甍の上で

株式会社創瓦 社長 笹原真二のブログです。

日常の 小さな変化に 蝶が舞う 思い膨らみ 大きな波に 

2022-04-26 18:51:12 | Weblog
カラーフィルムを忘れたのね

「波乱に満ちた挑戦的な16年間でした。政治的にも人間的にも全力を求められた充実した日々でした。妬んだり悲観したりせず希望を持って目的に向かえば、未来は必ず開かれる。私はいつも、このことを守って来ました。それは東ドイツ時代においても・・・その後つかみ取った自由の下でも・・・」
                                           2021年12月2日

 NHKの映像の世紀バタフライエフェクト「ベルリンの壁崩壊 宰相メルケルの誕生」は、日常の小さな変化がもたらす感動の物語だった。

 1974年、東ドイツの音楽チャートを席巻する大ヒット曲が生まれた「カラーフィルムを忘れたのね」人気シンガー ニナ・ハーゲンは、「この景色も私も全部白黒なの・・・」と、東ドイツの灰色の世界への怒りを密かに歌に込めた。検閲を逃れた歌の意味を誰もが理解していた。

 物理学を学ぶ大学生アンゲラ・メルケルも、この歌をレコードがすり切れるほど聴いていた。「私が物理学を選んだのは、アインシュタインの相対性理論を理解するためでした。いくら東ドイツでも自然の法則を止めることは出来ないと思ったから。」

 1989年.ライプツィヒの画家を目指す大学生、カトリン・ハッテンハウアーは、世界を旅して絵を描くことが夢だったが、国を自由に出ることさえ許されない現実に我慢できずにいた。「この国が病んでいることを示したかった。」

 9月4日月曜日、カトリン達は声を上げる方法を計画する。教会は当局の許可なく集まれる唯一の場所だった。この日の礼拝終了後、前代未聞の行動に出る。教会に集まった市民に向けて旅行の自由を訴えた。はじめは戸惑っていた人たちもデモに参加してくれた。掲げたのは「自由な人々による開かれた国」

 秘密警察も黙ってはいなかった。カトリンはデモを主導した罪で逮捕され厳しい尋問を受けた。釈放後はシュタージュ(秘密警察)の監視下に置かれた。

 しかし、デモを報じるフランスの報道。当時、東ドイツの市民もそれを見ることができた。カトリン達の行動は、沈黙を強いられていた人達を勇気づけた。デモは各都市に広がり毎週月曜日に行われ、いつしか月曜デモと呼ばれるようになった。
そして運命の日、1989年11月9日、午後6時、政府の定例会見、ギュンター・ジャボンスキー政治局員が歴史を動かす失言を発する。旅行自由化について即座に発効すると、予定では翌日発効だった。ビザが必要なことも言い忘れた。ニュースは東西ドイツに同時に流れた。

 東ベルリンのボルンホルム検問所には、ニュースを見た市民が、西ベルリンに行こうと押し寄せた。何も知らされていなかった検問所の責任者ハラルド・イエーガーは上官に電話したが指示は得られない。夜9時には市民数万人に達した。「危険だったのは、こちらの誰かが、はずみで銃を撃ってしまうこと。そうしたら流血の大惨事になる。それだけは避けたかった。」
そしてイエーガーは独断で、全ての人を検問なしで出国させるよう命じた。「みんな、出してやれ」11時半ボルンホルムのゲートは開かれた。

 そこには、月曜デモを始めたカトリン・ハッテンハウアーも偶然居合わせた。シュタージュの監視の目をかいくぐり東ベルリンに来ていた。翌日21歳の誕生日を友人が祝ってくれる約束をしていたのだ。「信じがたい光景が目に飛び込んで来ました。ダムが決壊したようでした。人々の波に乗って西ベルリンに行きました。西側で私の21歳の誕生日を祝いました。人生で最高の誕生日プレゼントとなりました。

 このゲートを潜る一体の中に、物理学者アンゲラ・メルケルもいた。週に1回楽しみのサウナからの帰り道。「忘れもしない光景です。私は人の流れについて行きました。すると西ベルリンに出たのです。私はその日人生で初めて西側のビールを飲んだのです。」

 壁崩壊から3日後、亡命していたニナ・ハーゲンは、ベルリンへ駆けつけた。世界ツアーをキャンセルし、壁崩壊を祝うコンサートを開いて東西の市民を無料で招いた。

 壁の崩壊は、綴じ込まれていた人々の人生を大きく変えた。一月後、東ドイツにできた小さな政党の事務所に一人の女性が訪れた。アンゲラ・メルケル、物理学者の道を捨て政治活動に参加したいと申し出た。

「私は東ドイツをできるだけ早く立ち上がらせたいという希望を持っていた。政治の世界を選んだのは、使い古されていない新しい人々が必要とされていたからです。それに人々とより関わりのある仕事に就きたいと願っていたのです。」

 東ドイツで生き抜く中で身につけた慎重で冷静な対応力、それが評価され東ドイツ政府の副報道官に抜擢された。翌1990年東西ドイツは41年ぶりに統一を果たす。国会議員に初当選したメルケルは、いきなり最年少大臣に就任。東ドイツ出身かつ女性。新生ドイツを象徴する格好の人材と見なされた。コール首相が引き立てたため、「コールのお嬢さん」と揶揄する者もいた。

 2005年、メルケルは戦後のドイツの首相として、51歳という最年少にして初めて女性の首相になった。そして精力的に世界の指導者と渡りあった。

 2015年、メルケルは首相として最大の試練を迎える。「アラブの春」に端を発し、中東、アフリカから大量の難民が発生。ヨーロッパ各国が難民の受け入れを拒む中、いつもは慎重に物事を進めるメルケルだが、この時の決断は素早かった。「ドイツは難民を追い返さない。」1年間に100万人の難民を受け入れた。しかしメルケルの決断は、激しい反発に遭った。取り分け旧東ドイツから反対の声が上がった。経済発展から取り残された地域から、難民に仕事を奪われるのではないかという不安からの反発だった。
 
 そんな中、難民受け入れというメルケルを、熱く支持する人が現れた。26年前の、月曜デモを始め、壁崩壊のきっかけを作った画家カトリン・ハッテンハウアーは、東ドイツ出身の著名人46人に呼びかけ新聞に公開書簡を掲載した。

「私たちは国を開いているあなたの政策を支持します。あなたの難民支援策に大きな尊敬の念を抱きます。ヨーロッパを、閉ざされた島にしてはいけない。「自由な人々による開かれた国」このことが私達の挑戦であり、責任なのです。」

「親愛なる国民の皆様、1989年東ドイツで、毎週月曜日に、何十万の人々が、子供達に恐怖の中で育つことを強いた独裁制に対して反対の声を上げた。今、戦争と危機の結果、多くの人が文字通り死と隣り合わせになっています。私達の国に保護を求める人々を助け受け入れることは、当然のことなのです。」とメルケルは理解を求めた。

 昨年、67歳になったメルケルは16年間の首相の座を降りた。退任式では、首相が望む曲を軍の音楽隊が演奏し送られるのが恒例となっている。しかしメルケルが選んだ曲に楽団は慌てた。荘厳の場にふさわしい曲でもなければ楽譜があるかどうかも疑われる曲だった。

47年前ニナ・ハーゲンが歌った「カラーフィルムを忘れたのね」

「この曲は、私の青春時代のハイライトでした。いろんなことが私の体験と重なっているのです。東ドイツ時代に味わった、独裁制や、秘密警察に寄る盗聴の経験から、民主主義は私にとって特別なことであり続けています。この国に自由が向こうからやって来たのではなく、私達が勝ち取ったものです。その裏には、旧東ドイツで危険を冒してまでも自由と権利のために戦った人がいました。だからこそ私達は、民主主義を守らなくてはなりません。民主主義は、いつもそこにあるものではないのです。」                             2021年12月2日
   
     4月18日 NHK 映像の世紀バタフライエフェクト
「ベルリンの壁崩壊 宰相メルケルの誕生」から抜粋
             令和4年4月28日      笹原 真二

 追伸   45分間の番組は、加古隆のテーマ曲「パリは燃えているか」の荘厳な旋律と歴史が動いた一コマ一コマの映像が相俟って心が揺さぶられるような物語でした。録画することも忘れて見ていました。NHKプラスを見ながらこれを書き上げましたが、何度見ても目頭が熱くなります。本当に感動の物語です。必ず再放送があると思います。見ておられない方がいたら、その時は是非見逃さないでください。本当に歯がゆいですが1日も早くウクライナに平穏な日が戻ることを祈ることしか出来ません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする