甍の上で

株式会社創瓦 社長 笹原真二のブログです。

3月も終わりました。

2012-03-31 21:37:30 | Weblog
 本当に、時の流れというものは早いものですね。3月も今日限り、明日から新年度、ピカピカの1年生が身体より大きなランドセルしょって小学校に、大学1年生は親元を離れて一人暮らしや、寮生活に、そんなことを思うと、自分自身にも、それぞれにその時のことが昨日のことのように思い出されます。
 今朝は、雨・・・一瞬、晴れの日曜日と、振り替えて休もうかなと思ったのですが、天気予報を見ていると、9~10時くらいには雨があがって午後からは晴れ間ものぞくとか、8時から9時ころまでは強く降ってた雨も10時過ぎには止みました。仕事も予定通り進みました。夕方は、恒例の事務所のトイレ掃除、これもきちんとできたから、今、充実した気分です。
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3月のマンスリー とびだす100通りのありがとう Ⅰ

2012-03-31 21:35:06 | Weblog
  とびだす100通りのありがとう
 3月18日日曜日、東京銀座で、宮城県で被災した人達(3歳から83歳114人)によるミュージカル「とびだす100通りのありがとう」企画制作lalalaOffice(元ふるさときゃらばんの寺本建雄、祖父江真奈さんご夫妻の事務所)が上演された。涙あり笑いあり、そして今もって、やさしい余韻が残っている・・・
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3月のマンスリー とびだす100通りのありがとう Ⅱ

2012-03-31 21:31:24 | Weblog
「3月11日、私たちはこの世の終わりかと思えるような惨状を体験しました。家族、友人、住む家までも、すべて無くしました。心も体も傷つきました・・・」
「中学の卒業式のあとで、お母さんたちは謝恩会でおいしいものを、私は一人カップ麺を食べていました。卒業式でもらった花束もぐしゃぐしゃになり、逃げようと思って、近くの婆っぱの家に、婆っぱは壊れた爺っちゃんの仏壇を直していました。私が「逃げよ!」婆っぱは「逃げね!」そこへお母さんが帰ってきて婆っぱと「逃げよ!」「逃げね!」の大喧嘩。婆っぱが、折れて靴下履いていると水が・・・やっとの思いで2階へ上がりました。その夜は真っ暗で星がいっぱいでした」
「卒業式の後、僕は家でチャットしてました。そしたら大きく揺れて急いで近くの高台に逃げました。火のついた家が流れてきて、僕の家にぶつかって、僕の家も燃えました」
「日本中から、世界の各地から送られてきた支援物資を貰うとき、日本中の、いや世界中の顔も見たことのない知らない人たちからの贈り物に、感謝の気持ちでいっぱいでした。ありがとうございました」
「ボランティアの人たちが、家の中のヘドロを運び出したり、がれきを片付けてくれたり、時には歌も歌ってくださいました。歌を聞いた時、少しだけ元気が出ました。ありがとうございました」
「いち早く義援金が届いたのは、台湾からの義援金でした。これです。(義援金の封筒)7万円入っていました。でももったいなくって使えません。今も仏壇にお供えしています。ありがとうございました」
「わたし83歳になります。まさかこの年でミュージカルに出るなんて、しかも東京、銀座ですもの・・・夢のようです」
「私の高校では亡くなった人もいると聞いていました。4月になって学校へ行ってみると、私のクラスはみんな無事で嬉しくなって誰彼となく全員とハグしました。男子ともハグしました。今考えてみると変ですね。男子となんか・・・」
「私は石巻高校にいました。夜になって、男子が教室の机を集めて女の子のためにベッドを作ってくれました。「お前たちはここで寝ろ!」と言って、男の子たちは寒い廊下で寝ていました。この日だけはジェントルマンに見えました」
「わたしは野蒜小学校にいました。体育館は水が入ってきて洗濯機のようにグルグル回りました。私も回りました。私は上に居た人に助けられました・・・」
「女の子たちは怖くてシクシク泣いていました。私はずっと我慢していました。みんながあんまり泣くものだから、男の子が元気付けようと思って「心配すんな、死ぬときはみんな一緒だ!」と言いました。そしたら、みんな「あーん」と声をあげて泣きました。わたしも「あーん」と言って泣きました」
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3月のマンスリー とびだす100通りのありがとう Ⅲ

2012-03-31 21:27:20 | Weblog
「外国の新聞やニュースでは、日本人は礼儀正しくて立派だ。なんて報道されたと言いますが、そんな避難所ばかりではありませんでした。私がいた避難所では食べ物が少なかったから「まず子供たちから」と言うと「こんなときに大人も子供もねえ!」と声を荒げる人もいて悲しくなりました。そんなわけで私、最初8㎏痩せましたが、避難所を出るときは15㎏増えていました」
「7日目にやっと主人と連絡が取れました。再会のときは洋画のように、ぎゅっと抱き合う再会シーンをイメージしていました。でもこの人ったら、避難所にいる私を見つけて「ずいぶん、元気でねえか!」って、まだ再会シーン、やり直していないのでここでやります」
「1日の食事がかっぱえびせん2本」「おにぎりはピンポン玉の大きさ」「1枚の食パンを6分の1」「100人でバナナ3本」「お風呂は1ヶ月後」「ガソリン20リットル買うのに8時間並びました」「1000円のお菓子を買うのに近くのスパーで12時間並びました」etc
「自分の命を顧みず、水門を下ろしに行った消防団員が、大勢亡くなりました」
「学者がここなら安全と言って作られた避難所で、たくさんの人が亡くなりました。それを「想定外」という一言で片づけられたことが悔しいです」
「がんばろうでは、がんばれないんです。夢って重いんです・・・」
「防潮堤なんか作るから、みんな低いところへ、家建てたんだあ・・・防潮堤なんか無けりゃ、あんなことにゃ、なんなかったんだあ。それが悔しい・・・」
「ドロドロの親父をペットボトル10本の水で洗いました。でもきれいになりませんでした。死に水がペットボトルの水だなんて情けなかった。父ちゃん、母ちゃん、助けられなくてゴメン!」
「その時、川の水が引いたんです。これはやばいと思って近くの民家に逃げ込みました。その家の人はもう避難したあとみたいで、それから何人か逃げ込んで来ました。翌朝、男の人が水の中に飛び込んで流れてきた材木を集め、切れた電線で筏を作って冷たい水の中、何度も何度もわたしたちを岸まで運んでくださいました。私、その人の名前も知りません」
「長男は、「俺、助けに行く」と言って、妻が止めるのも聞かずに飛び出して行ってしまいました。二階から見ていたら、うちの生け垣に人がつかまっていたので飛び降りて助けに行きました。妻は無神論者なのにその時ばかりは「神様、水を止めて!」と大声で手を合わせていました。すると本当に水が止まったんです・・・長男はあれから4人助けました (以上、舞台の台詞から)
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3月のマンスリー とびだす100通りのありがとう Ⅳ

2012-03-31 21:23:45 | Weblog
  少し無理して歩きだすさ        詞 曲 寺本建雄
ぼくが歌えば きみも歌うさ まわりもつられる 地球だって歌いだすさ
ぼくたち わたしたち 歌ってみるさ 少し無理して歌ってみる
この町で この土地で わきあがる心を歌うのさ
楽しいこと悲しいこと くやしいことを歌うのさ
ぼくが笑えば きみも笑うさ まわりもつられる 地球だって笑いだすさ
ぼくたち わたしたち 笑ってみるさ 少し無理して笑ってみる
この町で この土地で わきあがる心を笑うのさ
笑い顔 しかめっ面 泣きっ面を笑うのさ
ぼくが歩けば きみも歩くさ まわりもつられる 地球だって歩きだすさ
ぼくたち わたしたち 歩いてみるさ 少し無理して歩いてみる
この町で この土地で わきあがる心を歩くのさ
すべてこわれたガタガタの道 夢の一歩を歩くのさ

   まげねえぞう (負けねえぞ)      詞 曲 寺本建雄
 まげねえぞう まげねえぞう まげねえぞう
 けっして断じてどうにもならねんだ
 もう少しでまげそう でもぜったいまげね     
 まげねえぞう まげねえぞう まげねえぞう    
 こどもも大人もじいちゃんばあちゃんも      
 もう少しでまげそう でもぜったいまげね     
 まげねえぞう まげねえぞう まげねえぞう
 泣いてもさわいでも思い通りになんね
 もう少しでまげそう でもぜったいまげね    以上ミュージカル№から

 (宮城弁で「まげねぞう」は、負けないぞ)
  絶対、巻けないハンカチサイズのバンダナを使っての歌とダンスは圧巻でした。
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3月のマンスリー とびだす100通りのありがとう Ⅴ

2012-03-31 21:15:22 | Weblog
 脚本、演出、音楽を担当した寺本さんは言う。「役者は役作りから始めるけど、みんな自分で体験しているから、それをする必要が無い・・・」昨年の11月から、合計27回宮城県石巻市まで出前稽古に出かけた寺本さんと真奈さん、スタッフ、そして何よりも出演した人たちの魂の一作。緊張している人も、思いっきり楽しんでいる女子高生も、老若男女みんなが一所懸命!観るものを圧倒するエネルギーがあった。「とびだす100通りのありがとう」・・・
やっぱり人間って素晴らしい!   2012年3月28日    笹原 真二

追伸  
サンキュー メルシー ダンケ グラッツェ ベネファキス スパシーバ グラシアス オブリガード 謝謝 カムサハムニダ カムオン コップンカ テリマカシー バヤルララ アサンテ ドタラーバ ジェクイ マンゲタック キートス アイタ ブラコダリァ ムルツメスク ダンクウエル シュクラン でもわたしたち日本人心をこめて伝えたい 心こもる言葉は ありがとう ありがとう   詞 曲  寺本建雄    ミュージカルNoから
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2月のマンスリー

2012-03-01 18:53:57 | 陸上競技のこと
     天才は有限、努力は無限
 1月29日、大阪国際女子マラソンにおいて、親友森政監督の教え子で、母校興譲館高校の後輩、重友梨佐(天満屋)が日本歴代9位の2時間23分23秒の好タイムで見事優勝。ロンドン五輪のマラソン代表の座をほぼ手中にした。
 森政監督からは「重友の調子がすごく良いみたい。天満屋の武富監督から連絡があった」という話を聞いていたので一層期待が高まった。
レースは最初の5km16分55秒で入る。重友はペースメーカーの右後方に位置しそこから動かない。レースに集中している様子が窺える、20km過ぎ、野尻あずさが遅れる。22km過ぎペースメーカーが外れると福士とのマッチレースに。福士がどこで仕掛けるか?重友がペースメーカーにされる。と思案しながらの26km過ぎ、福士の表情が険しくなった、少しずつ離れて行く。「これで勝った」と思った。大会直前、アテネ五輪の金メダリスト野口みずき(シスメックス)が故障により欠場を表明。重友にとって、この大会でのライバルは福士加代子(ワコール)野尻あずさ(第一生命)天満屋の先輩坂本直子の3人だけと言っても過言ではなかった。その坂本直子は16kmで先頭集団から脱落していた。「これで勝った」と思ったものの、残り16km、マラソンは30km以降なにがあるかわからない。そんな不安も、後との差は30kmで1分、35kmで1分半と開いていく、終わってみれば独走での完勝となった。
高校3年生の時、全国高校駅伝優勝(2区2位)という実績はあるが、重友の競技人生は決して順風満帆なものではなかった。中学時代は2年生から岡山のチャンピオン、しかし全国では無名。高校1年生の高校駅伝では補欠。2年生では専門外の800mでインターハイ出場、3年生のインターハイ3000m予選落ち、岡山国体1500mでやっと8位入賞。同僚の新谷仁美(現・佐倉アスリート倶楽部 インターハイ3000m1位、国体3000m1位、全国高校駅伝3年連続1区区間賞)には、練習でも一度も勝ったことはない。天満屋に入社してからも2年目から3年目にかけて故障で伸び悩んだ。そんな選手がオリンピックへ。
高校時代の恩師、森政監督は重友を評して「真面目な子、何事にもコツコツと取り組む子でした。でも、内に秘めたものがあるということは感じていました」とさらに「派手さはないですが徐々に結果を残していたので、周りが言うほどの急成長だとは思っていません。ただ、武富監督をはじめスタッフの方々がずっと我慢してあそこまで育ててくださったことに対して、感謝の言葉しかありません」(月刊陸上競技から抜粋)
かつて瀬古利彦を指導した早稲田大学の故中村清監督がよく言っていた言葉、「天才は有限、努力は無限」改めて。重友梨佐を通して実感している。
     2012年2月28日           笹原 真二
追伸 重友の盟友、類まれな素材をもっている新谷仁美の奮起に期待したい。
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