甍の上で

株式会社創瓦 社長 笹原真二のブログです。

 梅雨が明け 強い日差しの 屋根の上 酷暑の汗が 滴り落ちる

2024-07-27 19:23:29 | Weblog
   娘菜穂の結婚披露宴

 6月29日土曜日に寝冷えをしたのか?翌30日の日曜日は、咳や鼻水が、その上頭痛も。昨年も夏風邪を引いて、今年も同じ事になったと、午後からは事務所の二階で横になってひたすら休んだ。

 7月1日月曜日、昼前に山成医院へ行く。先生に「寝冷えをしたみたい。体温は36.9度。頭痛がひどかったから頓服を飲んだ。」「一応コロナの検査をするから。」別に喉も痛くないから、コロナには罹っていないと思っていたところへ先生の声「真ちゃん、コロナに罹かっとるで。」

 翌日、お袋のコロナが判明、家内は陽性ではなかったそうだが、ほぼコロナの状態「頭痛と喉がものすごく痛い。」と家族全員が罹患した。倅に「全員コロナに罹患した。」とメールを打つと、「結婚式の前で良かったが!」

 20日土曜日は、三女菜穂の結婚式と披露宴だった。2週間ほど遅く罹っていたら、新婦の両親、祖母欠席の披露宴になるところだった。

 20日5時半に目が覚める。6時20分、車に乗り込み出発。9時50分頃式場のホテルに到着。家内の着付け、簡単なリハーサル。
2時から、人前結婚式、バージンロードを娘菜穂と歩く。不思議な感覚。ドラマで見たシーンが広がる。いつの間にか娘が成長し、菜穂の築いた交友関係の友達がいっぱい祝福に来てくれている。
 
 新郎匠君が初めてうちに来たのが一昨年の年末だった。「結婚を前提に同棲させてください。」と言われた時は、「それは違うだろ!」だったが、印象は良かった。披露宴に来てくれていた彼の交友関係を見て、さらには、大学時代の野球部の友達と話をさせてもらって、それはより大きなものとなった。

 主賓は、以前二人が務めていた会社の上司。退社しているにも関わらず、快く来てくださった。元同僚もいっぱい来てくれていた。その雰囲気が良かった。だから余計にありがたかった。

 二人で披露宴の催しを考え、テーブルには、それぞれ自筆でお礼のメッセージを手書きしていた。二人を紹介するプロフィール写真には、保育園の頃のピカチューを抱いている写真が使われていた。親馬鹿だが本当にかわいい写真を見て当時の頃が思い出された。お色直しではビートのきいたリズムに合わせサングラスをかけた二人が颯爽と登場!これも最高に良かった。

 最後、両親への手紙。今までは見る側だった、それが主役に。時の流れを感じる。いつの間にこんなところまで来たのだろうか?38年前の花束贈呈の場面が思い出された。「お父さんと、お母さんの娘として生まれて良かった・・・」よく聞く言葉だが素直に嬉しかった。

 直前コロナにも罹った。「思えば遠くへ来たもんだ。この先何処まで行くのやら・・・」海援隊の歌が身にしみる。      令和6年7月27日  笹原 真二
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代掻きも 田植えも終えた 夕暮れに 水も豊かに 静寂の早苗

2024-06-28 06:28:51 | Weblog
  ツバメの災難

 5月24日金曜日、仕事が終わって事務所に帰ってみると、燕の雛が糞まみれの段ボールの上で、ピヨピヨと啼きながら猿団子(寒いとき身体を寄せ合って体温を保つ様子)ならぬ、燕の雛団子の状況だった。

 お袋に聞いてみると、巣が壊れて落ちたようで、段ボールの上にのせてやったとのこと。雛を人間の手で触ると人の匂いがついて親が餌をやらなくなるということを聞いた事があったので、可哀想だけどそのままにしておいた。しかし、お母さん燕も、お父さん燕も、雛たちに、せっせせっせと餌を運んでいた。

 ノラ猫も、イタチも、ヘビだっている。どの道、それらに襲われるんだろうなと思いながら・・・26日日曜日には、雛団子から離れていた1羽が、餌をもらえなかったのか死んでいた。いずれ残りの5羽も同じ事になるだろう・・・

 しかし、27日月曜日、スマホで、「燕の雛が、巣から落ちたら」と打って検索。すると、「プラスチックの容器にティッシュを引いてその中に、ゴム手袋で雛を入れてやると親鳥が仮に人の匂いがついても餌はちゃんと運んで来る。」ということが書いてあった。昼休みに、家内に電話をしてそのように保護してもらった。24日に、ちゃんと保護していたら、あの1羽は死ななくて済んだかもしれない。

 帰って見ると容器から出て段ボールの上で雛団子。背の低い段ボールの箱を探してその中に入れてやった。雛は小さくてもたくさん糞をする。糞掃除が日課に、成長が楽しみになった。

 27日、帰って見ると、一羽の雛が段ボールの箱の縁に飛び上がっている。28日には5羽全てが縁に飛び上がっているようだ。糞を箱の外に落としている。考えて見れば、巣の下には、いつも糞が落ちていた。雛もきれい好きのようだ。

 30日木曜日の朝には、1羽が巣立ちした。夕方帰って見ると残りの4羽もいない。寂しいなと思いながら事務所の周りを見ていると、庇の上に1羽、ルーフデッキの下の筋交いの金具の上に3羽見つけることが出来た。飛ぶには飛んだが、まだ餌は採れないようで、金具の上で、「ここにいるよ。餌をくれ」と啼いている。親鳥は相変わらず餌を運んでいた。

 そんな様子を、日々ラインに上げた。その反響は。「自然の力は凄い、生命力半端じゃない!」「みんな元気に飛び立って行きますように!」「健気ですね!」「ツバメの中睦まじい様子は心穏やかになります。」等々

 巣立った後は、「良かった。良かった!」「バンザイ!バンザイ!」「良かったスタンプがいっぱい!みんなが喜んでくれた。

 ノラ猫、イタチ、ヘビ、何時襲われたって不思議でない状況の中、5羽のツバメの雛がちゃんと巣立ちした。なんて強運な燕だったのかと改めて感心した。こんなことを言うのはまだ早いが、来年もこの雛たちがうちに来てくれることを願っている。     
 
 令和6年6月28日         笹原 真二
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五月雨が 集めて流す 藻が淀む 川の汚れも 心機一転 

2024-05-28 21:22:52 | ツーリング
  仕事なんかしている場合じゃない
 
 2月中旬の夜の8時頃、酒井俊さんのオフィシャルサイトのライブスケジュールを開くと、「2024年、だいだらぼっちの春の旅」(ボーカル酒井俊、サックス林栄一、ピアノ田中信正)と題したスケジュールが載っていた。4月17日が宮崎県の串間、24日が広島ボレロ、25日が高松SO-NICEと、南からツアーが始まるという。昨年はライブツアーが終わってからオフィシャルサイトを開いた。今年は早めに開いて大正解。

 その日のうちに日南の伊藤祥子さん(10歳上のお友達)に、串間でライブがあること、その主催者谷口さんの携帯番号を伝えた。昨年、突然の電話をいただいた加藤悦子さんは、串間在住で、「彼女、喜ぶわよ!」と伊藤さん。
 
 翌日、加藤さんから電話が入った。「私、伊藤さんからの電話で、興奮して昨日は眠れなくなって、今朝、早速、谷口さんに電話しました。」と喜んでくださった。
 4月24日水曜日の広島ボレロでのライブ。この日だけは「仕事なんかしている場合じゃない!」と、広島の主催者中野さんに電話をして、田舎の天才妹尾啓典さん、芳井一の文化人三宅敏文さんの3人分のチケットを予約した。
 
 しばらくすると、また加藤さんから電話が入る。「谷口さんに連絡したら、来てくれて、ベトナムにいる酒井俊さんに電話してくれて、私、話をすることが出来たの。それで、俊さんのファンになったきっかけは、岡山の笹原さんで、笹原さんは広島のライブに行くと言ってると言ったら、あなたも広島に笹原さんと一緒に来なさいよ!と言われたから伊藤さんと広島に行くことにした。」早速、中野さんにチケット2人分の追加をメールでお願いした。
 
 ライブ会場は、広島市内のライブハウスと思い込んでいたのだが、実は安芸太田町。片道150kmある。言っては何だが、ド田舎!

 4月14日日曜日、お袋と、会場の下見に行く。宮崎から来る伊藤さんと加藤さんに、三次の辻村寿三郎記念館も見て欲しかったから、尾道道を通って三次経由で安芸太田を目指した。途中の中国道の江の川PAで、近いうちに帰ってくる茨城にいる同級生の大杉寛に電話。「24日、jazzライブが三次の先であるんだけど行かない?」「分かった。行くよ!」

 2時間半掛けて、安芸太田町加計に着いたのが11時半、桜がまだ咲いていた。川の護岸は緑の草や木々で覆われコンクリートは無い。癒やされるようなところにイタリアンのお店ボレロは位置していた。パスタとピザを頂く。どちらも美味!特にピザはモッチモチチーズで、今まで食べたピザの中で群を抜いて美味しかった。
 
 24日は、朝から小雨。笠岡の真鍋さんの現場には妹尾英明が、破風の屋根地作りに出て行った。午前中事務仕事をして、妹尾英明には悪いなと思いつつ・・・ 
 雨が上がった午後1時、大杉が運転する車で、啓典さん、三宅さんを乗せて福山駅の北側にあるベッセルホテルへ。ここで、宮崎から来た伊藤さんと加藤さんをピックアップ。福山西ICから山陽高速に乗り尾道道で三次を目指す。
 
 スマホで辻村寿三郎記念館を検索。なんと水曜日はまさかの休館日。ちゃんと調べておけば良かった。みんな初めてで楽しみにしていたのに・・・平謝りだった。
辻村寿三郎記念館に行かなかったから、予定より1時間早い4時半に安芸太田町のボレロに到着。俊さんたちは、リハーサルをしていた。ナーダムと言う曲が外まで響いてそれだけで嬉しくなる。

 時間つぶしは近くを歩いて散策。リハーサルを終えた俊さん、林さん、田中さんがテラスに出てきた。そこへ伊藤さん、加藤さんが入って行って話を始めた。川向こうにいたのだが、帰って一緒に写真に収まった。

 17時半過ぎ、ボレロのパスタを頂く。その頃からお客さんが来だした。川風が入り少し肌寒いような中、お客さんは40人にも満たない。
とんでもなく贅沢なライブが、18時40分過ぎくらいから始まった。あの酒井俊の生歌が聴ける。YouTubeと、CDでしか聞くことが出来なかった酒井俊さんが目の前で歌ってくれている。林栄一さんのサックスが啼いている。時に激しく、時に優雅に舞っているかのような田中信正さんのピアノ。YouTubeで何度見たことか?

 「回想」を聴き終わったあと、「ああ、これで死んでもいいな・・・」と思ったくらい。こんなことを思うとは夢にも思わなかったが、本当にそう思った。アンコールでは「満月の夕べ」初めてCDで聴いたとき、心を鷲掴みにされたような、魂を揺さぶられるようなそんな衝撃を受けた歌を、生歌で聴くことが出来た。夢のような二時間だった。

 酒井俊さんは、伊藤さん、加藤さんと同世代。迫力ある歌、びっくりするような声量。衰え?とんでもない!そんな酒井俊さんとライン交換をさせてもらった。そして別れ際、「来年は、岡山でやろ!」と俊さん。
 
             令和6年5月28日               笹原 真二

 追伸Ⅰ
 翌日、ラインにて「昨夜は、ありがとうございました!夢のような ひとときでした!まだ余韻が残っています!」・・・「嬉しいです。ありがとうございました♥」

 追伸Ⅱ
 3月だったjか?今、仕事に入っている日光寺の住職に、4月24日、その頃はここの本堂の仕事をしている頃と思いますが、この日だけは午後から酒井俊のライブに行くから休みます。「仕事なんかしている場合じゃない。」と言うと、「仕事なんかしている場合じゃない。その言葉って、良いですね!」と笑ってくれた。

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 蘇る 山の緑の 七変化 一雨毎に 息吹の証  

2024-04-29 20:50:26 | Weblog
 東京日帰りの一日
 21日日曜日、5時20分に起きて小雨の中、40分に家を出る。6時、神辺の平盛さんの家に着くが、平盛さんは着替えの最中。6時10分平盛さんを乗っけて福山駅に。みどりの窓口は開いていなかったから、販売機で東京往復のチケットを購入、予定通りの6時50分発ののぞみに乗り込んだ。
 
 10時17分、品川に到着。京浜東北線で蒲田の駅に。ホームには蒲田行進曲が流れていた。蒲田で池上線に乗り換える。大学に入学した年、48年前に西島三重子が歌ってヒットした曲「池上線」が思い出される。

 ♬ 池上線に揺られながら ♬・・・10時55分、久が原の駅に着いた。

 21日、大学時代の陸上競技部の監督青葉先生の瑞宝中綬章受章祝賀会のため上京することになった。ただ、祝賀会は午後16時から18時。午前中、時間に余裕があったから、久が原にある金沢翔子の画廊に行くことにした。

 駅から出ると地域のお祭りのようで、神輿が飾られて出店の準備もされ、下町のこじんまりしたきれいな商店街は、住んでみたくなるような街に感じられた。駅から200mくらいの商店街の中に画廊祥子はあった。

 画廊に入るとスタッフの女性が。岡山から来たこと、1週間前の廿日市での席上揮毫に行った事を言うと、すごく喜んでくださった。「今日は、お母さんも、翔子ちゃんもいますよ。もうすぐ降りて来ます。」「運が良い!ラッキー!写真一緒に写ってもらえますかね?」と言っていると、お母さんが降りて来た。廿日市に行ったこと、昨年は高野山での席上揮毫に行った事など話すとお母さんも喜んでくださった。早速のスマホで写真を撮らせてもらった。翔子ちゃんも降りて来てもう一枚。ここに来れたことが嬉しくて早速、ラインの仲間に送った。

 12時前に画廊祥子を後にして、池上線で五反田に、山手線で池袋へ。ここでパスタの昼食。学生時代乗り慣れた東武東上線で川越に着いたのが14時。

 大学時代の4年間、何度も川越に行っていたが「時の鐘」がある小江戸というところはいったことが無かったので歩いて散策。雑誌などでは見たことがあるとてつもない大きな鬼瓦が乗った商家の屋根には改めて驚かされた。

 16時、青葉先生の祝賀会が。先生は1月のおじさん達の修学旅行の時よりは体調は良さそうに感じられたが、やつれているのは否めない。それでもスピーチでは靑葉節は健在だった。参加者は90名を越え、草創期のOBから若いOBまでが旧交を暖めた。和やかな雰囲気の祝賀会に参加出来たこと、大東文化大学陸上競技部に在籍させてもらったことに幸せを感じた。

 祝賀会は18時過ぎにお開きに、帰りは西武新宿線の特急で高田の馬場まで。山手線で品川へ。20時7分発の最終ののぞみで福山23時30分に到着、家に着いたのは日が変わった0時30分だった。結果、忙しい一日だったが、充実した東京日帰りとなった。
      令和6年4月27日         笹原 真二
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 彼岸過ぎ 蕗が芽を出し ツバメ来る 山裾彩る 春の山菜

2024-03-28 19:58:37 | Weblog
  季節はカレンダーで知るのじゃない。

 10日の日曜日、国道182号線沿いにある神石高原町の道の駅に、ドライブを兼ねてお袋とお餅を買いに行ったところ、春の山菜、蕗の薹と、随分早いタラの芽があった。天然ものは4月中旬辺りから特産品売り場等に並ぶのだが、タラの芽は、イガイガが無かったからハウスで育てた養殖物のようだった。

 早速、お餅はもちろん、蕗の薹とタラの芽を買って、お昼に天ぷら。先日頂いたうどんを作って食べることにした。帰りの道中、同級生、柳本益弘と、多賀浩二に電話をして、「お昼に山菜の天ぷらと、うどんを作るから来ない?」と誘った。蕗の薹と、タラの芽の天ぷら、温かいうどん、質素でなんでもないような昼食が豪華に感じる。二人とも「蕗の薹も、タラの芽も、香りとちょっとの苦みが良い。美味しい。」喜んでくれた。

 24日日曜日、金曜日から帰省していた倅の卓真に、「蕗の薹や、タラの芽の天ぷらを食べさせてやりたい。」と、お袋が言い出した。今回は成羽の特産品売り場へ。ここは昨年、コシアブラもタラの芽もたくさんあったから、来てみたのだが、やはりまだ早く、お店の人からは、「4月の中旬あたりからですね。」

 それならばと、182号線沿いの道の駅に行ったのだが、売り切れたのか、農家の人が出していなかったのか?蕗の薹もハウスのタラの芽もない。諦めて国道ではなく、山野に抜ける山の中の細い道を通って帰っていると、蕗の薹が芽を出しているではないか。そんな蕗の薹を見つけては車を止めて採りながら帰った。

 帰ってから洗って見ると、買えば2000円分くらいの量の蕗の薹が。今夜は、蕗の薹と、お袋が畑で作っている野菜の天ぷらだ。

 蕗の薹が芽を出している写真、洗ってザルに入れている写真、天ぷらの写真をライン仲間に上げる。都会に住んでいる人ほど、喜んでくれる。「季節を感じる!天ぷらで喰いてえ!」「春ですねえ!蕗の薹の天ぷら、羨ましい!」「天ぷら、美味しいにきまってる!」「自然の中にある旬の物を、頂けること、最高の贅沢ですよね。」「春が来ましたね!目にも口にも!」いいね!のスタンプ等々。

 2月中旬、静岡在住の友達が、真っ青な空と満開の河津桜の写真、菜の花満開の写真を送って来てくれた。2月に春の到来を告げてくれた。やはり花は良い。
先日から、事務所の君子蘭が咲き始めた。いよいよ春は近くなってきた。そんな写真もライン仲間に送った。すると胡蝶蘭を復活させることが出来たときれいな写真を送ってくれた人もいる。

 今年も4日ほど前から、ツバメが来てくれた。春が来たことを実感する。もうすぐ桜も満開だ。そんな写真をふるさとから離れて暮らす友達に送る。
劇団ふるさとキャラバンの歌、「季節はカレンダーで知るのじゃない」じゃないが、目と口で春を感じる。なんと幸せなことか!
   
    令和6年3月28日           笹原 真二
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蘇る 学生時代 青春の 歩んだ道は 今ここに有り

2024-03-02 22:02:22 | Weblog
    おじさんたちの修学旅行、岡山・広島編
 
前回の大東文化大学陸上競技部有志によるおじさんたちの修学旅行の時(一昨年の9月)、「宮島に行きたい!平和資料館に行きたい!広島のお好み焼きが食べたい!」ということで決まった今回の旅。

 1年後輩の観光会社に勤めている江田からは、秋は、観光シーズンなので1月2月の観光業にとってオフシーズンにしてくださいというリクエストをもらっていた。
自分の中で決めた宿泊先の一つは、愛媛県今治市の来島海峡の北側に位置する大島の千年松という料理旅館、ここなら冬の美味し瀬戸内の幸をみんなにいっぱい食べてもらうことができる。その上、岡山県の児島と香川県の坂出を結ぶ瀬戸中央道と、愛媛県の今治と広島県の尾道を結ぶしまなみ海道の二つの瀬戸大橋も渡ってもらうことができるドライブコースだ。広島、宮島については、同期の清水に任せておけば良い。

 そんな清水が、一昨年12月17日、突然、心筋梗塞で亡くなった。吉元、平盛さんと悔みに行ったとき、「笹原さんから電話をいただいて、皆さんに広島に来ていただいたら、宮島とか、呉の潜水艦とか・・・下見に二人で行ってみようと話をしていたんですけど、それも叶わなくなってしまいました・・・」という奥さんの言葉がさみしさを余計につのらせた。
 
 7年先輩の呉の中松さんに、旅行の話をすると、「そりゃあ、呉に泊まりゃあええ。二次会は、うちのスポーツバーチャンピオンで歌い放題、飲み放題じゃあ!」ということで、中松さんが、呉での宿泊、食事の段取りをしてくださり、旅の大枠は決まった。

 日程はGW,2年先輩の森田さんの大分、天ヶ瀬の別荘に遊びに行った時、1月26日金曜日から28日日曜日の二泊三日で決まる。8月の末にアバウトな日程表を作り、同世代のOBと、中松さんの世代のOBに案内を出した。

 9月の末で二泊三日の参加予定者が、我々の時代の監督、青葉先生を含め28名、二日目の呉参加が3名という状況だった。
年末の24日、今回の代表幹事の中松さんが自分の誕生会で、酔っぱらって階段から転倒。救急車で運ばれ労災病院に入院している写真が送付されてきた。顔には青痣、身体はコルセット、腕、足は包帯、満身創痍。旅行日までに退院できるのか?。

 年が明け正月3日に再確認を取った。年末に入院し、放射線治療をしていた青葉先生は、体調が良くないということで欠席、2年先輩の熊本の佐藤さんは、お父さんの具合が良くない。1年先輩の鹿児島の米盛さんも、昨年骨折した足の状況が良くないということでそれぞれ不参加ということになった。

 旅行2週間前の14日、日曜日、幹事の平盛さんと、清水のお墓参りのこと、宮島での昼食、厳島神社、弥山ロープウェイの下見に行って、帰りに中松さんの見舞いも兼ねて旅行の最終打ち合わせに行くことにしていた。

 前日の13日、中松さんから電話が入る。すでに退院しているという。「明日、清水のお墓参りの件、宮島での昼食の件で広島に行く。」と言うと、「わしも一緒に行く。昼食はどこか決めとるん?もし決めてなかったら、広陵高校の野球部出身で大東の野球部の同級生が宮島で旅館や食堂をやっとるから、そこへ予約すれば良いが!」宮島のお店はネットで調べても予約不可ところが多く。中松さんの提案はありがたかった。

 当日、10時前に中松さんのお家に着く。まだ帰宅していないと、「えっ」てな感じ。着く前に何度か電話を入れたが応答がなかった。奥さんが「お茶でも飲んでおいてください。」いうお言葉に甘えてお茶を飲んでいると、中松さんは帰ってきた。

 清水の家に行って仏壇に手を合わせた後、清水が眠る霊園に、家と同様、清水が好きそうなロケーション。「2週間後、みんなで来るから。」と言って霊園を後にした。中松さんは佐伯区にいる中松さんの1年先輩の坂本さんに電話、「宮島にご飯を食べに行こう。」ということで、坂本さんをピックアップ。4人で宮島に渡った。

 宮島に着くと、目の前が中松さんの友達の旅館、山一別館へ着いたのが午後1時過ぎ。そこのレストランで穴子定食を三つ。中松さんは要らないという。来るときは平盛さんの運転だったが、帰りは私が運転ということで、中松さん、坂本さん、平盛さんはビールを飲みなが昔の話。2時間くらい居ただろうか?やっと席を立ったと思いきや、「わしは、腹が減った。」ということで二件目のお店に。別館の姉妹店、山一本館へ。ここでも飲む勢いは止まらない。おかげで弥山のロープウェイの下見は出来ず帰ってからのネットで調べることになった。

 フェリーで宮島口に戻ると、中松さんは、船の中で意気投合した、広島工業大学で棒高跳びをしていたという大学院の院生カップルと、スタンドでお酒を飲みだした。駐車場から車を出して、帰りを再三促すものの、「わしは、ここのホテルへ泊まる。」と言って聞かない。あきらめて中松さんを置いて帰ることにした。

 3人で、「どひょうしな人じゃ。(とんでもない人)」と言いながら、坂本さんを送り届けた。後ろの席を見ると、中松さんのバッグが。呉の自宅に届けるため高速の広島呉道路を走る。飲みすぎた平盛さんは、「止めてくれ!」止めると同時に車外で嘔吐。

 奥さんに、「宮島で、飲みすぎてしまって、帰りましょうと言っても、ここのホテルに泊まると言って聞かないものですから、ごめんなさい。置いて帰りました。」と平謝り。翌日、中松さんから謝りのメールが入った。

 22日、「参加できないと言っていた青葉先生が、体調が良くなったから行きたいと言ってきた。」と石川さんから電話が入る。「本当ですか?良かった!青葉先生が来ることになればみんな喜びますよ。千年松の瀬戸内の幸を食べてもらって元気になってほしい。」楽しみが一つ増えた。

 25日、鹿児島から岩元さん、宮地さん。新潟からは、佐野さん、高橋、長崎、福島から作山、長崎から立石の前泊組がやってきた。幹事の平盛さん、地元の小学校から大学まで全て同窓の藤井、レスリング部OBの山本と、前夜祭。みんな大東文化大学!昔話を魚に、すき焼きの鍋を囲む。

 26日金曜日、レンタカーのマイクロバス(運転手は立石)と、平盛ワゴンで事務所を出る。集合場所の新倉敷駅には、広島から坂本さん、中松さんが来ていた。一昨日からの雪の影響で少し遅れると言う関東組からの連絡が入るものの、12時過ぎには全員が集合、倉敷の美観地区に移動した。

 参加者は、福島から作山、栃木から神山、新潟から佐野さん、高橋、長崎、埼玉から、監督の青葉先生、中さん、石川さん、望月、江田、高畑、東京から、森下静夫さん、法村さん夫妻、静岡から 増井さん、鹿児島から宮地さん、岩元さん、吉元、長崎から、寺坂さん、立石、佐賀から、山崎、福岡から森田さん、広島から坂本さん、中松さん、平盛さん、岡山から私の26名。青葉先生は体調が良くなったというが、笑顔とはうらはらに少しやつれた感じが見て取れたが、ここまで、来てくださった事が嬉しかった。

 倉敷美観地区で1時間ほど散策。午後二時出発で、瀬戸中央道を通って来島海峡の北の島、大島の千年松を目指した。今治の「さいさい来て屋」で「今、一番美味しいみかんは?」と尋ね、甘平というミカンを箱買い2箱で12000円。一つ約300円のミカンは最高に美味しかったが、青葉先生に聞いてみると「美味しくない。」放射線治療は、それだけきついのか?味覚を壊しているようだった。

 5時半、千年松に到着、お風呂に入って6時半から宴会。歓迎の挨拶は代表幹事の中松さん、「箱根駅伝のシード権を取れて、万々歳だった・・・」と、続く青葉先生の挨拶では「中松、おかしなこと言っちゃダメだよ。この前の都道府県対抗駅伝でも、うちの久保田が、青山の黒田に勝って区間2位。ちゃんと力のある選手が育っている、2~3年後には箱根で上位に行ける。シード取ったくらいで万歳じゃないよ・・・」と、いつもの靑葉節の炸裂が場を盛り上げた。

 みんなに食べてもらいたかった瀬戸内の幸の舌鼓を打ちながら、締めは鯛飯。「美味しい」と言っておかわりする人がいっぱい。40年振りに会った人もいる。40年という時間を感じさせない雰囲気になるのは、やはり同じ釜の飯を喰った仲間だからだろう。

 27日土曜日、7時半朝食。8時50分に千年松を出発(運転手は江田。観光バスを運転しているプロドライバーの江田が今日は、僕が運転しますと。)、しまなみ街道のロケーションを楽しんでもらうコースなのに、みんな話ばかりしている。
 11時過ぎ、一昨年の12月17日に亡くなった清水が眠る霊園に。すでに、清水の奥さんがお孫さんと来ていた。みんなでお墓参り。清水が喜んでくれているだろうなと思いながら、こうしてお墓参りが出来たことに幸せを感じた。

 12時20分に宮島に到着。山一本店で、穴子定食、牡蠣フライの昼食を取り、厳島神社を拝観。大鳥居は満ち潮で海の中にあった。海の回廊を歩いた後、宝物館も見学。中松さんは、皆をリードして観光案内をしていたのだが、「仕事が入って、呉に帰らんといかん。青葉先生、増田さん、坂本さんの3人はもう歩けんと言って山一で待ってるけど、一緒に呉に帰るから・・・」と/

 残された若者組は、宮島ロープウェイに乗るため歩く。二週間前、下見が出来なかったが、ロープウェイを上がった先の展望台から見る瀬戸内の大パノラマ素晴らしいとネットの口コミ情報。だから、みんなに見てもらいたくて、時間との闘いだったが、展望台10分で、「帰りましょう!」
海辺まで降りると、引き潮で大鳥居まで歩いて行ける状況になっていたが、時間がおしていたので再度、「帰りますよ!」

 森田さんは、翌日、用事があるため、平盛ワゴンで広島駅に。マイクロバスは、呉ステーションホテルに。予定していた時間は少しオーバーしたが、無事チェックインすることが出来た。ホテルで、呉のカレーを頂いて、中松さんのお店、スポーツバーチャンピオンで、二次会。明日も半日あるのだけれど、幹事の役目は半分終わったような解放された気分になっていた。

 お開きにすると言ったにも関わらず、60歳を過ぎても、子供の頃、テレビで見ていた戦隊ものガッチャマンの歌を歌っていた作山は、途中で止められて不完全燃焼。

 中松さんに支払いを終えた後、増井さん、坂本さんが、「楽しかった!ありがとう!また、次も是非、誘ってくれ!」と言ってくださった。お二人とも、私からは8年先輩。ジェネレーションギャップもあったから、少しだけ心配していた。しかし、こんな言葉を頂いて本当に嬉しかった。2週間前の出来事は、初めてお会いさせてもらった坂本さんとの距離をぐっと縮めさせてくれた。いわば貴重なハプニングだったようだ。

 28日日曜日、運転手は山崎。閉館中だと聞いていた大和ミュージアムが開いていたので入館。駆け足で、30分くらいで展示館を回る。その後は、平和公園へ。
平和資料館は、じっくり見たいと思っていたが、やはり時計が気になる。近いからまたゆっくり来るしか無いと思いながら、二階の渡り廊下を歩いていると、ベンチで寝ている人がいた。なんと中松さん。聞けば昨夜のお開きの後は、店にお客さんが来て、結果一睡もしていないという。平和資料館で昼寝をする人はあまりいない。

 12時、皆を広島駅に送り届けて解散。みんなには、広島のお好み焼きを食べてもらって帰路についてもらう。予定通り全行程を終えることが出来た。
本当にほっとした。事故無く、楽しく3日間の旅が出来たことに感謝だった。ほっとした開放感と、みんなと別れる寂しい気持ちが入り交じった。
解放されたと思ったところに、吉元が「呉のホテルに、新幹線のチケットを忘れたから、呉まで連れてって!」マイクロバスで呉のホテルへ二人旅。最寄りの東広島駅へ向かう。

 途中、お腹が空いたのでラーメン屋さんへ。その駐車場でマイクロバスの後部バンパーを山裾にぶつけて損傷。「あーあ、やってしまった!」怪我したわけじゃないと・・・解放感に浸るのが早すぎた。旅は自分の家に帰り着くまで気を抜くな。と言うが改めて反省。

 旅行費用の残金は、能登地震の大被害に遭った石川県に寄付をすることを了解してもらっていた。バンパーの修理費用は幹事権限で拠出させてもらった。最終的な残金約10万円を石川県に義援金として寄付することが出来た。

 私が2年生の時まで、能登半島一周駅伝が開催されていた。またいつか、再開されたら良いなと思いながら・・・     

       令和6年2月29日       笹原 真二 
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六十路坂 幼なじみの 思い出は 温泉津のお湯と 大蛇の神楽 

2024-02-29 21:23:42 | Weblog
   幼なじみの思い出は
 
 芳井小学校、中学校の男の同級生と、年に一度、兵庫県の香住に蟹を食べに行ったり、温泉に行ったりという一泊旅行をするようになって10年以上になる。数年前から、女性も誘っても良いんじゃないかという話が出ていた。
 
 昨年6月には、高野山金剛峯寺での金澤翔子の席上揮毫が見たくて女の人も誘ってみたら、片岡一代さんと、倉橋千恵子さんの二人が参加してくれて7名で高野山の宿坊に泊まる一泊旅行をすることが出来た。
 
 9月、中学校の同窓会をした時、「年が明けたら、蟹か、温泉かは分らないけど、計画したら誘うから。」と言うと、多くの人が「連絡して!」と。

 11月の中旬、山成医院に行くと、「2月24、25日の土日なら、行けそう」と。今回も医者付きの旅行が出来る。我々はなんと贅沢な旅が出来ることか。
 
 初めて参加する人もいるから、会費は抑えたかった。独断で蟹ではなく、島根県の温泉津温泉の、のがわや旅館を予約した。みんなに電話やラインで「素敵な旅館です。楽しみにして!」と案内を送った。「2月の予定はまだ分らないから・・・」等の返信もあったが、12月末で、女3名、男15名が参加する予定になった。

 過去最多記録の12名を大きく上回り18名。レンタル料はかかるがマイクロバスを借りる事にした。ところが、1月に入ってから、山成先生が、「ごめん!医療研修会が入った・・・」森政監督からは「福岡クロカンに引率して行かないと・・・」三宅美洋は「家の事情ができて・・・」大杉寛は「年末に手術した肩の具合が・・・」締めは前日、池田寛子さんが「うちのお母さんがコロナになった・・・」計5名が行けなくなり、参加者は13名となる。

 24日午前9時、うちの事務所をマイクロバスで出発。運転手は多賀浩二。妹尾和弘は「子供みたいに、嬉しゅうて3時に目が覚めて寝れんかった。」大阪から駆けつけた高橋忠弘は、「朝3時に起きてきた!寝不足や!」みんなおじさんやおばさんなのに、表情は子供。

 お昼はノドグロ炙り丼を食べる予定が・・・江津のお店に到着したのが12時30分、なんと待ち時間が2時間近くかかりそうなので諦める。やっと見つけた道の駅で、結果、チャンポン、カレー等。ノドグロを食べようと皆を喜ばせていただけに少し心が痛かった。

 温泉津温泉の宿、のがわや旅館へ着いたのが14時過ぎだったが、チェックインまで少し時間があったので、ご主人に勧められた「焼き物の里」に見学に行く。巨大な登り窯とギャラリーを見学。

 15時過ぎにチェックイン、部屋に入ったあとは、1時間ほど、温泉街を散策。古い木造の家屋が建ち並ぶノスタルジックな温泉街、昔は湯治場だったという。10年ほど前、初めて来た時の感動を思い出させてくれた。今まで行った温泉の中で、何処が好きと問われたなら迷わず「温泉津温泉!」と答える。

 5時前にお風呂を頂く。まだ日が沈まぬうちのお風呂に幸せを感じる。18時から夕食。出される料理の全てが美味しかった。お刺身も天ぷらも、特に美味しかったのは、お昼食べることが出来なかったノドグロの煮付け。みんな美味しい顔で、山陰の海の幸、山の幸に舌鼓。お酒も進む。三宅孝一のお酒を飲む時の幸せいっぱいの顔。蟹好きの小野弥生さん、片岡一代さんは、「蟹が無い!」と少し不満気だったが、蟹が無くとも「美味しい!」と言って食べている。

 8時から、近くの龍御前神社の石見神楽を見に行く。古いお寺や、神社が好きな今井達也には、「石見神楽を見に行こう!」と言って誘った。ビート効いたリズムで八岐大蛇がダイナミックに舞う。「写真はOKだけど動画は撮らないでください」と言われていたが、ラインでみんなに見てもらいたかったから、心で謝りながら少しだけ撮らせてもらった。お囃子のかわいい子供達が一所懸命叩くチャッパ(シンバルを小さくした様な楽器)が、神楽を一層魅力的なものにしてくれている。勿論、お花も包んだ。

 25日、朝風呂の後、昨日撮った写真や動画をラインに上げる。7時半から朝食。いつもの事ながら旅館の朝ご飯の美味しい事この上ない。8時半、出発の用意をしていると、旅館の前で若い女の子が3人、女将さんに写真を撮ってもらっている。聞けば首都圏の大学院に通う学生さん。首都圏の若い人がこんな地方の温泉に来ていることが嬉しかった。我々も学生時代に戻って女将さんに写真や動画を撮ってもらった。

 9時20分頃、太田の和田珍味に到着。開店は10時と書いてあったが、同着した社員さんが慌てて店に入りオープンさせてくれた。「お店に入っても良い?バスだから、開けてくれたんですか?」笑顔で「ハイ、大丈夫です!」

 出雲大社にお参りして、お昼は駐車場に近くの出雲そば。美味!

 その後、三次まで帰って、もののけミュージアムと、辻村寿三郎記念館へ。南総里見八犬伝の人形師、ここは昨秋、お袋と来たが、また来たくなるところ。春には展示の入れ替えも、この記念館の建物が古く趣が良いのだ。第三日曜日には二代目辻村寿三郎さんが人形舞を見せてくれるという。

 帰路は、東京から参加した小田徹を福山駅まで送るため尾道道を南下。ここでもハプニングが、緊急路側帯に停車して難を逃れた。文字通り珍道中の旅だった。
 
女33000円、男35000円の会費だったが、3000円の追加徴収。「笹原のぼったくりツアーじゃ!」と言いながら、みんな快く出してくれた。結果、全ての支払いを終え7446円が残金。これが二日間、安全運転で旅の重要な役割を担ってくれた多賀浩二へのお礼となった。また一つ幼なじみの思い出が増えた。
     
                   令和6年2月28日             笹原 真二

※参加者  片岡一代 小野弥生 小田徹 高橋忠弘 今井達也 松井元司
河合昭二 柳本益弘 三宅孝一 榊原俊英 妹尾和弘 多賀浩二 笹原真二
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冬の朝 一面覆う 霜柱 足先ギンギン 指先凍る 

2024-01-29 21:54:22 | Weblog
   私財40億円の偽善
 元旦に発生した能登地震、テレビニュースに上がらない日は無く、映像を見るたびに、暖房のきいた部屋から、「本当に気の毒だな、出来ることは寄付ぐらいしか無い。」と言いながら、今だ、寄付はしていない現状だ。
 
 そんな中、インターネットのニュースの中に杉良太郎さんが、能登半島で完全自腹の炊き出しをしたという記事を見つけた。
 
 以前、杉良太郎さんが、バングラデシュ、ベトナムなど東南アジアを中心に私費を投じて孤児院の学校を建設していること。その孤児の多くを養子にしていること。阪神淡路大震災、東日本大震災でも、炊き出しで被災者を支援したことも、定期的に刑務所へ慰問していることも、雑誌致知の記事に知っていた。だから、杉良太郎さんのニュースに目が止まった。
  
  以下、Newsポストセブンから抜粋
  
 御年79歳。この人の行動力には、誰も敵わない。1月19日から三日間、杉良太郎さんが、キッチンカー3台で石川県金沢市に駆けつけ、「いしかわ総合スポーツセンター」で、炊き出しを行った。寒風吹きすさぶ中で、肉うどん、カレー、炊き込みご飯、肉野菜炒め、豚汁など振る舞い、デザートの果物など提供した。
 
 SNS上では「偽善者」や「売名行為」という声も上がるが、杉は、「被災者にそんなこと言っている暇は無いんだよ。被災者にはどうでもいいこと。明日は我が身、あなたのところにも起きるんだから、みんなで協力していくしかないんだよ。」と一蹴。
 
 12年前、東日本大震災の時、宮城県石巻市へトレーラーや冷凍車など車両20台で数千人分の救援物資を大量に届けて、毎日5000食以上を炊き出しして被災者を支援した。
 
 そんな最中、「芸能人の売名」と言われた時、杉は、「ええ、売名ですよ。みなさんも、おやりになるといい。」とピシャリ。「確かに福祉は時間とお金がかかる。特にお金が無いと見栄えのいい福祉はできない。でも、お金が無い人は、時間を寄付すればいい。お金も時間も無い人は、福祉を理解して、実際に活動している人に拍手を送るだけで十分。それで、もう立派な福祉家なんです」と説いた。

 ある芸能関係者は「あり余る程のお金があると思われがちですが、実際は過去には資金集めで銀行から1億円を借りるなど、身を投げうってきた人なんです。演歌歌手の妻、伍代夏子との私生活も、いわゆるセレブ暮らしではなく、堅実な日常だと。それでも人助けを続けるのは、それが杉さんの生き様だからです。」

 あまり知られていないが、2010年、尖閣諸島問題では、中国がレアメタルの輸出を停止した際、杉がベトナム産の輸入を主導して国難を救っていた。
「知行合一」知って行わざれば、未だ是知らざるなり。知って行い合わせて一つ。せめてもの寄付、早くしなければ!   
           
                                                令和6年1月27日 笹原 真二
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 行く時が 年追う毎に 早すぎる おおつごもりは センチメンタル    

2023-12-30 21:24:33 | Weblog
     突然の電話
 今年の5月だったか、6月だったか?日曜日の午前中、携帯に突然、知らない番号の人から電話が入ってきた。

「私、日南の伊藤翔子さんの友達で、加藤悦子と言います。突然、電話掛けてごめんなさい。私ね、今朝4時頃から、伊藤さんから借りた酒井俊のCDを聴いていてね、ずっと涙が止まらないんです。私、尾崎豊が大好きなのね、酒井俊のCDを聴いて尾崎豊以来の感動で、笹原さんとお話がしたくて伊藤さんに教えてもらって、ご迷惑も顧みず電話させてもらった次第です。」

「酒井俊さんの「回想」という10分を超す曲でしょ。僕も、大好きで、倅にも言っているんです。俺の葬儀の時の出棺時の曲はこれをエンドレスで流してくれと。「ちりじりになったかけらたちよ、だかせてはくれまいか?慈しんだあるいは見捨てた、かけらたちかけら」詩が、優しくて切なくて、人生そのものの詩。この曲は、ジャズのサックス奏者の林栄一さんが作曲して、ジャズ歌手の酒井俊さんに林さんが詩を依頼して出来た曲だそうです。」と清水紹音さんから聞いていた「回想」という曲の生い立ちを話した。

 こんな突然の電話は、迷惑どころか、すごく嬉しい電話だった。同じ曲に、同じように感動、共感することが嬉しかった。その日はルンルンな気分だった。

 酒井俊さんの歌は、紹音さんの家で聴かせてもらった「満月の夕べ」にハマり、ユーチューブで検索していたら、ボーカル酒井俊、サックス林栄一、ピアノ田中信正の「だいだらぼっち」というグループにたどり着き「回想」という曲を初めて聴いた。それからしばらくいくつかの「回想を」聴いた。ライブ会場によって、その時の雰囲気によって様々な「回想」がユーチューブに上がっていて、どれもが魅力的だった。そんなことも、電話で加藤さんに伝えた。

 ボーカルの酒井俊さんの表情、サックスの林栄一さんの表情、間、ピアノの田中信正さんの演奏を見て聞いて、この「回想」と言う曲は「だいだらぼっち」のライブでしか披露しない曲のようだった。実際、酒井俊さん単独のライブ動画では「回想」を聴くことは出来ない。
 
 日南の伊藤さんは、東京の日本BE研究所(感性、感受性の訓練・研究)の行徳哲夫先生の事務所で秘書をされていた。30年以上前のことだが、年に一度のBE例会が東京であった時、二度程参加させてもらった。その時、受付に伊藤さんがいて「岡山の笹原さんね。」なんで俺の名前を知ってるんだろう?と単純に感動した。

 伊藤さんが、東京から実家のみかん作りのため日南に帰られてから、一度お家に遊びに行かせてもらったこともある。10歳ほど先輩だが、そんな女性の友達がいるということが、さらには、そのお友達の加藤さんから突然の電話が入る。そんなことが面白い。 令和5年12月26日      笹原 真二
 
 回 想    詩 酒井 俊   曲 林 栄一

すっくと立ってた人、たたいていた壁 
光る涙、瞳の奥、叫んでた欲望
浜風にたわむれ、くるくるまわる女 
行き違う自転車、麦わら帽子の眩しき

ちりぢりになったかけらたちよ、
だかせてはくれまいか?
慈しんだあるいは見捨てた、かけらたちかけら

小さな指との約束、今夜の線香花火
破っては拭えぬ痛み ざっくりと悔恨

笑い声、青の光線、きらり充満する小部屋 
白いバラに隠された棘、気がつかずに過ごした 
落ち着いたと思えば逃げる、天使のいたずら 
苦しみさえも幸せの一部と、受け入れる人の貴き

ちりぢりになったかけらたちよ、
だかせてはくれまいか?
慈しんだあるいは見捨てた、かけらたちかけら

ひとり旅だった少年、見知らぬ国の空港 
その匂いが今は、好きだと笑った後ろ姿

タオル大きいブカブカ、見えなくなっちゃったね体
捨てられていった足踏みオルガン、二人で運んだよ
街角で出会った父さん、異邦人の面影 
大好きなおばあちゃんの声が消えた夜

ちりぢりになったかけらたちよ、
だかせてはくれまいか?
慈しんだあるいは見捨てた、かけらたちかけら


初めての林間学校、見上げる不安気な眼差し
大丈夫よと送り出した、困惑の瞬間

ある主なきテーブルに、残された楽譜たち
雨にざわめき、うたい揺れる、木々達の涙
秩序なき日常、迷い失った生活
悲しみがみえすぎるその目、その耳とじて

ちりぢりになったかけらたちよ
だかせてはくれまいか?
慈しんだあるいは見捨てた、かけらたちかけら

底なし沼のような不安定な人生
けど、冒険の日々、揺るがずに行ったね砂漠、波、果てしなき

色あせた古布の、懐かしい温もり
おおつごもりの日、母の動線、追いつけなくて
突然の積雪にはしゃぎ、眠ってしまった手と手
遠い昔すんでた街の、消えた曲がり角

ちりぢりになったかけらたちよ
だかせてはくれまいか?
慈しんだあるいは見捨てた、かけらたちかけら

冬になる前に埋めた、内緒の球根
春になって芽をだしたね、はじける笑顔
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駆け足の 秋は短し 矢のごとく 師匠も走る 師走に入る

2023-12-01 21:08:10 | Weblog
     母とお伊勢参り

 25日午前4時前、玄関を出ると、西南の方角にオリオン座、北の方角には北斗七星が。冬の星座が煌めいていた、凛とした空気の中4時半過ぎお袋と伊勢に向けて車に乗り込む。

 空が明けた6時半頃、三木SAで休憩。京都東から大津の辺りで渋滞にあったもののその後は順調に流れる。8時、新名神高速の土山SA、小雨が降る寒い中、松阪牛の豚まんならぬ牛まんを550円を購入ものすごく美味しい。9時50分、伊勢神宮外宮に到着。

 内宮には、二度お参りしたことがあるが、外宮にお参りするのは初めて。駐車場から400mくらい歩いて正門へ。表参道火除橋を渡って、勾玉池を見て手水舎で清め神楽殿へ、御朱印を頂く。正宮へお参り、亀石を渡り、風宮、土宮へお参り、多賀宮へは急な石段を登って行くのだが、お袋は足が痛いとリタイア。一人でお参りをした。下で待ってくれていたお袋と北御門の日除橋を抜けると駐車場が目の前にあった。約1時間。

 食レポ番組でよく出る伊勢のブランドスパゲッティ、モリスパを食べたくて喫茶モリへ行くが駐車場が無い、しばらく探したが諦めて路上駐車。15分くらい並んで店内へ。昭和の小さな喫茶店、熱々の鉄板の上に卵とパゲッティ650円が本日の昼食。勿論美味。

 12時過ぎにモリを出て内宮へ。宇治橋にちかい駐車場は1時間待ち、臨時駐車場へと向かうが、ここから内宮まで1㎞以上ある。おかげ横町は人、人、人でいっぱい。宇治橋に着く。ここが全日本大学駅伝のゴール地点。43年前、青葉先生と監督車に乗っていたことが思い出された。

 五十鈴川の御手洗場で手を清める。清流の中に小さな魚がいっぱい泳いでいる。上流を見ると神々しいような陽光と紅葉が。お袋が歩けないと言って一休み、91歳の母親とお伊勢参りが出来ることにこの上ない幸せを感じる。

 23年前、江場さんに誘われて伊勢修養団の研修会に参加した。この時、五十鈴川で一糸まとわず禊ぎをした、7月の夜だった。翌日の早朝には、正宮の玉砂利の中まで入ってお参りさせていただいた。「伊勢神宮は、全て腐るのもで、出来ています」という一言に感動した。「国歌君が代には二番があるんです」ということも、そしてトイレ掃除も教わった。

 お袋も歩き出した。神楽殿で御朱印を頂き正宮へお参り、さらには荒祭宮、風日祈宮をお参りして内宮を後にした。

 おかげ横町のいっぱいあるお店の中で、たまたま「千の幸」というお店でお土産を買う。持ちきれない量になってしまった。するとお店の人が駐車場まで一緒に運んでくださった。文字通り私たちにとって「千の幸」だった。次に来た時もこのお店でお土産を買う。

 15時過ぎ臨時駐車場を出て、二見浦の夫婦岩へ。年末年始には必ずニュースでは見る。着いて海の彼方を見ると富士山がうっすらと見える。ラッキー!大洋に面した夫婦岩は荒波の中に雄々しく建っていた。

 お袋がお参りしたいと言っていた女の人の願いなら一つだけ叶えてくれる石神様(神明神社)がある鳥羽の相差(おうさつ)へ着いたのが16時半、宿のかず美さんへ入る。その後、石神様へ早速参るも御朱印がいただける時間は過ぎていた。境内は小さくどこの町にでもあるような神社。

 お風呂をいただいて6時から食事、鳥羽の海の幸がこれでもかというくらい満載。鮑のお刺身は格別。91歳のお袋と二人での完食は当然のごとく無理だった。夕食後もう一度お風呂に入って就寝21時。

 よく眠ることが出来た。7時過ぎ散歩に、5分も歩くと防波堤が、きれいな海が広がる。瀬戸内の海とは違い果てしなく広がっている。朝食を取り8時過ぎ宿を出て石上様へ。すでに40名くらいの方が団体でお参りされていた。御朱印をもらって帰る頃には、さらに二団体のお参りが、女の人の多いこと、やはり女の人の願いを叶えてくれる神様なのだ。
 
 9時過ぎ、石上様を出て、伊勢道で松阪まで、松坂から国道165号線の伊賀越えで名張、宇陀、天理、奈良、阪奈道に乗って阪神高速へ、山陽道は工事のため一部通行止め、そのおかげで中国池田から中国道を走り北房まで、30年振りに大阪からの中国道を走ることが出来た。
 
 旅の途中、途中でライン仲間に写真を送っていた。多くの友達から、「親孝行、いいね!」のメッセージが送られて来た。静岡の伊豆在住の益本からは「親孝行したいときに、親はなし。羨ましい限りです」両親ともなくしている友達はいっぱいいる。改めて元気な母親が健在していることに幸せを感じた。
 
 今年は、お袋と、高野山にもお参りした。そしてお伊勢まいりもすることが出来た。来年は閏年、お袋の大好きなお四国参りの逆打ち(八十八番から逆にお参り)をするつもりだ。
                                  令和5年11月27日        笹原   真二

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