教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

歴史的に思考・判断しようとした学生の姿(教職教養ある姿)

2019年07月28日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 先日、学生の教職教養ある姿について少し触れました。その時のエピソードをもう少し具体的に紹介させてください。

 公教育制度は、教育・地位獲得の機会均等にかかわり、すべての子どもたちになるべく同じ教育を経験させて、国民(市民)として育てることを目指す一面をもっています。この場合は、公教育制度は、卒業後の格差をなるべく小さく、または入学時にすでに生じていた格差をなるべく埋めることを期待されています。
 本学の教育学部教育学科1年生の前期科目「教育学入門」では、「公教育・公立学校とは何か」というテーマで研究していた班がありました。そして、上記の点に注目してしっかり先行研究をまとめて発表してくれました。それ自体もすばらしかったのですが、加えて質疑応答時に質問した学生がまたすばらしかった。その学生は、「格差を生じさせないために公教育制度がある、というのはよく分かったが、そもそも公教育制度は格差を生じさせないために成立したのか?」という質問をしました。歴史的思考・判断を働かせようとして、発表内容だけでは判断できなかったために行われた質問だったと思われます。
 この質問した学生は、「教育に関する知識や技術(教職教養)とは何か」というテーマで研究していた班に所属していた学生でした。すでにこの学生は発表は終了しており、質疑応答時・発表後に私と「歴史的に思考・判断するとはどういうことか?」という議論をした後の出来事でした。以前の議論開始時には、この学生は、歴史的思考・判断について「具体的にはよくわからない」と答えていたのです。ちなみに同じ前期科目の「教育の思想と歴史」では、「義務教育とは何か」というテーマで、公教育制度に関わる義務教育の歴史の概要を学んでいます。まさに教育学入門の時の質問の姿は、それまでの学びを自分なりに生かし、別の場面で活用した姿ではないかと思いました。本当のところは本人に聞いてみないとわからないのですが、私としては教職教養の芽生えを感じた次第です。また、質問された班の学生の中にも、確かに…とこの問題についていろいろ考えを巡らしたようです。歴史的思考の姿が他の学生にも影響したとも言えます。
 歴史的事実に注目する姿勢、そしてその意義について学ぶことは、やはり歴史的に思考・判断する教職教養ある姿につながっていると実感しました。教育史は学生の成長に関われるのです。

 なお、公教育制度の格差に対する機能は、まずは、やはり現代的課題としておさえておくことが肝要です。現代社会における格差の問題は、まずは、現代社会の文脈で検討しなければ、その本質を把握することはできないからです。ただ、その上で、さらに課題理解や解決策を深めるために、公教育制度の歴史を踏まえてその歴史的課題と現代的課題とを見比べることはとても有効です。たとえば公教育制度が向き合うべき格差の質について歴史的変遷をふまえることなどによって、何がどの点でつながっていて(何が古くからある課題で)、何が新しい課題なのかを追究することは可能ですし、極めて重要な問題が見つかる可能性は十分あります。もちろん、国際的や多元的な思考・判断をすることにも大きな意味があります。
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教職教養ある姿

2019年07月12日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 この4月に入学した、教育学部教育学科1期生を育てております。教育1年チューター主任、かつ教育1年生全員の授業を2科目もっているため、関わる機会はかなり多いです。大学は学問をするところ、教育学部とは教育とは何かどうあるべきかを問うところ、といつも言い含めてきましたが、多くの学生に響いている様子。教育学入門という科目では、すでに自分たちなりの研究をさせています。個人差はありますが、研究にのめり込んでくれている学生も多く見受けられ、予想以上の盛り上がりを見せています。
 それで、先日、教職教養とは何かを研究テーマに選んだ学生と話していたところ、おもしろい議論になりましたので、そこで考えたことを紹介します。

 先日紹介した論文「教職教養としての教育史」では、現代日本において求められる教職教養について、次のように定義しました。

 教職教養とは、教職のための体系的な教育や学問、修養などを通して養われる、教職生活において国際的・歴史的・多元的に思考・判断するために必要な教職文化に関わる知識や、倫理的・主体的な資質、能力、態度、感性、価値観、ものの見方などの総体といえる。[略]教職教養は、教職を遂行する上で視野を広げ、倫理的・主体的な専門的思考・判断の知的基盤であり、その知的基盤に基づいて思考・判断する態度である。


 ここでいう「知的基盤」とは、「教職生活において国際的・歴史的・多元的に思考・判断するために必要な教職文化に関わる知識や……ものの見方」までを指しているつもりですが、このうち「国際的・歴史的・多元的に思考・判断する」とはどういう意味でしょうか。ここのところが具体的に理解できれば、教職教養の意義や有用性に関する理解をより確かなものにすることができると考えます。

 たとえば、「歴史的に思考・判断する」ということはどういうことか。もちろん、たとえば、最近学習指導要領が新しくなったのでそれに対応する、ということではありません。いうならば、これまでの学習指導要領の変遷や教育課程や教育方法に関する議論を踏まえて、学習指導要領の新しい内容を理解し、自分がどう対応すべきか判断することです。ここでいう「これまでの」というのは、10年前か、100年前か、というのは決まっていません。古ければよいというわけではありません。大事なのは歴史的事実の質であり、問題の本質にかかわる歴史を踏まえられるかどうかです。思考・判断に必要な歴史は、直近10年間の歴史であったり、100年間の歴史であったりで、問題によって異なります。適切な歴史を参照できないと、たとえば「主体的・対話的で深い学び」や「学校と地域との連携協働」などのキーワードが突然降ってわいた新奇なキーワードに聞こえてきて、参考にすべき先行実践や事前情報ゼロの状態で実践に取り組もうとしてしまうのです。歴史的に思考・判断しないと、何が本当に新しいものなのか評価できません。何が変わらず、何が変わったのか判断がつきません。その結果、実践の効果や意義を評価する基準を見いだせず、総括も発展もできずに泡沫のように消えていってしまう実践を多く生み出す事になります。
 その他に、「国際的に思考・判断する」ということは他国・他地域のことを踏まえて思考・判断することであり、「多元的に思考・判断する」ということは複数の立場から(複数の立場が出会う場の力学も踏まえて)思考・判断することです。つまり、「国際的・歴史的・多元的に思考・判断する」ということは、独断や偏見、狭い視野、自国や自分の生活・交流範囲だけの発想で思考・判断しないことを指します。今、目の前にある対象だけを見て判断したり、個人的な嗜好や偏見だけで判断したりする姿は、最も教養のない姿ではないでしょうか。
 教育史や外国の教育、教育学説・思想、教育政策・行政・制度・運動などの知識は、こうした「国際的・歴史的・多元的に思考・判断する」ような教職教養ある姿に資するものである必要があります。教育に関する知識がすべて自動的に教職教養ある姿に資するわけではありません。研究する時、学ぶ時に、この知識はどんな問題と関わるのかを意識して選び取らなければなりません。

 議論のあと、その場にいた学生が別の機会に発言した時、発言内容を聞いていると、「お、この問題を自分なりに考えているんじゃないかな?」と思ったので、少しうれしくなりました。
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