甍の上で

株式会社創瓦 社長 笹原真二のブログです。

五月雨が 集めて流す 藻が淀む 川の汚れも 心機一転 

2024-05-28 21:22:52 | ツーリング
  仕事なんかしている場合じゃない
 
 2月中旬の夜の8時頃、酒井俊さんのオフィシャルサイトのライブスケジュールを開くと、「2024年、だいだらぼっちの春の旅」(ボーカル酒井俊、サックス林栄一、ピアノ田中信正)と題したスケジュールが載っていた。4月17日が宮崎県の串間、24日が広島ボレロ、25日が高松SO-NICEと、南からツアーが始まるという。昨年はライブツアーが終わってからオフィシャルサイトを開いた。今年は早めに開いて大正解。

 その日のうちに日南の伊藤祥子さん(10歳上のお友達)に、串間でライブがあること、その主催者谷口さんの携帯番号を伝えた。昨年、突然の電話をいただいた加藤悦子さんは、串間在住で、「彼女、喜ぶわよ!」と伊藤さん。
 
 翌日、加藤さんから電話が入った。「私、伊藤さんからの電話で、興奮して昨日は眠れなくなって、今朝、早速、谷口さんに電話しました。」と喜んでくださった。
 4月24日水曜日の広島ボレロでのライブ。この日だけは「仕事なんかしている場合じゃない!」と、広島の主催者中野さんに電話をして、田舎の天才妹尾啓典さん、芳井一の文化人三宅敏文さんの3人分のチケットを予約した。
 
 しばらくすると、また加藤さんから電話が入る。「谷口さんに連絡したら、来てくれて、ベトナムにいる酒井俊さんに電話してくれて、私、話をすることが出来たの。それで、俊さんのファンになったきっかけは、岡山の笹原さんで、笹原さんは広島のライブに行くと言ってると言ったら、あなたも広島に笹原さんと一緒に来なさいよ!と言われたから伊藤さんと広島に行くことにした。」早速、中野さんにチケット2人分の追加をメールでお願いした。
 
 ライブ会場は、広島市内のライブハウスと思い込んでいたのだが、実は安芸太田町。片道150kmある。言っては何だが、ド田舎!

 4月14日日曜日、お袋と、会場の下見に行く。宮崎から来る伊藤さんと加藤さんに、三次の辻村寿三郎記念館も見て欲しかったから、尾道道を通って三次経由で安芸太田を目指した。途中の中国道の江の川PAで、近いうちに帰ってくる茨城にいる同級生の大杉寛に電話。「24日、jazzライブが三次の先であるんだけど行かない?」「分かった。行くよ!」

 2時間半掛けて、安芸太田町加計に着いたのが11時半、桜がまだ咲いていた。川の護岸は緑の草や木々で覆われコンクリートは無い。癒やされるようなところにイタリアンのお店ボレロは位置していた。パスタとピザを頂く。どちらも美味!特にピザはモッチモチチーズで、今まで食べたピザの中で群を抜いて美味しかった。
 
 24日は、朝から小雨。笠岡の真鍋さんの現場には妹尾英明が、破風の屋根地作りに出て行った。午前中事務仕事をして、妹尾英明には悪いなと思いつつ・・・ 
 雨が上がった午後1時、大杉が運転する車で、啓典さん、三宅さんを乗せて福山駅の北側にあるベッセルホテルへ。ここで、宮崎から来た伊藤さんと加藤さんをピックアップ。福山西ICから山陽高速に乗り尾道道で三次を目指す。
 
 スマホで辻村寿三郎記念館を検索。なんと水曜日はまさかの休館日。ちゃんと調べておけば良かった。みんな初めてで楽しみにしていたのに・・・平謝りだった。
辻村寿三郎記念館に行かなかったから、予定より1時間早い4時半に安芸太田町のボレロに到着。俊さんたちは、リハーサルをしていた。ナーダムと言う曲が外まで響いてそれだけで嬉しくなる。

 時間つぶしは近くを歩いて散策。リハーサルを終えた俊さん、林さん、田中さんがテラスに出てきた。そこへ伊藤さん、加藤さんが入って行って話を始めた。川向こうにいたのだが、帰って一緒に写真に収まった。

 17時半過ぎ、ボレロのパスタを頂く。その頃からお客さんが来だした。川風が入り少し肌寒いような中、お客さんは40人にも満たない。
とんでもなく贅沢なライブが、18時40分過ぎくらいから始まった。あの酒井俊の生歌が聴ける。YouTubeと、CDでしか聞くことが出来なかった酒井俊さんが目の前で歌ってくれている。林栄一さんのサックスが啼いている。時に激しく、時に優雅に舞っているかのような田中信正さんのピアノ。YouTubeで何度見たことか?

 「回想」を聴き終わったあと、「ああ、これで死んでもいいな・・・」と思ったくらい。こんなことを思うとは夢にも思わなかったが、本当にそう思った。アンコールでは「満月の夕べ」初めてCDで聴いたとき、心を鷲掴みにされたような、魂を揺さぶられるようなそんな衝撃を受けた歌を、生歌で聴くことが出来た。夢のような二時間だった。

 酒井俊さんは、伊藤さん、加藤さんと同世代。迫力ある歌、びっくりするような声量。衰え?とんでもない!そんな酒井俊さんとライン交換をさせてもらった。そして別れ際、「来年は、岡山でやろ!」と俊さん。
 
             令和6年5月28日               笹原 真二

 追伸Ⅰ
 翌日、ラインにて「昨夜は、ありがとうございました!夢のような ひとときでした!まだ余韻が残っています!」・・・「嬉しいです。ありがとうございました♥」

 追伸Ⅱ
 3月だったjか?今、仕事に入っている日光寺の住職に、4月24日、その頃はここの本堂の仕事をしている頃と思いますが、この日だけは午後から酒井俊のライブに行くから休みます。「仕事なんかしている場合じゃない。」と言うと、「仕事なんかしている場合じゃない。その言葉って、良いですね!」と笑ってくれた。

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屋根の上 予報に反し 春の雨 強い風吹く 春の花冷え

2019-04-02 06:52:28 | ツーリング
 ここに来て寒い日が続いています。土曜日の邪魔雨は仕事の段取りを大きく崩してくれた上に雨の影響で寒くなりました。
 
 日曜日、マツダスタジアムへ中学校時代の友人4人でカープの応援に行ったのですが、寒くて寒くて、私は下戸だから温かいコーヒーとか、呑兵衛の友人は、いつもならビールですが、この日は、熱燗、焼酎のお湯割りと暖かいお酒を呑んでいました。カープは負けましたが、長野が出て、ヒットも打ったから良しです。

 昨日は、午前中8時頃から雨、現場まで行って、結局帰って来たのですが、時々あるパターン事務所に帰ると雨は上がり、一服して再度現場に、それにしても強風が時々葺いて、寒い一日となりました。
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太腿の 内出血は どこへ行く あっと驚く エピソード 珍

2019-01-28 21:27:43 | ツーリング
 私の、友人、高校の先生をしているのですが、1月の5日くらいだったでしょうか?バイクを運転中、追突されたのか?3mくらい飛ばされたそうです。当然、打ち身で痛かったそうですが、その時は気が張っていたのか病院にも行かずに・・・ただ、腕のほうが冷たいなと感じたのでジャンパーを捲ってみたら、出血した血が冷たく感じたそうです。
 家に帰って、ズボンを脱ぐ太腿のあたりが内出血。翌日からその内出血がどこへ飛んで行ったかと言うと・・・
 股間の大切なあたりに・・・真黒になってしまった。と大笑いしながら事故の状況を話してくれました。「エピソード珍」
 事故は他人ごとではありません!みなさん気を付けましょう!
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気が付けば つるべ落としも とうに過ぎ 日々気ぜわしく 師走に入る。

2018-11-28 19:17:05 | ツーリング
  都はるみと矢沢永吉

 10月の末、BS朝日だったか?昭和偉人伝という番組で、作詞家の星野哲郎さんと作曲家の市川昭介さんの物語を特集していた。その中で都はるみがデビューした頃のエピソードが紹介された。

 星野哲郎と市川昭介は共にコロンビアレコードの専属作詞家、専属作曲家だったが、星野は昭和39年4月からクラウンレコードに移籍が決まっていた。クラウンに義理立てをして、コロンビアの仕事を断っていた1月、市川昭介が16歳の都はるみを連れて星野の自宅に連れて行き、「詩は書かなくていいから」と言いながらも、はるみに歌わせた。すると、たばこを持つ星野の手が小刻みに震え出した、それは星野が感動した証拠。3時間後、市川に「詩が出来たよ」という電話が入った。それが「アンコ椿は恋の花」だったという。

数年前から、演歌がドンドン好きになって行くことを感じていた。「八代亜紀」「坂本冬美」そして「都はるみ」が特に好きだった。CDやDVDを買いたいなと思いながら買っていなかった。この昭和偉人伝を見た直後、アマゾンで、都はるみの「伊豆大島波浮港開港200年記念コンサー」のDVDそしてもう一枚、ずっと前から欲しかった「矢沢永吉」のDVD「ドリーマー」(自身3度目のディナーショーから収録)を注文した。

二日後、DVDが届いた。やはり良いのだ。都はるみがコンサートのオープニングで唄うアカペラの「波浮の港」は鳥肌が立つような、心が揺さぶられる。

矢沢永吉も最高だ。演奏、コーラスはアメリカ、イギリス、から超一流を呼び寄せ、ダンスパフォーマンスも凄い、エンターテイメントに富んでいる。

極みはロックからバラードまでいろんなジャンルの曲を全て作曲している、いわば日本版のビートルズだ。そんなことを感じるのは私だけだろうか?あんまり「ドリーマー」が良いので「ロックインドーム」DVDも即買った。

誰かにこの感動を伝えたくて、「都はるみと矢沢永吉の DVDを買った。」と話すと「なに?その組み合わせ」「今さら、矢沢?」というリアクションもあったが、西井歯科の西井先生は「どっちも良いね。最近NHKの火曜コンサートをよく見るようになった。若い人でも歌の上手な人がいっぱいいるよね。演歌を歌っている人は歌が上手い。丘みどりなんかは可愛いし・・・」

名古屋の江場さんにメールで買ったことを伝えると、すぐに「いいね!演歌も、矢沢も、どちらも日本的なんだな」というすごく嬉しい返信が来た。

YouTubeは本当に便利なもので、いろんな歌手の若い時代の歌も聴くことが出来る。都はるみも、矢沢永吉もやはり年齢を重ねてからの方が断然良いと感じる。だから「今さら、矢沢?」と言った人には「矢沢永吉は、今が旬だ!」と返した。・・・年齢を重ねるということも悪いもんじゃないと感じている。
     
 2018年11月28日           笹原 真二
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長すぎる 一息ついて 読んでみて 読めば行きたや 北海道へ

2018-05-28 21:46:54 | ツーリング
平成30年GW北海道紀行

 4月30日、お袋と家内、京都へ嫁いでいる妹と4人で北海道へ飛んだ。朝5時、目が覚める、6時過ぎに家を出て岡山空港へ、8時20分離陸。前夜、床に就いたのが遅かったせいもあるのか?水平飛行に入る頃には眠りについていた。

 1時間ほど眠っただろうか?妹が機内でくつろぐお袋や家内の写真を撮っている。10時頃には、残雪を残す北海道の山が眼下に広がる。いよいよ楽しみにしていた北海道(新千歳空港)へ着陸態勢に入る。 

 10時20分頃着陸、預けた荷物を受け取って、空港内でレンタカーの手続きの確認。トヨタレンタカーすずらん店まで車で10分くらい?11時にカローラフィールダーに乗り込んで出発。道東道に入って上川郡清水町を目指す。GWの最中なのだが、車が少ないことに驚く、まるで中国道を走っているような?やはり除雪車の影響もあるのか、道路が傷んでいることも中国道と似ていた。

 清水町には、122年前に入植した、本家(5年前に亡くなった親父の実家)の分家の笹原猛司さんが40町歩(1町歩=約100m×100m)もの農場を経営されている。1年前、お孫さんの結婚式で広島に来られ、その折、芳井まで帰ってこられ、先祖のお墓参りをして帰られた。結婚した孫の恵介君は広島生まれ、広島育ちのお嫁さんを伴って、農場を継ぐため一週間後、やはり、先祖のお墓参りをして北海道へ帰って行った。

 占冠PAで笹原さんに電話、十勝清水ICを降りた駐車場で待ち合わせ、午後1時頃?1年ぶりの再会を果たす。笹原さんの計らいで昼食会場へ。笹原さん御夫婦、私と同年代の息子さん富平さん御夫婦、そして恵介君(恵介君のお嫁さんは務めの都合で一緒できなかった。)と我々の4人で会食させていただいた。

 ご馳走になったあと、「お墓参りをしていただけないか。」と笹原さんが。「我々の今回の目的は、仏壇に手を合わせることだけではなく、お墓参りもさせてもらう為に来ましたから、是非、お墓参りをさせてください。」と。

 北海道の大地の中、丘陵地の墓地公園の一角にお墓があった。122年前、極寒の地、北海道へ開拓に入った一族のお墓にお参りさせてもらうことに一族の一人として誇らしく思えた。

 伝え話なのだが、122年前、北海道へと旅立つ日は、雪が降る寒い日だったという。そんな天候の中、「おーい!おーい!元気で!がんばれー!」と言いながら見送ったそうだ・・・そんなことを親父の従妹から聞いていた。雪が降っていたということは、芳井を発ったのは3月の末頃かな?・・・上川郡に入ったのが6月と聞いているから・・・、2か月以上を要して北海道へ。・・・それから極寒の地、北海道で122年。・・・道具と言ったら、鉈、ツルハシ、鍬、鋸等々?・・・すべてが手作業、その艱難辛苦は想像に難くない。自分の一族の中に、こんな開拓者がいることがやはり誇らしいのだ。

 お墓参りの後、笹原さんの自宅に向かう。街から離れた大地は一面広大な畑、その畑には麦が植えられ、日本の砂糖の95%以上を作っているビート(砂糖大根)の苗が植えられていた。途中、笹原農場の畑を見せてもらう。ものすごい強風、車のドアも開け辛い。お袋はその強風で飛ばされそうになるくらい。遠くには土煙も舞っていた。

 家には「笹原農場」の看板が掲げられていた。大きなサイロの中には、テレビや映画でしか見たことが無いような大型のトラクターが何台もある。農機具と言うより、農業重機、大型のダンプカーのような・・・タイヤは人の背丈くらいある。40町歩の農場を家族だけでやっている。忙しい時には、お互いに農場仲間で、手伝ったり、手伝ってもらうそうだ。

 お茶を頂きながらの歓談は終わりを知らず、それでも宿泊する十勝川温泉に出発しなければならない。家の前で、「笹原農場」の看板を背に写真を撮って、名残惜しかったが、清水町の笹原農場を後にした。泊まる十勝川温泉の観月苑まで、笹原さん御夫妻が先導して案内してくださった。大感謝だ!

 十勝川温泉から10分程のところに、大学時代の2年先輩、小林雄二さんの家がある。OB会の住所録から調べていた。会うのは40年ぶり、アポ無しで行ってみる。車はある。家には灯りもついている。ピンポンを鳴らす「どちら様ですか?」と奥さんが「笹原と申します」玄関へ出てきたのは、小林さん。しかし、誰が来たのか分からないみたいでキョトンとしている。
「大東文化大学陸上競技部の2年後輩の笹原です。」ようやく思い出してもらえたのか?

「まっ、入れよ。なんで?」「122年前に入植した清水町の分家を訪ねて来ました。明日は幕別町錦町の分家、笹原信勝さんを訪ねます。」と北海道に来た理由を説明。それから学生時代の寮生活、箱根駅伝の話に花が咲く。途中、小林さんの同期、北九州の森田さんを驚かせよう電話をする。小林さんに代わっても、誰だか分からない、「小林雄二だよ」でやっと分かったようだ。

「俺は、今、沖縄にいるんだ。娘が孫連れて帰って来て「どっか、連れて行って!」とせがまれて、急遽、沖縄に来たんだ。」森田さんも、小林さんが電話に出るものだから驚いたと思ったが、我々も、娘さんの「どっか、連れて行って!」で、急遽、沖縄に家族旅行というのにも驚いた。長崎のハウステンボスあたりは、行きつくしているんだろうか?・・・

「幕別と言えば、スケートの高木姉妹ですね」「この前のパレード、孫を連れて行ってきました。」と奥さん。「うちの家内と高木姉妹は遠縁になるんだ。有名になると親戚が増えるっていうけど・・・」そんな話をしている時、テレビでは、漫才師、千鳥のノブがファブリーズのCMに出ているのが流れていた。

「それこそ、ノブもうちの縁続きになるんですよ。ノブはうちの町出身で、ノブの親父から聞いて初めて知ったんですが、ノブのお母さんと、うちの本家、私の従姉(親子ほど年齢は違う)のところに婿養子に来ているおじさんが従兄弟になるそうで、だから、ノブの親父公認で、ノブはうちの親戚だと、よそに行った時は言っているんです・・・」そんなたわいもない話をしながら1時間ほどの短い時間だったが、小林さんの家で過ごさせてもらった。
 午後7時前に観月苑に帰って夕食を取ってお風呂。第一日目が終わった。

 5月1日、4時頃、目が覚める。なんと外が明るいのだ。二度寝、6時頃起きて、朝風呂、雄大な十勝川を眺めながらの、露天風呂に幸せを感じる。

 9時、幕別町の笹原さんを訪ねる。奥さんの瑞子さんと、信勝さんが出て来られる。お袋は20数年前、瑞子さんと会っている。家に上がらせてもらって、先ず仏壇に手を合わす。我々が来るということで、古い写真が出されていた。その中の何枚かは本家にもあるものだ。

 幕別の笹原さんは、瑞子さんのお母さんが、笹原の出で、実家の笹原家を継ぐ人がいなかったため、瑞子さんが笹原の養女となり、信勝さんが婿養子に入られて笹原の家を継がれている。息子さんは帯広で、歯科医院を開業、自身は、空調設備などを扱う㈱笹原商産という会社を経営され、その会社は現在、娘さん御夫婦が舵を取っておられる。

 信勝さんは、目の病気で手術。療養中だそうだが、「まだ、瑞子には言っていないんですが、目が良くなったら、来年くらいに、先祖の地、岡山へ一度お墓参りに行かなきゃと思っているんです。」と、「是非、お墓参りに来てください。ご先祖様が喜ばれますよ。我々も楽しみにしています。」

 祖母や叔母が遺していた北海道からの手紙や葉書、それを頼りに20数年前、親父とお袋、大阪の親父の兄、伯父夫婦が北海道旅行の際、事前の連絡も入れずに、清水町の笹原さん、幕別町の笹原さんを突然訪ねて行った。その時は、「こんにちは。さよなら」で終わったが、それが縁での再びのお付き合いが始まった。親父が元気なうちに、北海道のお墓参りが出来ていたらどんなに喜んでいただろうか?今では6~7時間も有れば、うちから、北海道の笹原さんの家まで来られるのに・・・

 幕別の笹原さんの家を後にする頃、昨日の清水町の笹原さんと同じように「お墓に参ってもらえませんか?」と、「それが、目的で来させてもらいましたから」とお墓参りをさせてもらった。昨日と、同じ気持ちだった。うちは、本家ではないが、同じ一族の岡山に居を構えるものとして、お墓参りをさせてもらえることの幸せを感じた。

 昨日同様、名残惜しかったが、墓地公園で、幕別の笹原さん御夫婦と別れ、層雲峡温泉に向けて出発したのが11時頃だった。

 12時前に帯広の六花亭で、お土産を買う。当初、富良野、美瑛を通って層雲峡に入る予定だったが、ホテルに着く時間を考慮して変更。大雪山国立公園の真ん中を走る国道273号線を北上することにした。

 北海道の道は、限りなく真っすぐの一本道と聞いていたが、273号線はまさにその通り。上士幌町の山の中は道路の両横に大きな白樺の林が連なる。陽光が射してくると、まるでメルヘンの世界を走っているような、この道をドライブしただけでも北海道に来た甲斐がある。さらには、三国峠の少し手前にある緩やかに大きくカーブした山の中の半ループ橋、橋の上ではあるが、思わず車を止めて、来た道を振り返ると、エゾ松の樹海の中に来た道が消えていく。北海道のダイナミックな自然に大感動だった。士幌町から層雲峡までの約130kmの間、対向車線を走った車は20台も無かった。大自然を独り占めにしたような・・・

 層雲峡温泉に着いたのが、夕方4時頃、ホテルに入るには少し早い。見ればロープウェイがある。それに乗ることにした。大雪山の中の黒岳と言う山の中腹にロープウェイは一気に駆け上がった。廻りの山々は新緑の緑?エゾ松の緑の中に残雪を残している。ロープウェイを降りるとそこはスキー場、スキーをしている人はいないが、まだスキーが出来そうな量の雪があった。

 夜は層雲峡温泉にゆっくり浸かり、アイヌの民族舞踊を見に行くと。道外から来たということで、特別出演することになった。演目は「色男の舞い」二人の女の子が一人の男を取り合うというストーリー。言われるがままにクルクル回されて・・・家内や妹は大笑いしながら見ていた。

 5月2日、美瑛を目指す。北西の丘展望公園に。広大な丘陵地の色とりどりの花が一面に咲き誇るのは6月から、今は、花の苗さえ植えられていない。もちろん、観光客らしき人は我々を含めても20人もいない。カットメロンを頂いて、「美しき美瑛の光と空」という美瑛の四季を撮った写真集を買って帰る。
 青い池を見て富良野を目指す。富良野では札幌の村松弁護士お勧めの焼肉、豚のサガリを食べにお店まで行くが水曜日はお休みで昼食無し。食後に予定していたこれも村松弁護士お勧めの、フラノデリスでのケーキとコーヒーを昼食代わりにしたが、ケーキはものすごく美味だったが、空きっ腹に甘いケーキはお腹にもたれた。

 美瑛も、富良野も観光客はものすごく少ない。当然きれいなお花畑も何も無いのだが、大きな丘陵地を見ることが出来ただけで満足、人混みに酔うこともなく、渋滞にも合わない。案外、観光のシーズンオフの北海道、GWはお勧めなのかもしれない。

 その後、美唄の三笠ICから高速道路に載って札幌を目指す。車の運転は眠くなると、家内や妹が代わってくれるからありがたかったが、高速道路になると担当は私になる。夕方5時過ぎ、ホテルに着いた頃は、けっこう疲れていた。

 この日はファイターズの清宮が1軍に登録、札幌ドームへ観に行こうかとも思ったが、「一人で行って来い。」に負けてホテルに近いジンギスカンのお店で夕食を取り、お風呂に入って、バタンキュー。

 5月3日、8時過ぎ、昨夜から降り始めた雨の中、出発。傘を買いたいがコンビニを見つけられない。時計台だけは見て帰ろうとナビをセットして、車中から見る。旧北海道庁に行くが、まだ開いていないので取りやめる。中山峠を目指す。そのころには雨も小降りになって傘はいらない。留寿都を抜けて洞爺湖を目指す。細川たかしの真狩村への案内標識がある。洞爺湖で昼食を取って洞爺湖ICから、トヨタレンタカーすずらん店に帰る。午後3時過ぎ・・・4日間に及ぶ北海道行き当たりばったりのドライブ旅行も終わった。

 新千歳空港で荷物を預け、空港内を散策。当初「忙しいから行きたくない。」と言っていた家内に「どうだった?」と聞いてみると「やっぱり来て良かった!」と笑顔で答えてくれた。
大自然の北海道へ家族で旅行。これも122年前に、大きな勇気と志を持って北海道へ入植した一族がいたおかげだ。

 祖母や伯母が大切に保管していた手紙も、もし廃棄されていたならば、清水町の笹原さんも、幕別町の笹原さんも、幻の親戚になっていたかもしれない。
先日、本家と、北海道に入植された実家(屋号じっけと読む)のお墓参りをしてきた。   
 
     2018年5月28日          笹原 真二
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大晦日 少しセンチに 時流れ 心静かに 初春を待つ

2017-12-31 22:14:02 | ツーリング
  来年が楽しみだ!

 平成29年が、もうすぐ終わろうとしているが、今年は従業員の減少、交通事故等、年初めには想像もつかなかったまさかの1年だった。しかし、今の心境は、来年がどんな1年になるか?ものすごく楽しみにしている。

 1月21日で3回目の成人式を迎える。同級生の多くはすでに還暦を迎え、定年退職をして次の就職先を探している人、再雇用で働くという人、人それぞれだが、集まれば健康の話から始まり、再就職、再雇用の話、年金老後の話へと展開するのだが、実のところ我々はまだ若いと感じている

 結婚式の挨拶で良く聴く話に「人生は上り坂もあれば、下り坂もあるが、もう一つ、まさかの坂がある。このまさかの坂が、一番厄介だから気を付けてその時は動じないように」というスピーチなのだが・・・

 酉年生まれの60歳は厄年、厄払いをしておかなきゃと思いながら厄払いをしなかったがために起きたのか?この1年は「まさかの坂」に躓いてしまった。

 「定年退職」「ケガで思うように動けないから辞める」「独立する」「夢だった長距離トラックの運転手になりたい」等々退職が続出。少し悩んだが1人には辞めてもらって、残った妹尾英明と2人、少数精鋭、規模縮小に舵を取る。

 そんな8月の末、信号無視をして交通事故を起こす。幸いなことに、救急車を呼ぶようなこともなく相手の方には車を大破させ、打撲でむち打ち症を負わせ、多大な迷惑をお掛けしたのだ。正に「まさかの坂」だった。

 私を含め2人になった9月21日から、毎日現場に入って屋根の上。ここ数年、営業に重きを置いて回っていたから、直近の2年間では、20日も屋根の上で一日中仕事をした記憶はない。だから、最初の2~3日は違和感があったものの、昔取った杵柄はけっこう早いうちに取り戻すことが出来た。

 毎日が屋根の上で一所懸命。疲れるのか?よく眠れる、よく食べる、食べてもベルトの穴は余裕ができた。時間が無いから時間の使い方が上手くなった。精神的にもずいぶん楽になった。悪いことは無い。強いて上げるなら、自由に動ける時間が少なくなったこと、そして弱冠機動力が無くなった?それでも協力部隊、アウトソーシングで賄えているから本当に悪いことは見当たらない。

 2人の少数精鋭になって3か月。よく言ったもので「案ずるより産むが易すし」
当初、人員が少なくなることに多少の不安を感じていたが、今では逆に人を抱えるということがいかに大変なことなのかという事を実感している。

 9月のマンスリーで「61年ぶりの再出発」と書いた。あれから3か月、お施主様からのお叱りも含めいろんなことがあったが、どうにかやって行くことが出来た。見方によっては極めて順調だった?また大きな流れという視点から見ても交通事故は別として意味のある1年だったような気がする。だから、余計に新しい年が楽しみだ。  

             平成29年12月28日   笹原 真二
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一周忌、悲しみの中 やまゆりの 写真はみんな、笑顔溢れる

2017-07-28 17:18:23 | ツーリング
  笑っている顔、どこのイケメンや俳優よりも、かわいい。
 25日、26日と二夜連続で、1年前、神奈川県相模原市で起きた津久井やまゆり園障害者殺傷事件(亡くなった方19名、重軽傷者27名)について、ヘイトクライム(人種、民族、宗教、性的指向等に対する偏見や差別からくる暴力・犯罪)新たな衝撃と題してNHKのクローズアップ現代で放送された。
 中学生のころには、やまゆり園の行事にも参加して、学生時代には「障害のある子供たちを支援したいと教師を志していた植松聖被告は、なぜあんな事件を起こしたのか?「障害者は不幸をつくる」という偏見からあの犯行に至ったという。番組では様々な角度から植松聖に迫ろうとしていたが、彼が連行されていく映像からは、生暖かいような?異様な狂気しか感じられなかった。
偏見はあった。大学1年生の時、クロスカントリーコースを走っていると、知的障害者の施設・愛光学園の生徒たちが先生と共に散歩をしていた。初めて見る大勢の知的障害者の集団が異様に思えたことを今でも憶えている。
ある時、バスに乗り遅れヒッチハイク。すると愛光学園のマイクロバスが止まってくれた。半分シマッタかなと思いながら乗り込むと、生徒達が笑顔で迎えてくれた。「違いは無いんだ」と感じたことも憶えている。
青年会議所に在籍していた時、西備養護学校や特別支援学級を支援した「なかよし運動会」という行事があった。ある年、中等部の体格のいい男子生徒がお漏らしをして、胸を両手でたたきながら興奮していた。先生方が懸命に下の世話をされている姿を頭が下がる思いで見ていた。
そんなことを思い出しながら、自分の中にもヘイトクライムの種はあるんだ?と思いながら2日間のクローズアップ現代を見た。
亡くなった女性の父親
「やっぱり、うちの娘は可愛いんですよ。こんなこと言うと親バカと思われるかもしれないけど・・・最後にあった時に、抱っこしてあげられなかったことが、ずっと心残りです。「意思疎通が出来ない障害者は生きていても仕方ない」(植松)と言っていたけど、言葉は単語しか並ばないかもしれないけど、意思疎通は出来るんです。」
 亡くなった女性の母親
「とにかくついてきて、トイレの中にもついてきて。二重顎になっているけれど、親バカかもしれないけど、とにかくかわいい。夫の病気、親の介護があるから、施設に預けたけど、どんな命でも大切な命、ゆるせない。」
垂水京子さんは、重い知的障害がある息子、亮太君をやまゆり園に通わせていた。事件後、衆議院議長にあてた「保護者の疲れ切った表情、居ても立っても居られずに、本日行動した」という植松被告の言葉にハッとさせられたと言う。「疲れ切った保護者の顔というのは、ショートステイに行った時の私の顔かもしれないと、今でも思っています。不自由は不幸につながらないけど、限りなく不幸につながるのではないかというのは、ずっとあって、消極的な意味でいないほうがいいと思ったことはあった。だけどそこだけを見るんじゃなくて、それの周りもすべて見てほしかった。」
「五体満足でよかったねとか言っちゃうでしょ。それは当然でしょう、いいんですよ。だけど、障害があったら、それはそれでよし、としないと。」
「心の底から、かわいいと。何もできないけれども、笑っている顔、どこのイケメンや俳優よりも、私はかわいい。役に立たなくてもいいし、ちゃんと存在しているだけで幸せだと思う。役に立たなくて悪い?」
 事件後、垂水さんは、障害のある人が、地域でどのように生きているのか、多くの人に知ってもらいたいという思いから、亮太君と積極的に外に出歩くことを大切にしているという。         クローズアップ現代から
     2017年7月28日               笹原真二
追伸Ⅰ 
「今の日本の社会の根底には生産能力のない者を社会の敵と見なす冷めきった風潮がある。この事件はその根底がボコッと表面に現れたもの。」インターネットの関連記事に載っていたコメントを読みながら思い出したのは、13年前?上海で仕事をしていた時のこと、一緒に仕事をしていた安徽省から出稼ぎに来ていた農民工の仲間の中に、しゃべることの出来ない一人の聾啞者がいた。建設現場で危ないと思っていると、一緒に来ていた仲間たちがみんなで、身振り手振りで常に目配りしていた。仲間だなと感心しながら見ていたことを思い出した。
追伸Ⅱ
「障害があるから不幸」は間違った因果。障害があるからを入れ替えてみてください。貧しいから、学歴が無いから、と。ずっと身近になると思います。
                          中国新聞から

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帰り道、蛍の灯り、思い出す、虫かご掛けて、網振る私

2017-06-13 06:59:06 | ツーリング
 今月に入ってから、蛍が飛び始めました。まだ草むらの中でじっとしている蛍の方が多いのですが・・・蛍は良いですね。童心に戻ります。子供のころ、妹や近所の幼馴染と、虫かご下げて、網や竹ぼうきを持って蛍を取りに家の前の小川沿いに散歩していたことが思い出されます。蛍の季節もあと10日程ではないかと思いますが、これから乱舞するくらい出てくれれば良いのですが・・・ 
11日の日曜日、東吉井、西吉井を歩いて事務所に。田んぼの中で田植え機がエンジン響かせて・・・それでも私が小学校の1~2年生のころ赤い玉の付いた糸を張って苗を手植えしていた頃と、確かに、田植え機、手植えという目で見る風景は違うのですが、みんな泥だらけになって田んぼの中で仕事をしている。心の風景は今も変わっていないなと感じました。
 田植え機の、エンジンの音、遠くから、手植えの景色、今も変わらず・・・
 
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一休み?部屋に入れば、舞っていた。昨夜の宿は、君の思い出

2017-05-26 07:05:26 | ツーリング
今朝、事務所の鍵を開けて入ってみると、なんとアサギマダラが部屋の中を舞っているではありませんか。確かに昨日部屋から出て行ったはずなのに、分からないうちに戻ってきたのでしょうか?昨夜の宿はうちの事務所。
 それにしてもビックリポンです。三日連続でアサギマダラを見れるなんて、今日はいつ頃までうちにいてくれるのか?一昨日、昨日と取材に来れなかった親友の井原放送の花川に電話すると「すげえな!それじゃあ、朝一番に行く」と。このアサギマダラが、花川が来るまでに居てくれるのか?もしくは、次のアサギマダラが来てくれるのかを願うばかりです。
 これから彼らは気温が21℃、標高1,000m~2,000mの高地の避暑地を目指して飛んで行きます。その途中の休憩地にうちを選んでくれて、一晩泊まってくれた。本当に私たちを楽しませてくれています。
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着いた先、ナビのデタラメ、酷過ぎる

2017-04-10 07:31:07 | ツーリング
 昨日は、ヤマダ電機に勤めている長女が久しぶりの日曜日の休みだったので、今、家にいる家族全員と言っても、あとは家内とお袋の4人だけなのですが・・・10時半過ぎに出発して、岡山の代表的な桜の名所、津山の鶴山公園の桜を見に行ってきました。北房から中国道に入って、津山の手前、院庄で降りる。ところが、皆さん、鶴山公演を目指しているのでしょうか?出口付近に2か所の信号があってしばらく渋滞。その後は思ったより混雑することなく進みました。
 お昼に何を食べるか?津山のホルモンうどん、それともうなぎ?長女が津山のうなぎで検索して「うさみ」さんという店を見つけてそこへ。お店の外見は結構年季が入っている、4人掛のテーブルが三つの小さなお店、親父さんと、お母さんともう一人女の人が切り盛りされていました。1500円、2000円、2500円、3600円のうな重の中から2500円のうな重を注文、美味しかったですね。久しぶりと言ってはなんですが、本当に香ばしい香りで旨かったです。
 うな重で腹ごしらえをして鶴山公園に。ここも混雑することなく、駐車場へ入れることが出来ました。鶴山公園は津山城跡で廃藩置県後、取り壊され10年くらい前に備中櫓が復元されているだけですが、明治時代の津山の町議、町長を務められた方が桜を植えようと、今では全国にも自慢できるような桜の名所になっています。
 城郭に上がって驚いたこと、ものすごく大きなお城だったんですね。この城を作った大名は森長政、森蘭丸の弟になる人でなんと18万石の中堅大名だったそうです。城の大きさは江戸城、大阪城に次ぐ3番目の大きさ、普通の城で天守閣等の建造物の数は40棟くらいあるそうですが、津山城はなんと180棟もあったそうです。本当に歩いても疲れましたが、大きな城郭の中に、桜が一杯。まだ7分咲きくらい?もう少しで満開です。
 この鶴山公園、津山市、岡山県を上げてでも、天守閣、そして全ての櫓180棟を復元してほしいですね。もちろん300年くらいかかるだろうけど、そんな夢を見たいですね。鶴山公園の城跡の高台からから見た津山市街、北の山々最高でしたね。岡山に住んでいながら、鶴山公園に来ていなかったことは大きな損をしていたように思われます。
 鶴山公園から、1kmほど北にある森家の別邸聚楽園にも足を運びました。ここは岡山の後楽園とは比べものにはなりませんが、それでも質素でよかったですね。
 聚楽園から醍醐桜をナビに入れて、頭の中の地図を併用しながら醍醐桜を目指しました。ナビと頭の中の地図がズレているような、新しい道でも出来ているのかと、ついナビを信じて行ったら、細い細い山道、結果ナビが連れて行ってくれた所は山二つくらい東の、とてもじゃないけど、でたらめな場所、腹立ちましたね。ナビだけではなく、自分の頭の地図を信用しなかった自分自身に。そこから約15kmくらいだったでしょうか?どうにか、醍醐桜に到着しました。夕方だったので、スイスイと渋滞することもなくここは5分咲きくらいでした。来週の日曜あたりが満開ではないでしょうか?
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