創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

195.MC論は創価を批判するのに有効な反論材料

2007年05月12日 03時04分11秒 | 創価学会
 メールにて私に個人的にご指摘頂き、そのおかげで創価批判が新たに思いつきました。

1.「MC,MCと言い続けるのはおかしい」
2.「自立するために、基本となる思想とその思想を応用展開する各種の知識が必要。」
3.「最近では創価学会も「自立の力」なんて広告を公に示しているが、なにをいわんや無理でしょう。」

2と3は賛成であり、1は反対の立場です。

●先に結論だけ。

基本的にMC論は創価を批判するのに有効な反論材料になります。
創価思考ぽく言えば有効な武器になる、と言えばいいでしょうか?

MC論の本を読んでおけば創価学会に新に入信する可能性は低くなると思いますし、MC論を知る事で退会できるか、また退会後、リハビリが迅速に進む可能性が高くなると思います。

但し、私の個人的な感想ですが、MC論を攻撃手段、道具として用いてはならない?ようです。私自身、見極めが良く出来ていないのでストレートにMC論で創価非難や攻撃(批判でなく)をしてしまうかもしれません。

●CMCの証拠は私とブログ。

CMCの証拠は私であり、ブログです。また、すぐに人に怒り、罵倒、誹謗中傷をする学会員や退会者もそうだと私は考えています。

私は今までブログで創価学会の体験を書いてきましたが、私の発言はMC論からしても当てはまるところが多数有ります。
私が問題ある創価思考を抱えている、というのは過去の記事やコメントで書いてきましたからご理解頂いていると思います。
ですから、私自身が「創価のMCの結果として出来た問題のある人間」なのです。証拠は私自身でもあり、ブログでもあります。

MC論を理解しておく事により、私のブログが体験だけでなく理論が加わります。
他の宗教団体にも当てはまるMC論で有れば、普遍性があるといえると思います。

もう一度貴重なコメントを引用しますが、「宗教のアウトプットは人」なのです。
その人が素晴らしく信仰していれば素晴らしい人がアウトプットになるのでは?(例えばLibraさん、kousan?)

はったりの皆さんもMCが薄い人が多いと私は思っています。(はったりが無くなってもingであり現在進行形です。)
ですからまた元のように和解し友として仲良くして欲しいですね。

CMCや問題のある依存が私に有ると思います。3は肯定し、確かに2は必要でしょう。(後述)(あ!久々に後述を使った(笑))

●私の中では創価はカルト。

MC論の書籍を読めば分かりますが、他のカルトと同じ傾向が創価学会に見られます。
「マインド コントロール」「マインド コントロール 恐怖」「マインド コントロール 何か」で検索してみて下さい。ネットにも多数、書かれています。

カルトに傷ついたあなたへ

私は創価に入信したので「創価のMC」に限定して書きますが、MC論はどのカルトにも当てはまるようです。(私は今後、創価のMC、普遍的なMC、と分けて書くかもしれませんし、一緒に書いてしまうかもしれません。なんにせよ書けるのは創価学会のMCだけですので。専門家は創価を議論ある団体と呼ぶようですね。)

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心のリハビリの具体的な方法について:http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8368/1174354195/136
次に、MCということで、「創価のMC」という言葉をしばしば見かけます。
これはMC論の無知から来る誤解された表現です。
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創価学会の彼女との関係:摂理と創価学会とカルト - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/canary_wind/archives/50618685.html

体験談で入信を迫られる場合は?創価の人のMCを解くには?
創価のMCを解くには? その2

このように他の宗教団体と同じカルトな性質を創価は持っていると思います。

ではどういう悪影響があるんでしょうかね?2と3にあるように「自立できない、思考停止」などですね。

●自立できない、思考停止など。。。

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同上:http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8368/1174354195/60
「マインドコントロールは、露骨な物理的虐待は、ほとんど、あるいはまったくともなわない。そのかわり催眠作用が、グループ・ダイナミックス(集団力学)と結合して、強力な植え込み効果をつくりだす。本人は、直接おどされるのではないが、だまされ、操作されて、決められたとおりに選択をしてしまう」(P109)
自分で選択したと思わせて、他人に意図されたように選択してしまう習性、この点が一番問題になります。
この場合、「自己選択を認めたから」というのは、通り一遍の有様です。
その前段階があります。自己決定が、本当に自分でしたことなのか、操作されたのかを見極める能力の獲得ということです。
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 創価学会員及び退会者に思考停止や創価思考、「他者への暴言や誹謗中傷」(攻撃)の傾向があると私は思います。
自立できなかったり依存が強くなったり、上記の攻撃傾向があると思います。
退会した後の人に、ぶれ、や 揺り戻し、が大きく、また出やすいのかもしれません。

次々と人の揚げ足取りや次々と敵を作ったり、次々と罵倒するのは明らかに問題のある思考、体質です。創価思考、カルト思考でしょう。(某BBSがそうでしょうね。)

私に依存心が強い事は、私のブログコメントでも学会員さんにご指摘され、私も認めています。では、どうすればCMCから自立できるのでしょうか?

確かに””人間が””「自立するために、基本となる思想とその思想を応用展開する各種の知識が必要。」だと思います。

●MC,MCと言い続けるのはおかしいのか?

○自立がテーマ。

2の主旨は自立の妨げになるためにMCは不要。MC教となってしまうので駄目だ、不要だ、という文脈ですが、そうではなく、必要です。

証拠その1。
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本の紹介
http://www2.ocn.ne.jp/~mind123c/sub11.htm
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MCの本やサイトを多少読めば分かりますが、ここを見ても分かるように「自立への苦闘」「第3章 脱会して自立するまでがたいへん」とあるように「自立」がテーマです。

証拠その2
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同上:http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8368/1174354195/94
推薦のことば 滝本太郎
序文 中澤啓介
はじめに パスカル・ズィヴィー

 6章 リハビリテーション―元メンバーのために<パスカル・ズィヴィー>
(中略)
  5 自分で考えて決める
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このように自分で考えて決める事がテーマです。

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同上:http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8368/1174354195/19
カウンセラーが「神様」のようになり、あたかも新興宗教の教祖のようになる、という指摘はかなり以前からありました。こういう危険性がカウンセリング過程には多かれ少なかれ内在していると考えます。

カウンセリングには多くの危険性もありますが、その一つはクライエントが依存的になる、という事です。これは指示的な方法だけでなく、ロジャーズ流の来談者中心療法(非指示的療法)であっても、「あの人なら自分を受け入れてくれる!」という感動から、頼ってしまうんですね。私自身もそういう経験があります。

そういう意味でなら、カウンセラーはクライエントが「自分で考える」という行動をする事を援助すべきだと思います。つまり問題を全てカウンセラーに委ねる段階から、自分で考えて解決するという段階に移行させる必要があります。

そのためにはクライエントの自己決断を尊重する、それを褒める(*行動療法的には、「強化する」)必要がどうしてもあるだろうと思います。そうしないと、自分で考え自分で決断するという習慣が育たないと感じます。
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はったりもkousanが教祖のようになってしまい、無謬を求められた気が私はしています。
kousan自身が(組織依存というより)個人に立脚した信仰を提唱していただけに非常に残念です。

○基本となる思想、各種の知識はMC論にはないのか?

「基本となる思想」
「思想を応用展開する各種の知識」
というのはMC論で研究されていると思います。

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同上:http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8368/1174354195/82
また、マインドコントロール教というものは存在しません。そもそもマインド・コントロールは教えではありません。また、MC論もMCの統計分析における研究成果ですが、ここに「信じる」という要素は不要です。事実と照らし合わせて、この論の実否があるだけです。不足は補い、間違いは訂正するばかりです。
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同上:http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8368/1174354195/85
MC論は、社会心理学上の説明ですから、もしこの点について、異論があれば、既存のMC論のどの点が統計分析と研究結果に間違いがあるのかを学術的に論じて、初めて反論となります。
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●MC教

上記の意見に賛成ですので「MC教」は私も否定します。
過去記事に書いたとおり、そううそ教はあるのですが、そううそ教になってはいけません。
カルトとMC論と心理学論が纏まっていて欲しいですね。
しかし、Mi0教、Mi0依存ではなく、Mi0さん(だーれだ?(笑))にMC論を学ぶ事は問題ないでしょう。
(記事を沢山書いてねっ!ってお願いするのはOKでしょ?(笑)(^o^)/)
過去記事に書いたとおり、詳しい人や体験者、専門家の意見は重視した方が良いと思います。

●私はMCを全肯定していません

 一部否定する理由は今は書きません。ゆっくり考えたいと思います。
一つだけ書くとすると、友岡雅弥氏やkousan、Libraさん、メメさん、などなどの良き宗教者が必要だと痛切に感じている、という結論だけです。
また、一個人や組織のどちらにも時間的な歴史や過程の問題もあると思います。

また、私自身が専門家から指摘された事ですが、「何がMCなのかわかっていないといけない。また、対処のしようがない」と言う事だそうです。
ピンと来たようでも有り、来ていないようでもあります。(笑)(^_^;A
私は何かまだ分かっていない事があるようです。

●何を捨て、何を得るのか?

これは創価学会員のgizmoさんの削除されてしまった旧ブログに書かれていた事だと思いますが、
「創価退会して全てを捨てようとする人がいるが、創価で学んだ事を全てを捨てる必要はない。」(主旨)
というのがあったと思います。同感です。
自分が創価の中で学んだ事や出来た人脈など全てを捨てる必要はないと思っています。

悪しき創価思考、悪しき創価教学、悪しき学会員(挨拶や礼儀、謝罪の無い人)は問題があるのですから、距離を置く必要はあるでしょう。
私の紹介者の某君は論外ですね。

捨てる物、持ち続ける物は一人一人違うと思います。

以上
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29 コメント

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少しMC論について勉強してみました (Libra)
2007-05-20 02:39:39
 そううそさん、こんばんは。

 わたしも少しMC論について勉強してみました(以下のコメント以降を参照されてください)。

  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-9.html#comment77

 「CMCの証拠は私であり、ブログです」、「私の発言はMC論からしても当てはまるところが多数有ります」とのことですが、そううそさんは、創価学会が用いているテクニックのうち、具体的にどのようなものをさして「CMC」とおっしゃられているのでしょうか。

 創価学会の創立者は牧口常三郎です。【牧口の思想】(以下の資料を参照)と【MCの布教への利用】とは対極に位置するようにわたしには感じられるのですが、そううそさんはどのようにお感じになられますでしょうか。

  信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)
  http://fallibilism.web.fc2.com/024.html

追伸
 そううそさんには、わたしの本尊論に対する批判を大いに期待していますので、そちらのほうもよろしくおねがいいたします。もちろん、MC論がおちついてからでけっこうです。
返信する
Unknown (そううそ)
2007-05-20 20:52:05
こんばんは。Libraさん

>そこで迷信に陥る事が少くなつた代りに、迷信でないとする信仰にも、自ら無条件に服従する事が出来なくなつたのは、止むを得ない当然の勢で、今更如何ともすることの出来ないものである。

質問を頂いたのに質問で申し訳ありません。
「迷信でないとする信仰」が具体的に何を指すとお考えでしょうか?

なお、上記のお返事に関係なく今の時点で一言だけ答えを書くとすると、

>対極に位置するようにわたしには感じられる

Yesだと思います。
牧口氏の意見はMCの少ない意見だと思います。

>MC論がおちついてからでけっこうです。

私のMC論が落ち着くのを待っていると永遠にその時は来ないかもしれないです。(笑)
まだ仏教議論の方がわかりやすく(こんなことを書くとLibraさんをはじめとして富士門流信徒の皆さんからも「いや!そううそは仏教も初心者だから!」と言われ笑われてしまいそうです。事実なのですが。(^o^)/あっはは)

「今の私にもMC論のほうがとっつきにくい、」です。
返信する
Unknown (そううそ)
2007-05-20 21:46:23
牧口氏の宗教観がどういうものであったのかは私も全くと言っていいほど知りません。

牧口氏→戸田氏→池田氏→北条氏→秋谷氏と世代事に創価の教義をMC論から見ていくほうが、私やLibraさんにとってもMC論を理解しやすいのかもしれません。

如何でしょうか?

>創価学会が用いているテクニックのうち、具体的にどのようなものをさして「CMC」

実はこれについてですが、MC論に当てはまるとは気がつかずに既に私のブログにも書かれています。何処まで書こうか悩みます。
返信する
そううそさんへ (Libra)
2007-05-21 01:07:12
 そううそさん、こんばんは。

 前掲の資料における牧口の「信仰」という語の使い方には、わたしも以前から問題を感じていました(全体の流れから、牧口が言いたいことは十分に伝わる文章だとはおもいますが)。その資料において、牧口は、いくつかの異なる概念を、同じ「信仰」という用語で語ってしまっているように思います。

 最初のところでは、【自分で十分に考えることなく他人の考えを無条件に承認してそれに服従するという態様の人間の行為】をさして「信仰」といっているようにおもいます。「信仰的模倣時代」という時の「信仰」というのはこの意味でしょう。

 また、「迷信でないとする信仰にも、自ら無条件に服従する事が出来なくなつた」といわれている部分の「信仰」という語は、ある種の【人間の行為の対象】をさしています。おそらく、【人間が主体的に選び取る対象としての宗教】というほどの意味だろうとおもいます。「迷信でない」というのは、最後の段落を参照しますと、【実社会、実生活にあてはめてみて差しつかえないと見なされ、実験証明を経ているといいうるような知識である】というような意味ではないでしょうか。

 あと、「創価の教義をMC論から見ていく」というのは少しヘンではないでしょうか。教義を信じこませるための手段としてMCというテクニックが使われうるのであって、MCじたいは教義には含まれないとおもいます。【教義を信じこませるための手段としてどのようなテクニックが使われうるのか、また、実際に使われているのか】ということを論じるのがMC論なのではないでしょうか。

 とはいえ、信じていた教義じたいが、牧口と戸田では異なっているというのは確かだろうとおもいます(戸田以降の教義は「宇宙生命論」だとおもいます)。しかし、【教義の変遷】と【教義の宣伝方法の変遷】は、いちおうは分けて議論すべきではないでしょうか。両者に関連性を指摘できる場合もありうるでしょうが、その場合でも、概念としては両者を区別した上で、それらの関連性として議論する必要があるようにおもいます。
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Libraさん (ナウシカ)
2007-05-21 20:07:54
>あと、「創価の教義をMC論から見ていく」というのは少しヘンではないでしょうか。教義を信じこませるための手段としてMCというテクニックが使われうるのであって、MCじたいは教義には含まれないとおもいます。【教義を信じこませるための手段としてどのようなテクニックが使われうるのか、また、実際に使われているのか】ということを論じるのがMC論なのではないでしょうか。

ああ~なるほどと思いました。
私も言葉に上手くできなかったけど、そんなことを漠然と思ってました。

確かに、テクニックが結果的にMCになってるかもしれませんね。
その同じテクニックを使っても、MCになる人とならない人がいると思います。

また牧口、戸田、池田会長それぞれで教義が変わるというのもあるかもしれないと、最近では当たり前に思うようになりました。
以前はそこまで深く考えたこともなかったんですが。

時代時代の事情というものもあるでしょうが、最後は普遍的なものだけが残っていくのかなと思いました。
返信する
お二人のご意見 (みれい)
2007-05-22 09:02:08
>教義を信じこませるための手段としてMCというテクニックが使われうるのであって、MCじたいは教義には含まれないとおもいます

同感です。

教義の内容も、信じる人と信じない人がいます。
それを信じ込ませるテクニックがMC論で考えられる
ということですね。

ナウシカさんの
>牧口、戸田、池田会長それぞれで教義が変わるというのもあるかもしれないと、最近では当たり前に思うようになりました。
以前はそこまで深く考えたこともなかったんですが。

これ、興味深いですね。
返信する
みなさん、こんばんは。 (Leo)
2007-05-23 00:08:32
『小説人間革命』第一巻には(戸田氏を借りた?戸田氏(監修?)の?)牧口氏批判が含まれてます。

「牧口の価値論から入った、大善生活を思うとき、そこには、彼独特の、倫理的臭味を帯びてくる。さらに、大善生活の実践のために大御本尊を仰ぐ時、大御本尊は、価値論の範疇に入ることになってしまう。
―ここに摧尊入卑のきらいが影となって射して来るようだ。戸田は、出獄以来、ひとまず価値論を引っ込めた。そして、南無妙法蓮華経そのもの自体から出発したのである。それは、幾多の苦難の歳月を経て、身をもって体験した確信からであった。
 彼は、価値論を、現代哲学の最高峰であるとは思っていた。…しかし、大聖人の大生命哲理からするならば、時に『九重の劣』とすら思えた。」
(『小説人間革命』第一巻)

で現在は「大御本尊」は目の前になく『小説人間革命』時代の正宗至上主義もないわけです。

風刺をするつもりは全くないのですが(会のメディアを拝見する限り)第三代会長がいちばんすばらしいというのが現在の普遍になっているということはないでしょうか。
(もし間違っておりましたらご教示いただきたいと思います)

また、『小説人間革命』には他の宗教の道場破りのようなことをしてはいけないとか、集団で行進してはいけないとか、選挙違反は気をつけなければいかないとか過去の過激な行動をたしなめる文章もあります。
(過激度はそれなりに低下はしているのだろうと思います...)

指導者を監督とすると監督のカラーがあって当然だとは思います。
(初代、二代は一応実務でも教育者であったのですが...)

これは個人的見解ですが指導者と無関係なところに普遍があるのだと思います。
返信する
訂正 (Leo)
2007-05-23 00:13:02
>『小説人間革命』第一巻には(戸田氏を借りた?戸田氏(監修?)の?)牧口氏批判が含まれてます。

『小説人間革命』第一巻には(戸田氏を借りた?池田氏(監修?)の?)牧口氏批判が含まれてます。

ビデオもインターネットもなかった時代に小説で指導(情報操作)するというのはなかなかのテクニックだったと思います。

(というか私が判断力なかっただけか?)
返信する
みなさん、こんばんは。 (Libra)
2007-05-23 01:15:29
┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬

○そううそさんへ
 「私のMC論が落ち着くのを待っていると永遠にその時は来ないかもしれないです」とのことですが、西田先生のMC論(社会心理学の応用理論)に限定すれば、その輪郭を正確に理解することはそれほど難しくないようにおもいます。
 いきなりMC論にチャレンジするよりも、社会心理学の教科書(チャルディーニ『影響力の武器』がよいようです)から入ったほうがよく理解できそうな気がします(わたしは読んでいませんが、読んでみたいとはおもいました)。
 同じ「MC」という語のもとに、異なる(ときには互いに矛盾する)内容の理論が語られていることがあるようなので、その点は注意が必要だろうとおもいます。それらの全体を1つの理論として体系的に理解することはそもそも不可能でしょう。その【そもそも不可能】なことを無理にしようとすれば「とっつきにくい」というようなことになってしまうでしょう。

┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼

○ナウシカさんへ
 わたしも最近になってやっとMC論の輪郭を理解することができました。以下のような西田公昭先生のご説明がとてもわかりやすかったです。

  西田公昭講演『マインドコントロールとは何か』
  http://www.asahi-net.or.jp/~am6k-kzhr/nisida.htm
  
  マインド・コントロール論再考(西田公昭)
  http://nursing.u-shizuoka-ken.ac.jp/~nishidak/MCrevise.htm
  
 MCを使っているからといって、そのことからただちに、それを使っている集団が「破壊的カルト」であるということになるわけではないという西田先生のご指摘も重要だとおもいました。

───────────────
…マインド・コントロールを使うから破壊的カルトという定義はない。破壊的カルトは、反社会性をメンバーに隠蔽して反社会的活動する集団である。その隠蔽のためにマインド・コントロールを使うことが多いというだけである。破壊的カルトはマインド・コントロールをその反社会性を隠蔽するといった、その程度を度外視して悪用するのである。一方、マインド・コントロールを反社会性のない行為に対して使う場合もあろう。たとえば、まず、本人の意志もそうされることを望み、第三者にも迷惑をかけず共に繁栄をもたらすものであれば、破壊的カルトとは呼ばない集団になる。…結果の反社会性ないし社会常識を越えた心理操作の程度に注目すべきだ。

(西田公昭「マインド・コントロール論再考」、
http://nursing.u-shizuoka-ken.ac.jp/~nishidak/MCrevise.htm
───────────────

┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼

○みれいさんへ

 コメントありがとうございました。

 わたしはMC論について勉強しはじめてからまだ日が浅いので、間違ったことをたくさん書いている可能性が大いにあります。間違いに気づかれましたらご指摘ください。よろしくお願いいたします。

┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼

○Leo さんへ

 『小説人間革命』に牧口批判があるというご指摘はとても興味深いです。またいろいろ教えて下さい。

┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴
返信する
Libraさんへ (そううそ)
2007-05-23 21:26:35
>創価学会が用いているテクニックのうち、具体的にどのようなものをさして「CMC」とおっしゃられているのでしょうか。

マインドコントロールとは何か? 西田公昭 著
に書かれていることがほとんど全部当てはまります。私のブログにもいくつか書いています。創価学会の場合は犯罪行為をしないが、犯罪スレスレのことならいくらでもする。という私の認識です。顕正会が拉致監禁で刑事事件になったことはつい最近のことです。

 「破壊的」ということも当てはまると思います。人格や心、日常生活、友情の破壊は私のブログにも書いてあることです。犯罪的でなくとも破壊的、といえると思います。

 日本におけるカルト論としては人数が多い事もあり、カルトの基準を創価学会に焦点を当てて厳しく定義する必要があると思います。
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