創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

220.地獄論、罰論、メモ(その4)

2007年10月29日 23時27分44秒 | 創価学会
No.1
白黒か2者択一、絶対かそうでないか?はカルト思考。
法華経だけ、日蓮本尊だけ(日蓮本尊でなければ宿命転換できない)等々、あるいは ”創価学会員はなぜ幸せになれないのか?” と安易に「幸せでない」事を断定してしまう事に問題があると思われる。

●本尊

本尊に関しては日蓮は釈迦仏を拝んでもいた。もちろん本尊も。つまり本尊だけという絶対(限定)ではない。日蓮宗は本尊に釈迦仏も拝んでいる事が一つの証拠。


●法華経

創価など日蓮正宗系は「法華経を誹謗すると”らい病”になる」と教学上からはっきり言っている人がいます。

ところが日蓮は「法華経を誹謗すると”らい病”になる」とか信徒や平民に罵倒はしていない????(勉強中)

立正安国論においても様々な経典を引用して臨終直前に講義をしているので法華経から一番大事な 人を救う仏教精神 を学んで、金光明経、大集経、薬師経、仁王経などの経を挙げて、世に災厄が起こる理由を説明しているから、人を救うには法華経が一番と考えたのは別段、そううそ自信も違和感を感じません。

金光明経、大集経、薬師経、仁王経は現代から見て科学的根拠はありませんでしたが、現代の気象学の本だったのでしょう。日蓮がそれぞれの経典を仏説と考えていたのか非仏説を考えていたのかは私には不明です。


○現代人と法華経

日蓮の時代は法華経仏説であり五時八教が成立していて法華経は肯定されていました。ですから、強く法華経誹謗や否定する人を強く諫めても問題が少なかったのかもしれません。

しかし現代人は法華経非仏説であり五時八教でもなく、法華経は小説色の強い経文でした。ですから、強く法華経誹謗や否定する人を強く諫めると問題が多いでしょう。

No.2
●日蓮本仏論

日蓮が本仏ならば、なぜに日蓮の「祈り」で日本だけでも広宣流布が叶わなかったのか?
祈れば必ず叶うならば、日蓮は信心が足りなかった?(笑)

日蓮が信徒に対して「必ず叶う」と言っているのは宗教者として、僧侶としての現実的な 「思いやり」 では?

キリスト教でも懺悔して神を信じ神に祈りを捧げれば救われます、という教えですね。


●日蓮が法華経や本尊を選んで祈った事は元創価学会員の私ですから当然知っています。当たり前。

法華経や本尊を「人を救う為」に選択した事や「一番人が救えると考えた基準」を法華経や本尊においた事など無数に日蓮の真筆遺文から出てくるでしょう。そんなこと当たり前です。

仮に唱題だけで本尊を保つことなく死んでいったに日蓮信徒は地獄へ行ったのですか?

で???? 「地獄の因」がどのように日蓮一生の御化導精神なのか?あるいは法華経根本精神なのか説明して下さい。

私が何度も否定している「絶対は危険」というのは個人が持った人生観や価値観、過去ではありません。個人の体験や過去に絶対はあるでしょう。

宗教や思想において「何々が絶対」つまり「日蓮の本尊は絶対(祈りが叶う)」「法華経は絶対!」という創価思考、カルト思考を否定しています。特に他者に布教、説得、入信を迫る時に「本尊が絶対」と言うのが危険だと思います。


No.3
●人を決めつけるのがカルト思考。過去記事の通り。

私はあるBBSでとある人が六道の一つを差して見下す様にレッテル張りされた事から ネット上で大きなもめ事が起こった事を知っています。
一番問題があったのは私のブログをも荒らしに来た人でしたが、その事情をよく知る私にとって他人を軽々しくレッテル張りする事は許せません。

言っている相手が1人とか組織とかの問題ではないでしょう。レッテル張りその事がカルト思考であり、人の不幸を生むのです。

私は他人に地獄の因など、”創価学会員はなぜ幸せになれないのか?”などの見下す、あるいは否定的な言及は畜生だの餓鬼だの六道を示す否定的なレッテル張りと同じです。

信仰者、宗教者であるならば、もっと日蓮の様に慈悲ある態度がふさわしいのではないでしょうか?
低い境涯であると決めつけられた竜女という境涯、立場の人が成仏したのが法華経の教えであり、それを救うのが信仰者では?


●私は友情関係を何人か復活する事が出来ました。

一年程前、ネット上で大きなもめ事が起こってから、友情関係を何人か復活する事が出来ました。
もちろん継続中努力中であり、これからも出来るだけ多くの人と仲良くしていきたいです。

他人に地獄の因など、”創価学会員はなぜ幸せになれないのか?”などの否定的な言及する人に友人は増えるのでしょうか?
レッテル張りはいい加減に止めて頂きたいです。

更に 「「 議論の方向性を教学にして話をそらそうとして 」」 頭の悪いそううそを言い負かしても何の自慢にもなりません。

是非、創価教学、日蓮正宗教学で 富士門流信徒BBSの人達を説得しては如何でしょうか?
あなたは地獄の因でも境涯でもなく天国か仏界の境涯なのでしょう?

私の日蓮仏法の教学の基準は創価学会教学にはありません。また私は日蓮仏法を信仰する気はありません。私もまだ勉強中であり、あなたのそうした態度を見ればますます法華経や本尊に「絶対だ!」と拘ったり、日蓮本仏論信仰に危険を感じます。
コメント (5)
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219.地獄論、罰論、メモ(その3)

2007年10月29日 20時41分37秒 | 創価学会
すべてhttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269 素朴な疑問より。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/27-29

利益や功徳は自分の観念、心、の上に捉えられる。よって何宗でも利益はある????(そううそ的に?。)少なくとも私の親兄弟、友人にも幸福、不幸どちらもある。当然、良く変わる事もあるし、悪く変わる事もある。「私は功徳や利益をいただいた。罰が当たった」と素直に受け取る人が幸せという意見には賛成。他者から軽々しくその人に対して罰とか地獄とか言うべきではないと思う。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/71

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/212-215

「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」と書いてある日蓮の真筆本尊は8幅はあるらしい。すべての本尊に記して必須とは考えていなかった。もちろん法華経に対して「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」だと日蓮が思っていたのは当然でしょう。(日蓮の功徳論、罰論)但し、この形式でないと駄目、また本尊により功徳の違いが明確に現れる、などどは思えない。


http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/223

日蓮曼陀羅には定型はないらしい。日蓮正宗の大御本尊だけが絶対というわけではない。但し、偽物を真筆、本物と言うなど「嘘はよくない。」
「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」は大御本尊には書かれていない。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/303

仏教精神で大事なのは慈悲ということに私も大賛成です。


http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/355

仏界が絶対的幸福境涯である可能性は低いか、全く的はずれらしい。


http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/364-368

地獄とか罰とかにとらわれすぎた、、、、という言及があるということは、当然、学会員が安易に他人に向かって「罰があたる、地獄へ行く、地獄の因」とか言うのはその人自身が創価学会や日蓮正宗から「罰があたる、地獄へ行く、地獄の因」と言われて地獄とか罰を信じ、囚われている証拠なのでは?。

普通の宗教者は 地獄へ助けに行ってあげるのが、思いやりや慈悲。仏教の大きな行動、思想、哲学、の一つは慈悲。(ブッダは歩む、ブッダは語る)

「設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ、暗に月の入るがごとく湯に水を入るるがごとく冰に火を・たくがごとく・日輪にやみをなぐるが如くこそ候はんずれ」(崇峻天皇御書:真筆度は高い)


http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/381-382

私の本尊観は学会だらけ、という人がいるという事は法華経や日蓮、地獄論、罰論も当然、学会か正宗の影響を受けていると思われる。また、”学会だらけでない”本尊観や法華経や日蓮、地獄論、罰論があるのがBBSから読みとれる。

リンクは以上。
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218.地獄論、罰論、メモ(その2)

2007年10月29日 18時11分26秒 | 創価学会
http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_002.html 法華経について3

http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-13.html 仏教と批判的合理主義 日蓮の罰論の問題点

創価学会の信仰に功徳はあるか? 210.地獄論、罰論、メモ(その1)
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本題に入ります (Libra)
2007-08-22 01:39:03
 そううそさん、こんばんは。

 今回は、この記事の本題に関係があることを少し書いてみます。


1.日蓮の地獄論には大きな問題はない
 日蓮の地獄論には、大きな問題はないとわたしはおもいます。日蓮がいう「地獄」というのは、「我等が五尺の身の内に」あるものであり、「我等がむねの間」にあるものです。

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 抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば或は地の下と申す経文もあり或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候、さもやをぼへ候事は我等が心の内に父をあなづり母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候

(「十字御書」、全集、p. 1491)
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 夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はずただ我等がむねの間にあり

(「上野殿後家尼御返事」、全集、p. 1504)
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 ちなみに、親鸞も、「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなくうくとぞとくたまう」(『正像末和讃』)といっているようです。このあたりが、現代の真宗教学でどのように説明されているのか、少し興味がありますね。

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 法然が『選択本願念仏集』(『選択集』)を著わしたのは、建久九年(一一九八)である。法然は安元元年(一一七五)に比叡山を下りて、いよいよ本格的に布教をはじめた。その主張は、ひたすら阿弥陀仏の名を称えるだけでよいというもので、専修念仏と呼ばれる。その主張を正面から述べたものが『選択集』であった。法然はそれを九条兼実に献上したというが、その後、主要な弟子には筆写を許している。しかし、跋文に「一たび高覧を経て後に、壁の底に埋めて窓の前に遺すことなかれ」とあるように、法然自身その危険性を認識して、むやみに外部に出すことを禁じている。
 その際、「おそらくは破法の人をして、悪道に堕せしめざらんがためなり」と言い添えていることは興味深い。法然にとっては、念仏こそが仏説の核心であり、念仏を誹謗すれば、それは正しい法を誹謗したということであり、悪道(地獄など)に堕すべき重罪なのである。
 このことは、親鸞において、もっとはっきりと言明されている。親鸞の『正像末和讃』では、「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなくうくとぞとくたまう」と、念仏を誹謗するものは地獄に堕ちるといわれている。念仏者にとっては念仏誹謗こそ最大の謗法であり、逆に、日蓮にとっては、そのような念仏者の言動こそ最大の謗法なのである。

(末木文美士『日蓮入門──現世を撃つ思想』、ちくま新書、2000年、pp. 101-102)
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2.日蓮の罰論には問題あり
 一方、日蓮の罰論には、大いに問題があるとわたしはおもいます。日蓮の罰論は、鎌倉時代であればともかく、少なくとも現代においては全く通用しないとおもいます。日蓮の罰論の問題点は、【法華経をフィクションではなく、実話であると認識している点】につきるとわたしはおもいます。

 日蓮は、法華経をフィクションと認識していなかったので、そこに出てくる【十羅刹女などを実在のものとして認識していた】とおもいます。【法華経の行者を守護する十羅刹女】などを実在視すれば、【法華経の行者を不当に迫害する者は「十羅刹のせめを」こうむる(=罰をうける)】という考えが自然にでてきます。じっさい、日蓮は、そういうことを言っています。

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但一の冥加には景信と円智・実成とが・さきにゆきしこそ一のたすかりとは・をもへども彼等は法華経十羅刹のせめを・かほりて・はやく失ぬ

(「報恩抄」、全集、p. 323)
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 けれども、ただ一つ冥加なことは、景信と円智と実城が先に死んだことである。神仏の助けとも思われるが、これは彼らが『法華経』の守護の十羅刹女の責めをこうむって早く死んだものである。

(藤井学訳『大乗仏典 中国・日本篇 第24巻 日蓮』、中央公論社、1993年、p. 234)
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 もっとも、鎌倉時代に生きた日蓮が【法華経を実話であると認識していた】としても、それは、その当時においてはむしろ【常識】といってもよいでしょうから、そのことじたいを責めるのはナンセンスです。

 しかしながら、【法華経は創作(フィクション)である】ことがすでに【常識】になっている現代においてもなお、【法華経は実話である】と主張してみたり、また、そのような認識にもとづいて、【法華経の行者を不当に迫害する者は十羅刹の責めを受ける】などと本気でお考えになる人がもしおられるとすれば、【そういう人の精神は健全とはいいがたい】とわたしはおもいます(以下の資料を参照)。

  精神の健全さと病気の違い(カール・ポパー)
  http://fallibilism.web.fc2.com/112.html

 もっとも、わたしは、【法華経は実話ではないから、そんなものに価値はない】などと考えているわけでは全くありません(以下の拙文を参照)。
  
  『法華経』と釈尊の思想
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html


3.日蓮の罰論の問題点は弟子としてきちんと乗り越えるべき
 【日蓮の罰論を現代においてそのまま主張することには大いに問題がある】ということは上述したとおりです。したがって、日蓮の罰論は、現代においては捨てられるべきだとおもいます。「師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間仏法の道理によるべきなり」(「曾谷殿御返事」、全集、pp.1055 -1056)と日蓮じしんがいっています。

 そもそも、【十羅刹女に守ってもらいたい】というような考えは、以下の文章にみられるような【日蓮の崇高な精神】とは一貫しないとおもいますし、【一念三千に基づく日蓮の中心思想(成仏論)】とも全く無関係ですから、【捨てることができるし、捨てるべきである】とおもいます。

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詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん

(「開目抄下」、全集、p. 232)
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日蓮は少より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり

(「四条金吾殿御返事」、全集、p. 1169)
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 【日蓮の崇高な精神】を現代に生きたいと望む日蓮の弟子の一人として、すくなくとも、わたしは、【法華経の行者を不当に迫害する者は十羅刹女の責めを受ける】などという考えは【きっぱりと捨てるべきである】と考えます。

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コメント (1)
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