創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

216.ニーバーの言葉は変わる事それ自体や希望を持つ事を否定していません。

2007年10月09日 01時13分11秒 | 創価学会
「自分が変われば、全てが変わる」ということを「どこまでも」あるいは「絶対的に」信じている学会員さんがいますね。やっぱり、というか、やはり誤解をしているようなので書いておきます。

「自分が変わっても全てが変わらない」「自分が変わっても、相手も環境も変わらない」というのなら、どの様に希望を持ったらいいのだろうか? という疑問です。

この学会員さんの文章を読むと「責任」ということが書かれているので、無責任なバリ活よりかはずっとマトモな意見だと思うのですが、やや誤解があるようですね。

●まず、変わる事それ自体や希望を持つ事を否定していません。

 ニーバーの祈りを良く読むか、紹介されているサイトを良く読めば分かるはずなんですけどね。

-------------------------
変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
-------------------------
ちゃんと変わる事が含まれています。

創価学会でない人が、勇気や希望を教えてくれています。

例えば私が紹介したサイトも偶々でしたがニーバーの祈りを紹介して人間関係のカウンセリングをしているようです。つまり人間関係が変わる事を期待しています。


ある人のサイトでも自分らしく、とか「おかしな学会員」とは関わらないで、精神衛生上、良いように生活していきたい。自分の人生をもっと大事にして希望を持ちたい、という事だと思います。

学会員でない一般人だって「自分が変われば、全てが変わる」そう思って良いのです。
”創価学会でよい事が言われている”、一般人にそう思われる可能性もあるでしょう。
希望を持つ事も悪い事ではありません。

過去記事に書いてきたとおり毒矢の例え、不軽菩薩の教えなどと同様に、ここまではカルトではありません。

●教団都合において 「それしか教えない、それしかない、いつもそれが絶対」 というのがカルト思考。

常に、学会本部や池田氏が教えた事、つまり「一つの教えが常に絶対に正しい」というカルト思考なのでしょう。
日蓮正宗と同じですね。日蓮本仏論や大御本尊は真筆本尊、というのと同じです。

そもそも選択肢が一つしかない思想は危険なのではないでしょうかね?
 不幸にうちひしがれている人に「希望を持て!」というのは良い事ですが、創価の場合は人の不幸につけ込む場合があるから危険です。過去記事の通り。

○見分ける事

私はニーバーの祈り(言葉)を持ち出して、カルトと宗教の見分け方、という事について書きましたが、

人生においても
「何が正しくて」「何が間違っているのか?」
「二つの道があればどちらを選択するか?」
「どちらが より良いのか?」

より。です。より。
二つの道のうち、選択した道でも結果的に間違っている”かもしれない”のです。

ですから様々な物事においても、

「自分が変われば、全てが変わる」
のか
「自分が変わっても全てが変わらない」
のか
”””見分ける事が大事”””です。

ニーバーの言葉はそういう事、つまり「見分ける事が大事」といっています。
批判的合理主義もそうだと思います。批判仏教もそうだと感じています。

●変わらない事を正しいと言う創価学会

「自分が変われば、全てが変わる」ということは創価思考、カルト思考の問題として、常に誰か、何かが変わる事を期待しています。
変わる事だけが真理や道理、常識なのでしょうか?
変わらない事も ”時には” 大事なのでは?

創価学会は日蓮宗、日蓮正宗などいわゆる創価にとっての邪宗を批判する際に

””日蓮大聖人の御精神とは変わってしまっている!!違う!!謗法だ!!大聖人の御精神が受け継がれているのは池田先生と創価だけ!!””

そう言って ”変わった事を批判している” じゃありませんか?
日蓮だって鎌倉時代の仏教界に”釈迦の言う事を聞け!”って 釈迦と変わらない事を求めたじゃないですか?

日蓮正宗は 我々のほうが ”より” 人を救える!そう信じ、希望を持ったから創価学会員を破門とか解散とかとかバカな事を行ったのでしょう。僧侶が信徒を見捨てるという歴史的なおかしな事件でした。(もちろん創価学会側にも問題はあるのでしょうが。)
変わって希望を持ったのが常に正しいのであれば、日蓮正宗に行けますか?変わらない池田大作氏の元にいたいんでしょう???


創価学会の何が良くて何が良くない(悪い)のか?何が変わって、何が変わっていないのか?
つまり、良くも悪くも何が変わったのか?
良くも悪くも何が変わっていないのか?
それぞれの議題やテーマは過去記事の通りです。
人について柔軟でない考え方は人の不幸に直結しやすい創価思考、カルト思考といえるでしょう。

過去記事に何度も書いてきた、バランス感覚。このバランス感覚が少ない、非常に危険な考え方だと思います。
希望を持つ事は悪い事ではありませんが、希望が持てれば、常に変わる事を期待すればいいのはおかしいです。


創価学会もいちおう、いちおう、宗教ですから宗教を求める人の中にはどうしても弱い人がするのかもしれません。
弱い人が信仰にすがるだけのあまりよろしくない?ケースがあるので「自分が変われば、全てが変わる」という指導はあり得ると思います。それがケースバイケースで指導を受ける人にとって適切かどうかは全然別の話です。


例えば、汚染物質を垂れ流しにして環境破壊をしている会社があるでしょう。
その会社や社員の幸福や希望の為には 売り上げがあがる事です。
環境破壊対策をしたら利益が減るでしょう。
自分たちの会社の売り上げが良くなり続けるという変化は確かに希望です。
しかし他人の不幸を生み出す一面があります。

国や地域住民などの他者、他人から「環境破壊対策をする」という変化を求められる場合もあります。
会社の欲求、幸福とは方向が違います。


●常にケースバイケースで考えるしかない。

ですから何がカルトで何が宗教なのか?常にケースバイケースで考え、自分の責任で選択するより他にないのです。
私の責任の取り方の一つとして ”退会” ということがあったのでした。
先に挙げた学会員さんの場合は責任に言及しているので、まずは大丈夫かと思いますが、それを読んでいる学会員が誤解する可能性がありますね。

実際、私の病気は何も良く変わる事はありませんでした。

ですから過去に何度も書いているとおり、創価学会員でもカルト思考の強い人、無い人がいるでしょう。
日蓮正宗も同じかと思います。
もちろん、日蓮宗にもカルト思考の人がいるでしょう。

当然、池田大作氏が絶対、日蓮本仏論、創価学会が絶対などと思っている人が”多い”のが創価学会であり、あるいは少し違うけど日蓮正宗系です。

人の幸不幸が大事でありその延長として、ニーバーの言葉を皆さん学んでいるのを、とある創価学会員さんはよく分かっていないようですね。希望を持つ事だけなら、宗教者じゃなくても出来ます。
コメント (13)
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