甍の上で

株式会社創瓦 社長 笹原真二のブログです。

過疎の町 医療現場の 物語 人の想いが ドラマチックに 

2020-11-29 16:50:53 | Weblog
  NHK逆転人生 過疎地の病院を救え新米医師の奮闘

 11月2日、月曜日夜10時。床に着こうとしていたそのとき、たまたま付けていたテレビ。NHK逆転人生「過疎地の病院を救え新米医師の奮闘」というタイトル。これは見なければ!と床に着くのをやめた。
 
  江戸時代から続く医師の家系、父は膵臓がんの権威、国立癌研究センターの院長も務めた超エリート医師、母は理学博士。「100点以外テストじゃない」そんな父や母の厳格なしつけに反発して育った息子。名門、都立西高校時代には、茶髪、タバコ、バイク、停学、警察の世話になったこともある。父からは「おまえの人生は、お前のものじゃない!もっと人のために使え!」と、耳にたこができるほど言われて育ったという江角悠太。

  高校3年の時、たまたま入った映画館で、貧しい人々に無料で診療する。ありとあらゆるものを使って幸せを届けていく実在の医者「パッチ・アダムス」を見て人生が一変。「こんな風に自分は生きたい。」と医師を志す。

 2浪を経て三重大学医学部で総合診療を学んだ。東日本大震災では、地域医療の大切さを痛感する体験。福島県いわき市で、病気のおばあちゃんを抱えて2週間取り残されていた家族のところへ救援活動に入る。そこで思ったことは、「そういう状況の人たちを助けられる人間になりたい・・・恵まれていないところに、自分は医療をしにいくべきだ。」
 
 こういった体験から、地域医療の理想に燃えて、2014年12月、自ら志願して過疎化が進む志摩市民病院へ赴任した。医師は外科2人、整形外科1人と偏っていた。そのため治療を断ることも多く、住民たちは、遠くの県立病院まで通っていた。次第に病院は信頼を失い年間7億円の赤字を経常。民間に運営をしてもらう案も出たが引受先は表れなかった。
2015年12月、院長含む先輩医師が病院をやめることになった。このとき30名近い入院患者がいた。医師が3名未満になるとベッドは19床以下にしなければならない。

 おばあちゃんの介護をしているのは、おじいちゃん。車の運転は出来ない。家族は、ここじゃないと通えない、大変負担になる等々、頭を抱えていたとき、病院のスタッフから、「江角先生、この病院に残って立て直してくれませんか?」「それって、院長になれっていうことですか・・・」1年の間に、地元の人に助けてもらった。恩返しをしなきゃ・・・

 父親にも電話で助けを求める「ここで院長になることになった・・・」「そんな病院やめて東京へ帰ってこい。留学する道だってあるだろ!」「もうやるって決めたんだ!」相変わらず父とは価値観が合わなかった。

 江角先生は、医師の確保に奔走する。若い研修医の石崎先生が常勤で来てくれることになった、後は非常勤の医師を雇うことでなんとか入院患者を転院させずにすんだ。そして病院の方針転換、それまで専門外だからと言って断ってきたが、「どんな患者でも断らない。志摩市の人が利用したいと思われるような病院にする。」

 しかし、医師、看護師が少ないため大忙しになる。当直は月に10~15日。ひどいときは月曜日に病院に来て金曜日に家に帰ることも。そんなある日、「私、事務の仕事をやめたい・・・病院を辞めるんじゃなくて、メディカルアシスタントの資格を取って院長のサポートをしたい。」スタッフは、病院は職場であると同時に家族や友人を支える大切な医療拠点。

 「ここに残っているスタッフは、院長先生の頑張っている姿を見て私たちも一緒に頑張ろうと思った。」「業務も増えた。大変だったけど、私たちも、院長について、必要とされる病院になりたい。」
 
 しかし、少しずつ良くなっていったが、住民のニーズに十分応えられているとは言いがたい。そこでアイデア、夏休みなどの体験学習の一環で、中高生に入院患者の話し相手になってもらい、若者たちに地域医療の担い手になってもらう。彼らは病院スタッフにない特別な力を持っていた。患者たちが言えずにいた本音を上手に聞き出してくれた。

 手応えをつかみ始めた矢先、石崎先生が辞めるという大事件が起こった。都市から離れ激務が続く地方の病院、長く務める医師は多くない。再び病院存続の危機が。このとき常識破りの一手を、以前クルーズ船で働いていたときの伝で、マレーシア出身のアメリカ人医師78歳のクー・エン・ロック先生が来てくれることに、しかし、1年の半分は帰国するという条件、東京から非常勤で来てもらうこともあった。経費を抑えるため、江角先生自身が、休み無く働くしかない。ほとんど家に帰れず妻とも離婚することになった。理想に燃えて飛び込んだ地域医療だったが、心はすり減っていった。

 しかし、人生は、ときに想像もしないことが起こる。国立癌研究センターを退職し、大学教授になっていた父江角浩安が病院を訪ねてきた。病院を見て回った父は、大学教授の職を辞し、ここで常勤医師として働くと決意してくれた。「息子が困っているので、行ってやってもいいかなと思った。近くでどういうことをやっているかわかるのは、少しは安心かなと思っただけ・・・」

「癌を治さなくてもいいという患者さんに会ったよ・・・」「うちの病院は、病気を治すことより、どう人生を全うするかを大切にしている人がたくさんいるから・・・」「これまで、癌を治すことばかり考えてきたからな・・・悠太、良くやってるよ・・・」そりの合わなかった親子が同じ方向を見るようになった。

 ここで働くため、父は総合診療の研修を受けて来てくれた。父が加わったことで、病院は危機を脱した。余裕を持って診察できるようになり、経営も上向き赤字も毎年、1億ずつ減らしている。崖っぷち病院は希望の病院へと生まれ変わっているという。
父が志摩に引っ越してきて2年、すっかりこの街に、なじんだようだ。病院にはさらに頼もしい味方が増えた。30代の土田医師が志摩に移住し3人目の常勤医となってくれた。「医者が足りていない地域で仕事が出来たほうが人の役に立ちやすいかな・・・」
江角先生の弟、江角亮先生も三重大の医学部で学び、救急医療の医師として働いている。

 たまたま付けていたNHK,逆転人生、感動の物語だった。
                            2020年11月28日             笹原 真二

 追伸 お父さん、江角浩安さんの生き方も素敵です。志摩市民病院もしくは江角浩安で検索してみてください。もっといろんなことが分かります。
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