教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

「日本の学問」を考える基本姿勢

2007年02月02日 22時48分05秒 | 教育研究メモ
 今日は二種類の論文を読書していました。一つは、Y先生に課題として出されたY先生の論文。来週末、先生の授業で批評するようにとのことです。さすが読んで論文の意図と内容はよくわかったのですが、うまい質問がなかなか思いつかない。質問を考えるのって難しいな~。
 もう一つは、藤田正勝「日本の哲学?」(藤田正勝編『知の座標軸-日本における哲学の形成とその可能性』シリーズ・近代日本の知第1巻、晃洋書房、2000年、3~19頁)を読みました。哲学は普遍的な原理の探究行為であり、日本における哲学とヨーロッパにおける哲学とは同じだから、特殊性・特異性を強調するための「日本の哲学」という言葉はおかしい、とする意見があります。これに対し藤田氏は、日本の文化・思想の特徴と制限を自覚する立場から、他者(たとえばヨーロッパの哲学など)との対話のために「日本の哲学」という言葉が使われるのであれば、おかしくないと反論しました。同編著の「日本における哲学」を探究する基本姿勢は、この藤田氏の姿勢にあるようです。
 この本を読んだのは近年出された近代日本哲学史の本だからでして、当然「哲学の制度化」について書いていないかなという期待を持って読みました。ザッと読んだところ、残念ながら本書は大半が学説史であって、あわよくば自分の研究に使ってやろうという私の期待は若干はずれたようです。ただ、「日本の~」を研究する際の注意点(研究の先に国際比較があるべきこと)は興味深く思いました。たしかに、日本の特殊性・特異性のみを強調することは、日本の優秀性または劣等性を強調することにつながりがちです。へたをすれば、ナショナリズムの行き過ぎや伝統の軽率な破棄を、学問が保証することになるわけです。他者の存在を肯定的に前提に置くことは、消極的にはそのような過ちを防ぐ方法であり、積極的には普遍的な学問を構築するカギにもなるわけです。教育学の場合も、昭和期の「日本教育学」や明治初期の「啓蒙主義教育思想」の例をみれば他人事ではありません。近代日本教育学史研究を進めたい私としても、やはり優秀/劣等とか先進/発展途上とかいった視点で研究することは戒めなくてはならないなぁ、と改めて思いました。
 さて、いつもの教育基本法の勉強を。

  【第5条】
○旧教育基本法第4条(義務教育)
 1 国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。
 2 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。
○新教育基本法第2章第5条(義務教育)
 国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。
 2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。
 3 国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。
 4 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。

 新法第2章「教育の実施に関する基本」の第5条では、義務教育について定められている。旧法第4条の1において、普通教育を受ける対象であった「子女」は、新法においては単に「子」と変更された。また、新法第5条の序文は、「別に法律で定めるところにより」という文が新しく挿入されている。この文面だと、子に普通教育を受けさせる保護者の義務は、別に定める法律によって発生することを意味しているように思われる。なお、旧法で「9年」と定められた義務教育の年限は、新法ではとくに定められていない。
 旧法第4条の2については、新法第5条の4にほぼそのままの文面で引き継がれた。一方、新法第5条の2は新しく定められ、義務教育としての普通教育の定義をしている。新法第5条の3も新しく定められ、国と地方公共団体の義務教育整備に対する責任と役割分担の必要性について言及されている。
コメント
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