甍の上で

株式会社創瓦 社長 笹原真二のブログです。

同じ時 過ごした者は 人恋し 変わらぬ気持ち 今も昔も

2019-09-30 16:28:00 | Weblog
    先輩は兄貴、後輩は弟

9月14日~16日、大東文化大学陸上競技部の有志が集まって、熊本の人吉温泉泊、鹿児島市内泊2泊3日の大爆笑OB懇親旅行に行ってきた。

 14日、埼玉から先輩の森下さん、石川さん、新潟から佐野さん、高橋、長崎、名古屋から長谷川、広島から平盛さん、清水、新原、福岡から森田さん、佐賀から山崎、長崎から寺坂さん、立石、そして私、JR佐賀駅に12時半過ぎ集合した。みんなそれぞれに年齢を重ねているが、すぐに学生時代へとタイムスリップ。山崎が借りたマイクロバスで人吉温泉に向かって出発した。
バスの中では、矢沢永吉と、都はるみ、薬師丸ひろ子のDVDを楽しもうと思って持参したのだが、何とテレビが無い。明日は、東京オリンピックのマラソン代表を決めるMGCがあるというのに、それも見ることが出来ない。

一体どうなってるのという思いで、「今どき、テレビの付いていないマイクロバスがあるなんて信じられない。」というと、「1日15000円の格安で借りていますから・・・」せっかく持ってきたDVDはずっとバックの中に・・・

今年のNHK大河ドラマ「いだてん」は、箱根駅伝を創った人金栗四三が主役。せっかくの熊本の旅、「金栗四三記念館に行きましょう」と言うと、賛同者は殆ど無し、今回の大河ドラマの視聴率は、ここでも高くないようだ。それでもめげずに「箱根駅伝を目指していた我々が行かないというのは無いでしょう」と、半ば強引に玉名の金栗四三記念館に行く。やはり箱根駅伝を目指していた面々、来て良かったようだ。ストックホルムオリンピックのユニフォームのランニングシャツは子供用ランニングシャツ位にかなり縮んでいた。播磨屋のマラソン足袋、我々が学生時代にもお世話になったハリマヤのマラソンシューズ等の展示物もあった。気がかりは急ごしらえのプレハブで出来た記念館。日本人最初のオリンピアン、箱根駅伝の創設者、もっと立派な建物であって欲しかった。

森田さんは、金栗四三さんに会ったことがあると。「高校の時、どこかの大会の開会式で、金栗さんが挨拶をしたんだけど、その話が長くて、40分くらいだったか?大変だった。だから金栗爺って言ってたら、金栗さんは偉い人なんだと言って先生に怒られた。」そういう話を聞くと、大河ドラマの金栗四三もそんな感じがする人だ。そして一番思ったことは、我々の世代もけっこう古いんだなということ。還暦を過ぎて・・・大学時代は40年前のことだ。・・・

鹿児島から、岩元さん、宮地さん、吉元、山元、熊本の佐藤さん、山崎好美さん、長崎の渋谷は、車でそれぞれ人吉へ入っていた。吉元からまだ着かないのかと電話が入る。みんな首を長くして我々を待ってくれていた。予定より1時間近く遅れて人吉温泉花の荘へ入る。岩元さんは、どんぐり眼は変わらないが、お腹ポッコリ。佐藤さんの髪の毛は結構少なくなっているのが、時代を感じさせた。

食事会、二次会の場は、吉元(元鹿児島実業の教諭)の教え子が用意してくれたお店、美味しい食事と楽しいひと時を満喫した。
宿の部屋が最高に良かった。二部屋に分かれて、10人と11人、布団を敷くと畳が全く見えなくなる部屋に雑魚寝。40年前暮らした寮の6畳の部屋が思い出される。3人部屋、布団を敷くと畳は見えなかった。
 
夜中、あんまり寒いので目が覚めた。エアコンの温度を確かめると、23度に設定してある。見るとみんな布団に包まって寝ているのだが、森田さんだけ布団に包まっていない。あとで考えたら、森田さんに布団をかけてあげればよかったのだが、眠くてエアコンを切ってすぐ寝てしまった。
 
翌朝、「誰が23度なんかに設定したんだ?」と言うと立石が「笹原さんが夜中に、いびき掻きながら「暑い、暑い」って言うからエアコン掛けたんですよ。」

「森田さん、あんな寒い中、布団もかけずに良く寝れますね。」と言うと「家じゃ、俺一人の時は18度にしている。女房がいる時は寒いっていうから上げるけど。」「誰だって、寒いって言いますよ。」寝ていても楽しい一夜を過ごすことが出来た。
 15日、朝、ホテルの前で集合写真を撮って、佐藤さんと、渋谷は帰って行った。人吉の一泊だけという予定だった山崎好美さんは、引き続き鹿児島へ。

 リクエストしていた知覧の平和記念館。滞在時間は40分ほど、ゆっくり見たかったのに・・・また改めて来るしかない。特攻隊の兵士の憩いの場、とみや食堂の前を通って、知覧のきれいな武家屋敷の古い町並みを歩く。目につくのは屋根。古い町並みなのに・・・江戸、明治期には絶対ありえないセメント瓦が葺いてあったり、今の平板瓦が葺いてあったり・・・これは大変良くない!

 知覧をあとにして、次は池田湖、大鰻を見る。昼食は約1時間並んで、そうめん流しと押しずし、暑かったからよけいに美味しかった。

指宿温泉の砂風呂。30年くらい前一度いったことがあるが、その時は冬だった。今回は夏の炎天下、一応日よけはあるのだが10分が限界だった。しっかり汗が出て気持ちが良かった。ここで石川さんが大爆笑の大失態?を演じる(翌日のバスの中での新原の話)
盛りだくさんの鹿児島の旅、市内に入る夕方5時も過ぎた。ホテルに行くのかと思ったら、城山に上がりだした。吉元の「鹿児島をしっかり堪能して!」と言う気持ちを感じる。行った場所は城山の展望台。昨年の大河ドラマ「西郷どん」で映っていた桜島と同じ風景が広がる。ここから撮っていたのか・・・そして眼下に広がる鹿児島の町はビルばかりの大都会だった。吉元の鹿児島弁を聞いていると、鹿児島は田舎だと思っていたが、街並みは大都会だ。

夜の食事会場には、新たに後輩の坂中と、白髪のオールバック、黒に金刺繍の甚平、昔いた悪役レスラーを思わせるようなずんぐりした体形・・・誰かと思ったら、1年先輩の米盛さんだった。色白の男前は、よく日に焼けていた。一月ほど前、電話で話したばかりの先輩。「笹原さん久しぶりです。」と言われ、「それは無いでしょ、ササとか、ササハラの呼び捨てじゃないと可笑しいでしょ!そんな他人行儀の間柄ではない!」と話した米盛さんだった。41年ぶりの再会嬉しかった。

4年下、入れ違いの後輩坂中の奥さんはなんと岡山県出身、真庭市落合町の人だった。「大学時代の彼女なんです。」と話してくれた。

 スナックの二次会では、皆の歌の上手なことにびっくりした。歌手になっても良いような人が居る。伊達にお金を使っていない。歌いに行った分だけ上手になるのか?俺は無駄にお金を使っただけなのか?どう贔屓目に見ても、一番歌が下手だったのは俺だった。

 二次会は11時半頃お開き。明日の朝、岩元さんが魚を釣りに行くというと、森下さん、石川さん、佐野さんが行くという。平盛さんは早朝5時と聞いて、行くと言っていたのを取り止めた。 

 16日、9時過ぎ、吉元、山元、岩元さん、宮地さんの見送りを受け、ホテルを出発。帰路に就いた。九州道を北に向かう。三日目の車中も爆笑旅行は2年後開催という約束をして佐賀で解散それぞれの帰路に就いた。
          令和元年 9月28日       笹原真二
追伸
 森田さん、石川さんと「60歳も過ぎて、2泊か3泊くらいで旅行でもしたいですね。」という話は以前からしていたが、2月3日日曜日、森田さんとの電話で、その話になって、また行こうとか、いつか行こうとかでは、絶対に行くことはできないと思って、石川さんはGWは無理だと言っていたから、森田さんと2人で期日を9月14日~16日と決めた。

すぐに吉元と、岩元さんに連絡。二人は大歓迎と喜んでくれた。石川さんに連絡、GWはダメと言っていたから、石川さん仕様の日程だからと言質を取った。メンバーは3~4人?俺の運転はダメだ。ドライバーは?立石が良い!即電話「分かりました!寺坂さんや、渋谷さん、山崎に声かけなくていいんですか?」「2泊3日だから、来るっていうか分からんけど、誘いもしなかったって言われたら、確かに感じ悪いもんね。じゃ一応声だけ掛けといて・・・」

「3人とも、喜んで行くって言ってました」と電話が返って来た。車はワゴン車でもレンタルするか・・・」吉元に連絡すると「増えるのは良いことだよ」メールで長谷川を誘うと「お誘いありがとうございます。喜んで参加します。」世羅町議の新原は議会等で難しいかなと思っていたが「その日は、議会もありません。参加します。」

 新潟の高橋は当初渋っていたが「分かった、行くよ。それじゃ、長崎も誘ってみる。」・・・「長崎も喜んで参加するって。」と続けざまに連絡が入る。そのことを「行けるかどうか?分からんよ。」と言っていた清水に伝えると「分かったよ。行くよ!」
参加者が増える度、吉元と森田さんに連絡、泊まるホテルのこと、交通手段のこと、森田さんからは「そんなに増えて大丈夫なのか?」と心配するメールも入ったが、「どうにかなるだろ!」で、吉元と連絡を取った。あとの大変な実務は、吉元が背負ってくれた。俺がやったことと言えば、言い出しっぺとしての若干の広報活動?

 13日、前夜祭。前泊で、高橋、長崎、長谷川がうちに泊まってくれた。食事会の会場へはレスリング部の友達山本が笠岡から井原まで連れて来てくれた。翌日の仕事の用意のため、30分程、ホストが遅れるという失態を演じたが、予定通り食事は始まっていた。
その日、痛めた左ひざは、歩くのも困難な状況で皆に心配をかけたが、シップのお陰で痛みは翌朝には8割がた無くなった。お陰で本当に楽しい3日間を過ごすことが出来た。

 16日、長谷川は、お母さんを病院に連れて行くと言って帰って行ったが、高橋、長崎は、また、うちへ泊まってくれた。本当に嬉しかった。

 改めて思う、先輩は兄貴、後輩は弟、同じ屋根の下で同じ釜の飯を喰った仲、そんな兄弟たちと40年ぶりに2泊3日という同じ時間を過ごすことが出来た喜びは何物にも替え難いものがあった。

 同じ屋根の下も同然、向かいの建物で寝食を共にして、指導してもらった監督の青葉先生ご夫妻は、言うならば若い親父と、若いお母さんだった。今回のマンスリーを書きながら40年前のことが、昨日のことのように次々と思い出されていった。
コメント
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