●承元(じょうげん)の法難の経過について
建永(けんえい)の法難とも言われる。
法然さん(以下、法然)の教団、吉水教団が既存仏教教団より弾圧された法難。
--------------------------
元久元年(1204年)10月
北嶺(比叡山延暦寺)の衆徒が専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える決議を行い、「延暦寺奏状」を当時の天台座主真性に対して訴えを起こす。
元久元年(1204年)11月
北嶺に対して法然は、自戒の決意を示すべく記した「七箇条制誡」に門弟ら190名の署名を添えて延暦寺に送る。しかし、『一念往生義』を説く法本房行空や『六時礼讃』に節をつけて勤める法会で人気を博していた安楽房遵西が非難の的にされた。法然は行空を破門。
元久2年(1205年)9月
南都の興福寺の僧徒から朝廷に対して吉水教団に対する提訴が行われ、翌月には改めて吉水教団に対する九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止を訴えを起こす。
元久2年12月19日
朝廷から「門弟の浅智」を非難して師匠である法然を宥免する宣旨が出される。
これでも納得しない「興福寺の衆徒は翌元久3年2月に五師三綱の高僧を上洛。摂関家に対して法然らの処罰を働きかけた。」
その結果、3月30日に遵西と行空を処罰することを確約した宣旨を出したところ、同日に法然が行空を破門にしたことから、興福寺側も一旦これを受け入れ、その他の僧侶に対しては厳罰はなし。
建永元年(1206年)12月
第82代、後鳥羽上皇が熊野神社参詣の留守中に、上皇が寵愛する「松虫」(松虫姫19歳)と「鈴虫」(鈴虫姫17歳)という側近の女性が上皇の許可無く剃髪出家。
更に彼女たちは説法を聞くために彼らを上皇不在の御所に招き入れ、夜遅くなったから、としてそのまま御所に泊めたとされている。
法難
建永元年(1207年)正月16日
松虫と鈴虫が出家し尼僧となったことに加え、男性を自分の不在中に御所内に泊めたことで後鳥羽上皇は激怒し、建永2年(1207年)2月、専修念仏の停止を決定。
住蓮房、安楽房、西意善綽房、性願房の4名が死罪。
同月28日
怒りの治まらない上皇は、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子を流罪に処した。
承元元年(1207年)12月
法然赦免。
文応元年(1260年)7月16日
日蓮さん(以下、日蓮)が文応元年(1260年)7月16日に北条時頼に立正安国論を提出。
この時の天皇は第90代、亀山天皇(在位:正元元年11月26日(1260年1月9日) - 文永11年1月26日(1274年3月6日))
同年8月27日
浄土教系の念仏者たちによって草庵を夜間襲撃される。松葉ヶ谷の法難
--------------------------
●以下は私の想像が含まれます。想像にほとんど根拠はありません。
1.日蓮は53年も前のことを蒸し返している。
2.仏教学における、専修念仏批判は「延暦寺奏状」「興福寺奏状」に既に存在して、日蓮の批判は目新しいものではない可能性が高い。
→歴史的経緯から「延暦寺奏状」「興福寺奏状」は多くの僧侶間で理解されていた模様。
3.日蓮は天台系の僧侶であったにも関わらず、どの僧侶とも連携していない。
「興福寺の衆徒は翌元久3年2月に五師三綱の高僧を上洛させ、摂関家に対して法然らの処罰を働きかけた」これを知らなかった?
→現代人でいうところの上流階級の思想的な現状調査や根回しが日蓮になかった。
客観的、複数人必要とした五師三綱の高僧達でようやく摂関家に対し説得できる。
日蓮一人で 「客観的な説得力」 に欠ける。受け入れたら他宗派のメンツはどうなる?
もちろん宗教の観点で見れば、法華経信仰の上で日蓮一人でも苦難に立ち向かってゆくところが信仰者として偉いといえば偉い。
4.専修念仏は現代に残っているが、建永元年(1207年)に禁止されている。よって天皇や朝廷に「延暦寺奏状」「興福寺奏状」の理解があり、専修念仏の仏教的な問題を理解していた可能性がある。
→その後の専修念仏の広がり方は私には不明。世の中には広まってしまった?
また、「選択集(せんちゃくしゅう)を作り、この書で広く日本国中の一切の人々を迷わした」という日蓮の意見で”選択集が広まった”のは、やや不正確ではないのか?
選択集の奥書に、「九条兼実がご覧になったあとは他の人に見せないでほしい。」とある。日蓮はこれを知らなかった?
その後の日本全体における専修念仏と選択集の扱いは不明。
1155.明恵の『摧邪輪』 ( 宗教 ) - raccoon21jpのブログ - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/raccoon21jp/36604115.html
法然の敵対勢力側が権力闘争をするため、選択集を広めて問題にしようとした?
あるいは法然系の人が広めた?
法難後も法然個人が広めた?
5.日蓮と法然の意見はほぼ同一。日蓮はこれを知しらなかった?
--日蓮--------------
立正安国論より
「念仏を称えていけば必ず極楽浄土に往生出来るが、ただ五逆罪の者と正法を誹謗する者を除く」
「もし人がこの法華経を信じないで毀謗するならば、その人は命が終わってのち阿鼻地獄に入るであろう」
との釈尊の教えに迷っています。
--------------------
--法然--------------
ノート:七箇条の御起請文 - WikiArc
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E4%B8%83%E7%AE%87%E6%9D%A1%E3%81%AE%E5%BE%A1%E8%B5%B7%E8%AB%8B%E6%96%87
>『無量寿経』の第十八念仏往生願にも「仏の教法をそしるような悪罪を犯した者はこの限りではない」と記し、往生の対象から除かれている。そしった人は、その報いとして、地獄におちてしまうであろう。どうして、それを承知で愚かなことをするのであろうか。そのようなことをしてはならない。
七箇条の御起請文 - WikiArc
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%83%E7%AE%87%E6%9D%A1%E3%81%AE%E5%BE%A1%E8%B5%B7%E8%AB%8B%E6%96%87
--------------------
☆☆日蓮遺文と法然の七箇条の御起請文、ほぼ同じことが書いてある。
これに気が付かない念仏僧しかいなかったのだろうか?
とてもそうは思えないし、一人でもいれば日蓮の負け。
☆☆法然の2つの著作で一方(選択集)は部分的に取り上げて批判。
☆☆もう一方(七箇条の御起請文)はすべて無視するのは、大問題。
日蓮は七箇条の御起請文を知らなかった?法然側の反省文なので存在を知っていても日蓮が読めなかった可能性はある。
6.法然は「七箇条の御起請文」で正法を誹謗しないと誓っている。流罪法難は専修念仏、正法誹謗というより、弟子の過ちに起因する。2,4同様に日蓮と同時代の朝廷や各宗派が「七箇条の御起請文」を理解していた可能性がある。
創価学会員の、宿業、罰、正法誹謗のイメージは明らかに間違いでは?
しかも、法然は流罪を許されている。
それにケチをつけたら、天皇、朝廷など様々な勢力にケチをつけているのと同じ。敵とみなされても仕方ないかもしれない。
7.立正安国論で武家や公家を説得出来たとしても、専修念仏(など)を捨てさせ、具体的に法華信仰を納得させる手段などに欠けている。民衆への対策は何もない。日蓮の意見は上の人間が信仰を改めることが第一歩、なのだろう。
8.法難の経緯を考えると、法然、比叡山、天皇、公家など念仏信仰の僧だけでなく公家、武家の複雑な関わりを無視した意見に見えてしまう。
☆☆立正安国論には 「法然の法難の経緯が全て書かれていない。」
☆☆1207年当時の法難を、人の記憶と記録で調べられたら、日蓮の意見は全く通用しないと思われる。
純粋に信仰だけが問題で、信仰の過ちが権力の敗北につながると考えていた日蓮なので、書き方としては理解できる。が、
例えば「興福寺の衆徒は翌元久3年2月に五師三綱の高僧を上洛させ、摂関家に対して法然らの処罰を働きかけた」これが抜けている。
また、数百年前の昔の中国の仏教文献を調べて読むのが僧侶の仕事。加えて伝承することも。日本国内の50年前の仏教文献もまた然り。つまり幕府など受け取った側で過去の調べは簡単についたのではないか?経論釈の論文として日蓮遺文は説得力に欠け、また大きな問題がある。幕府側で既知か調べがついたことで黙殺。むしろ日蓮は笑われたかもしれない。
日蓮の意見は目新しくもないし、経緯が全て書かれていない、「延暦寺奏状」「興福寺奏状」からすれば不足していた可能性が高い。
膨大な仏教経典や経論釈があるのに、「立正安国論程度の短さ」の文章で、部分的に安易に批判されたら、どの宗派でも怒って当然。(笑) 立正安国論の無視や日蓮の扱いについて、邪宗の僧侶ガー、邪宗の害毒ガーって正宗系の意見はアホですな。(笑)
僧兵がいて、各勢力が拮抗している状態。立正安国論みたいなものを表で大事にしたら、それこそどこかの勢力に肩入れすることになり、内戦になりかねない。
9.日蓮は経典を引用しているので一応の根拠はあるが、現証においてすべての説明が付かないことを当時の人々は気がついたのだろうか?どう思ったのだろうか?
10.8の傍証
鎌倉時代 京都から鎌倉まで早馬で何日かかったか? | レファレンス協同データベース
『世界大百科事典 23巻』(平凡社 2009改訂版)p.25の早馬の中に以下のような記載があった。「1261年(弘長1)東海道の宿々に2疋の早馬を常備させたが、その最短速度は、鎌倉・京都間で3、4日、京都・博多間が6、7日ときわめて速く」
立正安国論提出から法難まで、一ヶ月程度の十分な時間があり、京都に調査依頼をして返事をもらうだけの時間がある。
--------------------------
●歴史的経緯を調べた感想。
上皇が寵愛する「松虫」(松虫姫19歳)と「鈴虫」(鈴虫姫17歳)という側近の女性、と書きましたが名前などは後代の創作かもしれません。
明恵さん、及び日蓮の遺文から、専修念仏が広まっていたのは事実のようです。北条時頼など、立正安国論を受け取った側が読んで日蓮のいうとおり、同じ目線で問題視出来たかは非常に疑問です。
禅宗など、法然系念仏、天台系念仏の仏教学、法然の法難の歴史的経緯これら両方が武家などに理解されていたであろうと私は想像します。
日蓮は純粋に信仰だけが問題で、信仰の過ちが権力の敗北につながると考えていたようです。
「仏法は体のごとし世間は影のごとし体曲れば影ななめなり」
権力闘争に負けて死んだら信仰もへったくれもない、これが彼らにとって現実だったのでは?
現代の創価学会と日蓮正宗の権力争い、信徒の取り合いも純粋な信仰の対決でないところが笑えます。
両方共に教団トップの 「既得権益の拡大」 「豪華な生活」 のためです。
日蓮の批判対象の各勢力も「既得権益の拡大」はしていました。
本当に信仰に力があるなら、お釈迦さんのように他人を幸せにしてあげてから入信させればいいのに。(笑)
それと日蓮は一般庶民を責めるのでなく、目上の人々に意見を言って公場対決を望んでいます。
法然も部下が失敗した責任をおっています。
部下の失敗や退転を個人のせいにする池田大作や日顕氏はいかがなものかと思います。
部下の失敗や退転は池田大作の宿業や邪宗の害毒なのでは?
日蓮の法然批判は天皇、朝廷、幕府に都合の悪いものだった可能性が高いです。ただでさえ武家の権力争いがある中で、天皇、公家、比叡山、武家などの権力が拮抗していたのに、「俺の言う法華信仰をしないと恐ろしいことが起こるぞ!」ではどこかの勢力に口実を与え、余計な混乱を招くだけでは?
それでも蒙古襲来の予言が偶然、当たったので、ようやく注目されたのでしょう。
歴史をたどると、日蓮が、後鳥羽上皇か土御門天皇の子供ではないか?という説があることに頷けました。もちろん証拠は何もなくその説を否定する日蓮遺文しか証拠はありません。あくまで印象です。
安徳天皇と平家は彼ら自身とその信仰が悪いことになっていますが、後鳥羽上皇らは、どちらかというと法然だけが悪いという印象を持ちえます。
日蓮遺文は理解できるのですが、やはり禅宗や念仏は理解不足や知識不足が否めないです。どこかのお寺で往生要集、選択集をきちんとお坊さんから勉強したいなぁ。。。。。
私は念仏の家系なのに何も知らない。(^^;
参考リンク
安楽寺
1154.浄土宗非難への法然の対応 ( 宗教 ) - raccoon21jpのブログ - Yahoo!ブログ
1155.明恵の『摧邪輪』 ( 宗教 ) - raccoon21jpのブログ - Yahoo!ブログ
20150624 一部追記。
20150628 一部追記。赤文字とボールド
20150705 一部追記。10.8の傍証
建永(けんえい)の法難とも言われる。
法然さん(以下、法然)の教団、吉水教団が既存仏教教団より弾圧された法難。
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元久元年(1204年)10月
北嶺(比叡山延暦寺)の衆徒が専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える決議を行い、「延暦寺奏状」を当時の天台座主真性に対して訴えを起こす。
元久元年(1204年)11月
北嶺に対して法然は、自戒の決意を示すべく記した「七箇条制誡」に門弟ら190名の署名を添えて延暦寺に送る。しかし、『一念往生義』を説く法本房行空や『六時礼讃』に節をつけて勤める法会で人気を博していた安楽房遵西が非難の的にされた。法然は行空を破門。
元久2年(1205年)9月
南都の興福寺の僧徒から朝廷に対して吉水教団に対する提訴が行われ、翌月には改めて吉水教団に対する九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止を訴えを起こす。
元久2年12月19日
朝廷から「門弟の浅智」を非難して師匠である法然を宥免する宣旨が出される。
これでも納得しない「興福寺の衆徒は翌元久3年2月に五師三綱の高僧を上洛。摂関家に対して法然らの処罰を働きかけた。」
その結果、3月30日に遵西と行空を処罰することを確約した宣旨を出したところ、同日に法然が行空を破門にしたことから、興福寺側も一旦これを受け入れ、その他の僧侶に対しては厳罰はなし。
建永元年(1206年)12月
第82代、後鳥羽上皇が熊野神社参詣の留守中に、上皇が寵愛する「松虫」(松虫姫19歳)と「鈴虫」(鈴虫姫17歳)という側近の女性が上皇の許可無く剃髪出家。
更に彼女たちは説法を聞くために彼らを上皇不在の御所に招き入れ、夜遅くなったから、としてそのまま御所に泊めたとされている。
法難
建永元年(1207年)正月16日
松虫と鈴虫が出家し尼僧となったことに加え、男性を自分の不在中に御所内に泊めたことで後鳥羽上皇は激怒し、建永2年(1207年)2月、専修念仏の停止を決定。
住蓮房、安楽房、西意善綽房、性願房の4名が死罪。
同月28日
怒りの治まらない上皇は、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子を流罪に処した。
承元元年(1207年)12月
法然赦免。
文応元年(1260年)7月16日
日蓮さん(以下、日蓮)が文応元年(1260年)7月16日に北条時頼に立正安国論を提出。
この時の天皇は第90代、亀山天皇(在位:正元元年11月26日(1260年1月9日) - 文永11年1月26日(1274年3月6日))
同年8月27日
浄土教系の念仏者たちによって草庵を夜間襲撃される。松葉ヶ谷の法難
--------------------------
●以下は私の想像が含まれます。想像にほとんど根拠はありません。
1.日蓮は53年も前のことを蒸し返している。
2.仏教学における、専修念仏批判は「延暦寺奏状」「興福寺奏状」に既に存在して、日蓮の批判は目新しいものではない可能性が高い。
→歴史的経緯から「延暦寺奏状」「興福寺奏状」は多くの僧侶間で理解されていた模様。
3.日蓮は天台系の僧侶であったにも関わらず、どの僧侶とも連携していない。
「興福寺の衆徒は翌元久3年2月に五師三綱の高僧を上洛させ、摂関家に対して法然らの処罰を働きかけた」これを知らなかった?
→現代人でいうところの上流階級の思想的な現状調査や根回しが日蓮になかった。
客観的、複数人必要とした五師三綱の高僧達でようやく摂関家に対し説得できる。
日蓮一人で 「客観的な説得力」 に欠ける。受け入れたら他宗派のメンツはどうなる?
もちろん宗教の観点で見れば、法華経信仰の上で日蓮一人でも苦難に立ち向かってゆくところが信仰者として偉いといえば偉い。
4.専修念仏は現代に残っているが、建永元年(1207年)に禁止されている。よって天皇や朝廷に「延暦寺奏状」「興福寺奏状」の理解があり、専修念仏の仏教的な問題を理解していた可能性がある。
→その後の専修念仏の広がり方は私には不明。世の中には広まってしまった?
また、「選択集(せんちゃくしゅう)を作り、この書で広く日本国中の一切の人々を迷わした」という日蓮の意見で”選択集が広まった”のは、やや不正確ではないのか?
選択集の奥書に、「九条兼実がご覧になったあとは他の人に見せないでほしい。」とある。日蓮はこれを知らなかった?
その後の日本全体における専修念仏と選択集の扱いは不明。
1155.明恵の『摧邪輪』 ( 宗教 ) - raccoon21jpのブログ - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/raccoon21jp/36604115.html
法然の敵対勢力側が権力闘争をするため、選択集を広めて問題にしようとした?
あるいは法然系の人が広めた?
法難後も法然個人が広めた?
5.日蓮と法然の意見はほぼ同一。日蓮はこれを知しらなかった?
--日蓮--------------
立正安国論より
「念仏を称えていけば必ず極楽浄土に往生出来るが、ただ五逆罪の者と正法を誹謗する者を除く」
「もし人がこの法華経を信じないで毀謗するならば、その人は命が終わってのち阿鼻地獄に入るであろう」
との釈尊の教えに迷っています。
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--法然--------------
ノート:七箇条の御起請文 - WikiArc
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E4%B8%83%E7%AE%87%E6%9D%A1%E3%81%AE%E5%BE%A1%E8%B5%B7%E8%AB%8B%E6%96%87
>『無量寿経』の第十八念仏往生願にも「仏の教法をそしるような悪罪を犯した者はこの限りではない」と記し、往生の対象から除かれている。そしった人は、その報いとして、地獄におちてしまうであろう。どうして、それを承知で愚かなことをするのであろうか。そのようなことをしてはならない。
七箇条の御起請文 - WikiArc
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%83%E7%AE%87%E6%9D%A1%E3%81%AE%E5%BE%A1%E8%B5%B7%E8%AB%8B%E6%96%87
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☆☆日蓮遺文と法然の七箇条の御起請文、ほぼ同じことが書いてある。
これに気が付かない念仏僧しかいなかったのだろうか?
とてもそうは思えないし、一人でもいれば日蓮の負け。
☆☆法然の2つの著作で一方(選択集)は部分的に取り上げて批判。
☆☆もう一方(七箇条の御起請文)はすべて無視するのは、大問題。
日蓮は七箇条の御起請文を知らなかった?法然側の反省文なので存在を知っていても日蓮が読めなかった可能性はある。
6.法然は「七箇条の御起請文」で正法を誹謗しないと誓っている。流罪法難は専修念仏、正法誹謗というより、弟子の過ちに起因する。2,4同様に日蓮と同時代の朝廷や各宗派が「七箇条の御起請文」を理解していた可能性がある。
創価学会員の、宿業、罰、正法誹謗のイメージは明らかに間違いでは?
しかも、法然は流罪を許されている。
それにケチをつけたら、天皇、朝廷など様々な勢力にケチをつけているのと同じ。敵とみなされても仕方ないかもしれない。
7.立正安国論で武家や公家を説得出来たとしても、専修念仏(など)を捨てさせ、具体的に法華信仰を納得させる手段などに欠けている。民衆への対策は何もない。日蓮の意見は上の人間が信仰を改めることが第一歩、なのだろう。
8.法難の経緯を考えると、法然、比叡山、天皇、公家など念仏信仰の僧だけでなく公家、武家の複雑な関わりを無視した意見に見えてしまう。
☆☆立正安国論には 「法然の法難の経緯が全て書かれていない。」
☆☆1207年当時の法難を、人の記憶と記録で調べられたら、日蓮の意見は全く通用しないと思われる。
純粋に信仰だけが問題で、信仰の過ちが権力の敗北につながると考えていた日蓮なので、書き方としては理解できる。が、
例えば「興福寺の衆徒は翌元久3年2月に五師三綱の高僧を上洛させ、摂関家に対して法然らの処罰を働きかけた」これが抜けている。
また、数百年前の昔の中国の仏教文献を調べて読むのが僧侶の仕事。加えて伝承することも。日本国内の50年前の仏教文献もまた然り。つまり幕府など受け取った側で過去の調べは簡単についたのではないか?経論釈の論文として日蓮遺文は説得力に欠け、また大きな問題がある。幕府側で既知か調べがついたことで黙殺。むしろ日蓮は笑われたかもしれない。
日蓮の意見は目新しくもないし、経緯が全て書かれていない、「延暦寺奏状」「興福寺奏状」からすれば不足していた可能性が高い。
膨大な仏教経典や経論釈があるのに、「立正安国論程度の短さ」の文章で、部分的に安易に批判されたら、どの宗派でも怒って当然。(笑) 立正安国論の無視や日蓮の扱いについて、邪宗の僧侶ガー、邪宗の害毒ガーって正宗系の意見はアホですな。(笑)
僧兵がいて、各勢力が拮抗している状態。立正安国論みたいなものを表で大事にしたら、それこそどこかの勢力に肩入れすることになり、内戦になりかねない。
9.日蓮は経典を引用しているので一応の根拠はあるが、現証においてすべての説明が付かないことを当時の人々は気がついたのだろうか?どう思ったのだろうか?
10.8の傍証
鎌倉時代 京都から鎌倉まで早馬で何日かかったか? | レファレンス協同データベース
『世界大百科事典 23巻』(平凡社 2009改訂版)p.25の早馬の中に以下のような記載があった。「1261年(弘長1)東海道の宿々に2疋の早馬を常備させたが、その最短速度は、鎌倉・京都間で3、4日、京都・博多間が6、7日ときわめて速く」
立正安国論提出から法難まで、一ヶ月程度の十分な時間があり、京都に調査依頼をして返事をもらうだけの時間がある。
--------------------------
●歴史的経緯を調べた感想。
上皇が寵愛する「松虫」(松虫姫19歳)と「鈴虫」(鈴虫姫17歳)という側近の女性、と書きましたが名前などは後代の創作かもしれません。
明恵さん、及び日蓮の遺文から、専修念仏が広まっていたのは事実のようです。北条時頼など、立正安国論を受け取った側が読んで日蓮のいうとおり、同じ目線で問題視出来たかは非常に疑問です。
禅宗など、法然系念仏、天台系念仏の仏教学、法然の法難の歴史的経緯これら両方が武家などに理解されていたであろうと私は想像します。
日蓮は純粋に信仰だけが問題で、信仰の過ちが権力の敗北につながると考えていたようです。
「仏法は体のごとし世間は影のごとし体曲れば影ななめなり」
権力闘争に負けて死んだら信仰もへったくれもない、これが彼らにとって現実だったのでは?
現代の創価学会と日蓮正宗の権力争い、信徒の取り合いも純粋な信仰の対決でないところが笑えます。
両方共に教団トップの 「既得権益の拡大」 「豪華な生活」 のためです。
日蓮の批判対象の各勢力も「既得権益の拡大」はしていました。
本当に信仰に力があるなら、お釈迦さんのように他人を幸せにしてあげてから入信させればいいのに。(笑)
それと日蓮は一般庶民を責めるのでなく、目上の人々に意見を言って公場対決を望んでいます。
法然も部下が失敗した責任をおっています。
部下の失敗や退転を個人のせいにする池田大作や日顕氏はいかがなものかと思います。
部下の失敗や退転は池田大作の宿業や邪宗の害毒なのでは?
日蓮の法然批判は天皇、朝廷、幕府に都合の悪いものだった可能性が高いです。ただでさえ武家の権力争いがある中で、天皇、公家、比叡山、武家などの権力が拮抗していたのに、「俺の言う法華信仰をしないと恐ろしいことが起こるぞ!」ではどこかの勢力に口実を与え、余計な混乱を招くだけでは?
それでも蒙古襲来の予言が偶然、当たったので、ようやく注目されたのでしょう。
歴史をたどると、日蓮が、後鳥羽上皇か土御門天皇の子供ではないか?という説があることに頷けました。もちろん証拠は何もなくその説を否定する日蓮遺文しか証拠はありません。あくまで印象です。
安徳天皇と平家は彼ら自身とその信仰が悪いことになっていますが、後鳥羽上皇らは、どちらかというと法然だけが悪いという印象を持ちえます。
日蓮遺文は理解できるのですが、やはり禅宗や念仏は理解不足や知識不足が否めないです。どこかのお寺で往生要集、選択集をきちんとお坊さんから勉強したいなぁ。。。。。
私は念仏の家系なのに何も知らない。(^^;
参考リンク
安楽寺
1154.浄土宗非難への法然の対応 ( 宗教 ) - raccoon21jpのブログ - Yahoo!ブログ
1155.明恵の『摧邪輪』 ( 宗教 ) - raccoon21jpのブログ - Yahoo!ブログ
20150624 一部追記。
20150628 一部追記。赤文字とボールド
20150705 一部追記。10.8の傍証
いつも興味深く拝見しております。
さて、そういえば、現代でも広島県にいる「安芸門徒」といえば、浄土真宗の強硬派でありますが、元々は法華だったらしいです。それを、浄土真宗の存覚上人が議論の上に教化(日蓮系的には折伏?)したらしいです。
色々と調べると、この法華というのは、日像(日蓮の孫弟子)の系統らしいです。この時の対論が果たしてどんなものだったのか?一度ちゃんと調べてみたいと思いながら、まだ出来ておりません。
もしかすると、色々と日蓮系の不備を突いたのかもしれないですね。
こんばんは。
ありがとうございます。
私もブログ読ませて頂いております。
tenjin95さんの法然のブログ記事と私とでは意見が異なりますね。
「松虫」と「鈴虫」の件、ネットにも多く書かれているのですが、狂信だったか信仰心なのかは微妙なところです。
死罪になった僧侶は今までにない形の教えだったのは間違いないところのようです。「松虫」と「鈴虫」が、最初から純粋な信仰だったか、最初だけ熱狂的だったのか、あるいはなんの反省もなくずっと狂信的だったのかは、私にもよくわかりません。
どんな宗教でも、何かのきっかけでカルト(狂信的)になり得るのは間違いないですね。
この記事では明確に触れませんでしたが、宗教でも
「歴史を知る」
「独りよがりでなく周りを知る」
というのが大事かと思います。
特に現代であれば。。。
ところが創価公明は、これが全くないか無視か、隠蔽かのどれかです。
困ったものです。
>浄土真宗の存覚上人
この件は知りませんでした。覚えておいてコツコツと調べたいと思います。
坪井 剛
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/193557/2/ybunk00656.pdf
三綱(さんごう)
1 上座、寺主、都維那
2 上座、維那、典座
3 寺主、知事、維那
アラキラボ 【日本人の思想とこころ】
http://www.araki-labo.jp/shiso58.htm
より。
>●「選択集」への反応
>法然の専修念仏集団は、政治的秘密結社ではないか?大体、僧職にあるものに妻帯や肉食を許すということは信じられない堕落である、という非難が満ち溢れたことと思われる。
>そのため「念仏集」が世に出た翌年の正治2(1200)年5月に鎌倉幕府は念仏を禁じ、念仏僧の袈裟を焼いた。それ以降、念仏の禁令が何度も出されることになる。
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他
吾妻鏡入門第三巻
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma16b-05.htm
中世鎌倉の橋
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/shinichi/hashi.htm
例えば、『鏡』の正治二年(一二〇〇)五月十二日条には、次のような事件が記されている。当時の将軍源頼家が仏教の一宗派である「念仏」を禁止したため、家臣が僧侶十四人を捕らえて「政所の橋」まで連行し、そこで袈裟を剥ぎ取って焼いたという。見物の者が群れ集まり、みな口々に非難したという。
橋で僧侶の袈裟が焼かれたのは、そこが人の集まる公開の場所であるということと、さらには橋が本来刑場という性格を持っていたから、とも考えられる。
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あ、変わったと言えば、より抽象的になり、こむずかしい理屈をこねくりまわしているが、まったくもって一切現実生活の役には立たないことくらいですかね(笑)
昨年11月の教義改正があったのに、まだ学会員なのですか?
驚きです。
nanaさんとtabukenさんの罵倒のお陰で、ある一面だけですがマインドコントロールが解けました。そのことだけでも学会をやめてよかったと思います。
他にも学会をやめるべき理由は、たくさんありました。ソレが今の私のブログです。
ここ最近の法然の選択集記事の評判はよく、文証においても日蓮遺文の信用は失われたと思います。
正宗も学会もカルトであって 「非宗教」 です。間違いはあっても日蓮さんの 法華信仰 釈迦信仰 これらの 「宗教性」 を私は認めています。但し、大聖人と呼ばれるほど名僧ではないと思います。
宗教とはいい加減なもの。お釈迦さん滅後は日蓮を含め、誰もが勝手な解釈をしているにすぎません。
日蓮さんに責任はありませんが、中国の経典から創作の偽経、勝手解釈の論釈があったのは事実です。
想学談林-管理者の部屋
http://sougakudanrin.blog.shinobi.jp/
富士門流信徒の掲示板
http://jbbs.shitaraba.net/study/364/
犀の角のように独り歩め
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/
少しだけアドバイスさせて下さい。
「人に嘘を教えていいはずがありません。
教団都合の嘘から少しでも離れましょう。
一番いいのは宗教に依存した分、きっぱりと宗教をやめるのがベストです。
2番めは、先祖の宗派に戻ること。
3番めは、どうしても法華信仰、日蓮信仰がしたいのならは、天台法華か日蓮宗に行ったほうが、"恐怖"と"怒り"のマインド・コントロールから離れて楽になれます。
あなたがこれから知り合うであろう、愛すべき、あるいは大切な人に
嘘を教えるか否か
どうするかは、あなたの自由です。
嘘を言うのも
嘘を嘘と信じるのも、
嘘かどうかを調べるのも、、、、あなたの自由です。」
ではでは
創価学会嘘つき@そううそ
私はお釈迦さんの教えを突き詰めたわけではありませんが、宗教とは違い限りなく宗教ではないという考え方があり、それに賛成です。なので仏道修行という。
お釈迦さん滅後は、仏道修行とは言いますが、何かの宗教でしょう。
信じる、という行為が原始仏教になかったのは過去記事のとおりです。