甍の上で

株式会社創瓦 社長 笹原真二のブログです。

6月のマンスリー

2013-06-30 08:56:54 | Weblog
   親父の死
 昭和4年9月生まれの父は、戦後、朝鮮に渡っていた分家が平壌に持っていた土地を、朝鮮の人が大阪で持っていた土地と交換。分家が取得した大阪の土地に本家が工場を建て、共同でセメント瓦の製造販売を始めるのに同行した。しかし本家の長兄が若くして亡くなり、男手がいなくなった為、父が戻ることになった。そして母と結婚後、分家をしてセメント瓦の製造販売を始めた。
 高度経済成長の波に乗る。形態はセメント瓦の製造販売、施工から、石州瓦等、陶器瓦の施工販売に変わって行った。バブル崩壊後は当たり前のようにあった仕事は激減していく。仕事が無くなりそうになると、軽トラに乗って営業へ、1日で3~4件の仕事を決めてきたこともあった。不器用だがそんな営業ができる人だった。
 そんな親父が5年前の春分の日、「小便が出なくなった」と泌尿器科に行く。前立腺肥大で導尿、翌日、事務所前の田んぼの土手に、全く生気のないおじさんが座っていた。よく見ると親父ではないか、昨日までの親父とは全くの別人。「死への準備」に入っていっているかのように感じた事を今でも憶えている。
 9月に入る、前立腺肥大の手術をする為の検査が、倉敷成人病センタ―で始まると肺癌が見つかる。「悪性腫瘍がリンパにも転移している。ほっておけば6ヶ月の命」と主治医から告げられた。11月に前立腺、年が明けて1月に肺癌の手術を受ける。リンパに転移していたいくつかの癌と右側の肺を手の平サイズ除去。秋には畑仕事ができるまで回復した。
翌年の春には、好きな四国八十八ヶ寺巡りを再開、術後3回、計13回を数えることができた。だから肺癌の手術をしてからの4年は、お大師様の御蔭だ。
 肺癌の手術以降、毎月1回は成人病センターで健診。しかし、今年に入って頭に腫瘍が飛んでいることが判明、2月頃から大腿骨のあたりが痛いと訴えることが多くなった。3月中旬、放射線治療を試みるがその効果は表れず、それ以降、釣瓶落しのごとく悪化、4月下旬には1週間で体重が8kg落ちることもあった。顔と上半身はそうでもなかったが、足は骨と皮だけに・・・
5月には倉敷まで通うことを拒否。歩くのも介添えが必要になった。5月21日、「腫瘍のため脳圧が上がって生命維持を司るところを圧迫するようなことになれば、今日逝ってもおかしくない。余命1ヶ月」と主治医から告げられた。
5月22日、井原市民病院へ入院、日々、状況は悪化。起きている時は常に苦痛を訴える。5月31日、中央大学に行っている次女の純子が帰省、夜8時半過ぎに病院へ。親父は、とびっきりの笑顔で喜んだという。6月2日、お袋が「純ちゃんが帰ると言って来とる。おじいさん何か言うてあげて」親父は「最後の別れ」と感じたのか、何も言うことが出来ず手を洗いながら泣いた。
6日、肺炎を起こす。9日の未明、ものすごい形相で水をせがむ。飲ましてはいけないと言われていたが、水を飲ませる。咽る、誤嚥させてしまった。その日の夜、40度5分まで熱が出る。ダメかと思ったが持ち直した。
11日、夜9時頃、「起こせ」というので起こすと「帰る」と言って駄々を捏ねだした。そこへ細羽院長が表れる。親父は「あああっ!おえりゃせんのうー」と言って大笑いしたあと、先生に向かって「先生、ありがとうございます。ありがとうございます」と拝むように何度も言って観念した。
12日、夜中の1時半から4時半まで「おーい、おーい」と、うめき声を出して何かを訴えかけているような・・・座薬も眠らせる注射も効かない。あまりうるさいので親父を怒る。次の日、顔を覗けるといやな顔をされた。
14日、「おーい、おーい」の意味が分かる。身体を起こしてくれと呼びかけていたのだ。薬、注射が強くなったのか、17日以降、以前より夜、眠るようになった。看護師さんに向かって「ありがとう。ありがとう」という言葉が多くなってきた。起きている間、うめき声は止む事が無い。時々、身体を起こしては水を飲ませる。しかい長い時間は負担になるから、また寝かせるの、繰り返し。
21日午後3時、純子から電話。「帰ろうと思う」状況は悪いなりに安定していたので「別に帰らなくてもいい・・・しかし生きているおじいさんに会えるのは確かに今回が最後になるかもしれない・・・あとの判断は自分でしろ」1時間半くらい経った頃、東京駅からだろうか、「9時頃、笠岡に着く」。
9時に笠岡へ。病院に戻ったのが9時半、その夜はお袋と純子が泊まった。帰宅後11時に床に着く。22日の午前2時、電話が鳴る「すぐ、来て」純子の声。病室に着くと、脈、脳波、血圧、呼吸等を表すモニターが置かれ、親父はかすかに目を開け苦しそうに大きく息をしている。看護師さんがあわただしく動いている。家族がそろう。本家を呼ぶ。近くにいる親父の姪夫婦を呼ぶ。皆で親父の手を取り、骨と皮だけになった足をさすりながら、順に目の上に顔を持っていって呼びかける。3時40分、家族、親族に看取られながら静に83年と9ヶ月の人生に幕を引いた。     2013年6月28日    笹原 真二
追伸  入院してこの1ヶ月、顔をゆがめながら苦痛を訴えていたにもかかわらず、死に顔は、おだやかだった。その日通夜、翌23日の葬儀、あわただしい週末となったが、24日月曜日からまた日常の生活に戻っていた。親父は22日の午前3時40分が「死ぬのに、一番良い日、良い時間」と思って旅立っていったのではないかとさえ思える。純子も帰って来た。適度な看病もさせてくれた。心の準備もさせてくれた。そして、「死ぬということは、大仕事だ」ということを教えてくれた。人間の最後の仕事はどうやって死んでいくか。「死は楽ではない。大仕事だ」親父が教えてくれた。   
 
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3日連続の雨

2013-06-21 09:41:13 | Weblog
 やはり、梅雨ですね。3日連続の雨というのは1年に有っても3回くらいだと思います。年によっては無いこともあるかもしれないと思います。その3日連続の雨が降っています。昨夕のインターネットの予報では曇りマークで雨マーク無かったから、明日は仕事をさせてくれると思っていた段取りが狂ってしまいました。午後からでも雨が上がると助かるのですが・・・
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空梅雨の雨

2013-06-15 17:43:19 | 瓦のこと
 今年は空梅雨のようですが、今日は雨が降りました。昨日からの天気予報通り、朝起きると雨が。TVを付けて予報を見ると、午後から上がるという。これが3時くらいまで雨が降るという予報だったら、久しぶりの連休でもするところでしたが、午後から雨は上がる。葺き替え中の屋根に瓦がまだ葺かれていないから、午後からでも現場に出るつもりで仕事にしました。もちろん、雨でもやっておかなければならない仕事がありましたから結果、一日それをしたわけですが、それにしても予報を上回って午後4時過ぎくらいまで降りました。それから1時間少々で太陽が照り付けるという天気に早替わり。梅雨の雨だと、もう少し尾をひくというかこんなに早く変わらないと思うのですが、2~3日、続く雨が梅雨の雨だと思います。
 そうそう、今朝、うちの事務所の裏には小さな小川が流れていて、すぐ山なんですが、その山すそに私の母が花を植えたり、椎茸木を置いたりしているのですが、そこへけっこう甲羅の大きな亀が上がってきていました。山へ何をしに上がってきたのでしょうか?卵でも産みにきたのでしょうか?写真撮っておけばよかった。
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