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甍の上で

株式会社創瓦 社長 笹原真二のブログです。

 花が散り 桜の葉っぱ 鮮やかに 緑の中に 木漏れ日の青 

2025-05-01 20:26:52 | Weblog
     東京、袋井、名古屋、井原

 4月19日土曜日、東京に向かった。 午前6時57分発清音行きの井原線に乗るため家を出た。昨夜、今、行われている井原市議会議員選挙の情報が井原の友人から入った。立候補している幼稚園からの親友柳本益弘が、厳しい状況みたいだという。毎日、夜だけ後援会事務所に行っていたが、雰囲気も良く、寝水の電話に驚いた。

 井原線のホームから、朝早いことなんかお構いなしに、友人、親戚に、ダメ押しの電話を掛けた。井原線の車中、さらには岡山から新幹線の車中から、ライン、ショートメッセージで、柳本益弘への投票をお願いし、それを広げて欲しいとお願いした。

 東京には11時33分に到着、荒川宮の前公園にまで日暮里から舎人ライナー等を乗り継いで、元劇団ふるさときゃらばんの寺本建夫さん祖父江真奈さん夫婦に会いに行くが、お二人に急用が出来て会うことが出来ず、都電荒川線で池袋を目指した。新宿に出て、中央線で。25年前、名古屋の江場さんが立ち上げた上海の東方欣康(上海日本村)の竣工式の時、出会った片寄さん(当時日本貿易促進協会専務理事)にお会いするため国分寺へ向かった。

 住所を頼りにタクシーで行く。「岡山から来ました笹原と申します」というと、奥さんはびっくりされたようで、昨年12月から2月初めくらいまで入院されていた片寄さんは、79歳、歩くには杖も必要とされ、家はエレベーターを付ける工事をされていた。東京大学法学部を卒業され、日本貿易促進協会で日中関係の仕事一筋、上海宝山製鉄所が出来るきっかけとなった鄧小平、斎藤(当時日経連会長・新日鉄会長)会談にも同席された方だった。10年ほど前のお盆に、わざわざ、うちの事務所にも着てくださったことがあった。その片寄さんに会いたかった。1時間ほど、お話をさせてもらって失礼したのだが、お二人に心から歓待していただいた。本当に感謝の気持ちでいっぱいだった。

 荻窪にある。登録有形文化財旅館西郊に入るが、朝6時の出発は出来ないということでキャンセルさせてもらい、倅卓真と、次女純子が待つ渋谷を目指す。渋谷駅で降り口を間違ったのか迷子状況に、倅が迎えに来てくれて、109ビルの前で、純子、そして俳優の渡辺哲さんと17時半に合流。渡辺さんがCMに出ている王将で簡単に腹ごしらえ。

 渋谷の街は多国籍の言語が飛び交う人の海。その中、19時半開演の酒井俊さんのライブ会場、東京山手教会のライブハウス、クラシックスを目指した。ライブは10時まで、あっという間に時が過ぎていった。酒井さんは、少し体調を崩されてのどの調子が良くなさそうだったが、そこは百戦錬磨の俊さん!倅、娘と酒井俊のライブを堪能できたことは幸せだった。渡辺哲さんは、心に刺さった曲がありました。良かったと、言ってくださり、誘って良かったと思うことが出来た。

 20日、5時起床、4月の初旬に奥様を亡くした塚本さんを訪ねるため、東京駅6時30分発のこだまに乗り、掛川で降り袋井には8時23分に到着、塚本さん(㈱瓦粋)が迎えに来てくれた。仏壇に手をあわせ少しだけ業界の状況を話して失礼する。

 9時23分袋井発の電車に乗る。浜松で新幹線に乗り換え名古屋10時37分到着。東山さん(上海日本村でお世話になった、本株エバの社員)が迎えに来てくださっていた。東山さんの車で、江場さんが入所している小牧介護施設ホットハウスに向かう。東山さんに続いて、部屋に入るとはじけるような笑顔を見せてくださった。「どうしたの」と一言。会ってお話しするのは昨年の9月以来。その時は自宅に伺ったけど、どうにか歩いていらしたのに、車椅子に乗るにも介助が必要な状況。それでも話はしっかりできる。東日本大震災の時、お世話になった宮城県登米市の及川あやさんに電話をして、久しぶりにあやさんと話をしてもらう。昨日行った東京の片寄さんの写真を見せると喜んでくださった。会って写真を撮って、エバさんに見せる予定だった、寺本さんと、真奈さんとは会えなかった話をする。真奈さんに電話するがミュージカルの稽古中とのことで繋がらない。 それではと江場さんの写真を撮っては、共通のお友達にラインで送った。お昼は、近くの割烹へ江場さん夫婦と東山さんの4人で食事に行った。2時過ぎ割烹で失礼する。

 自分の手がずいぶん老人の手になってきているなと先日感じていたのだが。江場さんの手を握るとそれ以上に年齢を重ねた老人の手になっていた。当然と言えば当然なのだが・・・また近いうちに来させてもらおうと感じた。

 最寄りの駅まで東山さんに送ってもらい帰路に就いた。井原駅に着いたのが18時50分。長女成美が迎えに来てくれた。家で簡単に食事を取り、柳本益弘の後援会事務所に向かう。

 同級生をはじめ多くの支援者が集まっていた。8時過ぎの第一回目の発表で400票を取り、最多得票で当選した山田きくえさんと共にトップの報道に事務所が沸く。2回目発表700票。3回目発表760票、最終結果764票で23名中5人が落選という厳しい状況の中、見事10位で当選。本当に、土曜日はビリでも良いから当選して欲しいという思いだった。金曜日の「柳本は厳しい状況」という情報は当てはまらなかったようだが、それでもあの情報でダメ押しの電話、ラインでの投票のお願いが出来たことは良かったと感じている。

 4月19日20日、忙しい2日間だったが、忘れられない二日間となった。
  
      令和7年4月28日            笹原 真二
 
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春が来た 山の草花 色づき始め 早く開けよ 桜のつぼみ

2025-03-28 21:03:33 | Weblog
   2年ぶりの高野山
 
 昨年、四国霊場88ヶ所参りを1年掛けて逆打ちした。そのお礼参りのため、3月22日午前3時半、お袋と車で高野山を目指した。2年前、高野山へお礼参りに行った時と、ほぼ同じ時間に出発した。

 山陽高速に乗ると2年前とは違って、大型トラックのスピードが速いのだ。大型トラックに挟まれて走りたくないから追い抜く。その上、この大型トラックがあまりにも多く、それを追い抜くから自然と車のスピードが上がる。おかげで、5時半前に三木SAに着いた。阪神高速で神戸の街を抜ける頃には明るくなっていた。2年前、車は少なかったが今回はけっこう多かった。

 高野山にお参りする時は、弘法大師が丹生都比売大神より高野山を授けられたという伝説(親友妹尾和弘から教えてもらう)の丹生都比売神社に着いたのが8時半前、朝早く、まだ誰もお参りしていない神社にお参りさせてもらう事は、荘厳な雰囲気が際立ち、身が引き締まるような思いだった。

 9時半前に、高野山に着いた。まず、奥の院にお参り、2年前よりも参拝者は多い。先日の寒波の影響か雪が残っていた。しかし、日差しは決行強く、冷たいような温かいような・・・その後、金剛峯寺にお参りした後の11時頃、奈良県十津川村の熊野三山の奥の院、玉置神社を目指した。

 玉置神社は標高1077mに位置しその険しい道のりとアクセスの難しさから「神様に呼ばれないとたどり着けない」と言われる神社なんですと、胎蔵寺の竹原住職から2年前聞いていた。だから、是非ともお参りした神社の一つだった。

 ナビが間違ったのか?操作するとき、距離優先で検索した為なのか?とんでもない林道を通ることになった。だんだん、車が通った跡がないような道に入って行った。一応舗装はされているものの、大きな岩が崩れていたのが2回、木が倒れかかっていたのが2回、鉈やバールを持っていないと通れないような道、いずれも車から降りて岩や木を谷底に落としたり、よけたりしながらどうにか幹線道路に出ることが出来た。途中、たどり着けないかもしれないとも思ったが、玉置山の細いぐねぐねの山道を登り、どうにか15時半頃、玉置神社に到着した。

 創建2062年の玉置神社は、境内の周りには樹齢3000年の神代杉を始めとする巨木の杉が鬱蒼と自生して荘厳な雰囲気を醸し出していた。
宿泊は十津川温泉の平谷荘。たまたま、宿泊者は我々親子だけ、だから貸し切りの宿となった。源泉掛け流しのお風呂、美味しい食事。小さな宿の女将さん曰わく、ほとんどの方が、玉置神社にお参りに来ているとの事だった。

 翌日、十津川村のもう一つの名所、谷瀬の吊り橋へ。全長277.9m、高さ60mの吊り橋を往復。揺れて怖かったが・・・92歳のお袋は50m でリタイア。 
そして今回の聖地巡りの締めは、西吉野にある金峯山寺。ここにお参りして帰路についた。   
 
                                   令和7年3月28日       笹原 真二
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早朝の 棚の吊り橋 来てみれば 伊豆の沖には 浮かぶ大島 

2025-03-02 20:41:03 | Weblog
      一泊二日、伊豆の車中旅

 2月9日~10日で、伊豆に車で行って来た。陸上競技を通じての友達、行きは、私、森政、(興譲館卒)東(世羅高校卒)城戸(高松東卒)の4名。大学で言えば、日体大、京産大、大東大。

 大寒波が来ているということで、日延べするかという話も出たが、参加者の日程が合わない。9日から、天候が回復するという予報に運を預けることで、その日を迎えた。
 
 8日出発であったなら、名神高速を始め近畿東海の高速道路は通行止めだった。夜になり、インターネットで調べると新名神高速道路の通行止めは解除されたという情報を確認。どうにか決行出来ることに。

 何で、車で行くことになったかというと、JRチケットの半額で行けるというコストパフォーマンス、乗り換えをしなくて良いという二つの理由から車中旅を選択した。JRにしろ、車中旅にしろ、行って帰るだけと言う意味では、面白みのない旅になるかも?と思っていたが、それは杞憂に終わった。

 早朝6時に出発して、伊東市の伊豆高原に着いたのが午後4時前。車中では、森政が運転してくれたおかげで、眠くなれば寝て、起きればたわいのない昔話から、健康の話。話が途切れることはなかった。10時前、新名神の土山SAに到着。ここで一個550円の松坂牛饅を頂く。一昨年、お袋とお伊勢参りに行ったとき食べた。ものすごく美味しかったので、是非みんなにも味わってほしかった。

 土山SAに着く手前くらいから雪が降り出し出発する頃は本格的な雪となる。どうなることかと思ったが、程なく雪も上がり、12時半前に浜松サービスエリアに、ここで、森政、城戸の日体大時代の友達、山内君が皆にお土産を持って来てくれた。浜松と言えばうなぎ!山内君も一緒に特上の鰻重を食べ、午後1時過ぎ出発。

 2時前、走っている東名高速の真正面に、青空の中、富驚くほど驚くほど富士山が近いのだ。手に取るように富士山が見える!沼津インターを降りて伊豆縦貫道に乗る。違った角度から見る富士山、本当にたくさんの富士山を見ることが出来、みんなご機嫌で伊東市の伊豆高原の大田区伊豆高原学園という宿に着いたのが4時前。しばらくして神田(萩高校、日体大卒)が着いた。そして近くの益本(世羅高校、日体大卒)邸に。東京から越して来た彼は高台の別荘を買ってリフォーム!おしゃれなお家なのだ。 

 翌朝、棚の吊り橋へそこの展望台から目の前に伊豆大島が見える。これがたまらない。朝食を取って、帰路に!益本が広島の実家の墓参りのため車に乗り込む。運転手は益本。

 私のたっての希望で北条早雲の菩提寺修善寺につれて行ってもらう。井原市で生まれた北条早雲。井原の菩提寺の法泉寺の二の門の仕事が今年は待っている。

 伊豆での観光は、棚の吊り橋と、修善寺だけ。帰路の車中も笑いは絶えない。全く退屈しない旅となった。大田区区営の宿代は一人10000円。ビックリ!夕食も舟盛りがついて美味しかった。朝食も美味しかった。車の燃料代、高速代は一人20000円。合わせて30000円というコスパも最高の旅だった。 

 令和7年2月27日  笹原 真二
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 夜明け前 冬の星座を 仰ぎ見て 高速飛ばし 四国を目指す

2025-01-28 20:32:41 | Weblog
     遍路のお宿
 
うるう年の昨年、四国霊場八十八ヶ寺参りの逆打ち(一番からのお参りは順打ち。八十八番から逆にお参りす逆打ち)を1月5日に、始めて無事11月25日に全てお参りすることが出来た。

 今回、2回目のお参りだったが、初めてお遍路さんの民宿に泊めて頂いた。足摺岬の民宿田村さんと、徳島の17番井戸寺の門前にある民宿松本屋さん。
 
 10月28日月曜日、夜明け前の4時にお袋と2人で家を出発。愛媛県久万高原町の44番大宝寺に着いたのは午前8時過ぎ、高知県の足摺岬の38番金剛福寺に着いたのは、夕方の4時40分。お勤めをして、納経所で御朱印を頂いたのが5時前だった。民宿田村さんに入ったのが5時20分くらいだった。

 客室6部屋の民宿田村さんは、ごくごく普通の民家。早速お風呂を頂いて夕飯を頂く。口コミに書いてあったとおり、お刺身が美味しい。野菜の天ぷらも美味しい。朝早く出て、昼食もうどん1杯を駆け込んだ。ひたすら車を進めてはお参りしてお勤め。疲れた身体にはちょうど良い優しい食事だった。お客さんは我々の他に3名、台湾から来られていた女性のお遍路さんもいた。
 
 翌朝、6時半に夕食。すでに朝食を済ませ出発された方もいた。田村さんは、お遍路さんには、昼食として、おにぎりを着物をほどいて作った手作りの巾着袋に入れて持たせてくれる。おばあさんが遍路宿を始めてそれを見て育った私と同じ世代の孫娘さんが、ご主人を伴って帰ってきてお遍路さんの宿を継いだという。一泊二食、いや三食付きで7000円というリーズナブルな,また泊めてもらいたいなと思う素敵な民宿だった。

 11月24~25日は、二日間で27ヶ寺を回る強行軍。朝4時過ぎに家を出て7時過ぎに神峰寺の到着。納経所が開くのは8時。昼食はお袋が作ったおにぎりを運転しながら頬張る。コンビニにも寄らなかった。そんな思いで17番井戸寺の門前にある客室4部屋の民宿松本屋さんに着いたのは夕方5時半前だった。

 7年前、初めて88ヶ寺参りをした時、予約もせず泊めてもらえませんかと訪ねたことがあった。人気宿は当然満室で泊まれるはずもなかったが、その時玄関を入ったとたん、夕食の凄く美味しそうな匂いが充満していたことが強く印象に残っていた。だから是非とも泊まりたかった宿なのだ。

 今回は前もって予約、念願が叶った。夕食はお造り、とんかつ、ボリューム満点、とにかく美味しいのだ。(一泊二食7500円)女将さんは75歳くらいだろうか?建物は本瓦葺きの小さな古民家の宿だが、掃除は行き届いて空気が凜としている。部屋に鍵がない。ふすまを閉めるだけ。今の時代にこんな宿があることに感動した。

 この日のお客さんは、我々親子と、長崎の諫早から来て歩き遍路していた菊井さんと、台湾から歩き遍路で来ていた女性の葉さんの4人だけだった。お遍路さんの宿には素敵な旅人がいた。   
                                           令和7年1月28日        笹原 真二
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年の瀬に 多忙な日々を 振り返る 時の流れは 寂しさ募る

2024-12-28 22:32:22 | Weblog
  うるう年2024年の一年

 今夜のNHKニュース9で、「能登半島地震から一年」と言うアナウンサーの言葉で、「あっという間の一年」だったと思い知らされたような気分になった。

 今年の元旦のニューステロップ。女性アナウンサーの避難を促す、叫ぶような声。つい、先日の出来事だったような感じさえする。

 うるう年の、四国霊場八十八カ所参りは、逆打ち(88番から逆に1番までお参りをする)をすれば御利益は3倍あるという。1月5日から、お袋と2泊3日で59番国分寺までの30ヶ寺をお参り。6月15日は日帰りで45番岩屋寺までの15ヶ寺、10月28~29日で28番大日寺まで、さらには11月24~25日で1番霊山寺までお参りすることが出来た。お袋は17回目、私は2回目。

 次は、歩き遍路!11月24日に泊めていただいた徳島の遍路宿、松本屋さんで出会った長崎県諫早市から歩き遍路をしていた菊井さんの「不思議な,神秘的な風景に出会ったんです。」という言葉に触発された。早速、勧められた「歩き遍路50日プラン」という本を購入した。目標は2年後!

 今年の仕事は、GWまでは確保出来ていた。だからそれまでに次の仕事が入ればと思っていたが、一昨年辺りからの著しい問い合わせの減少に伴って当然、見積もり依頼も減少、昨年はさらにその傾向が強まり、1件の見積もり依頼もないという月が何回かあった。今年も同じ状況。だから、後半、行く現場が無くなるかもしれないという予感は十分にあった。

 GW明け、見積もり依頼がいくつかあった。ところが住宅の葺き替えの見積もりはしたものの、受注には繋がらなかった。お寺の山門、鐘楼堂の葺き替えの受注はできたものの、年が明けて翌年となったのは当然の話。

 6月末、コロナに感染、体調はなかなか戻らない。その上異常な暑さは10月初旬まで。その10月、ついに仕事が切れた。幸い、京都の甍技塾徳舛瓦店から、長崎の聖福寺山門工事の応援依頼があった。

 この年になって初め長期にて家を空けるという体験。どんな生活になるか、少々の不安もあったが、お弁当も作るという自炊生活も面白いもので楽しめることが出来た。最も自炊生活と言っても、ご飯を炊くだけ?後は惣菜、お刺身、インスタント味噌汁の生活。日曜日毎、大学時代の陸上競技部の先輩、同期、後輩が長崎観光に連れって行ってくれ、一月少々はあっという間に過ぎた。

 さらに徳舛瓦店からの依頼で、11月初旬から、児島の持寶院の本堂の仕事の応援で今に至っている。

 7月8月にはオリンピック、もあったのに、暑すぎてオリンピックどころではなかった。こんなに多彩な1年なのに、あっという間に時が流れた。今日、1年前と同じ道を通りながら同じ家にカレンダー配りをした。そんな中、一抹の寂しさを感じたのは何故なんだろうか?  

                        令和6年12月28日   笹原 真二

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 早朝の 山の紅葉 日が差して 寒さも深く 師走に入る

2024-12-01 19:56:13 | Weblog
      明王院、33年に一度のご開帳

 国宝の本堂と、五重塔。庫裡客殿、書院、護摩堂、山門、鐘楼は、広島県および福山市の文化財。御本尊、十一面観音立像は国の重要文化財。

 昭和の瓦の名人、井上新太郎さんが葺いた明王院の屋根は、瓦屋の聖地と言っても過言では無い、明王院の渡り廊下(文化財では無い)の仕事をさせてもらったのが、2年前。文化財では無いとは言え、この仕事をさせてもらえることが決まったときの喜びは大きな物だった。

 文化財ではなかったが、基本的な仕事の仕方は京都の徳舛瓦店の深町健ちゃんの指導の下、文化財仕様に準じた仕事をした。昨年は国宝の本堂と五重塔に挟まれた大黒天の祠(文化財では無い)の屋根、2坪に足らないくらいの屋根の仕事。既存の瓦は痛みすぎて、古い瓦の再使用は、棟鬼瓦と棟巴だけ。他の瓦は痛みがひどく使用できないので三河産の小瓦を使用した。

 7月、明王院から、御本尊、十一面観音立像の33年に一度のご開帳の式典にあわせ、大黒天の祠の屋根修復工事に対して感謝状をくださるという思いもよらぬ案内状が届いた。

 10月31日木曜日、明王院の境内には、松の式微がいっぱいに並び、緑、黄、赤、白、紫の仏旗がたなびいていた。受付に行くと、国宝の本堂外陣の来賓席に通された。来賓席と言うことに戸惑いながら・・・10時、式典が始まる。50人を越える僧侶の方々による読経は、圧倒されるような荘厳な雰囲気。

 9月末から、徳舛瓦店の長崎の聖福寺の仕事の応援に行っていたが、状況によっては、明王院の式典には、家内に行ってもらうことも考えていたが、深町健ちゃん、石井さんに、「式典には行った方が良いですよ!」と。他の用事も有り帰ることにした。

 御本尊、十一面観音立像のご開帳。白い布が落とされた。息を飲むような中、手を合わせる。この瞬間、この場に居ることが出来たことに大感謝だった。

 この式典後、また長崎に戻るため、お袋と、娘の成美には、着替えのジーンズを持って明王院の駐車場まで来てもらっていた。

 母と娘に、33年に一度しか見ることが出来ない、国の重要文化財十一面観音立像を見てもらいたくて、国宝の本堂、五重塔の中を歩いてもらいたくて、書院、客殿のふすま絵をさらには庭を見てもらいたくて!「33年後のご開帳は成美さんしか来れんよ。」と言いながら見て回ることが出来た。

 12時半、明王院を後にして、長崎に向かった。充実感にひたりながらの長崎への移動だった。
          
                              令和6年11月28日       笹原 真二
 
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ベタ凪の 高速船は 快適に 目指す五島は 東シナ海 

2024-10-27 20:26:34 | Weblog
     長崎日曜日記

 京都の甍技塾徳舛瓦店が施工中の国の重要文化財聖福寺山門の仕事の応援のため長崎に来たのが9月24日。 

 幸いなことに、大東文化大学陸上競技部の先輩の寺坂さん、同期の渋谷、後輩の立石が日曜日毎に長崎を案内してくれた。

 9月29日の日曜日は、その3人が、長崎ちゃんぽん発祥の老舗、四海楼へお昼を食べに連れてってくれた。勿論、ちゃんぽんと、長崎名物皿うどんを頂く。
 
 10月6日、渋谷が、長崎の街を案内してくれた。原爆で吹き飛ばされた天王神社の一本鳥居。奇跡的に鳥居の半分が一本柱に支えられた力強く残っていた。その境内には樹齢5~600年の被爆クスノキが2本雄々しく緑の葉っぱをつけていた。その後、長崎四福寺の宗福寺、興福寺、福済寺、いずれも黄檗宗のお寺を見て回った。福済寺だけが原爆で吹き飛ばされ、再建はされているものの創建当時の姿はと思うと、せめて写真は?それも原爆で無くなっているのだろう。
 
 興福寺の上の方にある亀山社中は坂を歩いて行く。暑い中、坂本龍馬が歩いた坂道を上って行く。振り返ると聖福寺の天王殿と、本堂の素屋根が見える、改めて長崎の街の地形の概要がつかめた。
 
 10月13日、映画「風に立つライオン」にも出た五島列島の福江島に寺坂さんと日帰りの旅。福江島に住む9年先輩の田中さんに寺坂さんが連絡して田中さんが車で案内してくださった。遣唐使船が風待ちした入り江、さらには、中国漁船が台風や、海が荒れた時に避難してくる入り江。当然上陸は出来なくて長引けば何日もいることになるそうだ。とにかく、島は緑、海はエメラルドグリーンの海水浴場、透明感のある海水が深い緑の海水から群青の外洋へとつながっている。とにかくきれい!

 天気は最高で、東シナ海という外洋なのに、行きも帰りもベタ凪、高速船の乗り心地は新幹線よりも揺れない、嘘のような船旅だった。南を見れば水平線が広がり、五島列島に近いところで北を見れば島がいっぱい。まるで瀬戸内海を見ているようなそんな不思議な船旅だった。

 10月20日、諫早の渋谷の家に。仏壇に手を合わせお墓に参る。その後、雲仙へ。島原でのブルーインパルスを見に行く人で道路は混んでいたが車は流れた。右手に橘湾を見ながら小浜から雲仙に上がる。地獄谷を見た後、仁田峠の展望台へ行く途中、急に渋滞。途中の展望台に多くの人がいる。聞いてみると、あと10分程でブルーインパルスが飛ぶという。これは見ない手はない、小さな駐車場の通路に無理矢理駐車してブルーインパルスを下に見ることが出来た。その後に着いた、仁田峠の展望台からは普賢岳と平成新山が薄ら煙をあげていた。

 日曜日毎に、長崎観光。これも、同じ釜の飯を喰った仲間との青春時代が、今は昔では無く今も続いている。感謝! 

 令和4年10月28日  笹原 真二
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新旧の 異国情緒の 坂の街 歴史感じる 今も長崎

2024-09-29 07:18:04 | Weblog
   思えば、遠くへ来たけれど。
 
 24日火曜日、事務所を8時過ぎに出る。先日、仕事が終えた福山の日光寺によって9時半、福山西インターから山陽高速に乗った。そして宮島のサービスエリアで休憩をしたのが10時半。
 
 山口に入って、高速道路付近で火災が発生したという情報がナビから入る。柳井に近いインターで高速道路から降ろされて、1時間くらい下道を走っただろうか?下松インターから再び高速道路へ戻る。下松サービスエリアで昼食を取ったのが12時半頃。
 
 14時過ぎ、関門橋の壇ノ浦パーキングで休憩。芳井を出発して6時間が経った。高速道路付近の火事の影響で1時間はロスしたとは言え、それを引いても5時間掛かっている。25~6歳の頃、熊本まで6時間くらいで行ったことがあったが、随分飛ばしたのだなと思いながら・・・今では考えられないことだ。
 
 16時、西多久サービスエリアに到着、あと1時間くらいな、ところまで来た。これから、約一ヶ月お世話になる京都の徳舛瓦店の深町健ちゃんに電話する。
レオパレスの住所を確認すると、西彼杵郡長与町高田郷。大学の1年先輩、寺坂さんが住んでいる町だということに驚かされた。

 17時20分頃、レオパレス高田Ⅲに到着。深町健ちゃんが迎えてくれた。明日から、自炊生活ということに少し緊張する。近くのスーパー、マックスバリューで買い物をした後、リンガーハットで夕食を取る。長崎ちゃんぽんと炒飯。この炒飯の美味しいことに驚かされた。

 25日、朝5時半に起きて、朝食を作ろうとするが、IHのクッキングヒーターが作動しない。せっかく昨日買っていた卵もウインナーも調理が出来ず、漬物と、練り物の天ぷらで朝食を取り、弁当はご飯を入れて、おかずはやはり漬物と天ぷらの惣菜を詰めて出来上がり。6時40分に出発、現場に向かう。現場には7時10分頃到着。7時に出ようものならラッシュに巻き込まれ始業の8時に間に合わないそうだ。

 初日の仕事は、瓦の葺き土を耕運機で再度の練り直し1年前に練った土を寝かせておいて再度練るとい昔ながらの仕事。国の重要文化財の仕事だと改めて感じる。昼休み、先輩の寺坂さん、これから一ヶ月ほど、長与町の住人になるとメールを打つ。夜、電話すると「高田郷は俺が住んでいるところだ。」

 そして、今日、瓦上げ等の仕事を終え、レオパレスに帰って見ると、どこかで見たおじさんが。寺坂さんが、奥さんを伴ってレオパレスの駐車場にいるではないか。なんと嬉しいことか、早速尋ねて来てれた。

 思えば、遠くへ来たけれど、身近な先輩がいる。長崎には、同期も、後輩もいる。ありがたいことだ。
   
  令和6年9月28日             笹原 真二
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毎日が ウエザーニュースと 鬼ごっこ 迷走続ける 台風進路

2024-08-28 19:17:38 | Weblog
    酷暑、大雨、地震、台風、時々オリンピック

 パリオリンピックが、いつの間にか終わってしまったという感じ。大好きな陸上競技もほとんど見ることがなかったから余計にそう感じるのかも知れない。

 女子やり投げの北口榛花の金メダルは朝のニュースで知った。9秒台で走りながら決勝に進めなかったサニブラウン。リアルタイムで見たのは、柔道の阿部詩が2回戦で負けて会場に響き渡る声を上げて号泣した場面。いつの間にか始まった観客からのウタコールは優しさに包まれているような、勝敗を通り越した今大会の最高のシーンだった。

 以前のオリンピックなら、夜遅くまで見ていたのだが、今回は10時には床に着いていた。全く意識していなかったのだが、異常な酷暑のため、オリンピックを見るよりも、身体を休めるため、寝る方を選んでいたようだ。

 東北、関東では7月下旬辺りから異常な豪雨、8月に入り関東では線状降水帯が連日発生。ところが中国地方は雨が降らない。連日最高気温は36~38度。屋根の上ではもっと上がっている。オリンピックどころではないのが当然だ。

 10年ほど前なら、盆が明けると熱帯夜も少なくなって来ていたのだが、ここ数年の残暑の厳しさは増すばかり、今年は更なる酷暑が続いている。
 そんな中、台風10号が発生。当初、紀伊半島から東海にかけて上陸するような進路予想だったのに、27日の予報では、九州に上陸して中国地方を縦断するような進路予想に変わっている。

 このコースは33年前、平成3年9月下旬に来た台風19号と同じようなコース。2ヶ月くらい休みなしで屋根修理に走り回った。当時は、今のような酷暑は無かった。お盆の間に雨が降り、明ければ風が変わり秋の気配も感じられた。冬になれば広島、島根、鳥取、岡山の中国山地にはいっぱいスキー場があった。今では人口降雪機のあるところを除いて全てクローズ。冬も異常気象なのだ。

 今年の元旦には能登地震。お盆前には、宮崎で南海トラフが起因する地震に当該地域の海水浴場はクローズ。たまたま、この地域は6年前の西日本豪雨以来、幸いなことに自然災害は起きていない。
 
 そんな中、先日、体操団体、個人総合、鉄棒で3個の金メダルを取った岡慎之介が岡山県から県民栄誉賞が送られたというニュースが流れた。その中で、幼少期から通っていた岡山ジュニア体操スクールの生徒が増えたことを喜んでいた。恩師三宅先生の喜ぶ姿は岡選手以上のように見えた。

 追伸 北口榛花と共に、一番楽しみにしていた女子マラソンの前田穂南の欠場は、一ファンとしてショックだった。名伯楽武富監督の最高傑作と言っても良い選手。彼女のメダルに絡む世界との勝負を見ることが出来なかったことが残念だった。そんなことを言ってみても、前田選手、武富監督の気持ちを思うと言葉も無い。       

 令和6年8月28日        笹原 真二
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 梅雨が明け 強い日差しの 屋根の上 酷暑の汗が 滴り落ちる

2024-07-27 19:23:29 | Weblog
   娘菜穂の結婚披露宴

 6月29日土曜日に寝冷えをしたのか?翌30日の日曜日は、咳や鼻水が、その上頭痛も。昨年も夏風邪を引いて、今年も同じ事になったと、午後からは事務所の二階で横になってひたすら休んだ。

 7月1日月曜日、昼前に山成医院へ行く。先生に「寝冷えをしたみたい。体温は36.9度。頭痛がひどかったから頓服を飲んだ。」「一応コロナの検査をするから。」別に喉も痛くないから、コロナには罹っていないと思っていたところへ先生の声「真ちゃん、コロナに罹かっとるで。」

 翌日、お袋のコロナが判明、家内は陽性ではなかったそうだが、ほぼコロナの状態「頭痛と喉がものすごく痛い。」と家族全員が罹患した。倅に「全員コロナに罹患した。」とメールを打つと、「結婚式の前で良かったが!」

 20日土曜日は、三女菜穂の結婚式と披露宴だった。2週間ほど遅く罹っていたら、新婦の両親、祖母欠席の披露宴になるところだった。

 20日5時半に目が覚める。6時20分、車に乗り込み出発。9時50分頃式場のホテルに到着。家内の着付け、簡単なリハーサル。
2時から、人前結婚式、バージンロードを娘菜穂と歩く。不思議な感覚。ドラマで見たシーンが広がる。いつの間にか娘が成長し、菜穂の築いた交友関係の友達がいっぱい祝福に来てくれている。
 
 新郎匠君が初めてうちに来たのが一昨年の年末だった。「結婚を前提に同棲させてください。」と言われた時は、「それは違うだろ!」だったが、印象は良かった。披露宴に来てくれていた彼の交友関係を見て、さらには、大学時代の野球部の友達と話をさせてもらって、それはより大きなものとなった。

 主賓は、以前二人が務めていた会社の上司。退社しているにも関わらず、快く来てくださった。元同僚もいっぱい来てくれていた。その雰囲気が良かった。だから余計にありがたかった。

 二人で披露宴の催しを考え、テーブルには、それぞれ自筆でお礼のメッセージを手書きしていた。二人を紹介するプロフィール写真には、保育園の頃のピカチューを抱いている写真が使われていた。親馬鹿だが本当にかわいい写真を見て当時の頃が思い出された。お色直しではビートのきいたリズムに合わせサングラスをかけた二人が颯爽と登場!これも最高に良かった。

 最後、両親への手紙。今までは見る側だった、それが主役に。時の流れを感じる。いつの間にこんなところまで来たのだろうか?38年前の花束贈呈の場面が思い出された。「お父さんと、お母さんの娘として生まれて良かった・・・」よく聞く言葉だが素直に嬉しかった。

 直前コロナにも罹った。「思えば遠くへ来たもんだ。この先何処まで行くのやら・・・」海援隊の歌が身にしみる。      令和6年7月27日  笹原 真二
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