創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

-3.師匠達との対話。その2

2007年01月25日 22時38分34秒 | 創価学会
★「天台・日蓮が中観派に近い。」というのがわかりません。
★空は煩悩即菩提から遠いのではないでしょうか?
★空と(祈れば願いは必ず叶う)まじない、日蓮や法華経はそれぞれどちらを強調していたのだろうか?

回答(その1) (Libra)
2006-12-14 02:14:41
1.チギと日蓮はともに中観派
 龍樹の説を支持し、『中論』をよりどころとする学派を「中観派」
といいます。

 チギ(天台大師)は「龍樹師に稽首〔帰命〕したてまつる」とい
っていますから、当然、龍樹の説を支持しています(以下を参照)。

  http://fallibilism.web.fc2.com/122.html#2
 
 チギは、他の宗派を批判するときに、「龍樹に違う」という言い
かたをしています。ということは、自分は「龍樹に違」わないとい
う認識なのでしょう。実際、内容の面でも、チギは「縁生はすなわ
ち主なし」というように、龍樹と同じことをいっています。「主な
し」というのは「自性を有していない」ということです(以下を参
照)。

  一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)
  http://fallibilism.web.fc2.com/122.html

 いちおう、「自性」の説明もあげておきます(いちばん上が最も
簡単な説明で、一番下は専門的な説明)。

  「自性」「性」「本性」(『岩波仏教辞典』)
  http://fallibilism.web.fc2.com/088.html

  「自性」の否定─『根本中論偈』の「自性の考察」(小川一乗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/086.html

  『中論』における「自性」の二つの語義(松本史朗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/087.html

 チギは、『中論』をよりどころとして、円融三諦説を説いていま
す(以下を参照)。

  http://fallibilism.web.fc2.com/123.html#2

 以上から、チギは中観派といってよいとおもいます。

 日蓮はチギの説を支持していますから中観派でしょう。

2.煩悩即菩提と初期仏教の思想的距離
 煩悩即菩提というのは、《煩悩を乗り越えていく絶えざるそのプ
ロセスがまさに菩提である》ということでしょう。煩悩を離れて菩
提というものが別にあるわけではないと。

 さて初期仏教ではどうでしょうか。三枝先生はシャカの「ニルヴ
ァーナのプロセス」を「たえざる否定と二重否定とのうちに、どこ
までも上昇し、あるいは深化する」「立体的な螺旋」と説明されて
います(以下を参照)。

  生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
  http://fallibilism.web.fc2.com/020.html

 友岡さんの「常に自らを相対化し、自らの立場を突破しつづける」
というのも同じことではないでしょうか。

  『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
  http://fallibilism.web.fc2.com/016.html

 こう考えると、煩悩即菩提と初期仏教は思想的には遠くないとお
もいます。遠いですか?

3.成仏かまじないか
 同じことをもう一度書きます。『法華経』においては、「如来の
唯一の仕事」は《如来の知見を衆生たちに得させること》です(寿
量品の最後の言葉も思い出してみて下さい)。《超人的な力で衆生
の欲望を満たすこと》は如来の仕事ではありません。で、「如来の
知見」の中身は「縁起=空=無我」です。

  一大事因縁(『法華経』)
  http://fallibilism.web.fc2.com/130.html

  『法華経』における縁起と空
  http://fallibilism.web.fc2.com/129.html

 「お題目を唱えるだけでも祈りは叶う」的なことは、たしかに法
華経の「陀羅尼品」に書いてありますが、それは法華経のメインテ
ーマではないでしょう。それと、「陀羅尼品」というのは、「法華
経を受持する人は菩薩とかが守ってくれますよ」というお話なので、
宇宙生命との交流がどうとかいうお話とは全く関係がありません。

 日蓮の場合には、「じぶんは法華経をこれだけ受持してるのに、
なんで守られないのか」と悩みに悩んだ末、「天もすて給え諸難に
もあえ」と言い放っております。守ってもらいたいがために法華経
を受持してるわけじゃないんですね。

  ────────────────────────────
  詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん

  (「開目抄下」、全集、p. 232)
  ────────────────────────────

 「日蓮は少より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり」
(「四条金吾殿御返事」、全集、p. 1169)という発言もあります。



★一念三千と空は同じ物でしょうか?一念三千が具体的説明だったので日蓮は素晴らしいと思った?釈迦は「空」に気が付いていたのだろうか?


回答(その2) (Libra)
2006-12-14 02:15:55
4.一念三千と空は同じ
 一念三千というのは、一念を例にとって、空(無自性)を説明し
たものでしょう。ちなみに、『摩訶止觀』の別のところには、「一
念即空即仮即中」(『摩訶止觀』巻第一下、大正蔵第46巻、p. 8c)
とあります。

  ────────────────────────────
   この一念三千説は、本来、諸法の真実の様相とは何かという
  問題意識の下で、諸法と言ってもあまりに広大、漠然としてい
  るので、諸法の中から自己自身の一瞬の心に的を絞って、その
  真実の様相を三千世間として明らかにしたものである。

  (菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、
    大蔵出版、1993年、p. 87)
  ────────────────────────────

 一念には固有の本性のようなものはありません(無自性)。縁に
よって変化します。縁によっては仏にもなれます。ようするにそう
いうことです。わたしたちにも仏になるチャンスがありますよとい
うのが一念三千説の希望的な側面です。

 「わたしたちにも仏になるチャンスがありますよ」というだけで
は「理の一念三千」だと日蓮はいいます。どうしたら現実に仏にな
れるのかというところまで明かさないと「事の一念三千」ではない
ということでしょう。法華経に南無することによって仏になれるん
だから、「南無妙法蓮華経」が「事の一念三千」なんだというのが
日蓮の考えだとおもいます。

 ちなみに、日蓮は、龍樹も一念三千の法門を知っていたといって
います。

  ────────────────────────────
  一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、
  竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者の
  みこれをいだけり

  (「開目抄上」、全集、p. 189)
  ────────────────────────────


★宇宙生命論は釈迦仏法として問題や矛盾はないのか?


回答(その3) (Libra)
2006-12-14 02:17:05
5.仏教と宇宙生命論は矛盾する
 仏教と宇宙生命論は矛盾するというのがわたしの考えです。「万
人に共通する生命の基盤」とか、そういうことを言わないのが仏教
の特徴だとおもいます。たとえば、以下を参照。
  
  原始仏教における生命観(高橋審也)
  http://fallibilism.web.fc2.com/059.html

6.日蓮と大日如来
 「大日天王」と「大日如来」は分けてかんがえたほうがよいでし
ょう。で、結局のところ、日蓮は、大日如来を重視していません。

 大日如来にもいろんなのがいるけど、その親分は法華経の多宝如
来だと日蓮はいっています。で、その親分の多宝如来でさえも、寿
量品の教主釈尊の子分にすぎないといっています。

  ────────────────────────────
  大日如来〔中略〕は我等が本師教主釈尊の所従等なり。〔中略〕
  大日経・金剛頂経の両界の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左
  右の左右の脇士也。例せば世の王の両臣の如し。此の多宝仏も、
  寿量品の教主釈尊の所従也。

  (「法華取要抄」、全集、p. 333)
  ────────────────────────────

  ────────────────────────────
  月氏には教主釈尊・宝塔品にして一切の仏を・あつめさせ給て
  大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉
  りて教主釈尊は北の上座につかせ給う、此の大日如来は大日経
  の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の主君なり、両部の
  大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ
  給う此れ即ち法華経の行者なり天竺かくのごとし

  (「報恩抄」、全集、p. 310)
  ────────────────────────────

 寿量品の教主釈尊は、菩薩の修行をしてある時点で仏になってい
ます。これは経文からはっきりしています。だから教主釈尊は宇宙
生命とかではありません。宇宙生命が菩薩の修行をして、ある時点
で仏になったりとか、そんなのありえないでしょう。

  ────────────────────────────
  釈尊が菩薩の修行をして成仏したと説かれているように、『法
  華経』成立の歴史的段階では、後に形成された法身仏のように
  理法そのものを仏と見立てた仏の観念(この法身仏は無始無終、
  すなわち、過去も未来も永遠とされる)はまだ成立しておらず、
  そのような意味では、仏は必ず菩薩の修行をして、ある特定の
  時間点において成仏した存在と考えるべきであるから、釈尊の
  寿命も無限ではなく、単に長大な時を表現しただけなのかもし
  れない。

  (菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、
    大蔵出版、1993年、p. 224)
  ────────────────────────────

 そういうわけで、此土に有縁深厚である仏がおられるのは「五百
塵点の当初より以来」だというのが日蓮の認識です。

  ────────────────────────────
  寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁
  深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり

  (「三大秘法禀承事」、全集、p. 1022)
  ────────────────────────────

 「本有無作」という用語にひっかかる人は、以下のところでした
説明を参考にしてみてください(「2006年08月05日(土) 07:55」で
検索をかければ見つかります)。

  これから元気でBLOGの記録
  http://freett.com/leo020503/nblog.html

 ちなみに、『法華経の智慧』には、以下のような記述があります。

  ────────────────────────────
  名誉会長: さあ、そこで「寿量品」です。寿量品の「発迹顕
   本」にこそ、「人間・釈尊に帰れ!」という法華経のメッセ
   ージが込められているのです。ここでは、このことを少し考
   えてみよう。

  (池田大作他『法華経の智慧』第四巻、聖教新聞社、1998年、
   p. 50)
  ────────────────────────────

  ────────────────────────────
  斉藤: 大聖人は、常に「釈尊に帰れ!」と叫ばれました。大
   日如来を崇める真言宗に対しても、「大日如来は、どのよう
   な人を父母として、どのような国に出現して大日経をお説き
   になったのか」(御書一三五五㌻、趣意)と破折されていま
   す。

  (同上、pp. 68-69)
  ────────────────────────────

 とりあえず、以上がわたしからの回答です。いちおう全部の質問
に回答したつもりですが、抜けている部分がありましたらご指摘く
ださい。



★日蓮は、日蓮の曼陀羅に大日天王(大日如来?)がある事から諸天善神として取り入れて肯定している。釈迦や法華経を書いた人はどういう見解なのだろうか?


大日如来と大日天は別の存在 (Libra)
2006-12-16 13:13:35
 「本尊は天王で御書は如来」というのは誤りです。両者は別の存
在です。

 実際、日蓮は、曼荼羅において、「大日如来」と「大日天」を書
き分けています。以下を参照。

  平賀本土寺蔵の大曼荼羅
  http://www.lbis.jp/gohonzon/018.htm

 「大日如来は教主釈尊の子分」というのが日蓮の理解。教主釈尊
は修行して仏になっていますから、宇宙生命とかではありません。
このことはすでに書きました。



こちらも次回のコメントは遅れるとおもいます (Libra)
2006-12-17 11:38:04
 こちらこそ、スローペースでお願いします。

 日蓮の真蹟曼荼羅のうち、「大日如来」と書かれているものは2
幅くらいしかなかったとおもいます。つまり、「大日如来」という
文字がない曼荼羅のほうが圧倒的に多いということになります。

 日蓮は、法華経の多宝如来を「両部の大日如来を郎従等と定めた
る多宝仏」といっており、そこでは、多宝仏のことを「此の大日如
来は…」といっています。曼荼羅でも、大日如来の親分として多宝
如来を書いているのだとおもいます。

  ────────────────────────────
  月氏には教主釈尊・宝塔品にして一切の仏を・あつめさせ給て
  大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉
  りて教主釈尊は北の上座につかせ給う、此の大日如来は大日経
  の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の主君なり、両部の
  大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ
  給う此れ即ち法華経の行者なり天竺かくのごとし

  (「報恩抄」、全集、p. 310)
  ────────────────────────────

回答(2007.01.06-01) (Libra)
2007-01-06 09:35:59
 そううそさん、おはようございます。

 2.については、そううそさんの質問の文章を読解できず、質問の内容を把握できませんでした。もう一度、質問しなおして頂ければさいわいです。

 法華経の「陀羅尼品」は原始仏教からは遠いと思います。

 残された問題は、2.と「一念三千 及び 空 文底」ということでよろしいでしょうか。


★空と一念三千が言葉が異なるのに同じ事なのでしょうか?
★空と一念三千の関係が分かりません。
★法華経の文底とは?


回答(2007.01.06-02) (Libra)
2007-01-06 09:58:14
1.同じ事を異なる言葉で表現するということはありえる
 ある一つの事を言葉で表現しようとする場合であっても、それをなしうる言葉が常に一通りしかないということはないとおもいます。たとえば、「x-1=0」と「x=1」は表現は異なっていますが、別のことを表現しているわけではないとおもいます。ですから、「言葉が違う」からといって、その言葉が表現しようとしている事態(内容)に「違いがある」ということには必ずしもならないでしょう。

2.空と一念三千の関係
 一般論と具体論の関係です。「一切は空である」というのが一般論としての「空」。「一切」といっても漠然としているので「修行者の一瞬の心」に的をしぼって観るのが一念三千。

────────────────────
 この一念三千説は、本来、諸法の真実の様相とは何かという問題意識の下で、諸法と言ってもあまりに広大、漠然としているので、諸法の中から自己自身の一瞬の心に的を絞って、その真実の様相を三千世間として明らかにしたものである。

(菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、大蔵出版、1993年、p. 87)
────────────────────

────────────────────
一念三千説とは、我々の一瞬の心に三千世間〔中略〕として示される、生命体の取りうるあらゆる可能性、たとえば地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏となる可能性を備えるという思想である。

(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、岩波書店、2001年、p. 106)
────────────────────

3.文底について
 「文の底にしづめたり」というのは、要するに、ドラマ的な表現の底に流れているテーマとして読み取れるということでしょう。作者のねらいといってもよいでしょう。

 たとえば、「諸教の統一・諸仏の統一」も『法華経』の「文の底にしづめ」られているとおもいます(以下の資料を参照)。

  『法華経』のねらい──諸教の統一・諸仏の統一(菅野博史)
  http://fallibilism.web.fc2.com/131.html

4.「ほとんど断言をされないLibraさん」?
 これはわたしの自己解釈と異なります。そううそさんの誤解ではないでしょうか。

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