教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

心機一転

2014年08月29日 22時52分04秒 | Weblog

 大学はずいぶん復旧しましたよ。

 さあ、8月が終わりますね。常に何かに追われていた8月でした。
 昨夜から一気に涼しくなり、秋らしくなってきました。ぐじぐじグチを言っていたら、いつの間にか夏になり、夏を堪能する前に秋になってしまった、なってしまった、という気分です(笑)。

 さて、本番はこれから。これからの目標として、忙しいこともグチにせず、楽しんでみよう、と思います! どうせ逃げられないことばっかりだし、グチを言っていたって何にもならない。やるしかない!という感じです。
 やるからには、楽しんでやるぞ!

 なぜか前触れもなく突然ふっきれた私でした。

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大学の現状について

2014年08月25日 19時09分02秒 | Weblog

 みなさん、ご機嫌いかがでしょうか。

  19日・20日の集中豪雨のため、広島市安佐南区・安佐北区は土砂災害・水害を被りました。幸い私個人と自宅は無事だったのですが、安佐北区可部1丁目にある大学には土砂が流れてきて冠水しました。現在、多くのボランティアの方々のご協力も得て、懸命な復旧作業が進められています。そのため、ようやく事務部門は通常業務と復旧作業とを並行して少しずつ行うことができるようになりました。

 大学では、まだ復旧作業の進んでいない場所があります。そのため、災害復旧ボランティアを募集しているようです(災害復旧ボランティアについて(お知らせ))。お近くの方でお手すきの方はご検討いただけると幸いです。
 なお、大学のボランティアも必要ですが、周囲の土砂災害を直接的に受けた地域のボランティアも募集しています(広島市社会福祉協議会)。 私の自宅近所に、いつの間にかボランティア用の臨時駐車場ができていました。連日募集終了になるほど多くの方々にご協力いただいているようで、感謝の念にたえません。ただ、聞くところによると、テレビで報道されている被災地域は一部にすぎず、人的被害は出ていないものの土砂が崩れて通行困難になっている地 域はかなりあるようです。

 <そのほかお知らせ>
 ・キャンパス内での学生の課外活動(復旧ボランティア以外)は8月末まで自粛してください(キャンパス内での学生の課外活動について)。
 ・23日のオープンキャンパスは中止になりましたが、AO入試の出願は予定通り受け付けています(AO入試の出願は通常通り受付中)。
 ・延期されていた司書講習・教員免許更新講習の日程変更が決まりました(司書講習の今後の日程について教員免許状更新講習の今後の日程について)。
 ・26~29日に予定されていた初等教育学科2年対象の集中科目「野外活動」は中止になりました(【緊急連絡】初教2年 海実習・山実習について)。

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広島市安佐北区在住

2014年08月20日 19時09分42秒 | Weblog

 関係各位

 今朝の雷雨の影響で、自宅近所が大変な被害を受けました。公私身辺にも被害を受けた方もいるようです。取り急ぎ、謹んでお見舞いを申し上げます。

 日頃よりお付き合いいただいている方々から、私の身のご心配をいただきました。お心遣い痛み入ります。
 私も自宅もとくに被害はなく、無事です。

 まだ予断を許さない状況ですので、近辺に居住の方々は、細心のご注意をお願いします。

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1940年代日本における全国教育団体の変容と再編

2014年08月17日 16時14分14秒 | 教育会史研究

 みなさん、お盆休みはきちんと取りましたでしょうか。しっかり仕事をするためにも、しっかり休みましょう。
 私は、幸いに比較的うまい具合に休めました。明日から今まで以上に超多忙な日々がやってきますが、なんとかスタートは切れそうです。

 さて、研究論文業績一覧に挙げておきながら、紹介していない論文がもう一つありました。24番の「1940年代日本における全国教育団体の変容と再編(年表解説)」(教育情報回路研究会編『近代日本における教育情報回路と教育統制に関する総合的研究』 日本学術振興会科学研究費助成事業(基盤研究(B))中間報告書(Ⅰ)、東北大学大学院教育学研究科内教育情報回路研究会、2012年、1~10頁)です。2013年3月付で発行された梶山雅史氏代表の科研グループ報告書に掲載された小論(解説3頁・残り年表)です。

 本論文は、1940年代日本における全国教育団体の変容と再編とについて作成した年表について、その概要を解説したものです。年表は、1940年代を中心に1950年代初頭までを対象時期にして、中央教育会(帝国教育会・大日本教育会・日本教育会・日本教育協会・日本連合教育会)の組織再編にかかわる事項と大規模事業、および1940年代後半以降は日本教職員組合の結成にかかわる事項と大規模事業、都道府県教育会の解散、都道府県教職員組合の結成について整理しました。なお、教組の結成年月については、異説がありすぎるので、とりあえず『日教組十年史』に依拠しています。ですので、完璧な年表ができたとは思っていません。
 解説部分の構成は以下の通り。

 はじめに
1.1940年代前半における教育会の統合再編と教育職能団体の形成
2.1940年代後半における教員組合の勃興と教育会(教育職能団体)の解体・再編
 今後の課題

 1940年代を前半・後半に分けて、教育会の組織再編と教職員組合の勃興との関連に注目して、全国教育団体の変容過程を概説しました。
 1940年代前半における全国教育団体の変容・再編は、1930年代以来の教育団体の統合と、文部大臣を頂点とした全国の全学校教職員を包摂する一大職能団体の誕生を同時に実現させました。1940年代後半には、このように成立した中央教育会が解体されます。1940年代後半における中央教育会の解体は、全国・学校種をカバーする職能団体の解体にほかなりませんでした。解体に至った背景には、中央教育会の連合単位であった地方教育会の解体・不安定化があります。1940年代後半には、日本教職員組合が結成される一方で、いくつかの地方教育会の連合によって中央教育会としての日本教育協会がつくられました。
 しかし、日教組・日本教育協会は、ともに職能団体として教員の職能向上機能を十分展開することはできませんでした。教員の待遇改善が叫ばれるなか、教育会の解体と教職員組合の勃興によって、ある意味で「後回しにされた」職能団体的機能は、どこがどのように担うようになったか。そのあたりを明らかにするには、1950年代の教育団体史研究が必要です。

 とまあ、こんな感じの解説です。ちなみに、「後回しにされた」職能団体的機能に関する研究は、1940年代後半以降の各種教育研究団体・校長会などの勃興や、教職員組合の教育研究活動の開始(1951年~)などが重要な検討課題だと思っています。もちろん、戦後に「生き残った」教育会や、1970年代以降に「復活した」教育会(日本教育会やその支部など)についても、気になる課題です。そもそも「職能団体」という言葉の同時代的意味や歴史的意義もしっかりとらえなければなりません。

 今までの戦後日本教育団体史は、教職員組合中心史(とくに待遇改善中心史)または個別団体史ともいうべき様相を呈していましたが、その直前まで巨大な組織規模を誇っていた教育会の歴史と連続させて、その歴史像を再構築することは大事なことだと思います。とくに、日本の現状において教職員組合の衰退・課題が大きく取りざたされるなか、教組だけでない教育団体・教員団体の将来のあり方を考えるうえで、教育団体史の再構築は重要な研究課題なんじゃないでしょうか。そのためには、もちろん冷静・客観的な教組史研究も大事ですね。いろんな意味できわめて難しい課題ですけども。
 戦後の中央教育会史研究については、2009年に一度発表しました(口頭発表業績一覧の20番)。しかし、その成果は凍結したままですので、そのうち「解凍」・再検討して活字化しようと思います。

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明治期大日本教育会の教員講習事業の拡充

2014年08月11日 23時39分10秒 | 教育会史研究

 お盆前に少しでも研究進めておきたいので、がんばってます。お盆前にゼミ生指導について気にかかることがありましたが、お盆明けないとどうにもならないのでいったん置いておきます。

 さて、このブログも放置気味なので、何か(あまり時間をかけないで書ける)話題はないかなと思案しておりましたところ、1年半くらい拙稿紹介をしていないことに気づきました。まあ、テキスト出版と学位論文執筆に追われていてそれどころではなかったのですが。PDF公開のない論文も多いので、論文構成を示すのも意味があるかなと思いまして、ちゃちゃっと紹介します。

 昨年度はほとんど論文を活字化できませんでした。唯一活字化したのは、中国四国教育学会編『教育学研究紀要』(CD-ROM版)第59巻(2013年、533~538頁)に掲載された「明治期大日本教育会の教員講習事業の拡充―年間を通した学力向上機会の提供」です。論文構成は以下の通り。

 はじめに
1.「講義」から「学術講習会」へ
2.明治27~29年の夏期講習会の実態
 (1)夏期講習会の定着
 (2)夏期講習会後の自主学習の手引き
3.学校教員対象の各種講義の開講
 おわりに

 本論文の目的は、明治期大日本教育会の教員講習の拡充過程を検討して、小学校教員に学力向上の機会がいかに提供されたかを明らかにすることです。私の論文を読んだことがある人はおなじみですが、明治29(1896)年に大日本教育会が帝国教育会に改組されました。その改組の際、「学術講義会」という事業が主要事業化されています(主要事業化された新事業はほかにもありますが)。これは、明治24(1891)年から毎年8月に開いていた夏期講習会を含む事業なのですが、なぜ「講習」でなく「講義」と名付けたか、従来だれも調べたことはありませんでした。また、大日本教育会における「講習」という言葉に注目してみると、なかなか興味深い意味があったことがわかったのですが、これも誰も調べたことのないことでした。そのあたりを明らかにした論文です。
 明治27(1894)年に始まった大日本教育会の学術講義は、社会教育的事業というより、明らかに教員講習事業でした。これが年間を通して開講されました。これにより、それまで8月限定だった教員講習が、年間を通して開かれるようになったわけです。また、夏期講習会と合わせてその講義内容を見ると、さまざまな学問分野を専門的に取り上げています。また、課外講義にも気になる事実を発見しました。明治20年代の教員講習に関する先行研究では、ヘルバルト主義教授法の普及に関する意味が強調されてきましたが、どうもそれだけではない事実が明らかになりました。
 本論文は、中央教育会研究として重要な論文になりましたが、教員講習そのものが、日本教員史研究(というより日本教員養成史研究か)のなかで最近注目されてきた新しい研究対象ですので、そういう意味でも大事だと思っています。
 なお、この論文ではきちんと言及できませんでしたが、帝国教育会では「夏期講習会」を主要事業化したのは明治40(1907)年のことです。この意味については、できれば今度の学会で発表しようと思っています(すでにまとめ済み)。明らかにできたのは、字義的な意味変容ではなく、事業展開上の事情と講習対象者としての小学校教員の位置づけの変化とですが。

 本論文は、今では学位論文の一部になっていますが、そこそこ手を入れましたので同じ文章ではありません。

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研究用PC故障

2014年08月02日 23時55分55秒 | Weblog

 今週は研究用PCが故障しました。ちょっとした出来心で、大量の史料データをPCに移そうしたところ、最後の最後でエラー。焦って再起動をかけたが最後、起動しなくなってしまいました。(後から知ったのですが、この対応が一番致命的らしい…)
 2日ほど呆然。(゜◇゜)ガーン
 しかし、不幸中の幸い、論文や図表などのデータは生き残ってくれました。(^。^;) 出入りの業者さんがサルベージしてくれました。これで最悪の事態は回避。3月からバックアップしてなかったので、泣くだけでなく、関係者にも迷惑をかけるところでした。

 今回、いろいろ調べて知ったこと。

 こまめにバックアップはとっておきましょう。(;O;)
 PCに最初からついているHDにあまり期待をしすぎないようにしましょう。期待が大きすぎると潰れてしまいます。人間と同じですネ(笑)。
 外付けHDを定期的に使うのが良いようです。USBメモリは便利ですが、消える時はまとめて消えるとか聞きました。HDは生き残っている可能性があります。あと、HDにエラーが出たら、再起動ではなく、最小限の重要データのバックアップを優先した方が良いようです。

 とりあえず良かった…(+_+)

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