北京五輪400mリレーの銅メダル
1991年、世界陸上東京大会において高野進(現東海大学准教授)が400mで7位に入賞した。短距離はマラソン、長距離(実業団チームが短距離に比べるとたくさんある)と違い世界に通用する種目ではなく高校、大学を卒業した後なかなか陸上競技を続けることがむずかしい種目だった。そんな中、高野がファイナリストに。当時、小倉城の敷瓦の仕事の手伝いに行っていた旅館の一室で感動しながらこのレースを見たことを今でも鮮明に憶えている。
翌92年、高野はバルセロナ五輪400mで日本男子のスプリント選手としては1932年ロサンゼルス五輪100m6位入賞の吉岡隆徳以来60年ぶりの決勝進出を果たし8位入賞。日本人でも短距離種目で世界と戦えることを証明した。(女子では東京五輪80mハードル5位入賞依田郁子)
私が朝原宣治を知ったのは1993年彼が同志社大学時代100mで10秒19の日本新記録を出した頃だった。走り幅跳びでも8mを越え、世界で戦うには走り幅跳びに専念したほうがいいのではないかと思っていた。
1996年のアトランタ五輪100m(準決勝進出)走り幅跳び(予選敗退)400mリレー失格。2000年シドニー五輪では100m、走り幅跳びで出場を逃すも400mリレー6位入賞。末続慎吾の暴れ馬のような走りが印象に残った。日本短距離陣が変わっていくのを感じた。それは91年、東京の世界陸上から、高野進から始まっていたような気がした。
朝原は2001年からは100mに専念する。32歳で出場した2004年アテネ五輪100m(準決勝進出)400mリレー4位入賞。翌2005年のヘルシンキ世界陸上に出場。2007年9月に開催される地元大阪での世界陸上を最後に引退すると宣言をしていた。その大阪100m1次予選で10秒14をマーク(昨シーズン日本ランク1位)準決勝で敗退したものの400mリレーで38秒03の日本新記録で5位入賞。誰もが「まだやれる。北京まで頑張ってほしい」と思ったのでないかと思う。そして10月、現役続行を表明。
8月22日、36歳で挑んだ北京オリンピック400mリレー決勝1走塚原直貴、2走末続慎吾、3走高平慎士、アンカー朝原宣治で3位銅メダルを獲得した。スタンドでは日本の選手たちが。その中で為末大が男泣き。
過去にオリンピック3度、世界選手権に6度出場し100mにおいて5回の準決勝進出している朝原も、400mハードルの為末大(2001年エドモントン世界陸上3位、2005年ヘルシンキ世界陸上3位)末続慎吾(2003年パリ世界陸上200m3位)のようなメダルには縁がなかった。しかし今回4回目のオリンピックで3位。アメリカ、イギリスが予選で失格したという日本にとって幸運が作用したことはある。しかしこの幸運を含めてメダルを引き寄せたのは朝原がトップ選手として日本短距離界を牽引してきた17年間があったからではないだろうか。
短距離種目の表彰台にはジャマイカ、アメリカをはじめ黒人のオンパレード、その中で体格の劣る日本チーム。だから、よけいに彼らが誇らしく感じられた。
400mリレー決勝 直後のインタビュー
ぶっ飛んでやった
塚原 直貴 最高です。立役者の一人になれて良かった。最初の僕が動けばレースが動くと思い、末続さん目掛け、ぶっ飛んでやった。足の状態が思わしくなくて苦しかったが、この場に立てて、表彰台にも上がれて良かった。
夢の中
末続 慎吾 みんなの力を合わせてと思って挑んだ。日本の短距離が先輩方から培ってきた歴史を足してここに行き着くことができた。もう夢中で夢の中でした。今後の競技人生に大きな影響を与える戦いだった。
言葉にならない
高平 慎士 言葉にならないくらいうれしい。朝原さんと同じ舞台で走れるのは最後かもしれないので気持ちよく走ってもらえればいいと思った。夢はかなうと証明できて良かった。熱いものを持って走れたと思う。
最高に気持ちよかった
朝原 宣治 最高の舞台で最高に気持ちよかった。走りたくて仕方なくて夢のような空間を走った。体がどこまでいけるかわからなかったが、絶対出来るという気持ちで走った。アンカーの重責もあったが、楽しむ気持ちを忘れずに走った。これまで走ったすべてのリレーメンバーに感謝し、それで取れたメダルだと思う。世界と戦えることを証明できた。
そして朝原は「夢のような、漫画のようなストリーですね」と表現したいう。
朝原は高校時代、大学時代、「いかに楽して強くなるか」ということばかり考えていた。「しかしそんな方法は絶対存在しないわけです。トップの選手はトップになるにふさわしいトレーニングをこなしています。単純に量をたくさんこなしているということではないのです。質の良いことを、効率良く、ムダなくやっているのです。ムダが多いのはダメです」(朝原)そんな17年間をすごしてきた朝原に神様は銅メダルをプレゼントしたのではないかと思う。
我々も「夢のような、漫画のようなストリー」をと思う。しかしその陰にある「大切なもの」を忘れてはならないと改めて感じている。
1991年、世界陸上東京大会において高野進(現東海大学准教授)が400mで7位に入賞した。短距離はマラソン、長距離(実業団チームが短距離に比べるとたくさんある)と違い世界に通用する種目ではなく高校、大学を卒業した後なかなか陸上競技を続けることがむずかしい種目だった。そんな中、高野がファイナリストに。当時、小倉城の敷瓦の仕事の手伝いに行っていた旅館の一室で感動しながらこのレースを見たことを今でも鮮明に憶えている。
翌92年、高野はバルセロナ五輪400mで日本男子のスプリント選手としては1932年ロサンゼルス五輪100m6位入賞の吉岡隆徳以来60年ぶりの決勝進出を果たし8位入賞。日本人でも短距離種目で世界と戦えることを証明した。(女子では東京五輪80mハードル5位入賞依田郁子)
私が朝原宣治を知ったのは1993年彼が同志社大学時代100mで10秒19の日本新記録を出した頃だった。走り幅跳びでも8mを越え、世界で戦うには走り幅跳びに専念したほうがいいのではないかと思っていた。
1996年のアトランタ五輪100m(準決勝進出)走り幅跳び(予選敗退)400mリレー失格。2000年シドニー五輪では100m、走り幅跳びで出場を逃すも400mリレー6位入賞。末続慎吾の暴れ馬のような走りが印象に残った。日本短距離陣が変わっていくのを感じた。それは91年、東京の世界陸上から、高野進から始まっていたような気がした。
朝原は2001年からは100mに専念する。32歳で出場した2004年アテネ五輪100m(準決勝進出)400mリレー4位入賞。翌2005年のヘルシンキ世界陸上に出場。2007年9月に開催される地元大阪での世界陸上を最後に引退すると宣言をしていた。その大阪100m1次予選で10秒14をマーク(昨シーズン日本ランク1位)準決勝で敗退したものの400mリレーで38秒03の日本新記録で5位入賞。誰もが「まだやれる。北京まで頑張ってほしい」と思ったのでないかと思う。そして10月、現役続行を表明。
8月22日、36歳で挑んだ北京オリンピック400mリレー決勝1走塚原直貴、2走末続慎吾、3走高平慎士、アンカー朝原宣治で3位銅メダルを獲得した。スタンドでは日本の選手たちが。その中で為末大が男泣き。
過去にオリンピック3度、世界選手権に6度出場し100mにおいて5回の準決勝進出している朝原も、400mハードルの為末大(2001年エドモントン世界陸上3位、2005年ヘルシンキ世界陸上3位)末続慎吾(2003年パリ世界陸上200m3位)のようなメダルには縁がなかった。しかし今回4回目のオリンピックで3位。アメリカ、イギリスが予選で失格したという日本にとって幸運が作用したことはある。しかしこの幸運を含めてメダルを引き寄せたのは朝原がトップ選手として日本短距離界を牽引してきた17年間があったからではないだろうか。
短距離種目の表彰台にはジャマイカ、アメリカをはじめ黒人のオンパレード、その中で体格の劣る日本チーム。だから、よけいに彼らが誇らしく感じられた。
400mリレー決勝 直後のインタビュー
ぶっ飛んでやった
塚原 直貴 最高です。立役者の一人になれて良かった。最初の僕が動けばレースが動くと思い、末続さん目掛け、ぶっ飛んでやった。足の状態が思わしくなくて苦しかったが、この場に立てて、表彰台にも上がれて良かった。
夢の中
末続 慎吾 みんなの力を合わせてと思って挑んだ。日本の短距離が先輩方から培ってきた歴史を足してここに行き着くことができた。もう夢中で夢の中でした。今後の競技人生に大きな影響を与える戦いだった。
言葉にならない
高平 慎士 言葉にならないくらいうれしい。朝原さんと同じ舞台で走れるのは最後かもしれないので気持ちよく走ってもらえればいいと思った。夢はかなうと証明できて良かった。熱いものを持って走れたと思う。
最高に気持ちよかった
朝原 宣治 最高の舞台で最高に気持ちよかった。走りたくて仕方なくて夢のような空間を走った。体がどこまでいけるかわからなかったが、絶対出来るという気持ちで走った。アンカーの重責もあったが、楽しむ気持ちを忘れずに走った。これまで走ったすべてのリレーメンバーに感謝し、それで取れたメダルだと思う。世界と戦えることを証明できた。
そして朝原は「夢のような、漫画のようなストリーですね」と表現したいう。
朝原は高校時代、大学時代、「いかに楽して強くなるか」ということばかり考えていた。「しかしそんな方法は絶対存在しないわけです。トップの選手はトップになるにふさわしいトレーニングをこなしています。単純に量をたくさんこなしているということではないのです。質の良いことを、効率良く、ムダなくやっているのです。ムダが多いのはダメです」(朝原)そんな17年間をすごしてきた朝原に神様は銅メダルをプレゼントしたのではないかと思う。
我々も「夢のような、漫画のようなストリー」をと思う。しかしその陰にある「大切なもの」を忘れてはならないと改めて感じている。