創価学会の信仰に功徳はあるか?

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(-5の補足.) Libra師匠の「龍樹以降の中観派の話」

2007年01月09日 07時31分23秒 | 創価学会
メールでの質問に対してLibraさんから頂いた回答(原文の一部は省略)
この記事はLibraさんの許可無く無断転載禁止です。

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●龍樹以降の中観派の分裂の話
●龍樹の後継者たちの中で、どういう人たちを「正規の中観系」とみなすか?

 龍樹に始まった中観派は、のちに「自立論証派」と「帰謬論証派」の2つに分派したというのが通説的な整理です。両者のちがいは論証のやり方です。「自立論証」というのは積極的に自らの主張を根拠付ける(正当化する)ことです。「帰謬論証」というのは要するに背理法のことです。わたしも、「龍樹は、主張を積極的に正当化(自立論証)できるとはおもっていなかったとおもいます」と書きました。
 ちなみに、正当化の不可能性の自覚というのは批判的合理主義と共通するところがあると思います。

  ほらふき男爵のトリレンマ──論証は正当化をなしえない(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/109.html

●『中論』のオリジナルは現存しません

 『中論』は龍樹の作ですが、じつは、龍樹が作った『中論』じたい(オリジナル)は現存していません。そのかわりに、『中論』を注釈した注釈書が何本か伝わっています。注釈書には龍樹が作った『中論』が全部引用されていますので、それらから『中論』じたいを抽出できます。しかし、抽出できるといっても、注釈書によって微妙にちがいがあり、完全な形の抽出は困難です。また、すべての注釈書が中国に伝わったわけではありません。チギが用いているのは「青目」という人が作った注釈書です(訳者は羅什)。青目という人がどういう人であったかはよく分かっていません。

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 一言であらわすならば、青目についてはまったくわからない。もともと青目註(釈)とするテクストは、あまたの漢訳仏典のなかで、この『中論』を除いては、ほかにただの一点もない。

(三枝充悳訳注『中論(上)』〔レグルス文庫 158〕、第三文明社、1984年、p. 47)
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●月称(チャンドラキールティ)とはどんな人か

 月称(チャンドラキールティ)は論証方法で分類すれば帰謬論証派といえそうです。そこだけを見れば、「正規の中観系」のようにも見えますが、そのような理解が誤りであることはすでに松本史朗先生によって論証されました。論証部分は省略して結論の部分だけを以下に引用しておきます(引用中の「離辺中観説」という用語は《誤った中観理解》とでも理解しておいてください。「バーヴィヴェーカ」は自立論証派の代表みたいな人です)。

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 さて、バーヴィヴェーカの「離辺中観説」は、チャンドラキールティによっても、基本的には全く変更を受けることなく継承された。両者の思想的立場については、従来一般にバーヴィヴェーカは自立派〔中略〕であり、チャンドラキールティは帰謬派〔中略〕であって、両者の立場は異なるとされてきた。このような理解は、主としてツォンカパを祖とするゲルク dGe lugs 派系統の様々の学説網要書〔中略〕やツォンカパ自身の著作における中観派に関する学派分類にもとづき、さらに遡れば、それを生じる原因ともなった『明句論』第一章におけるチャンドラキールティのバーヴィヴェーカ批判にもとづくものであろうが、筆者は基本的に、このような理解は正しくないと考えている。つまり、筆者より見れば、これら二人の中観思想家の間に、空性論証の方法においても、二諦説においても、根本的な相違は全く認められない。むしろ彼等は、ツォンカパによって批判される「離辺中観説」を主張した点で、軌を一にしていたと見なされるべきである。もし強いて彼等の相違を言えば、チャンドラキールティの方が、バーヴィヴェーカよりも一層単純に「離辺中観説」を主張したため、より実在論的傾向が強いということであろう。従来、チャンドラキールティの〝帰謬派〟という思想的立場に対しては、筆者自身をも含めて〝空性の徹底化〟というような高い評価がなされることが多かったが、こうした評価がいかに誤っているかは、以下の論証によって示されるであろう。

(松本史朗『チベット仏教哲学』、大蔵出版、1997年、p. 347)
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 (中略)月称の解釈じたいが「インド中観派の正確な理解とはいえない」(中略)。三論宗が「インド中観派の正確な理解とはいえない」のは、「中国的思考から脱することはできなかった」からでしょう(以下の資料を参照)。

  中国仏教の底流─万物一体の思想(伊藤隆寿)
  http://fallibilism.web.fc2.com/081.html

●「月称釈」とは『プラサンナパダー』のこと

 とはいえ、月称(チャンドラキールティ)が作った『プラサンナパダー』という注釈書は、サンスクリット本とチベット訳があり、両者はよく一致しています。サンスクリット本が残っているのはこの注釈書だけであり、龍樹のオリジナルがサンスクリットで書かれたのは間違いないので、『プラサンナパダー』が重要な資料であることはたしかです。しかし、『プラサンナパダー』から抽出されるものがオリジナルと一致するのかといえばそうはいえません。

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『プラサンナパダー』中にふくまれる偈頌を抽出して、それをいちおう『中論』のサンスクリット本として扱っている。しかし、これがはたして龍樹のものと同一であったか否かは、確定できず、むしろ否定的な意見のほうが強い。

(三枝充悳訳注『中論(上)』〔レグルス文庫 158〕、第三文明社、1984年、pp. 18-19)
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 (中略)「第24章第18偈(三諦偈)」に限って言えば、チギが用いた青目釈(羅什訳)と『プラサンナパダー』とで意味が異なっているわけではありません。チギの理解はこの三諦偈に基づきます。よって、「月称釈は中国に伝わらなかった」という理由だけから、チギの理解を「インド中観派の正確な理解とはいえない」と結論することはできないとおもいます。

 以下に、三諦偈を引用しておきます。

○青目釈・羅什訳の書き下し
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  衆因縁生法 我れ即ち是れ無と説く
  亦た是れ仮名と為す 亦た是れ中道の義なり

  (第24章第18偈、三枝充悳訳『中論(下)』〔レグルス文庫 160〕、第三文明社、1984年、p. 650)
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○三枝先生の訳注
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この「無」はサンスクリットに s'u-nyata- とあり「空(性)」とあるべきもの。つぎの長行冒頭には「空」、また燈論偈(漢訳)も「空」となっている。中観論疏(吉蔵)をはじめ、中国仏教者はみな「空」と読む。そのうえ、この第18偈は「空仮中」の三諦偈と呼ばれて、中論のなかで最も名高い。

(三枝充悳訳注『中論(下)』〔レグルス文庫 160〕、第三文明社、1984年、p. 651)
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○『プラサンナパダー』からの三枝先生の訳
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およそ、縁起しているもの、それを、われわれは空であること(空性)と説く。それは、相待の仮説(縁って想定されたもの)であり、それはすなわち、中道そのものである。

(三枝充悳訳注『中論(下)』〔レグルス文庫 160〕、第三文明社、1984年、p. 651)
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●三論・四論について
 (中略)
『大智度論』が龍樹の作かどうかは研究者の間でも意見が分かれており、未解決の問題だとおもいます。
 (中略)少なくとも、わたしは、今回の説明において、『大智度論』に基づくチギの議論を一度も引用していません。チギはその中心思想である一心三観について「『中論』に説く思議を越えた一心三観」とはっきりいっています。

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