甍の上で

株式会社創瓦 社長 笹原真二のブログです。

秋が行く 夜のしじまの 外灯に 光る柿の実 たわわに実る。

2017-09-30 20:32:21 | Weblog
   61年ぶりの再出発
 61年前、昭和31年の9月に、親父がセメント瓦の製造販売、笹原洋瓦工業所を立ち上げた。物心ついたころには、砂とセメントをスコップで練っては、瓦の木型に入れて手刷りでコツコツと瓦を作る親父がいた。

砂置き場へ新しい砂が入ると一時の潮干狩り。時にアサリが入っていた。仕事が無かったのだろう?昼間から小田川で魚釣り、夜はガス灯とヤスを片手に、腰には魚籠を付けて夜ぼりに行く、魚は寝ているから獲れる。獲った魚は食卓に上がる。梅雨から秋にかけて雨で川が増水すれば、親父は大きなタイマツという三角の網を担いで腰のあたりまで水に浸かりながら鰻を獲りに行っていた。この鰻が殊の外美味かった。小学校3年生くらいまでの思い出だ。

小学校3年生の時、鹿児島からプレスで圧力を掛けて瓦を作る機械を購入。高度成長の波に乗って仕事は忙しくなる。夜ぼりもタイマツも行かなくなった。それは、どこの家庭でも同じだった。
以前は忙しい時に、アルバイトが手伝いに来ることがあったが、プレスを導入してから、少しずつ従業員やアルバイトの人達が増えてきて、中学生の頃には、従業員は10人くらいになっていた。

34年前に帰る。運が良いことに、縁あって京都の甍技塾徳舛瓦店の現場(西教寺、立専寺 広島県)に入らせてもらう事ができ、社寺瓦のいろはを教えてもらう。狂気のバブル景気に翻弄されながら従業員は16名まで膨れ上がった。
その後の景気後退も経験しながら試行錯誤を繰り返した。運が良いことに武速神社、胎蔵寺、甲奴神社等、極めつけは2年前の妙政寺の仕事にも恵まれ、少しずつ目指す仕事の方向性も固まってきて少し自信も持ち始めていた。
 しかし、3~4年前からの急激な少子高齢化に伴う井原地区の過疎化は、自分が感じていた以上の速さで進み営業状況は後手に回るようになる。

今年の初め、6名で出発したが、定年退職、体調不良を始め、「独立したい」「長距離トラックの運転手になりたい」等、一人また一人と辞めて行く。私に対して「NO」を突きつけられているような・・・これからへの不安も感じた。

そんな中、これは、「川の流れ」がそうなっているんだと。そうであれば「事業縮小」「業態転換」一人にはお盆前「新しい仕事を見つけて欲しい」とお願いした。当てのない訪問販売の営業もやらなくてよい。新たな再出発!幸い、日本国中、どこの瓦屋に出しても恥ずかしくない妹尾英明がいる。彼がいるだけで、確実に岡山では一番技術力のある瓦屋だ。むしろ、これからが楽しみだ。

運が良いことに、来年の3月にはお寺の山門の工事も決まった。当てのない営業も楽しみになってきたような・・・61年ぶりの再出発?竹原ピストルの歌「カウント10」が応援歌だ。「カウント9までは神様に数えられてしまうけど、カウント10だけは僕は絶対数えない。」 2017年9月28日  笹原 真二
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みなさん、交通事故に、気をつけて!運転するときは、運転に集中してください!

2017-09-04 18:25:56 | Weblog
実は、一週間前、8月28日夕方5時過ぎに、事故を起こしました。考え事をしていたというか、何も考えていなかったというか?よそ見もしていたわけでなく、ただぼーっと運転していました。いつも通る道なのですが、交差で信号無視、気が付いた時は、目の前に車があって、私が運転していた軽トラのウインドガラスが割れ、すぐ降りて、相手の女性ドライバーに平謝り。謝って済む問題ではないのですが、幸い外傷は無く、同乗者がいないか後部座席のドアを開けると0歳児と思われる赤ちゃんがチャイルドシートにしっかり固定されていました。赤ちゃんは泣きもせず、助け出そうとして、初めて泣き出しました。通りかかった方が赤ちゃんを出して、ドライバーのお母さんに。救急車は呼びませんでしたが、すぐに110番。警察に連絡を取って事故処理に来てもらいましたが・・・「すべて私が悪いんです。信号無視で交差点に入っていきました。」と、申し訳なのと、情けないのと、腹立たしい気持ちでいっぱいでした。もし、0.1秒遅かったら、運転席を直撃して、ドライバーに大けがをさせていたかもしれません。もしこのお母さんが、お子さんをきっちりとチャイルドシートに留めていなかったら、赤ちゃんは飛んで、天井やウインドウにたたきつけられていたかもしれません。そんなことを思うと、本当に怖くなります。神様が、ぎりぎりのところで助けてくださったのかなと思います。
 事故から一週間が過ぎましたが、頭の中から事故の事は離れません。
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朝夕が、涼しくなって、窓も締め、床に入れば、秋が来たなと。

2017-09-01 06:50:55 | Weblog
  これからも悪あがきは続けていくよ
 25日、24時間テレビで「時代をつくった男・阿久悠物語」(阿久悠没後10年記念ドラマ)が放映された。昭和を代表する作詞家、Jポップスから、フォーク、演歌、コミックソング、アニメソング、CMソングと多岐にわたる。「開けポンキッキ」のポンキッキ体操の歌も阿久悠さんの作詞だという。
 尾崎紀世彦の「また逢う日まで」で、作詞家「阿久悠」という名前を知った。「悪友」を「阿久悠」に当て字?遊び心のある面白い名前だと思った。
1971年日本テレビのプロデューサー池沢から「テレビからスターを生み出したい!」と新しいオーデション番組の立ち上げから参加。阿久はオーデションのすべての過程をガラス張りにして放送するという今までにないスタイルを提案。それが「スター誕生」という番組の始まりだったという。
「スター誕生」をリアルタイムで見ていた。森昌子、桜田純子、山口百恵、岩崎宏美、ピンクレディーが、この番組から文字通りスターになって行った。
森昌子を演歌で売り出すという事務所に対して、阿久は中学生に女の情念を歌わせるのはうそになると言って、「淡い初恋消えた日は・・・」の「先生」という歌が生まれた。ピンクレディーは最初、赤い鳥と紙風船を一緒にしたような「白い風船」という名前でフォーク路線を目指していたという。しかし。阿久悠と作曲家の戸倉俊一が今までと違ったものではないと駄目と。だから、デビュー曲「ペッパー警部」は、「テーマパーク」をイメージして創った楽曲だと言う。確かにピンクレディーは歌って踊って、ジェットコースターに乗っているみたいな歌だなと改めて感心した。審査委員の松田敏は、短いスカート、足を大きく広げる大胆な踊りに眉を顰めたが、ピンクレディーのガニマ股パカパカダンスは小学生から火が付き日本国中を席巻していった。ちなみに名前は、戸倉俊一が飲んだカクテルの名前「ピンクレディー」が由来だ。
山本リンダ「どうにも止まらない」ペドロ&カプリシャス「ジョニーへの伝言」都はるみ「北の宿から」石川さゆり「津軽海峡冬景色」沢田研二「勝手にしやがれ」「時の過行くままに」岩崎宏美「思秋期」ピンクレディー「渚のシンドバッド」「UFO」「サウスポー」等々。本当に一人の人が書いたのだろうかというような様々なジャンルの歌が70年代という時代を切り開いていった。
80年代に入ると、阿久の出番が少しずつ少なくなっていく。それでも、八代亜紀「雨の慕情」西田敏行「もしもピアノが弾けたなら」森進一「北の蛍」と、その時代を代表する歌を発表。バブルが始まったころの86年、河島英吾「時代遅れ」を出した時、「これからも、悪あがきは続けていくよ」と。バブルという時代の中、「時代遅れ」は5年もの歳月をかけてヒットしていったという。この歌はバブルという時代のの違和感を、阿久悠さんが我々に伝えようとしていたのかもしれない?・・・「阿久悠物語」から 平成29年8月28日  笹原 真二
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