甍の上で

株式会社創瓦 社長 笹原真二のブログです。

年の瀬に 思い巡らし 無常にも 過ぎゆく時は 寂しさに似て

2022-12-31 18:04:23 | Weblog
    親友清水の訃報(素晴らしいブレーキ)
 
 19日月曜日、朝起きると一面雪に覆われていた。覆われていたと言っても、2cmに満たないくらいの雪なのだが、12月にこんな景色を見ることはほとんど無い。午前中、現場に入ることは見合わせた。

 事務所で雑用をしていると、携帯電話にラインの通知音が鳴る。開いてみると大東文化大学の陸上競技部の新潟の先輩、佐野さんがドカ雪の写真を上げていた。早速、うちの土場の雪景色を写してラインに上げ終わったところへ家内が事務所に。入ってくるなり、

「さっき、清水俊光(大東文化大学の陸上競技部の同期)さんの息子さんから電話が掛かってきて、清水さんが急に亡くなったと、昨夜お通夜をしたそうで、葬儀は今日、家族葬でと言われていた。」「息子さんの電話番号は?」「家の電話は、着信履歴の機能はないから分からない。」すぐに、清水の携帯を鳴らしたが誰も出ない。家の電話も鳴らしたが出ない。

 同期の主将、鹿児島の吉元に電話するが彼も出ない。当時の監督、青葉先生に清水の突然の訃報を伝える。自分でも驚くくらい動揺した、震えが止まらない。同期、先輩、後輩に訃報を伝えた30分くらい、震えが止まらなかった。

 その夜、改めて清水の家に電話する。奥さんは「あまりにあっけなく逝ってしまいました」と冷静に、淡々と話して下さった。

 令和2年の1月18日、翌日の都道府県対抗男子駅伝の前日、大学の陸上部、広島近辺の在住者のOB会が開かれた。その時の話。
箱根駅伝での清水のブレーキを、「あれは素晴らしいブレーキだった」と言った。清水本人は「素晴らしいブレーキってあるのか?」

 清水は1区を担当。皆が牽制しながら、5kmを15分50秒で通過するという超スローペースでレースは進んだ。12km付近、右太腿を気にしていた清水が突然立ち止まる。屈伸運動をしたあと、再び走り出す。15km過ぎでまた立ち止まる。再び屈伸運動、歩くことは無かった。再度走り出す。その対応は見事なくらい冷静だった。清水らしかった。青葉先生も「清水!焦らなくて良いよ!」と声を掛けながら再び走り出した清水に「そう!そう!一、二!そう!そう!一、二!・・・一、二、そう!そう!」と静かに清水の対応を見守った。
 右太腿の痙攣というアクシデントの中、今自分自身が出来得る限りの対応をしていることが伝わって来た。涙が出そうになるくらい、ある意味感動しながら清水の対応を監督車から見守るしかなかった。清水は、決して後ろを振り向くようなことはせずレースを全うした。結果トップから遅れること1分40秒遅れの最下位15位。しかし、その1分40秒遅れは、驚異的だった。3分いや5分くらい遅れても不思議ではない状況だった。そんなドラマが目の前で繰り広げられた。その場面は今でも鮮明に思い出すことが出来る。同席していた青葉先生(当時の監督)はうなずきながら聞いていた。

 21日、吉元と、1年先輩の平盛さんと、広島の清水の家に弔問に行ってきた。清水の家は広島市の西区高須台という団地の一番上の上の方にある。結構な坂がある。彼は卒業後、NTT中国に就職、実業団で陸上競技を続けた。「清水らしいな、こんな上の方に家建てたのは練習に適しているからかな?」「ロケーションも良いなあ。広島の街も一望できるし、海もよく見える。清水らしいな・・・」と言いながら団地の坂道を上がっていった。家に着く頃には清水の涙雨。

 遺影を見て涙せずにいられなかった。吉元はずっと下を見ながら涙していた。「素晴らしいブレーキ」の話もした。息子さんは「その時の話も聞きました。「大東、何、やってんだあ!」とか「ばかやろー」とか罵声を浴びながら。足に安全ピンを刺しながら走ったって言っていました。」「大学時代が一番楽しかったみたいです」と奥さん。   

「16日の夜10時頃、胸が痛いと言って、その夜は休んだのですが、夜中は嘔吐したようで、17日の午前4時頃、また胸が痛いと、夜が明けたら病院へ行こうと、夜が明けてから市民病院へ行くと、心筋梗塞を起こしていると緊急手術に、私も主人も、甘く考えていました。入院の手続きをして、手術室に入るときも「頑張って!」も何も言わずに・・・手術の途中「深刻な状況です」と言われても、実感がなくて・・・手術中、心臓の血管が破裂して、すぐに開腹して、血管を縫い合わせたり、蘇生もしてくださったんですけど、午後1時頃に亡くなりました。あまりにもあっけなく逝ってしまって、本人が一番驚いているんではないかと思います」

 「携帯電話もロックされていて、連絡取ろうにも電話番号が分からくて、日曜日、笹原さんの家に電話したのですが、留守だったようで、こちらも混乱していたので、連絡が遅くなってしまいました。」

 「おじさんたちの修学旅行、2年後は広島に決まったからと、笹原さんから宮島の宿とか頼まれたから、呉の潜水艦なんかも皆さんに見てもらったらいいね・・・二人で下見に行こうと言っていたのにそれも出来なくなりました・・・」

 奥さんも、息子さんも冷静に淡々と事の顛末を話して下さった。

 翌日、吉元に電話をかける。「一人になった時、一人で車を運転している時なんか、ふと清水の横顔が浮かぶと涙が出そうになるだろ」「そうなんだ」同じ気持ちだった。
 新潟の高橋(陸上部の同期)は、今年の初め心筋梗塞に、3日ほど、生死の間を彷徨いながら助かった。彼に電話をしていると泣きだすのだ。「泣くなよ!」と言っても・・・「元気になって、みんなで2年後、清水の墓参りをしよう」と言って電話を切った。

 4年間、同じ屋根の下で同じ釜の飯を喰った心友の突然の死は、受け入れがたいものだった。しかし、「清水の素晴らしいブレーキ」は僕の中でずっとずっと生き続けていく。
                          令和4年12月28日           笹原 真二
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