甍の上で

株式会社創瓦 社長 笹原真二のブログです。

今年も、あと1時間、よい新年をお迎えください。

2011-12-31 22:52:51 | Weblog
 あと1時間ほどで決して忘れることのできない2011年が過ぎようとしています。3月11日の東日本大震災、あの日から何日間、新聞のテレビ番組欄は「大震災関連」と書いてあるだけで朝から晩まで、震災のニュースばかりでした・・・3月11日帰宅してからのTVニュースは、まるでパニック映画でも見ているかのように、海のほう、津波に見込まれる街の方を見ながら「おかあさん、おかあさん」と泣きながら呼び続ける小学校4年生くらいの女の子の映像。土砂崩れの現場で泣きながら「あの中に、お父さんと、娘がいるんです。私ひとりぼっちになっちゃうよう」助けを求める60才くらいのお母さん、こんなことがあってもいいのかと言っても、現実にあの悲劇は起こりました。どんな言葉もありません。新しい年、2012年が、良い年になることを祈るだけです。よい新年をお迎えください。
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12月マンスリー Ⅰ

2011-12-31 22:51:10 | ツーリング
     被災地への旅
 11月26日、郡山(福島県)からレンタカーで、名古屋の江場さん、群馬の佐藤さんと福島原発から半径30km、自主的に全村避難した飯館村に入った。人影も無く・・・村に入ってから何台の車に出会っただろうか?村役場に着くと、まず目についたのが赤色灯を点滅しながら建つ線量計。2.43マイクロシーベルトを示していた。庁舎のなかには2人の職員が。他には誰もいない。晩秋にしては暖かくのどかな風景が広がっていた。
 村役場からほど近い錦津見神社に行く。社務所にも庫裡にも人影は見えない。滾滾と湧き出ている手水舎の水で手を洗い、その水を口に含んだ。
 飯館村から南相馬、相馬へと。海岸沿いを北上して仙台空港を目指す。しかし、通行止がいたるところにあって思うように進まない。
4月には搭乗手続きも何もかも手作業だった仙台空港は、見事に復活していた。小型飛行機やヘリコプターの残骸もなく・・・しかし空港から少し離れると、まだ小型船が田んぼの中に残っている。そして、壊れた車が、鉄が、コンクリートが、木材等の瓦礫が見事に分別されている。
石巻湊小学校には、自衛隊温泉のテントは無く撤収されていた。浸水して壊れた家。修復工事をして戻ってきている人も見える。また津波が来れば同じように被害を受けるのに・・・何故?と思ったが、それも分かるような気がした。「何処へ行けば良いと言うのか?行く所はない。お金もない。それじゃ、ここに居るしかないじゃないか」
石巻から女川へ。見事に瓦礫は片付いていた。壊れた家の基礎コンクリートが剥き出しになって、ペンペン草は枯れ、秋の終わりを告げているような・・・兵どもが夢の跡・・・国破れて山河有り・・・そんな状況だ。東北の晩秋は、4時過ぎには日も落ち、あたりがだんだん見えなくなっていく。
7時過ぎ、登米の及川あやさんのお店、ニューコリアに着く。7ヶ月前、PTAの集まりから帰宅途中だったあやさんに「この近くに旅館かホテルかありませんか?」と尋ねた一言が縁となった。あれから7ヶ月も経っているのに、1週間前のことくらいにしか感じられない。本当に奇跡のような出会いだ。今回もお世話になる。1週間前、あやさんに電話をした。「26日に行きます」あやさん「是非、うちに泊まって行って!」そのことを江場さんにメール。その返信には「嬉しいねえ。お世話になる。甘える。迷惑をかける。そのことによってふれあうこころとこころ。いいねえ。ここは喜んでお世話になりましょう」及川ファミリーの歓待に大感謝の夜だった。
翌27日、南三陸町に入る。少し緊張していた。志津川中学校の高台に上がると、グランドでは野球部の部員がサッカーをして遊んでいる?眼下には壊滅した街が。そして、ブラスバンド部が演奏していた。「七つの子」「お手手、つないで」トランペットの音色が妙にマッチして余計に物悲しく感じた。
気仙沼の港には漁船が何隻も帰っていた。人の往来も多かった。活気があった。それが嬉しかった。7か月前、打ち上げられた大きな船に軽自動車が潰されていた。それも片付いて、港近くの被災していたレストラン、ホテルもオープンしていた。そして、打ち上げられた船、焼け焦げた大きな船が何隻もあったのにそれも見えなくなって・・・これから漁に出て行こうとする船もあった。それが嬉しかった。
28日、宮古市田老町へ。7ヶ月前は雨が降って、中学校の校庭には桜が咲いて、正門の前には手の折れた木彫の大黒様がいたのに・・・防潮堤に上がってみると、その外側にも防潮堤が無残に壊れ、コンクリートの塊がちぎれている。内側には、壊れた基礎とペンペン草。そんな中に、大きなぬいぐるみと花とお供え物がある。ここで子供が亡くなったのだろうか?そのとき、ふと思った。このまま、誰もここに住まなくなったらダメなんじゃないか。ここはゴーストタウンになる、幽霊が出るようになる。やはり、ここに人が住まなきゃダメだ。人が住むことよって街が元の姿に戻る。それが、亡くなった人たちへの一番の供養になるんじゃないか・・・  2011年12月28日      笹原 真二
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12月マンスリーⅡ 追伸

2011-12-30 20:21:09 | Weblog
追伸Ⅰ
4月の旅から7ヶ月、南三陸町、志津川中学校の高台に上がるとき、陸前高田市に入る時、田老町に入る時、やはり少し緊張した。しかし、福島県の飯館村に入るときは、なだらかな山と、手入れがされていない田んぼ、畑が広がっているものの、のどかな晩秋の風景、それほど緊張感を感じることがなかった。すぐにでも生活は再開できそうなのに人影をあまり見ない。それが、南相馬まで行くと街が動いている。そのギャップに違和感を覚えた。・・・岩泉の信子さんが言っていた。「福島の子供たちの尿からセシウムが検出されている」
追伸Ⅱ
4月27日に岩手県陸前高田市の県立高田病院の駐車場で見つけた、水仙の花とタンポポの花。そして江場さんが撮ったタンポポの花と蟻の写真。この写真を改めて見ていると、奇跡の写真ではないかとさえ思えてくる。あれから7ヶ月後、周りには瓦礫の、ぼた山がいたるところにある。今回も、駐車場には、黄色いタンポポが咲いていた。
追伸Ⅲ
今回、750kmの旅、この旅の途中で1軒だけ新築中の家があった。周りは全て津波で流され、壊れた基礎がむき出しのままの状況なのに、また津波がきたら間違いなく流される。何故?と思ったが・・・田老町に来て、まさか自分が無責任にも「ここへ、住まなきゃいけないんじゃないか」と思うようになるなんて思いもしなかった。
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東北へ行ってきました。11月28日編

2011-12-05 13:12:09 | Weblog
 8時目に、陸中宮古を出発。田老町へ。7ヶ月前は雨の中、田老中学校の桜がさいていました。壊滅した街、中学校の正門の前には手の折れた木彫の大黒様がいました。その大黒様もいなくなって・・・防潮堤に上がってみるともう一つ外側にあった防潮堤はバラバラに壊れて。たぶん、田老の人たちは二重の防潮堤を超えて津波がくるなんて思ってもみなかったんじゃないかと思います。防潮堤の下には、大きなぬいぐるみが、ここで誰か子供が亡くなっていたのでしょうか?それを見たとき、ここに人がいなくなったら、ダメなんじゃないか?やはり個こに住むことが亡くなった人達への供養になるんじゃないか?無責任ですがそんなことを感じました。
 岩泉の道の駅で、元気印の信子ねえさんと会って、小本川沿いを西へ。早坂高原を通って盛岡で新幹線に。
 その夜は、東京で、寺本ららら嬢の「ららら主義」(マガジンハウスから出版)の出版披露パーティーへ。そして翌日、岡山へ帰りました。
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東北に行ってきました。11月27日編

2011-12-05 12:35:37 | Weblog
 登米の及川さんの家を、8時過ぎに出て南三陸町の志津川中学校を目指しました。7ヶ月前、志津川中学校の高台から見た光景とは違って、瓦礫はきれいに分別され、その山が何箇所も見ることができました。中学校では、野球部の部員達が喚声を上げながらサッカーをしている。ブラスバンド部の部員たちは、「七つの子」「お手手、つないで」を演奏。何にもなくなった街とトランペットの音色が妙にマッチして物悲しくなるような・・・
 その南三陸町で、福興市と銘打ってふるさと祭りをやってました。そこで、うにめし、タコのから揚げ、焼きそば、ホタテ、さざえ、しらすのかき揚げを買って豪華な昼食。老若男女、大勢の人たちでにぎわっていました。
 それから気仙沼をめざしました。7ヶ月前、打ち上げられた大きな船の下に軽自動車が潰されたり、焼けた船が打ち上げられて、もちろん海の中にもいっぱいの黒く焦げた船というありさまでした。ところが、ほとんどの被災した船は片付けられ、港には漁船がたくさん寄港していました。漁に出て行く船もあり、嬉しくなるような、復興に向けて動き出していました。
 泊まりは、前回同様陸中宮古。秋田県警、北海道警のパトカーが9台。被災地には、各都道府県の警察からの応援がまだいっぱいです。
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東北に行ってきました。11月26日編

2011-12-03 19:08:18 | Weblog
 11月26~28日、東北に行ってきました。名古屋の江場さん、群馬の佐藤さんに誘われて、福島県郡山からレンタカーで福島原発から半径30km。自主的に全村避難したあの言飯館村に、まず入りました。車も少なく、やっと着いた役場の前には赤色等が。よく見ると放射線量を測る線量計が2.86マイクロシーベルトという数字を表示していました。庁舎の中には2人の職員がいらして、そこで行きたかった錦津見神社へ。立派な神殿、社務所、庫裏もありましたが避難されているのか?どなたも居られませんでした。滾々と湧き出る手水舎の水でで手を洗って、そのお水を飲みました。
 それから南相馬、相馬へ。海岸沿いを通って北を目指しましたが通行止めの道が多かったですね。仙台空港は見事に復活していました。4月は搭乗手続きも何もかも手作業でしたが・・・小型飛行機やヘリコプターの残骸も無く。それでも空港に近い広場にはがれきの山が。
 仙台空港からは4月に来た時と同じコース、石巻へ。タへルさんのいた湊小学校もきれいに片付いていました。道路をきれいに、満潮になったら冠水すると思われるようなところでも、多くの方が家に帰っておられました。4月の女川の町は言葉を失うくらい壊滅的な状況でした。しかし町は見事に片付けられ雑草は枯草色に。それがよけいに哀しく感じられました。
 泊まりは宮城県登米市のニューコリア。4月に来た時,お世話になった及川さんのお宅。本当大歓迎をしてもらいました。人の縁とは本当に不思議なもので、4月、泊まるところを捜していた私たち、たまたま通りかかったあやさんに「近くに旅館かホテルかありませんか?」と訊ねたのがきっかけで、案内してくださったのだけど、どこも空いていなくて。すると携帯電話を取り出して「お父さん、10分前に出会った男の人、3人、泊まるところが無くて困ってるの。悪そうな人でないみたいだから、うちに泊めてあげて!いいでしょう!」とご飯を食べさせてもらって、泊めてもらった及川ファミリーにふたたびお世話になりました。自慢したくなるような出会いですね。
 
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師走の雨

2011-12-03 18:59:36 | 瓦のこと
 今日は雨が降りました。天気予報通りです。今年はやはり雨が多いですね。11月も、昨年は1日降っただけだったのに、今年は4日。12月も昨年は13日だけだったのに、昨夜から今日。来週の7日8日と雨予報がでています。年末の仕事のスケジュールの段取りがたてにくくなりまね。
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11月マンスリー その1 里山資本主義

2011-12-03 18:53:51 | Weblog
里山資本主義(身近にあるものを利用しない手はない)
18日のNHK「里山資本主義・マネー資本主義からの転換」から
 岡山県真庭市の銘建工業(集成材のトップメーカー)中島浩一郎社長は13年前から年間4万tの木屑を利用して自家発電。年間1億円あった電気代が0になる。さらに余った電気は電力会社に売電5千万円の利益を得ている。木屑からは燃料用ペレットも生産。街の暖房用として、市のプールや農業用燃料として、真庭市の電力の11%を賄っているという。
 オーストリアでは、すでにペレットを街全体のエネルギーとして活用する最先端のシステムが組み込まれている。ペレットはまるで石油のようにタンクローリーで運ばれ、冬を前の各家庭に届けられ、ペレット専用の貯蔵庫に流し込まれボイラーで燃やされている。5tのペレットで1シーズン、部屋の暖房から給湯まで、全ての熱エネルギーを木で賄っているという。
 打倒化石燃料を合い言葉に最先端のボイラーの開発も進められ、30年前、燃料効率60%だったものが、今では92〜93%に達している。燃料代を石油の半分、天然ガスの3分2まで抑えるまで技術が向上したという。
 日本はオーストリアのようになれるのか?との問いに中島社長は「オーストリアはこの10年、15年の間にどんどん前に行っている・・・しかし、日本人は元来、木の使い方が上手な民族、歴史ももっている。今はたまたまへたくそになって一時的に忘れている・・・現代風にアレンジして日本の現状に風穴を開けたい。日本で出来ないはずはない」と。
 マネー資本主義、グローバル経済の対局をいくことで成功した街、オーストリアのギュッシング。木材を燃料とする発電所は出力2,000kw、地区全体の電力を賄っている。発電の際に出る熱も徹底的に使う。街の地下に張り巡らされたパイプで、暖房、給湯を各家庭、事業所に供給。集落ごとに設備を作り、消費する電力の7割を木で賄っているという。
冷戦時代、ハンガリーとの国境に位置するギュッングでは経済権が小さいことに悩んでいた。1995年EU加盟で遠くの国に農産物が売れるようになると思っていた。ところが全く逆のことが起こった。何処かの国で作られた、とてつもなく安い農産物に負け、住民の7割が出稼ぎをすることになってしまう。どうすれば経済を立て直すことが出来るか?先頭に立ったのが、今のギュッシングの市長、ペーター・バデッシュさん、彼が注目したのが毎年、地域の外に出る6億円のエネルギー代。「身近にある利用されない木材」が何千tも森で朽ち果てているのに、なぜ、数千km離れたところから、石油やガスを運ばなければならないか?そんな疑問が、エネルギー自給への出発点となり、今ではヨーロッパ中から工場が進出している。  2011年11月28日     笹原 真二
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11月マンスリー その2

2011-12-03 18:52:24 | Weblog
追伸Ⅰ
銘建工業のホームページの中にある一文。「今は福祉国家、環境立国とされる北欧諸国も戦前はどこも貧しい国でした。経済力が弱く、鋼材の入手が困難だった北欧では鋼材に代わるものとして集成材が用いられます。それは北欧の負けじ魂が生んだ苦肉の策でした。その代表的なものとしてストックホルム中央駅舎を挙げることができます。集成材によるスパン80フィートの大空間はパリなどで脚光を浴びた近代駅舎の変種でした」
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11月マンスリー その3

2011-12-03 18:50:12 | ツーリング
追伸Ⅱ
ギリシャ危機に端を発しマネー資本主義が暴走するヨーロッパ。その動きと一線を画する道を突き進もうとしているのがオーストリアの里山資本主義。森林マイスターという専門家を育てる国立の研修所にはぞくぞくと若者が集まっている。「短期の利益を追い求めるのではなく、持続可能な豊かさ」を守る術を教えているという。「森を持つなら手入れをしっかり行わなければならない」
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