後の行に
「勝負あり!」
と書かれていますね。カルト論、MC論などを学んで、そこから創価学会の言動を考えると、常に 「仏法は勝負」 という事を”池田氏や学会本部”に教えられ、学会員は口にすると思います。なので、ここで創価学会員は 「確かにプンニカーおばさんは勝った。」 そう思う可能性が大きいのかもしれません。
説得しようとしたプンニカーおばさん、つまりは折伏側の人が言い勝った。。。。
学会員にとっては微妙なニュアンスや誤解を生む可能性があると思います。
確かにプンニカーおばさんが「水浴びを続けると体をこわす」「水浴びを続けても天国に行けない」という論理が正しいのですが、改めて考えて欲しいのは、人の立場やおかれた状況はどうだったのでしょうか?
論理が正しいという事と、人の立場やおかれた状況、それぞれ別だと思います。
(過去記事に何度も書いてきたとおり創価学会員は言動において何もかもごちゃ混ぜにして話をする傾向があります。それは小説人間革命が原因のような気がします。日蓮の伝説や、実際の歴史、宗教の解釈、学会員の体験談、(場合によっては実在した人物がモデルになっていたりします。)牧口氏や戸田氏の人生体験で本当の事も書かれているでしょうし、池田大作氏の数々の嘘も書かれているでしょう。
この様に小説人間革命にごちゃ混ぜに書かれているからではないでしょうかね?)
さて、話を元に戻すと、「水浴びを続けると体をこわす」などの”論理が正しい”、のです。では、人の立場やおかれた状況、はどうだったのでしょうか?
バラモンさんは水浴びを止める事で体をこわす可能性が低くなりました。また、”水浴びを続ければ汚れを落とすかのように悪業を洗い流して天国に行ける”という思想も変える事が出来ました。
つまり、プンニカーおばさんの優しい?親切な?慈悲のある?言葉で具体的に人生の立場や状況を変える事が出来たのは、バラモンさんなのです。
創価学会では「幸福を勝ち取れ!」「人生勝利!」とか嘯きますが、家庭訪問にしろ、折伏にしろ、そしてブログ訪問にしろ、創価学会員は指導にありがちな「言いきれ!」「言いきって来い!」「これだけは言っておく」というのがありますね。学会員と折伏や仏法対話をした一般の人で聞いた事のある人もいるでしょう。そして「これだけは言っておくが、あなたは地獄に堕ちるから」(私は勝った。私は成仏する、私は天国に行く、という裏返しやニュアンスにもとれる。)
(あまり創価思考を書きたくはないのですが)「幸福を勝ち取った」のはバラモンなのでは?
プンニカーおばさんはバラモンさんを勝たせてあげたのではないでしょうかね?
もちろん、●「友岡氏の書籍をよく読めば自明」なんですが、学会員には「言いきれ!」「言いきって来い!」「これだけは言っておく」というのが見え隠れします。最近の学会員さんは私の幸福体験だけは言い切っておきます。ということでしょうかね?
おかしな話です。私、そううそが退会してから得た幸福やキリスト教などの他宗の人の幸福を否定するんですかね?それとも人間革命や宿命転換などの「変わる事」は創価学会でしかできない?変わる事は学会員でなくても可能です。
言い切る、というこの言い方自体、特に年明けから春にかけて問題に感じていました。というのも会話終了だからです。
言い切る、ということは、言って、そして、切って、終わり?人を切って終わりなんですかね?宗教者側からの会話の断絶は問題です。これは別途記事にします。
最近は日蓮仏法を再考している、とあるブログでも 「仏法は勝負」 という誤解を解く事が書かれています。
私も同感です。
「”水浴びを続ければ汚れを落とすかのように悪業を洗い流して天国に行ける”」というのは、現代では通用しないでしょう。
現代においては「常識」であり「道理」だと思います。常識や道理という議論の内容や方法でどちらが正しいのか?という事だと思います。
「仏法は勝負」つまりは敵味方扱いや、ねじ伏せるかのような言い方は仏法ではないでしょう。
常識や道理で相手を勝たせてあげる、相手がより幸福感を得られる、、というのが仏法であり、宗教者なのでは?
友岡雅弥氏がどの様なつもりで勝負あり、と書いたのかは不明ですし、書籍のトータルな主旨からしてその様には読めませんが、学会員によく見られる「私が勝った!」「創価が勝った!」という創価思考、カルト思考を念の為に否定しておきます。
「仏法は勝負」ということに”話を絞って”一つ記事を書きました。上記の通り「言い切る」は別途記事にします。また「仏法は勝負」という創価思考ですが、勝負には相手が必要です。この宗教的な思想として「勝たせる相手」、「相手」という事も別途記事にします。
●「友岡氏の書籍をよく読めば自明」
P23より主旨。
ブッダの教えが彼女にもたらした物、それは寒い時に水浴びをするバラモンを見てそれを自分の事のように感じられる感性。
自分が苦しい目にあった分、他人のつらさ苦しみが分かる心です。
この上記の感性も最近の学会員さんには全くないですね。独りよがりと言うか自分中心、自分視点、「自分が」言い切ればいい、ということなのでしょうか?
もしも最近の学会員さん達に「相手」という視点があるならば相手の話を良く聞くでしょう。例えば、私であれば本物の仏法対話をする人ならばブログを良く読むようにするでしょう。
良く読めば当然、1-21の記事を読んで、「人の悩み事を聞く事が出来ればその折伏は出来たも同然だ」という創価の指導を知っている私ですから、普通の感覚の持ち主であれば、創価学会を信用していない私、そううそが悩み事をネットで学会員に話すはずもありません。
一方的に学会員が体験談や自己主張を書いて去ってゆくのは、01番記事を読んでいないのにコメントを書きました、というのがよく分かります。
あるいは一度も活動をした事のない未活動家であり、ネット弁慶なだけの学会員なのでしょう。
私の「ブログ訪問」して仏法対話でなく「創価カルト思考対話」をする前に私のブログで「家庭訪問」で検索して読んで頂きたい物ですね。
それから仏法対話がどういうことであるか?というあたりから批判的合理主義に基づいてお互いに思索しましょう。
●「師弟不二」
師弟不二、ということも学会員の創価思考、カルト思考で根強いですね。
私のブログで学会精神や学会正義、師弟不二は何度も否定してきました。「正義」や「師弟不二」で検索するかリーダー論の記事を読んでみて下さい。
友岡雅弥氏の 「ブッダは歩む、ブッダは語る」 にも師弟不二が書かれていますね。(P184)
アーナンダの言葉として「未曾有の道を切り開いた偉大な師ですから、、、」と書かれています。創価学会でも池田大作氏を「未曾有の道を切り開いた偉大な師」として日蓮大聖人の生まれ変わりだとか、仏法を世界中に広めたとか、つまりは ガンジーやキング牧師と同列の偉人、ノーベル平和賞間違いなし!というカルト思考です。
友岡氏の本では池田氏=未曾有の師とは書かれていませんが、学会員は普通に池田氏を想像するでしょう。
池田氏を偉大な師匠、人生の師匠、と思うのは一学会員、一個人として良き思い出があるのでは?そんな気がします。
しかし思い出のない場合、”距離の遠い師匠”がどこまで師匠といえるのでしょうか?過去記事の通りです。
キリスト教も絶対神を説いてはいますが、歴史的に見ても人類の絶対的幸福ではありませんし宗教によって戦争も起きました。。。それでもマザーテレサの様な人物達が出ています。キリスト教的な良い師弟や良い教えが受け継がれたのでしょう(不二)
もうネットに書かれていますが、同時中継ではカットされている所で日蓮正宗僧侶を罵倒したり、秋谷氏を罵倒するのが池田氏です。末端の会員も日蓮正宗や退会者を罵倒しています。罵倒という事では末端の学会員は良く池田氏と師弟不二していると思います。
友岡氏自身が創価学会員に分かる言葉として「師弟不二」を使い、創価の池田氏崇拝、池田氏絶対なカルト思考を否定したのか、それとも池田氏を肯定する「師弟不二」なのかは私には分かりません。
しかし私が友岡氏の書籍を読んでいると過去記事やコメントに書いたとおり、現在の池田大作氏の言動はバラモン的、カルト的だと思います。
というわけで、友岡氏の書籍について「勝負あり!」や「師弟不二」についてちょっとだけ批判してみたりしました。トータルとしては肯定しているのが分かると思いますが、どうでしょうか?
以上。
'07.10.14 誤記訂正 赤文字