甍の上で

株式会社創瓦 社長 笹原真二のブログです。

大仕事、終えて束の間 軽くなる 連なる山は まだまだ続く

2019-05-29 08:59:57 | Weblog
    平成令和の大仕事 

 3年前、当てもなく軽トラで、鴨方、里庄、笠岡と飛び込み営業に回っていた時、通りがかった道から(笠岡市大島)、壁は白のペンキで塗られた鎧打ちの板塀、屋根は寄棟、和風の要素を含んだモダンな隅鬼とエブリ鬼、本瓦葺(平瓦と丸瓦の組み合わせ)で葺かれている瀟洒な家が目に飛び込んできた。百年くらい前の建物だろうなと思いながら行ってみると、その建物は小さな川に面していた。離れのようで、南側には、大きな入母屋の母屋があった。屋根は本瓦葺き、棟には1尺5寸近くあろうかと思われる瓶付の鬼瓦が使われていた。

 離れの西に蔵があり、東には小瓦の桟瓦で葺かれた背の高い一本柱の塀が、西にはさほど背は高くはないが、門のところで折れ曲がった塀が同じ小瓦で葺かれていた。その折れ曲がったコナーの隅部分、谷部分は、この塀のためだけに特注で作られた廻り隅瓦、谷隅瓦が使われていた、雨漏りがしているようで傷んではいたが、百年前、そこまでの瓦を作ってこの家の仕事をした職人の心意気に心が動かされた。

 門は、お寺の山門のような、やはり本瓦葺き。一枚扉の欅の板に亀裂が入っていない。欅の一枚扉は大抵の場合は経年変化によって、年輪に沿って亀裂が入るのだが、その亀裂が無かったことは大きな驚きだった。この門と塀だけで、立派な母屋普請が出来るくらいだ。
家に圧倒され、呼び鈴を押すのを躊躇って帰ろうとしたのだが、やはりこの家を見ていると、もし下手な瓦屋がこの家の仕事をするようなことになれば・・・家自体が台無しになる。それならば、「うちが仕事をさせてもらった方が、お施主様のためになる!」と思って勇気を出して呼び鈴を押した。そこへ、奥さん(松枝さん)が帰って来られた。

 パソコンで作ったパンフレットを渡して、「もし、屋根替えを考えられるときは声をかけて欲しい」とお願いした。その年の暮れには忘れられないようにとカレンダーを持って行った。翌年の暮れもカレンダーを持って行った。

 昨年の3月、松枝さんから、見積もり依頼の電話があった。見積もり依頼があっただけで嬉しかった。飛び込み営業で行ったところからの見積もり依頼は500件に1件くらいしか無い。受注にこぎ着けたことなど一度もなかったが、松枝さんの立派な家の見積もりをさせてもらうだけで、声をかけてもらっただけで、大きな満足感はあった。

 見積もりは、母屋 離れ、蔵、塀、門、全部の瓦工事、塀を除く屋根は全て本瓦葺きだが、見積もりは、本瓦葺き、本葺き一体型飛鳥3号、和形切落の3通りを提出、うちが仕事をした本瓦葺きの戸田さんの家、飛鳥3号、和形切落で仕事をした川井さんの家に案内して瓦の雰囲気を見てもらった。松枝さんの家でも、いろいろ試案された結果、和形切落で9月に正式受注となった。

 素直に嬉しかった。いつもの事ではあるが、大きな仕事が決まると、嬉しいだけでは済まされない。武者震いするような大きなプレッシャーも感じる。

 昨年末、川の中に足場を設置するための河川使用許可を県民局に申請、初めてのことで手間取る。
平成31年の大仕事、1月6日足場設置、7日から鬼瓦等の役物を取り外す。12日、取り外した鬼瓦等を修理に出すため淡路島の新崎製瓦へ走る。

 15日、緊張の中12名で母屋、離れ、蔵の大屋根の既存瓦の解体に入る。翌日、妹尾英明、インフルエンザでダウン、それでも順調に進み、18日には離れ、蔵の屋根板まで打つことが出来た。19日の土曜日には、一番の心配だった、母屋の床の間の天井掃除を終えることが出来、屋根板を80%打ってシート養生することが出来た。最初の5日間が天気に恵まれたことは幸運だった。

 床の間の天井は100年前の屋久杉の珠目の天井板。この天井板を傷つけることなく仕事が出来たことに、気分的には半分仕事が終わった気分になった。実際には1%も進んでいないのだが・・・大きな山場を越えることが出来た。

 21日から、ひたすら野地ムラ修正、瓦を葺き始めたのが2月5日から、母屋、離れ、蔵、の大屋根の平瓦を葺くことが出来たのが2月後半、そして棟仕事が終わったのが3月14日、工期は半月遅れたと感じた。少し焦りを感じ出す。

 18日から母屋、離れの下屋根の既存瓦の解体屋根地づくり、4月に入る。時間は無い。谷部分を手間のかかる瓦で納めるかどうかで悩む?悔いを残したくないため瓦で納めると決めたものの、あまりに手間取るためやるんじゃなかったと脳裏をかすめた。しかし終わってみればやはり瓦納めで良かった。

 4月15日、GWまで、あと3週あると思っていたが、カレンダーをよく見ると2週しかない。大きな勘違いに唖然とする。結果、西の塀の棟と門が仕上がらないまま、GWへ。

 GWが明けた週に西の塀の棟が終わる。残すは唯一本瓦葺きで仕事をする門だけ。6坪の小さな門、走りたいけど、走っちゃダメと自分を諫めながら、やっと24日、棟の冠瓦を残すのみとなる。翌朝、気が少し緩んだのか、いつもより起きるのが遅くなってしまった、起きることが出来なかったのだ。25日の午前中、1月の初めから入った仕事がやっと終わった。足場も片づけて、全て終了。平成の最後の大仕事のつもりだったが、令和に掛かってしまった。

 飛び込み営業で入った松枝さんの家、何処の馬の骨か分からない私に掛けてくださった。その気持ちに応えたいという気持ちだけで取り組んだ。結果工期は大きく伸びてしまったのだが、悔いのない仕事は出来たつもりだ。

 この平成令和の大仕事には、河合さん、佐藤君を、早川建設さん、三宅建設さん、佐藤組さん他、本当に多くの人が協力してくださった。改めて大感謝だ。
        
                            令和元年 5月28日        笹原 真二
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マンスリー 載せたつもりも 気持ちだけ 旬を逃して 味わい薄し

2019-05-29 08:49:11 | Weblog
    平成から令和へ(気淑く 風和らぐ)

31年前、昭和天皇の崩御に伴い、慌ただしい中、当時の小渕官房長官によって「新しい元号は「平成」であります。」と発表された。今回は今上天皇が生前退位。新元号が発表される4月1日は特別な1日となった。

昭和から平成に移った時のことを思い出す。昭和64年1月早々、広島の小川瓦㈱さん、山口の大村瓦㈱さんと合同で、関西方面へ慰安旅行に行っていた。

7日の朝、昭和天皇が崩御されたというニュースが流れた。京都、奈良の神社仏閣めぐりの旅だったが、東大寺に行っても何処のお寺に行っても、当然のことながら、昭和天皇の遺影が置かれ大勢の僧侶によって読経が響いていた。

その日は、大阪に宿泊したのだが、歌舞音曲は控えるようにとの政府談話があり、当然ながら街は喪に服し、ネオンもついていない寂しい夜の街だった、この時の思い出は、全てが白黒なのだ。

中国が起源の元号(始まりは紀元前から)だが、日本では645年の「大化」が始まりで実に247の元号がある。大きな事件とか自然災害等の災いが起こった時などに改元され、一代の天皇で7回も改元がなされたことも有る。奈良時代の「天平感宝」という元号の時代はたった1年。10年未満の元号は当たり前のようにあり、2~4年というのが意外に多いことに驚いた。

中国では紀元前から元号が使われていた。1947年、辛亥革命によって清が滅亡するまでで元号は使われていたが、その後廃止された。朝鮮をはじめ、東南アジアでも元号を使用していた国はあった、しかし今では地球上で元号を使用している国は日本だけ、だからこそ、
この文化は大切にしなければならない。

4月1日、菅官房長官は、31年前の小渕官房長官と同じように「新元号は「令和」であります。」と発表。平成に慣れ親しんでいたから、少しの違和感は覚えたものの、新しい時代に自然と祝意が湧いてくるような気がした。
初春の令月にして 気淑く 風和らぎ・・・

万葉集から引用されたという。梅の開花とともに、春の訪れを喜んだ内容だという。TVには、大伴旅人の屋敷で、花見の宴の様子が描かれたイラストが写し出された。風景が元号になったような・・・その穏やかな雰囲気から「令和」が余計に良いと感じられた。そんなことを名古屋の江場さんにメールした。

「令和」いいねえ!哲学的でもないし、宗教的でもない・・・という返信があった。「気淑く 風和らぐ」そんな時代になって欲しいと思う。そんな毎日を自分の手で作って行きたいと思う。
  
  平成31年4月28日      笹原    真二

追伸  万葉集は、天皇、公家を始め、農民、遊女に至るまでの歌が編集されているという。そんな歌集から引用されたというのが、更に良いと感じるのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする