甍の上で

株式会社創瓦 社長 笹原真二のブログです。

朝夕が、涼しくなって、窓も締め、床に入れば、秋が来たなと。

2017-09-01 06:50:55 | Weblog
  これからも悪あがきは続けていくよ
 25日、24時間テレビで「時代をつくった男・阿久悠物語」(阿久悠没後10年記念ドラマ)が放映された。昭和を代表する作詞家、Jポップスから、フォーク、演歌、コミックソング、アニメソング、CMソングと多岐にわたる。「開けポンキッキ」のポンキッキ体操の歌も阿久悠さんの作詞だという。
 尾崎紀世彦の「また逢う日まで」で、作詞家「阿久悠」という名前を知った。「悪友」を「阿久悠」に当て字?遊び心のある面白い名前だと思った。
1971年日本テレビのプロデューサー池沢から「テレビからスターを生み出したい!」と新しいオーデション番組の立ち上げから参加。阿久はオーデションのすべての過程をガラス張りにして放送するという今までにないスタイルを提案。それが「スター誕生」という番組の始まりだったという。
「スター誕生」をリアルタイムで見ていた。森昌子、桜田純子、山口百恵、岩崎宏美、ピンクレディーが、この番組から文字通りスターになって行った。
森昌子を演歌で売り出すという事務所に対して、阿久は中学生に女の情念を歌わせるのはうそになると言って、「淡い初恋消えた日は・・・」の「先生」という歌が生まれた。ピンクレディーは最初、赤い鳥と紙風船を一緒にしたような「白い風船」という名前でフォーク路線を目指していたという。しかし。阿久悠と作曲家の戸倉俊一が今までと違ったものではないと駄目と。だから、デビュー曲「ペッパー警部」は、「テーマパーク」をイメージして創った楽曲だと言う。確かにピンクレディーは歌って踊って、ジェットコースターに乗っているみたいな歌だなと改めて感心した。審査委員の松田敏は、短いスカート、足を大きく広げる大胆な踊りに眉を顰めたが、ピンクレディーのガニマ股パカパカダンスは小学生から火が付き日本国中を席巻していった。ちなみに名前は、戸倉俊一が飲んだカクテルの名前「ピンクレディー」が由来だ。
山本リンダ「どうにも止まらない」ペドロ&カプリシャス「ジョニーへの伝言」都はるみ「北の宿から」石川さゆり「津軽海峡冬景色」沢田研二「勝手にしやがれ」「時の過行くままに」岩崎宏美「思秋期」ピンクレディー「渚のシンドバッド」「UFO」「サウスポー」等々。本当に一人の人が書いたのだろうかというような様々なジャンルの歌が70年代という時代を切り開いていった。
80年代に入ると、阿久の出番が少しずつ少なくなっていく。それでも、八代亜紀「雨の慕情」西田敏行「もしもピアノが弾けたなら」森進一「北の蛍」と、その時代を代表する歌を発表。バブルが始まったころの86年、河島英吾「時代遅れ」を出した時、「これからも、悪あがきは続けていくよ」と。バブルという時代の中、「時代遅れ」は5年もの歳月をかけてヒットしていったという。この歌はバブルという時代のの違和感を、阿久悠さんが我々に伝えようとしていたのかもしれない?・・・「阿久悠物語」から 平成29年8月28日  笹原 真二
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