甍の上で

株式会社創瓦 社長 笹原真二のブログです。

幾ばくか 朝の寒さも やわらいで 新芽の川辺 もうすぐ春に

2023-02-28 22:19:53 | Weblog
  
運命の決断

 26日、日曜日午後9時から、NHKスペシャル「ウクライナ大統領府緊迫の72時間」というゼレンスキー大統領の側近たちが、緊迫の舞台裏を語るドキュメント番組を見ることが出来た。
 
昨年、2月24日、未明、ロシアから100発のミサイルが、ウクライナ各地に撃ち込まれ、地上からは19万とも言われるロシア軍部隊がウクライナへ侵攻を始めた。
侵攻二日前、ベラルーシ国防相が、北側ベラルーシからの攻撃はないとウクライナ国防相に語っていたにも関わらず、ロシア軍はベラルーシからも侵攻、キーウは72時間で陥落するとみられていた。

 2014年、ロシアは、浮く以来なの領土であるクリミア半島に軍事侵攻、一方的に併合した。ウクライナはアメリカやヨーロッパの国々に軍事支援を求めたが、返事は「不可能」ではどうすれば?「塹壕でも掘れ」欧米は「武器供与はロシアを刺激し、侵攻を招く」と。

 今回の軍事侵攻が始まってもその姿勢は、変わらなかったという。「欧米は3日か4日で、私達はいなくなると考えていた。」「ウクライナは、おそらく立ち上がれなくなり、独立を守り切れないだろうと。」「同情します。取りあえず見守ります。」

 すでに私達が、攻撃を受けている時点でも、ウクライナに対する欧米の態度が大きく変わることはなかった。」「ロシアが怖いので、ウクライナを諦めたと。」言っているのに等しかった。

 侵攻から24時間、ロシアの戦車がキーウに入ってきた。ゼレンスキー大統領の命も狙われた。暗殺の危機を察知したのは侵攻2日前の事。24日、侵攻が開始すると、キーウに潜伏していた工作員が一斉に蜂起した。身近にいる人の誰が工作員か分からない。大統領暗殺計画は分っているだけでも13回。

 軍事侵攻から32時間後、ベラルーシ国防相から、ロシア国防相からの伝言だとして、「抵抗しても誰の利益にもならない。ウクライナが降伏文書に署名すればロシアの侵攻を止めることが出来る。」と。

 ロシア大統領府からは降伏を促す電話「必要なことが一つある。それは降伏することだ。」ウクライナの大統領府長官は丁重に断ったという。さらにはプーチンが揺さぶりを掛ける。「ゼレンスキー政権が抵抗しているから、市民に犠牲が出ている。」ウクライナ軍にクーデターを起こせと呼びかけてきた。

 欧米各国は、ゼレンスキー大統領は、キーウから脱出すべきだと提案してきた。「ここにヘリコプターがあります。」と30分おきに、「街は包囲されているすぐに脱出すべきだ。」と。亡命政府を準備していた。

 ロシアに国を乗っ取られたら私達は、西のリビウか、ポーランドに行き「侵略に反対、避難する。」ということになるはずでした。
いろんな人がここに来て「諦めよう。その方がいい。」と言ってきました。本質は同じで「諦めろ。」でした。

 大統領顧問も脱出を提案した一人でした。大統領に降伏するのではない。司令部を異動するだけだと伝えました。このままでは死んでしまうか、別の場所から防衛の指揮を続けるかのどちらかでした。

 「抵抗を止め、ロシアの支配を受け入れるか、それとも市民の犠牲を伴う抵抗の道を選ぶか」

 ゼレンスキー大統領は、地下壕に避難していた政権幹部全員(約100人)を集め。「20~30人残す。そうすれば60~70日は食料が持つ。ここに長く籠城できる・・・最悪なのはインターネット回線が切れ、ロシアに捕まったか誰も分らなくなることです。国民にメッセージを伝え続けること出来るよう衛星回線を手配してほしい。」と頼んだのです。みんな泣いていました。「またね」と言って、気がつくとハグをしあっていました。

 ゼレンスキー大統領は側近たちにも、ここに残るかどうか、自分で決断してほしいと迫った。与党幹部の一人は、「正直、時間がほしい、自分だけでは決められない。」と。妻に電話して「こんな状況だけどここを離れるつもりはない。」と。

 大統領府顧問の一人は「私はプロの軍人なので、もう終わりだと思っていました。我々は勝てない」と。息子にあてたメッセージ「お母さんを助けてあげて。あなたを一人で育てることになりそうだから、男の子として、お母さんを守るんだよ。勝利したら帰るからね。愛している元気でね。さようなら。」

 侵攻開始から37時間余り、ゼレンスキー大統領は、4人の側近と共に地下壕を出ました。「自分たちは逃げない。ロシアに屈しないという決意を世界に示すために。機銃掃射の煙が空に見えていました。警護の担当者は慌てましたが、それでも彼らは出て行き撮影をしたのです。大統領府前の広場で。

 「皆さん、こんばんは。与党幹部、大統領府長官、首相、大統領府顧問、大統領もここにいます。私達はここにいます。私達の軍隊もここにいます。市民もここにいます。みんな、我が国の独立を守っています。これからもずっとそうあり続けます。ウクライナを守る人たちに栄光あれ。ウクライナに栄光あれ!」

 ウクライナに取って大きな転換となったこの決断。

 国際社会の、向き合い方も問われていくことになります。

 侵攻開始から3日目、降伏に応じないウクライナに対し、ロシアは力でねじ伏せるかのように攻撃を激化していった。しかし、ウクライナ市民の激しい抵抗
は、ロシアに取って想定外の事だった。歓迎されるとすら思っていたロシア兵は戸惑う。

 「ロシアは、私達の社会を理解していません。私達は民主的な社会を持っています。彼らはウクライナをロシアの一部だと思い込んでいるのです。私達が何故戦っているのか、何のために戦っているのかを分っていないのです。自分たちの国を守ろうとみんなが立ち上がったのです。」

 「武器をもっと人たちから、キュウリやトマトの瓶詰めを持ったおばあちゃんまで。侵攻当初、こうした多くの人たちがいなければウクライナは決して立ちゆかなかったでしょう。職業や立場に関係なく、自ら行動する人々が現れたことでウクライナは抵抗できるというわずかな希望が確信に変わりました。」

 私たちが、勝つためには、世界を納得させなければなりません。私達は身を守り、勝つために全力を尽くすことが出来る。それを世界に示せたとき、私達は武器の支援を受け始めたのです。

 侵攻開始から3日目、欧米各国は、ウクライナへの軍事支援を発表しはじめました。

 軍事侵攻から72時間。ロシアに屈しなかったウクライナ。しかし、それは、長く厳しい闘いの始まりでもありました。

  NHKスペシャル「ウクライナ大統領府緊迫の72時間」から

 改めてこの戦争、ウクライナが負けるというようなことがあってはならない。「市民の犠牲を伴う徹底抗戦という決断」をしたゼレンスキー政権には大義がある。もしウクライナがロシアに負けるようなことになれば、その大義がなくなる。ウクライナが勝って戦争が終わり、改めてこの戦争の総括がきちんとされなければならない。と思うのは当然のことだが・・・

 「私達が、勝つためには、世界を納得させなければなりません・・・」この言葉の重みをしっかりと受け止めなければならない。

       令和5年2月28日       笹原 真二
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雪が舞う お誘いの無い 日曜日 さみしさ共に 思いは巡る

2023-01-29 17:39:50 | Weblog
  戸田さん
 井原青年会議所(当時68?名)に入会した33年前、平成元年1月14日(井原青年会議所の例会日)が、戸田さん(10歳先輩)と初めて会った日だった。戸田さんは、レナウン、バーバリーなど高級衣料品や、地元井原産の生地を使った鮮やかな藍色の作務衣を作る縫製会社を経営されていた。 

 40歳定年の青年会議所では、戸田さんと被ったのは一年だけ。委員会も違ったし、ほとんど話もしたことが無かったが、「大らかな、笑顔の素敵なダンディーなおじさん」という印象があった。だから、あんな風になりたいという気になる先輩だった。
 
 戸田さんが、青年会議所を卒業して三年ほどたった頃、屋根瓦の葺き替えの見積もりをしてほしいと声を掛けてもらった。行ってみると、「本瓦葺きで見積もってくれ。」お寺の屋根の本瓦葺きはあっても、普通の和型の瓦価格より3倍から4倍掛かる本瓦葺きでの民家の見積依頼など、あることはないと思っていた。戸田さんの見積依頼は、驚きだった。

 そんな経緯で、母屋の瓦の葺き替えを本瓦葺きでさせてもらった。以降、離れ、蔵、北の塀、10年ほど前には、門長屋、南の塀、車入門、他。離れと車入門は和型だったが、他は全て本瓦葺きでの仕事をさせていただいた。

 瓦は、東大寺の昭和の大修理の瓦を製造した奈良瓦センターの本瓦。その瓦センターの営業の植田さんが現場に来たとき、「ここは、文化財の現場ですか?」と聞いてきた。たまたまそこに戸田さんの奥さんが。「普通のおうちです。」と。
 
 戸田さんは、「先祖からもらった家は、大切にせんと。」躯体だけでなく、建具も、かつて使っていた物を再使用する。万事がそんな調子で。「全部壊して、新築した方が安く上がるんじゃないんですか?」と言っても「これでえんじゃ!(良い)」と。使える物は使うと全ての物を大切にされる方だった。

 門長屋の改修が終わると庭に芝を張った。暑い盛り行ってみると、パンツ一丁で芝の中の雑草を取っていた。「こうやってちゃんと、雑草を取ってやらんと、芝もきれいに張らん。」

 庭の岩松も、雑草を取って、取って、砂利を綺麗にして、水を打って、打って、見事に岩松を育て上げた。「手を掛けてやらんと根付かん。手を掛けた分だけきれいに根付く。」松、梅の木の周りには見事な岩松が根付いている。

 そんな戸田さんはペースメーカーを入れていた。「わしの心臓は30%くらいしか機能しとらん。」実際、青年会議所の忘年会で倒れ心肺停止状態になったことがある。幸い、医者が同席をしていて応急処置がなされ大事には至らなかった。という強運の持ち主だった。

 母校、興譲館高校の、陸上競技部の応援も、選手、監督コーチを自宅に招き、食事会を何度も開かれた。ステーキ、ウナギ、カレー、すき焼き、しゃぶしゃぶ等、白菜のごとく鍋いっぱいに入れられた松茸のすき焼きは、見たことの無いすき焼きだった。親元を離れ寮で生活している子供たちが、興譲館で、井原という街で過ごしている。高校時代、青春時代の大切な3年間、「井原に来て良かった。」という思いを持って帰ってくれたら・・・」とよく言われていた。

 全国高校駅伝の応援も、毎年のように。二年前は、世界の100台、日本に2台しかない戸田さんの愛車ベントレーに乗って京都へ。途中、「運転を変わってくれ」と、身体は軽トラ仕様になっているのに、名車ベントレーを運転する羽目に。ウインカーを出したはずが、フロントガラスのワイパーが右に左に。

 興譲館高校OGの新谷仁美が出場した韓国、大邱の世界選手権、新谷と重友梨佐が出場した、ロンドンオリンピックも、一人で応援に行かれた。日本国中探しても、こんな人はいないんじゃ無いか。
 
 20年程前、名古屋の江場さんの仕事で、上海で瓦の仕事をしたことがある。その時も、屋根の上で仕事をしていると、誰か車から降りてきたと思ったら、戸田さんが、「おーい、来たど!」

 上海の松江という、大学がいっぱいあるところで仕事をしてきますと、言ってはいたものの、まさか本当に現場まで来られるとは思ってもみなかった。懐かしい、嬉しい思い出だ。

 田中建設の行ちゃん、井原自動車の柳本さん、江草板金、他数名の方と共に、よく食事に誘われた。多いときは月2~3回の時もあった。一月もお誘いの電話が無いと、行ちゃんと「戸田さん、体調でも悪いんだろうか?」というような話になる。お誘いの電話は、戸田さんの体調のバロメーターになっていた。

 そんな戸田さんが、2019年に一時体調を崩された。年末には痩せ方が酷く、大丈夫かと思うようなこともあった。それでも、元のダンディーな戸田さんに戻っていった。

 翌年には「前立腺に癌が見つかった」と。根拠は無いが、戸田さんは大丈夫。と思っていた。なぜなら、変わらず、「新見へ焼き肉を食べに行こう。「中華を、食べに行こう。」「今度は、インド料理を。」「うちで、鍋をするから。」「ビーフシチューを作ったから。」と変わらずお誘いの電話が入った。ビーフシチューは、戸田さん自ら寸胴鍋で2日間煮込んだものだ。ご飯も土鍋で自ら炊いた。

 スーパー銭湯の垢すりで、仲良くなった韓国のおばさんに、韓国の家庭料理を作ってもらったから。というお誘いに行ってみると、「渡り蟹を醤油だれで漬け込んだというカンジャンケジャン」あまりの美味に、「これが、家庭料理?韓国の人は平生こんな美味しいもの食ってるんですか?これは宮廷料理でしょ!」

 昨年の7月、お誘いが一月半くらい途絶えたことがあった。あとで聞いてみると「コロナに掛かっとった。」「戸田さんのような、基礎疾患の百貨店みたいな人が、コロナに掛かったらやばいでしょ。」というと、「喉が痛かったけど、たいしたことない。」
時々、倉敷中央病院に入院しながら、退院したら、お誘いがあった。「退院そうそう、大丈夫なんですか?」と言いながらご馳走になった。だから、「戸田さんは、大丈夫」という想いがあった。

 12月19日メールが入る「残念ですが、今年の高校駅伝には行けません。来年の都道府県対抗女子駅伝の日時と、興譲館から何名エントリーしているか教えてください。」「1月15日、日曜日10時半スタートです。エントリーは4名で、走るのは2人になるとの事です。」

 21日、「明日の昼、「たかいで」(井原市内)で、焼き肉を食べよう!仕事中かもしれないが、現場から来れば良い。」という電話が入った。22日、行ってみると、奥さんは来られていたが・・・しばらくすると、弟さんと車で、倉敷中央病院から、今退院してきたという。「退院そうそう、焼き肉なんて大丈夫ですか?」「24日の京都、エクシブ(八瀬離宮)が取れとったのにごめんよう。せっかく興譲館、応援しようと思っていたのに。来年じゃ、14日、京都に行こう!」

 12月27日、「福山へ鰻を食べに行こう。」というお誘い。田中建設の行ちゃんと夕方6時過ぎに迎えに行くと。井原商工会議所の川井会頭に、手を引かれながら車に乗り込まれた。

 福山の鰻の「中勝」というお店に着くと臨時休業。「薬のせいか?味覚が変わって、何を食べてもあんまり美味しくないんじゃ。鰻だけが味が変わらんから食べたかったけど、仕方が無い、中華にしよう。」と、同じく福山の池野飯店でご馳走になった。戸田さんの家に帰ったのは9時前だった。明らかにきつそうだった。それでも、戸田さんが亡くなるなどと、露ほども考えられなかった。

 1月9日、今治で買った「晴れ姫」というミカンを届ける。留守のようだったのでメモ書きとメールを入れて帰る。翌日、戸田さんから、「笹原さん、ミカンたいへんありがとうございます、たいへん感謝します、」というメールが入る。

 この文章が、ものすごく気になった。このメールを打つことは、戸田さんの体力をものすごく使わせてしまうことになったかもしれないと・・・

 14日土曜日、朝、雨だった。仕事は休みにしていた。7時44分、田中建設の行ちゃんから、電話が入る。「戸田さんが、午前4時頃亡くなった。」

 12月27日以降、考えて見れば、あの状態であれば、いつ逝っても不思議でなかったような気はする。しかし、戸田さんが亡くなるという事は全く想像もつかなかった。何度も、蘇った戸田さんを見てきたから、癌は無くならないかもしれないが、調和しながらまた元気になるのではという思いがあった。

 12月24日。戸田さんと奥さんは、主治医から、余命10日という宣告を受けていたという。新年を迎えることができるかどうかとも・・・それでも、30日には戸田さん自身が運転して、児島の弟さんの家の餅つきに行かれたそうだ。
年が明けて、元旦にはお雑煮も食べたと。二日は、弟さん家族と、井原で、初詣に。

 12日、井原の小田病院に入院、13日の夕方には、一人でお風呂に入ることが出来たそうだ・・・主治医の宣告余命10日を、大きく上回り1月14日、大好きだった井原青年会議所の例会日に亡くなられた。

 10年前、親父が亡くなった時、あの状況では助からないだろうという思いはあったが、亡くなるという事。通夜をするという事、お葬式をするということは、全く想像出来なかった。

 土曜日の午前4時頃亡くなった事も同じだった。その日のお通夜、翌日曜日のお葬式。月曜日から日常に戻る。親父の時と同じようなだと思いながら二日間を過ごした。

 生前、「ピンピン、コロリが良い。俺の、棺桶を担いでくれ。」という事を何度か聞いていた。戸田邸を出るときも、葬儀会場から出るときも、戸田さんの棺を担がせてもらったことに、ある意味幸せを感じた。
   令和5年1月28日               笹原 真二

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新年の 仕事始めを 前にして 思い巡らす パソコンの前

2023-01-06 11:01:30 | Weblog
 ここ数年、このブログはマンスリーレポートでしか使って来なかったけど、本当に久しぶりに書いています。
 明日から、いよいよ仕事始め、9連休のあとだから、明日はウオーミングアップの一日、連休をして本格的には10日から動きます。先ほど、今年一番に入る大きな蔵の現場へ。足場屋さんが、足場を組み立てに来てくれていました。お施主さんとの打ち合わせをして蔵の中に、天井は無く、葺き土がすでにいっぱい落ちて、棚には様々なお宝が・・・明日、これらの養生をします。
 今年も、いよいよ始まります。
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年の瀬に 思い巡らし 無常にも 過ぎゆく時は 寂しさに似て

2022-12-31 18:04:23 | Weblog
    親友清水の訃報(素晴らしいブレーキ)
 
 19日月曜日、朝起きると一面雪に覆われていた。覆われていたと言っても、2cmに満たないくらいの雪なのだが、12月にこんな景色を見ることはほとんど無い。午前中、現場に入ることは見合わせた。

 事務所で雑用をしていると、携帯電話にラインの通知音が鳴る。開いてみると大東文化大学の陸上競技部の新潟の先輩、佐野さんがドカ雪の写真を上げていた。早速、うちの土場の雪景色を写してラインに上げ終わったところへ家内が事務所に。入ってくるなり、

「さっき、清水俊光(大東文化大学の陸上競技部の同期)さんの息子さんから電話が掛かってきて、清水さんが急に亡くなったと、昨夜お通夜をしたそうで、葬儀は今日、家族葬でと言われていた。」「息子さんの電話番号は?」「家の電話は、着信履歴の機能はないから分からない。」すぐに、清水の携帯を鳴らしたが誰も出ない。家の電話も鳴らしたが出ない。

 同期の主将、鹿児島の吉元に電話するが彼も出ない。当時の監督、青葉先生に清水の突然の訃報を伝える。自分でも驚くくらい動揺した、震えが止まらない。同期、先輩、後輩に訃報を伝えた30分くらい、震えが止まらなかった。

 その夜、改めて清水の家に電話する。奥さんは「あまりにあっけなく逝ってしまいました」と冷静に、淡々と話して下さった。

 令和2年の1月18日、翌日の都道府県対抗男子駅伝の前日、大学の陸上部、広島近辺の在住者のOB会が開かれた。その時の話。
箱根駅伝での清水のブレーキを、「あれは素晴らしいブレーキだった」と言った。清水本人は「素晴らしいブレーキってあるのか?」

 清水は1区を担当。皆が牽制しながら、5kmを15分50秒で通過するという超スローペースでレースは進んだ。12km付近、右太腿を気にしていた清水が突然立ち止まる。屈伸運動をしたあと、再び走り出す。15km過ぎでまた立ち止まる。再び屈伸運動、歩くことは無かった。再度走り出す。その対応は見事なくらい冷静だった。清水らしかった。青葉先生も「清水!焦らなくて良いよ!」と声を掛けながら再び走り出した清水に「そう!そう!一、二!そう!そう!一、二!・・・一、二、そう!そう!」と暖かく清水の対応を見守った。
 右太腿の痙攣というアクシデントの中、今自分自身が出来得る限りの対応をしていることが伝わって来た。涙が出そうになるくらい、ある意味感動しながら清水の対応を監督車から見守るしかなかった。結果トップから遅れること1分40秒遅れの最下位15位。しかし、その1分40秒遅れは、驚異的だった。3分いや5分くらい遅れても不思議ではない状況だった。そんなドラマが目の前で繰り広げられた。その場面は今でも鮮明に思い出すことが出来る。同席していた青葉先生(当時の監督)はうなずきながら聞いていた。

 21日、吉元と、1年先輩の平盛さんと、広島の清水の家に弔問に行ってきた。清水の家は広島市の西区高須台という団地の一番上の上の方にある。結構な坂がある。彼は卒業後、NTT中国に就職、実業団で陸上競技を続けた。「清水らしいな、こんな上の方に家建てたのは練習に適しているからかな?」「ロケーションも良いなあ。広島の街も一望できるし、海もよく見える。清水らしいな・・・」と言いながら団地の坂道を上がっていった。家に着く頃には清水の涙雨。

 遺影を見て涙せずにいられなかった。吉元はずっと下を見ながら涙していた。「素晴らしいブレーキ」の話もした。息子さんは「その時の話も聞きました。「大東、何、やってんだあ!」とか「ばかやろー」とか罵声を浴びながら。足に安全ピンを刺しながら走ったって言っていました。」「大学時代が一番楽しかったみたいです」と奥さん。   

「16日の夜10時頃、胸が痛いと言って、その夜は休んだのですが、夜中は嘔吐したようで、17日の午前4時頃、また胸が痛いと、夜が明けたら病院へ行こうと、夜が明けてから市民病院へ行くと、心筋梗塞を起こしていると緊急手術に、私も主人も、甘く考えていました。入院の手続きをして、手術室に入るときも「頑張って!」も何も言わずに・・・手術の途中「深刻な状況です」と言われても、実感がなくて・・・手術中、心臓の血管が破裂して、すぐに開腹して、血管を縫い合わせたり、蘇生もしてくださったんですけど、午後1時頃に亡くなりました。あまりにもあっけなく逝ってしまって、本人が一番驚いているんではないかと思います」

 「携帯電話もロックされていて、連絡取ろうにも電話番号が分からくて、日曜日、笹原さんの家に電話したのですが、留守だったようで、こちらも混乱していたので、連絡が遅くなってしまいました。」

 「おじさんたちの修学旅行、2年後は広島に決まったからと、笹原さんから宮島の宿とか頼まれたから、呉の潜水艦なんかも皆さんに見てもらったらいいね・・・二人で下見に行こうと言っていたのにそれも出来なくなりました・・・」

 奥さんも、息子さんも冷静に淡々と事の顛末を話して下さった。

 翌日、吉元に電話をかける。「一人になった時、一人で車を運転している時なんか、ふと清水の横顔が浮かぶと涙が出そうになるだろ」「そうなんだ」同じ気持ちだった。
 新潟の高橋(陸上部の同期)は、今年の初め心筋梗塞に、3日ほど、生死の間を彷徨いながら助かった。彼に電話をしていると泣きだすのだ。「泣くなよ!」と言っても・・・「元気になって、みんなで2年後、清水の墓参りをしよう」と言って電話を切った。

 4年間、同じ屋根の下で同じ釜の飯を喰った心友の突然の死は、受け入れがたいものだった。しかし、「清水の素晴らしいブレーキ」は僕の中でずっとずっと生き続けていく。
                          令和4年12月28日           笹原 真二
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大仕事 秋の気配も 気付かずに 我に返れば 冬の到来

2022-11-29 18:19:47 | Weblog
    二度目の感謝状

 平成13年の春から初夏にかけて、仕事をさせていただいた福山の胎蔵寺の本堂。その屋根の小さな異変に気付いたのは、平成26年の年末ことだった。本堂に向かって右側、東南の降棟と隅棟の接点が少し離れていたのだ。考えられることは、隅鬼を釣っている銅線。しっかり縛っているのだが、何らかの異変で緩んだ?どのような不具合があったにしろ直さなければならない。まさか、栩木が折れているなど思いもしなかった。翌年の仕事のスケジュールから考えると秋になるかな?という思いだったので、その時は本堂の屋根の異変のことはあえて胎蔵寺さんには伝えなかった。

 27年の夏、修理のことを話さなければならないと胎蔵寺に行くと異変はさらに悪化。東妻の素丸瓦がズレているのが見えた。そこで初めて異変の原因は、栩木が折れているのか?構造材に何らかの問題が生じていることに気が付いた。そしてその旨を胎蔵寺のご住職に話した。ご住職、檀家の方々にとって改修工事からわずか14年後、このような不具合が起こるとは晴天の霹靂だったに違いない。

 ご住職の本山大覚寺への勤めの関係で、改修工事は応急の補強工事をして、一時棚上げとなった。

 令和3年2月、素屋根を掛け二度目の改修工事が始まった。元請けは㈱徳岡伝統建築研究所。3月、既存の瓦を解体する作業を始める。20年前の瓦、使えるものは再使用するということで、パレットに瓦を積み込む。それを会社に持って帰る。300坪の土場の半分近くが胎蔵寺の瓦で埋まった。


 仕事は、伸びに伸びた。屋根の構造材の解体中、桁にも不具合があることが判明して結果、上棟式は本年4月22日に行われた。6月の後半、遅くても7月には瓦工事に入れると思っていたが、うちが現場に入れたのは9月5日。
大工工事は北側の裏面の屋根しかできていない。東西の妻も途中、南側の正面は垂木さえ流れていないという状況だった。本堂改修事業完成法会は10月15日から、11月26日に延期されたが、この時点では10月末には、応援が順調に入ってくれれば、どうにか仕上げることが出来ると思っていた。

 ところが、当初から、応援をお願いしていた妹が嫁いでいる京都の甍技塾徳舛瓦店が、京都の仕事があまりに忙しくすぐには行けないという連絡が入る。予定が狂い始めた。

 9月3日に福岡の熊谷裕二の現代の名工、黄綬褒章の祝賀会で同じテーブルにいた福岡の北原清治が9月の中旬から2週間、応援に来てくれることになった。12日から現場に入ってくれた。当初、2週間の予定だったのが、彼が次に入る現場が大幅に遅れたお陰で、結果最後まで手伝ってもらえることが出来た。北原君は一人目の幸運のキーパーソンだった。

 屋根下地が全て出来上がったのは9月も末のことだった。この状況で瓦工事の工期に赤信号が灯った。10月に入り、妹尾英明が高梁市備中町の長遠寺の鐘楼堂に入る。ここに来て一人現場から離れるのは痛かった。応援要請の電話を甍技塾の同門に掛けるが、タイミングが合わず良い返事は貰えない。そんな中、栃木県の金原さん親子が10日から20日まで応援に入ってくれた。

 半分諦めていた京都の徳舛瓦店から、25日から2週間、深町健次と、宮崎人楽が応援に入るという連絡が入る。健ちゃんも、人ちゃんも、昨年11月、12月と2ヶ月も応援に来てくれていた。結果、健ちゃん一人の応援になったが、まぎれもなく、健ちゃんは、二人目の幸運のキーパーソンだった。

 2週間の予定を徳舛に自分から連絡して1週間延長を要請。その上、甍技塾の同門に電話で応援要請、熊本県から末吉真也、福岡県から友田敬悟がさらには、兵庫県から吉盛幸一親子が予定を早めて現場に入ってくれた。
末吉君は11月8日から4日間、友田君は9日から1週間、吉盛親子は11日から最後の5日間、さらには地元の河合さんが最後の2日半、応援してくれた。

 14日、15日の二日間は足場の解体作業と重なるようなことになったが、15日の午前中に片付けまで、どうにか瓦工事は終了した。
途中、スポットで応援に入ってくれた地元の広兼君、諏澤君、更には瓦の荷揚げ等で手伝ってもらった高校大学の先輩平盛さん、もっと言えば瓦の清掃、のし瓦の選別でサポートしてくれた家内、瓦清掃のアルバイトに来てくれた妹尾英明の次女莉那ちゃん。家内と共に、応援に入ってくれた職人さんたちの食事を作ってくれたお袋。本当に多くの人達に支えられ事故無く大仕事を仕上げることが出来た。

 26日午前10時から、本堂改修事業完成披露法会が営まれた。この日は胎蔵寺の竹原善生住職の誕生日、更には主賓として来山されていた大本山大覚寺門跡尾池泰道猊下も83歳の誕生日という日だった。その席で、瓦工事の感謝状を頂いた。前回もいただいているので「2回目の感謝状」前回の仕事に関わった者として今回の感謝状は、複雑な心境だった。

 ところを変えた祝宴の席で、竹原住職が、徳岡伝統建築研究所の社長のところへ来て「工期が遅れたお陰で、私の誕生日、門跡の誕生日の日に完成披露法会が出来ました。ありがとうございました・・・いえ、これは工期が遅れたという皮肉じゃないですよ。」と笑いながらお酌をされた。そんな言葉に「2回目の感謝状」という複雑な心境が少し癒されるように感じた。

 大仕事を終えて改めて思うこと、9月3日、北原君と同じテーブルに座ったこと。あのタイミングで徳舛瓦店の深町健ちゃんが応援に入ってくれたこと。運が良かったとしか言いようがない。
                         令和4年11月28日              笹原 真二
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気忙しい つるべ落としの 夕暮れは 赤い夕日を 見ることもなし 

2022-10-28 21:28:45 | Weblog
  野田元総理の追悼演説

 安部晋三元総理大臣の追悼演説は、当初、甘利明前幹事長がするのではないかという報道があったが、第一次安倍内閣の直前の総理大臣を務めた野田佳彦元総理に決まったというニュースを見て、いい人選だなと思った。

 民主党も、立憲民主党も指示するの政党では無かったが、地味な感じがする野田さんには好感を持っていた。朴訥として安定感があるように感じられた。それは、民主党の鳩山由起夫、菅直人の直後に総理を務めたから、余計にそう感じられたのかもしれない。野田さんは指示する政治家だった。

 野田さんが首相を務めていた、平成24年11月14日の党首討論は今でも思い出すことが出来る。「16日に解散しますよ。」「総理、本当ですか?本当ですか?」と浮き足だったような安部さん。党首討論の勝負は野田さんが勝った。

 野田さんは、負けると分かった選挙にあえて、当時の膠着した政治状況を動かすために解散すると宣言した一場面だった。だからこそ追悼演説は野田さんが良いと思った。その追悼演説では、うかがい知ることの出来ない安部さんと野田さんのエピソード、総理大臣を経験した者でしか分からない重圧と孤独、激務の一端を見ることが出来た。そして野田さんの一言、一言に共感した。

「戦う政治家だったが、国会を離れ、ひとたび兜を脱ぐと、心優しい気遣いの人でもあった。解散総選挙に敗れ敗軍の将となった私は、皇居であなたの親任式に立ち会った。控え室は静まりかえり、気まずい沈黙だけが支配する。その重苦しい雰囲気を最初に変えようとしたのは安部さんだった。「お疲れ様でした。野田さんは安定感がありました。あの、ねじれ国会をよく頑張り抜きましたね。」

 残念ながら、その時の私には、あなたの優しさを素直に受け止める心の余裕はありませんでした。でも、今なら分かる気がします。あのときの安部さんの優しさが、どこから注ぎ込まれてきたのかを。
 
 第一次政権の終わりに、失意の中であなたは、傷ついた心と体にむち打って入院先の慶応病院から、福田康夫新総理の親任式に駆けつけました。わずか一年で辞任を余儀なくされた事は、誇り高い政治家に取って耐えがたい屈辱であったはずです。あなたもまた、絶望に沈む心で、控え室での苦しい待ち時間を過ごした経験があったのですね・・・」

 追悼演説だから、負の遺産に関しては触れることは無い。日本の最高責任者を経験した者でしか分からない安部総理の功績を知ることが出来た。そして最後に、全国会議員に対して「真摯な言葉で、建設的な議論を尽くし、民主主義をより健全で強靱なものへと育てあげていこうではありませんか・・・」

 25日の夜のニュースは、野田さんの追悼演説で持ちきりだった。私は名古屋の江場さんに「やはり、野田元総理は、違いますね!というメールを打った。翌日の返信「真ちゃん、同感です!」 
                              令和4年9月28日    笹原真二
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彼我共に 同じ夢見し 四昔の 思い巡らし 秩父路の旅 

2022-09-29 20:21:04 | Weblog
     おじさんたちの修学旅行
 5月中旬、大東文化大学の陸上部の2年先輩、北九州在住の森田さんから、「森下静夫さん(3年先輩、東京在住)から、コロナ自粛も飽きたから、そろそろおじさんたちの修学旅行をしてもいいんじゃないか、計画してくれ。」という電話が入った。「分かりました。石川さん(1年先輩、埼玉在住)に、段取りしてもらいます。前回は九州だったので、今回は関東ですね。」
 
 静夫さん、石川さんに直接言えばいいのにと思いながら、「行き先は、3年前に亡くなった青葉先生(当時の陸上部の監督)の奥さんの墓参り(秩父)。これは外せないですね。秩父泊。コースとしては群馬の水沢観音にお参りして、清水屋さんで水沢うどんをいただく。それから日光東照宮にお参りして、船村徹記念館へ行くのはいかがですか?江田(1年後輩、埼玉在住)にも伝えておきます。彼は旅行会社に務めているから相談してください。広報活動は僕がしますから。」

 程なく石川さんから、「9月17~19日で決めようと思うのだが。」「それで良いんじゃないですか。」日程が決まると、早速携帯電話のメールやラインで広報活動を開始した、

 前回、当初参加を渋っていた清水(同期、広島在住)は一番に「じいさんは、楽しみにしています。」長谷川(1年後輩、愛知在住)も前回同様「是非参加させてください。」と参加表明。(結果二人とも参加することが出来なかった。)

 前回は来ていなかった作山(3年後輩、福島在住)が立石(2年後輩、長崎在住)と山崎(3年後輩、佐賀在住)が連絡を取ってくれたお陰で参加することになった。コロナも減少傾向にあったから、少なくとも20名の参加はあるだろうと見込んでいた。
 
 しかし、7月に入り第7波。コロナ罹患者は、異常な数字で増え続ける。それとは反対に参加者は減少していった。稲刈り、イチジクの収穫と重なる、野菜の植え付けがある、会社の方針、奥さんが病院勤め、奥さんの体調が・・・母親の入院等々・・・やはりこの年齢になるといろいろある。あって当然。

 そんな中、熊本の佐藤さん(2年先輩)は、一泊二日で参加すると言ってきた。熊本から高い飛行機代使って一泊は無いでしょと言ったが、頑なに一泊だけ。

 最終的には岩元さん(鹿児島1年先輩)吉元(鹿児島同期)森田さん、平盛さん(1年先輩広島)長崎(1年後輩新潟)森下静夫さん、石川さん、望月(同期東京)江田、神山(1年後輩栃木)作山、青葉先生に私。13名が二泊三日。佐藤さん榎田(同期埼玉)が一泊参加となった。

 9月17日、子供の頃の修学旅行みたいに、予定より1時間前4時に目が覚めてしまった。5時半、事務所の玄関を開ける。胎蔵寺の本堂の大仕事の真っ最中、福岡から北原君に応援に来てもらっている。そんな中、一人遊びに行くことに少々気が引ける。

 井原発5時56分の電車に乗り福山へ。平盛さんと落ち合い、新幹線に乗る。集合場所、東武東上線の高坂駅には12時に着く。3年ぶりの顔、5年ぶりの顔、作山にいたっては42年ぶりの顔だった。バスの中には笑顔の青葉先生がいる。子供のようにはしゃぐ望月。みんな再会を喜んでいる。

 バスは、新しく出来た陸上部の合宿所の前を通り一路秩父へ。46年前の新入生歓迎会が、昨日の事のように思い出される。「チーズを食べておけば胃に幕が貼って酒が飲める。」岩元さんの言ったことは嘘だった。冷たいビールコップ二杯飲んで30秒後その冷たいビールは噴水のごとく飛び出してきて撃沈。そんな思い出の地、長瀞の河原はどの辺りだったかな?と思いを巡らしながらのバスは、いつの間にか青葉家の墓地に到着した。
みんなでお墓参り。奥さん、喜んでくれたかなと思いながら、諸事情で今回参加できなかった人たちのことを思うと、参加できたことに幸せを感じた。

 お墓参りの後は、秩父泊ではなく群馬の伊香保温泉。夜の宴会で、青葉先生が「監督冥利に尽きる。」と言った言葉が嬉しかった。先輩は兄貴、後輩は弟、監督は若い親父、奥さんは若いお母さんだった。そして二人の娘、奈幸、幸紀は幼い妹だった。46年前、同じ屋根の下で同じ釜の飯を食わせてもらった。私もような者も、4年間過ごさせてもらえた事は、人生の大きな財産となった。

 翌18日は雨。朝風呂に行ったものの、風呂の温度調整がでたらめで熱くてお風呂に入れない。湯船の湯をかき出してみたがダメだった。ホテルを9時に立ち水沢観音へ。9時15分に到着、これでは水沢うどんを食べることはできない。それでも25年ほど前に行った清水屋さんを雨の中、探し当てることが出来た。お土産用のうどんも買う事が出来、意気揚々でバスに帰る。皆は少々待ちくたびれていたような・・・一路日光へ。

 車中で、皆が退屈しないようにと持ってきた「都はるみ」「山口百恵」「薬師丸ひろこ」のDVD,都はるみをかけてもらったが、みんな、「見ない」「聞かない」良いとは「言わない」。最高のDVDなのに、やはりタイミングが悪かったのかな?最終日なら良かったのかもしれない。次回は最終日にかけよう。

 東照宮の近くで昼食をとった後、東照宮へ。大勢の観光客が数珠繋ぎの中しかも大雨の中参拝。青葉先生も老体にむち打つも家康公の廟の前でギブアップ、我々は廟まで参拝することが出来たが、傘を差していたがかなり濡れる事態に。

 そして念願の船村徹記念館へ。30分のうち15分は代表曲を歌う映画ショウ。もう少しゆっくり見たかったがそれは叶わず、本を1冊買った。「船村徹記念館なんて行かなくていい。」と言っていた人たちも感激していたようだ。

 宿泊は鬼怒川温泉の大江戸温泉物語。着くなり岩元さんがウエルカムソフトクリームを見つける。無料と言うことに感激しながら二人で遠慮なく頂いた。

 宴会も終わり床に入ると、作山が、皆の幸せそうな寝顔の写真を撮っていた、これをラインで送ると言う。すると吉元が「送ること、当人の許可を取っているのか?」「いえ、取っていません。」「取っていないんだったら送っちゃダメだろ。もしトラブルになったら、出るところへ出たら、お前負けるよ。そういうことって大切なんだから。」「大久保さんのハゲ頭もラインに許可無く上げたけど、大久保さん、喜んでいましたよ。喜んでいてもダメなんですか?」「当人はOKでも奥さんが問題にしてダメだと言ったら、お前負けるよ・・・」笑いをこらえながらこのやりとりを、布団をかぶって聞いていた。作山にとって42年ぶりのテニスコート(学生時代の説教の場所)だったようだ。
 
 19日雨。台風14号の影響で山陽新幹線まで止まる。かねてから一度泊まりたかった荻窪の老舗旅館西郊(登録有形文化財)へ電話する。「今日ですが、お部屋空いていますか?」「空いています。6500円のお部屋と7000円があります。」「どう違うんですか?」「お部屋の作りが違います。」見栄をはって7000円の部屋にした。

 ホテルを9時出発、宇都宮へ、ここで神山とさよなら、青葉先生は東京ドームへ。ジャイアンツを見に行くと言う。平盛さんと私が湘南新宿ラインで東京まで同行。癌を患っている先生は、前日の二日間、時折車中で目をつぶってはきつそうな表情が見えていた。「大丈夫ですか?」と訪ねると「大丈夫だよ!」と。しかし、三日目はそんな表情は見られず体調は良さそうに見え安堵した。

 池袋で別れ、我々は東京駅のコインロッカーに荷物を入れ、柴又の帝釈天へ。日暮里で路線を乗り違え、タクシーを乗り継いでやっとの思いで柴又へ着く。先日テレビで見た密着社長交代物語の高木老舗という草団子のお店で、平盛さんと団子をいただく。帰り際、「若旦那は結婚した?」と若い従業員に尋ねると「いえ、していません。できないと思います。」思わず笑ってしまった。

 西郊には、5時過ぎに入る。憧れの老舗木造旅館、初老のご主人が出迎えてくださった。玄関、お部屋、年期が入ってなんとも言えない感覚。トイレ洗面は、共有。お風呂は、家庭のお風呂より少し大きい。2人入ればいっぱい。夕食は外で食べた。7時過ぎ、お風呂をいただく。

 風呂上がり、平盛さんはいびきをかいて寝始めた。夜、台風は庭の木々を揺らし・・・それでも夜明け前には、風も止んだ。テレビを付けると新幹線は始発から通常通り動いている。9時過ぎの新幹線に乗り、井原線との連絡も良く午後1時30分には井原へ帰ることが出来た。 
                                          令和4年9月28日 笹原 真二

追伸  2年後の「おじさんたちの修学旅行」行き先は、みんなの希望で、広島、岡山に決まった。どんなおもてなしをしようか?新幹線の中で平盛さんと話しながら帰った。楽しみが、また一つ出来た。青葉先生も「2年後行くから!」と言ってくださった。また笑顔でみんなと再会出来ることを確信している。
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 休日の 早い夕暮れ 見渡せば 残暑の中にも 秋の気配が

2022-08-28 18:40:20 | Weblog
「世の中は、優しさで満ちている」金澤泰子

 いつ頃だっただろうか?雑誌致知で、建仁寺の国宝、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」と、金澤翔子の書「風神 雷神」の屏風が並んで掲載された。絵と書の違いはあっても、全く同じものに見えたことに感動したことは、ずっと心に残っている。金澤翔子のお母さん、泰子さんが、井原に講演に来られたことがある。講演後、市の公報で知った。本当に悔やまれた、それも何年も前のことだ。

 7月30日、朝5時半過ぎテレビを付けると、静岡放送の「テレビ寺子屋」が。講師は金澤泰子さん、ダウン症の書家 金澤翔子のお母さん。その中で「翔子は、一人暮らしをしているんです。商店街の人たちに助けられながら、お料理も一人で作っています。とても上手で、美味しいんですよ・・・」

 十数年前、感動したと言いながら、金澤翔子に関する書籍は何一つ買っていなかった。だが今回は、インターネットで調べ、「翔子の書」という書の写真集、「金澤翔子の一人暮らし」「金澤翔子、涙の般若心経」の三冊を購入した。

 you tubeでも、検索し、20kgの大筆を持っての席上揮毫のライブ、お母さんの泰子さんの講演を次々と見た。東大寺の別当は、「女性とは思えないようなダイナミックな力強さ・・・.筆の運びは慎重なんだけど、書いたあとはスピード感が見られる・・・驚きました・・・」まさに言われる通りだった。

「翔子が26歳の時NHKさんが、平清盛を書くために、広島に連れて行ってくださったんですね。そこで大きなホテルを取ってくださって、お風呂に入ったんです二人でね。お風呂に入ったら窓がとても大きかったのでホテルの電気を全部消して、外を見たら四国が見えてね中空に月が浮いてて、その月の光に照らされて、翔子が私に「お母さま、幸せ?」って聞いてくれたんです。私は「幸せだよ」って言ったら「お母さま、嬉しい?」「嬉しいよ」「楽しい?」って聞いてくるんです翔子が。私は涙が止まりませんでした。
 
 26年前、私は、翔子がダウン症って告知されてから、あまりに苦しかったので日記を付けはじめていたんですね。その日記に私は「今日、私は世界で、日本で一番悲しい母親だ」って書いたんですね・・・26年経って、我が子に「幸せ?」言われて、私は「お母さまは、日本一幸せだよ」って言えたんです。こんな日が来るとは思いもしなかった。」 千葉県山武市での講演you tubeから

 お盆の15日、購入した3冊の本を読んだ。1冊は写真集だが、読み終えて、「この親にして、この子あり」一冊、一冊に、愛が溢れている。金澤翔子は、お母さんに照らされ、母泰子さんは、娘翔子に照らされている。

 幸せのお裾分けをもらったみたいだった。翌日、この感動を、鹿児島の友人、吉元政明に伝えた。写真集「翔子の書」を、「金澤翔子の一人暮らし」を、「金澤翔子、涙の般若心経」を買って読めと。 令和4年8月28日  笹原 真二

 追伸1
 翔子はダウン症の27歳の娘です。幼いころから何をしてもゆっくりで、何をしても最下位。そんな娘を育てていた私は、救われる手立てもなくオロオロと悲嘆にくれていました。しかし翔子はそんな親の嘆きをよそに、けなげに元気いっぱい生きてきました。

 そんな翔子がどのような子かと申しますと、例えば・・・
ある日、夕暮れの散歩の時に、翔子が「お母さま、お空を買って」と言って来ました。空は買えなかろうと思いつつも、手を引かれて街の方へ行くと、あった!「空あり」駐車場の(空あり・月決め2万円)の看板が出ていました。翔子は駐車場の「空」を蒼い「お空」だと思ったのです。
 また、新幹線夷乗る時は、どうしても自由席がいいと言い張ります。グリーン車の券をもらっても、翔子はスタスタと自由席に行ってしまいます。自由席の「自由」を「フリーダム」の「自由」と思い、自由席で自由になりたいのだそうです。

 ある撮影の時には、見物にいらしていたご夫婦に連れられた犬にも、翔子は丁寧に両手を添えて「どうぞ」と言って名刺を差し出しました。犬もその名刺を前に神妙にすわっていました。周りの人たちは爆笑していましたが、翔子の絶対平等感の前では、「人間は皆平等だ、どんな人にも尊厳あり・・・」などと言う私の平等感など、とても陳腐なもののように思えます。

 花を見ては手を合わせ、いつも翔子に寄り添うようについてきてくれる(ように見える)お月様には、玄関に入るとき「ありがとう」とお礼を言っている。そんな翔子にはすべての命が同じで、すべてに尊厳が見えているのでしょう。「この犬にも丁寧に名刺を」事件以来、私は花でも、犬でも、路傍の石ですら、私の心を動かしてくれていることに気が付きました。・・・・

  ダウン症の書家・金澤翔子の作品集
   「翔子の書」  書 金澤翔子 文 金澤泰子  はじめに から抜粋
 
追伸2
 最高の三冊でした。是非、買って読んでみて下さい。「広島のホテルのお風呂」の場面も、他にも心暖かくなる物語がいっぱい書いてあります。最高の教育書だと思います。幸せになれます。そして誰かに伝えたくなります。
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 真っすぐを 力いっぱい 打ち返す 真夏の球宴 一服の清涼

2022-07-28 19:27:34 | Weblog
     第7波の真っ只中

 新型コロナウイルスオミクロン株BA5による第7波の真っ只中、23日には罹患者が20万人を超えた。政府は経済活動のことも考慮して、今回の7波には、行動制限を設けず、個々の判断に委ねる形をとっている。

 昨日、テレビを付けるとNPBオールスターゲームが映し出された。観客は35,000人を超える大観衆。当たり前のようで・・・しかし、罹患者の急増を考えると違和感が。一昨年のプロ野球は、開幕延期そして、無観客から始まり、昨年は、観客制限から始まった。夏のオリンピック、パラリンピックは無観客。

 今年は、ウイズコロナ、コロナとの共生。昨年からワクチン接種も行き渡るも、効き目が薄くなる頃には、罹患者も増えるのだが、今回の第7波の増え方は尋常では無いのに行動制限は設けないと。幸いワクチン接種者の重症化リスクは少ないとのこと、さらには新薬も開発され、市販薬でもである程度対応ができると、専門家の話が出ている中で経済活動を優先したことも理解できる。

 個々の判断、自分(笹原)の判断は何かと言うと、「大丈夫じゃないかな?」という全く根拠の無い、至っていい加減な判断の下に行動して、たまたま運が良いことに罹患しなかっただけ。

 BA5が増え始めた7月9日、「人生の師匠」名古屋の江場さんを4年ぶり?に訪ねた。コロナが収まってからと思ってはいたものの、コロナの特効薬は未だに開発されず、収まってからなんて言っていたら、いつ名古屋に行くことができるか分からない。だから、「ま、大丈夫だろ?」で行くことにした。

 3年もすれば特効薬は開発されると思っていた人は多くいたのではないか?ところが、未だ開発されていない。そんな状況の中ではウイズコロナしかないのが現状のようだ。

 政府も、コロナ渦中で、ワクチン接種、行動制限、持続化給付金等、様々な施策をしてきたが、今回は、個々の判断、個々の責任に委ねたと言うこと?コロナに罹患した責任は?」誰にも無い。強いてあげるなら個々にあると言うこと。いわば「仕方ない」「どうしようも無い事がある」という当たり前のことの認識を改めて知らしめるための試練が、コロナ騒動なのかなと思う次第だ。

 昨日の、オールスターゲーム、9回裏2アウトランナーなし、マウンドには広島の森下、バッターは日本ハムの5年目の清宮、全てストレート勝負の5球目を左中間へさよならホームラン。伸び悩んでいた清宮の大きな一発は、見ていて嬉しくなるようなホームラン。ダイヤモンド回る清宮に、マウンドを降りる森下はグラブを叩いて拍手を送っていたのが微笑ましかった。ヒーローインタビューでは、「森下さんが、真っ直ぐだけを投げてくださったのでそれに、フルスィングで応えることが出来たかなと思います。」第7波の真っ只中、気持ちの良い勝負を見ることが出来た。 
                                  令和4年7月28日     笹原 真二
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 あまりにも 早い梅雨明け 暑い日々 疲れる身体 盆までもたぬ

2022-06-30 20:34:09 | Weblog
    ウクライナの戦争、四ヶ月を経て

 事務所の壁に掛けているカレンダー、6月の標語「気付いた事を、安易に見過ごしていると、何も感じない心となっていく」
 
2月24日に、圧倒的な軍事力を持つロシアが隣国ウクライナに侵攻してから四ヶ月が過ぎた。当初、3日でキーウが陥落する。一週間で終わるとさえ言われた今回の戦争。どう見ても弱い者いじめにしか見られないこのロシアの暴挙に大きな憤りを感じた。

 連日、トップニュースはウクライナの戦況を伝える悲惨な映像、ゼレンスキー大統領の断固として国土を守り抜くという英雄的な映像、ウクライナの子供達の声。NATOの会議ではゼレンスキー大統領の演説をスタンディングオーベーションで迎え、大きな指示を示しながらも、ロシアを恐れて気持ち裏腹?軍事支援は遅々として進まないように思えた。

 やるせない気持ちのまま、テレビニュースを見ていると、「何か違う」と感じるようになった。「現実の戦争のニュースが、ワイドショウになっている」。そんなことを何人かの人に話すと、皆、同じように感じていた。

 東京大学の入学式で、日本を代表する映画監督河瀬直美が、「今回の戦争、ウクライナの正義と、ロシアの正義の対立だとしたら、見方は変わってくる。」と問題定義したような事を言ったが、今回の戦争は、百歩譲ってもそんな見方は出来ないと思う。
ロシアVSアメリカや、NATOとの戦争ならば「ロシアの正義」と言う言葉もうなずける要素はあるかもしれないが、圧倒的に軍事力で劣るウクライナに戦争を仕掛けた。「弱い者いじめ」の誹りは免れない。

 アメリカ、イギリスの情報機関も、日本の軍事評論家も、以前からウクライナ軍の兵器が不足している事を盛んに発言している。それならばそのように早く兵器の補給をすれば良いと思うのだが、現実は遅れ気味、傍観者そのものの発言ばかりだ。
本来なら、ロシアとNATOの対立から始まった戦争のはずだが、何故だかウクライナが国土を廃墟にしながら最前線で戦っている。

 そんなウクライナ戦争も、三ヶ月を過ぎる頃から、長期化する様相を見せ始めた。世界的な物価上昇もあり、最近では「ウクライナ疲れ」という言葉も囁かれるようになった。さらには関連のニュースも少なくなって来たような気がしている。そんなことにも違和感を覚えている。

 改めて、6月の標語「気付いた事を、安易に見過ごしていると、何も感じない心となっていく」という言葉を自分に言い聞かせている。「専制主義VS自由主義の戦い」をウクライナ一国に押しつけている。ということを西側諸国は、決して忘れてはならない。  
                              令和4年6月28日       笹原 真二
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