教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

三度寝

2005年11月28日 20時58分19秒 | Weblog
 昨日はやけに早く寝たので、午前2時半ごろ目が覚めました(一度目)。ちょうどいいので、もう学校へ行った方がいいかな…と思ったものの、ぼーっとしていたら眠くなってきたので寝ました。
 次に目覚ましをかけていた午前7時ごろ、目が覚めました(二度目)。今度は何だか寝たりなくて、うとうとしているとそのまま寝てしまったようです。
 気がつくと午前11時すぎでした(三度目)。まだ寝たりないようでゴロゴロしていると、また寝てしまいそうになったので、これはイカンと思い、起きました。でも、学校行きたくないなぁとごそごそしていたのですが、こりゃホンマにイカンと思ったので、出発。
 中途半端な時間だったので、今日はまず、いずれやっておかなくてはならないことをやることにしました。一つに、車のタイヤ交換。今はかせているタイヤは、かなり前にはかせたタイヤです。最近車体が少しフラフラするし、カーブもやたらふくらむ、さらに時々すべる感じがするので、冬の前には換えたいなあと思っていました。そこに11月中は料金10%OFF、交換無料というちょうどよいスタッドレスタイヤがあったので、今日思い切って換えてもらいました。4本で約42,000円也。決して安い買い物ではないのですが、安全第一。
 学校へ行ってからは、昼食後、図書館へ。教育史学会投稿論文の引用部分の確認をして、ついでに次の研究に向けての先行研究を収集。
 夕方からは教育史学会投稿論文の修正。削ったところが変な文章になっていた。もう少し確認・修正してから提出します。明日か、明後日か。
 それにしても、日中眠い。眠れていないのかなあ。疲れがたまってるだけかな?
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中国四国教育学会

2005年11月27日 23時55分55秒 | Weblog
 本日、中国四国教育学会第57回大会二日目。会場は安田女子大学。
 東広島から安田女子大学までは、JR西条駅→JR広島駅→可部線大町駅→アストラムライン安東(やすひがし)駅→徒歩、という順路で到着。所要時間約1時間半程度。9:30から一番目の発表が始まるので、7:30にはJRにのっていないといけないのです。ということは、朝は6時起き。昨晩はいつもより少し早く寝たぐらいだったので、あんまりたくさんは寝られませんでした。うーん、疲れが残っている感じ。
 12時すぎ、ようやく学会の全日程が終了。帰りの満足感とともに、安田女子大学の校舎の写真を撮る。
 これで、ようやく今年の学会発表がすべて終了しました
 教育史学会の投稿論文は、自分の中ではもう完成してるしね。

 14時すぎに帰宅。遅い昼食をとった後、むちゃくちゃになった部屋を掃除。途中でおそろしい眠気にうち勝つことができず、掃除は半分ぐらいで挫折。20時くらいに就寝。
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誤算の精算

2005年11月22日 23時18分39秒 | Weblog
 今日の体調は遅起きの日である。むちゃくちゃ眠い。午前7時ぐらいに目が覚めたが、とても起きあがれなかった。しかし、そんなことは言ってられない。気持ちで起きた。といっても、そのころには、すでにお昼といってもよい時間になっていたが(笑)。
 今日は13:10から特研がある。出ている余裕はないのだが、義務なのでこれには出なくてはならない。特研まで約2時間程度の時間があったので、図書館へ。昨日と同じ作業を一巡した。特研は少し長くなって17:00に終了。即行で図書館へ。時間的には2巡以上できそうだったが、途中、発表レジュメに書く、研究テーマの凡例を書いていて一巡で終わった。
 今日の成果は、昭和3(1928)年~昭和7(1932)年の5年分。ゴールは、昭和18(1943)年。あと11年分。明日は図書館が休みなので無理だが、木曜日一日でなんとかなりそうだ。間に合わないかと思っていたので、少しホッとした。でも体調を崩したらすべてがパアなので、今日は「王将」でギョウザ3人前とライス(大)を喰らってきた。
 
 今回の発表は、間に合わないかもしれないという最悪の事態を想像した、初めての機会。今回の発表は、研究活動の主題を抽出して分析するだけなので、簡単そうに見える。しかし、二つの大きな誤算があった。一つ目の誤算は、両会における研究活動は、「これは研究活動です」「これは研究活動ではありません」と明確にわからないという問題に関わる。前からこの調査はやろうと思っていたので、かなり前からその基準を考えていた。予算編成は事務活動であって研究活動ではない、と判断することは簡単である。しかし、附属図書館の創設は事務なのか研究活動なのか、悩むところである。結局これは、附属図書館創設の方法の調査研究は研究活動、附属図書館経営は事務活動、というように、方法・計画立案と運営を分けて考えることにしていた。しかし、やり始めたら迷いが生じたのである。今までExcelで年表を作り、一瞬で検索できるようにしてなかったら、本当に無理だったかもしれない。今までやってきた基礎作業が役に立ったのである(つーかまだ終わってないが)。
 二つ目の誤算は、思った以上にべらぼうに数が多かったことである。今日昭和7年まで調査を完了したが、それだけでもテーマ件数979件である。数件は上述の「迷い」の産物なので後で削除するが、それでも900件以上ある。昭和18年までやったら、まちがいなく1,000件を越す。たぶん一年平均20件ぐらいあると思う。件数が足りなくて、統計の説得力もないかなとまで思っていたが、充分だよこれは。研究活動が両会の大事な事業の一つだと主張する私としては、こんなにうれしい事実はないのだが、〆切時間が切迫していると「そんなになくていいのに!」と倒錯した気持ちになる。なんにせよ、油断してスタートが遅れた自分が悪いのだが。
 明日は図書館が閉まっているので、この調査は続けられない。気持ちは悪いが、とにかく分析を始めないといけないので、明日はデータの分析をやるつもり。そうでないとホントに資料紹介だけで終わってしまう。最初からそのつもりならいいのだろうが、資料紹介をするつもりはなかったので、そうなってしまうと恥ずかしい。なんとかがんばりたい
 しかし、ここにきてさらに難関が。明日はぐるーぷ樹のミーティングなのである… 私が議長なので、抜けられない。まったくなんでこんな時に…
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うずたかく積み上げられた資料

2005年11月21日 23時55分55秒 | Weblog
 写真は、図書館備え付けの机の上に積み上げられた『帝国教育』三年分くらい。

 今日は、早起きの日。今日は調子がいい! テンションも上がってきていて、さい先のいいスタートを切れた。
 朝9時から大学図書館へ直行。今日の作業はパソコンを使うが、そのために机とコンセントが必要である。だが、それらは1階以上にしかない(書庫は地下2階)。地下の書庫に入って、『帝国教育』(明治42~44年分)を一気に持って上がる。運動不足の私には息が切れるほどの運動である。備え付けの机の一角とコンセントの一つを占領、ノートパソコンを起動。そしてさっそく『教育公報』記事中に見られる、帝国教育会における研究活動のテーマを抽出開始。調子よく午前中のうちに消化。
 しかしこれは「一巡目」。長い闘いの序曲。即座にさっき持ってきた分を、地下の書庫のもとの場所へ戻す。そしてさらに2・3年分を持ってテーマ抽出を繰り返す。だいたい一巡するのは1時間半ぐらいか。
 午後1時すぎぐらいに昼飯を食べ、午後2時半ぐらいにリポビタンDでドーピング。2度の数分の休憩を経て、何度も図書館1階と地下2階を往復する。それを何度繰り返したか。いつの間にか夕方になって夕日を見たかと思えば、真っ暗になって、図書館の書庫閉庫時間の20:30となった。

 本日の結果。明治37(1904)年~昭和2(1927)年、23年分消化。たぶん、写真の7・8倍の量の紙に目を通したことになる。
 めざましい成果だ。われながら恐ろしい

 ただし、今日はこれで終わりではない。図書館を後にすると、研究室へ直行。少し研究室にある資料を使って、今日の調査の補強をする。そして、晩飯食わなくちゃいけないことを思い出したので、外出。しかし、食べたいものがなく、結局大型スーパーの半額惣菜を買う。しかし、研究室では後輩たちが明日の特研のために必死でやっていたことを思いだし、家に帰って晩飯にしたくなった。いったん研究室へ戻って必要なものを取って、家に帰る。
 晩飯を食べて、発表レジュメの「はじめに」執筆に奮闘する。激戦。午前2時近くまで格闘するが、なんか全部ボツにしたくなったので寝た。
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へこたれません!(希望)

2005年11月18日 19時18分04秒 | Weblog
 今日は遅起き。まず、無呼吸のことで、大学保健管理センターへ。
 そもそも今日はちょっと風邪気味。体温は測ってませんが、少し熱があるのは確か。ただ、寝ているほどではないし、やらなくちゃいけないことは山積みなので、がんばる。
 風邪なんぞで、へこたれてはいられないのじゃ。
 ただ、風邪で弱っているだけあって、心配事が増幅されて大きなストレスに。困った困った。

 登校してメールを確認すると、B大学四年の学生さんから「帝国青年教育会」について質問メールが。帝国教育会に関係あるのでは?と思って、質問してきたそうです。調べると、この団体は「帝国青年中学会」のことらしい(後、調べると帝国青年教育会という団体も存在したようだ。しかし、こちらも帝国教育会とは関係ない団体である:2008.12.7追記)。中学会とは、上級学校(中等学校?)へ種々の理由で進学できない当時の青少年たちの向学心を満たすために、独学の材料を提供していた団体のこと。主に雑誌や講義録などを出版し、通信教育をやっていたと思われます。とりあえずそのようなことを返信。学問の世界には、あまり人に情報を提供したがらない人がいるみたいですが、「情けは人のためならず」。いつか別の形で自分に返ってくると思っているので、私はあまり出し惜しみしません。そもそも、何もかも自分一人ではできませんし。学問研究は、究極はみな共同研究であると思ってますから。だって、どの論文も先行研究をふまえなくては書けないでしょ?
 今日は年表作成(昭和17年・18年分)から始め。さすがにこのころになってくると、雑誌のページ数がどんどん減っていってます。内容も、さすがに苦しい。私は戦中=悪という見方はしませんが(もちろん善でもないですが)、「勝つまでは、苦しくても精神力で我慢するぞ!」という内容が満載している誌面には、さすがに胸が苦しい気持ちになります。うーん、つらいなあ。
 一号一号が薄いので、かなり早めに年表作成は完了。昭和19年からは帝国教育会から教育会連合体の「大日本教育会」(まぎらわしいので、あえて呼ぶとすれば「後期大日本教育会」とでも呼びましょうか)へ改称されますので、とりあえず中国四国教育学会(略して「中四」)発表が終わるまでは年表作成は中断します。
 んで、中四の発表のため、両会の研究活動のテーマを抽出。とりあえず、今までちょこちょこやってきた分を入れると、明治12年~明治30年までのテーマを抽出完了(今日は明治27~30年分を抽出)。さて、もうあまり時間がないのでかっと飛ばしていかないと間に合わないぞ。
 
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移行日

2005年11月17日 19時49分49秒 | Weblog
 今日は遅起きの日。ほんとに隔日で早起きと遅起きが交代でやってきてますね。
 昼過ぎに登校。図書館にこもって、中国四国教育学会発表用レジュメを作成するための調査をやりました。
 実はまだレジュメを書ける状態にないのです。
 まあ、この調査は従来やってきた年表作成の作業がかなり役に立つので、机上の計画ではできる自信はあるのですが。
 17:00から日本教育史読書会。今日は「教育財政」の項。なんかピンとこない内容でした。なにより、何々という法律が成立した、教育費は何%だった、とか書き並べられても興味が湧きません… 教育事業はお金があってこそできることですから、日本の教育を財政を通して見ることも大事だと思うんですが… うーむ、教育財政史の研究って、どんな研究がいいのでしょうか。去年、井深雄二さんの『近代日本教育費政策史』(勁草書房、2004年、元博士論文)という本が出版されましたが、読む時間がないので読まずにそのままです。いずれ読んでみたいなあと思います。
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文部省諮問って?

2005年11月16日 20時02分10秒 | Weblog
 今日は早起きの日。あいかわらず眠いのですが、午前4時ごろ目が覚めて眠れなくなってしまったので、まだ日が昇っていない真っ暗な中を登校。時間に余裕があるなら歩いて行けばいいのですが、やはりまだその精神的な余裕はござりませぬ。登校後、TAの仕事、読書、年表作成、教育史学会投稿論文、と一日を過ごしました。
 私の教育史学会投稿論文の題目は「大日本教育会および帝国教育会に対する文部省諮問」で、両会に対する文部省諮問を中心に論じる研究です。そこで、文部省諮問をやって何の意味があるぞや?という問題が発生します。一応、平原春好『日本教育行政研究序説』(東京大学出版会、1979年(初版1970年))を読んで、諮問は教育行政事務の質向上と教育行政への民衆参加という意味があることは勉強して、これまで論文を書いていました。しかし、最後の結論を書く際に、「事務の質向上はなんとなくわかるけど、教育行政への民衆参加ってどういう意味があるんだ?」と疑問に思いました。普通に考えて、行政の民主主義化みたいな感じの意味かな、と思いましたが、ちょっと調べてみようと思い、行政学の教科書である西尾勝『行政学』(有斐閣、新版2001年(初版1993年))をひもといてみました。西尾著によると、行政への民衆参加については、日本国憲法前文にある「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」という文言から、「したがって、国民の側は、官僚制組織に多くを期待するのであればあるほど、これを統制する方法に工夫をこらさなければならない。」というのです。つまり、国民がみずからの福利を享受する目的の下、行政の官僚制組織をより多く利用するため、国民が行政を統制する方法に工夫しなくてはならない、という思想のもとに行政への民衆参加の必要性が考えられているのです。
 もちろん、これはそのまま戦前にもちこむことはできません。大日本帝国憲法は、「朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ」として国民(臣民)の幸福を国家が考えてはいるみたいですが、国民が幸福を求める権利は認められていなかったようです。つまり、戦前の文部省諮問と戦後の文部省諮問とは同じものではないのです。この考察が、二日前の記事で三つ挙げたうちの一つをもう少し深く正確につっつく、ヒントを与えてくれました。

 とりあえず、本日三時間くらいかけて修正完了。あとは誤字修正して、先生や先輩に見てもらって、問題なければ投稿できるかな。でも、月末に学会発表があるので、発表を最優先にして、ぼちぼち直していきます。
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逆転!の発想

2005年11月13日 22時37分35秒 | Weblog
 今日は早起きの日。早起き→遅起き(?)→早起き→… というように、なんだか悪循環な生活ですが、早起きできる日はしておこうと思います。
 今日は日曜なので図書館開館時間は10:00。学校に到着したのは7:30。早すぎるので、今一番やっておきたい年表作成はおあずけ。ということで、二番目にやっておきたい教育史学会投稿論文を執筆、というか修正か。やり始めるととまらない。図書館開館時間が過ぎても修正しつづけ、結局年表作成を始めたのは昼食をはさんで昼過ぎに。しかも『帝国教育』を借りてきても、まだ投稿論文が気になってこちょこちょ直しているとすぐに時間が過ぎる。日曜の図書館閉館時間は17:00(書庫にある雑誌返却は16:30まで)なので、残り2時間程度で年表作成をするはめに。自業自得というやつ。年表作成は中途半端に終わりましたが、かわりに投稿論文はメドがたってきました。
 投稿論文のメドがたってきたとはいっても、規定のページ数に収まりきらないという初歩的な壁に突き当たっています。当然、内容を削っていく作業を今日はやっていたわけですが、だんだん内容がやせ細っていく気がしてきました。いかんいかん。これでは掲載させられる論文にはならんぞ!
 ということで方針変更。論文を一度まっさらの状態に戻し、主張したい結論を書く。その後、なかば逆行するかたちで論文を書いていくのであります。おわりに→はじめに→本論という具合で書いていく予定。何にもないところからこのように書くと、「はじめに結論ありき」で変な論文になるのですが、今はもう実証できる結論が見えているからやっていいのであります、たぶん。ただし、今日は時間が遅いので、結論の一番いいたいところを書いたところで終了。続きはまた明日ってことで。
 
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イチョウ

2005年11月11日 20時28分11秒 | Weblog
 今日は雨。
 今日は久しぶりにゆっくり寝てました。そのまま寝ていたかったのですが、さすがに年末の学会発表と投稿がせまっているので昼ごろ起床。家で食事をして、登校。年表作成のために『帝国教育』を借りに図書館へ行ったのですが、ふと思い直して帝国教育会の各年度の経常費決算書を調査してコピーしました。90%ぐらいやったところでコピーカードが尽きてしまい、とりあえず今日は終了としました。すでに16時すぎだったので、少な目に年表作成のノルマを設定して、年表作成。最後に教育史学会投稿論文の続きをして終わり。
 久しぶりの写真は、大学構内のイチョウ。大学に入校するときにかならず通る道路脇に生えているのですが、なぜか今日にかぎって非常に奇麗に見えたので、写真を撮ってみました。まだ少し芯のほうで緑が残っていますが、雨のせいもあるのかかなり黄色が映えて見えました。昨日もここに生えていたイチョウなのに、なぜ今日にかぎって写真を撮りたくなるくらい奇麗にみえたのか。

 昨日の君と今日の君は違うのか。
 それとも私が変わったのか。
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建前

2005年11月07日 20時58分12秒 | Weblog
 今日の寝起きは爽快。早起きのついでに30~40分ぐらい散歩しました。体重落とさないといけないし。先日の夜、すさまじい濃霧だったのですが、私が起きた7時ごろにも少し残っていました。私の住むあたりは川が近くにあるので、この時期すごい霧なんです。今から数年前ですが、はじめてここの早朝の濃霧を見たときは、はじめて見たもんだからおもわず興奮してしまいました
 洗濯・朝食をすまして午前9時ごろに登校。先日・先々日と書き込んでいなかったブログを書き、図書館へ。いつものように年表作成と、月末の発表準備。年表作成をしていると、見たことのない事業が始まっているので、いいしれない違和感を感じていると、よく見たら一年とばしで昭和13年の『帝国教育』を見ていました。まあ、いまさら取り替えにいくのも面倒だし、はじめちゃったので、そのままやってしまいました。もうずいぶん前からですが、昭和期の帝国教育会の年表を作っていて困るのは、「同盟」とか「連盟」とかいった団体連合の組織の扱い。大正昭和期に急激に増えた感のある団体は、だんだん連合組織を結成していきますが、帝国教育会も次第にそういった連合組織に加入していきます。いや、加入しただけならいいのですが、それらの連合組織の事務を帝国教育会幹部が務めたり、帝国教育会の会報に並べてその連合組織の事務報告が書いてあったりするので困るんです。全国連合教育会とか全国小学校教員会議とか、完全に事務を帝国教育会が管理し主催するものなら、もう帝国教育会の事業の一つとして数えることにしているのですが(大正期の帝国連合教育会は別)、義務教育延長促進同盟とか師範教育改善促進同盟とかには困っています。とりあえず仕方ないのでわかるように分けて書いてますが。
 全国連合教育会なんて、沢柳政太郎会長が教育会連合組織に改革したのはいいのですが、沢柳会長の後任・林博太郎会長に「なぜ帝国教育会と連合教育会が別々にあるのかわからない」といわしめる状態にあって、しばらくして合併されてしまいました。まあ、沢柳会長のころと林会長のころとでは、社会状況も目指すところも違ったからこんな齟齬が起こるみたいですが。明治二十年代ごろは、大日本教育会と合併したい教育会と独自でやりながら連係したい教育会と、二系列あったようで(もしかしたら独自で勝手にやりたい教育会の三系列あるかも)、それが流れ流れて先述の状態を作ったのでしょうかね。日本人は、「今の私は私人」「今の私は公務員」「今の私は○○会の幹部」というように建前で区別してあれこれやる向きがあるので、つまるところ日本人の性質にまでいくのかも。この問題、私は理解できるのでつい別々に考えたくなるけど、研究ではそうはいかないんでしょうね。この日本人の性質、外国人にもわかってもらえないみたいですし
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蝉しぐれ

2005年11月06日 23時55分55秒 | Weblog
 今日は県知事選挙だったようですが、現在の県政に積み上がった問題を解消する意欲が今ひとつ感じられない(と私は感じた)現職候補と、どこから財源を持ってくるのか皆目検討のつかないマニフェストを宣言する某K党系候補の一騎打ちだったので、投票拒否しました。どうやら現職候補が当選したようですが、投票率は30%を切るすさまじくみっともない選挙だったようです。この投票率、下から全国2位だそうで、当選した現職は強く受け止めていただきたいもの。聞けばまだ50歳代だそうで、まだ若いんだしこのままでいてもらっちゃあね…
 そんなこんなで、今日は県知事選挙には行かずに映画を観ていました(笑)。見てきたのは藤沢周平原作・黒土三男監督『蝉しぐれ』。CM等で見かけるカットに惹かれて、見に行きました。江戸時代の東北の小藩において、在郷の武士の生活を描いた映画です。セットはかなり広い敷地内に作られ、建ててから一年間雨風にさらしたというだけあって、渋い色が満載。無駄に説明せず、カメラもほとんどアップがない、というめずらしい映画。私はこの渋さに惹かれて見に行ったわけです。ストーリーも切なくて、めちゃくちゃ好みです。唯一難点を言えば、全体としてリアルっぽく、普通っぽく、人間らしさが全面に押し出されていたので、終盤のチャンバラは必要ないなーと思いました。まあともかく、泣ける要素がたくさん、しかもいやらしくない。私もだいぶいいかんじに泣かされました(笑)。
 ほかに、映像は非常に生活感あふれ、江戸時代の在郷武士の暮らしぶりが見られて、非常に興味深かったです。まあ、どれだけ史実に則っているのかわかりませんし、そもそもこれまで「江戸時代」と曖昧に言ってきましたが、江戸時代のいつ頃か、公式サイトをざっと見てもわからなかったので、こんな曖昧に言わざるを得ません。詳しい人だったら、「これはこのころの話だ」と言えるのでしょうね。あれは何年ごろの話なんだろうなー。気になります
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運動団体としての帝国教育会

2005年11月04日 20時37分51秒 | Weblog
 今日の寝起きは、四段階評価(A:よい、B:まあよい、C:あまりよくない、D:悪い)でCです(笑)。前日に疲れすぎたからかも。昼前に登校できたので、まだいい方ではあるのですが。
 今日は何日かぶりに年表作成(昭和11年)。この年の帝国教育会は、運動っ気(なんだそれは)ですさまじく活気づいていたようです。年頭に機関誌『帝国教育』の改良を行って、編輯委員をおいて毎月批評と方針を議論したり。2.26事件後に組織された新内閣で、永田秀次郎会長が拓務大臣に就任したり。教育塔を完成させて大阪で教育祭を開いたり。義務教育年限延長運動(義務教育6年を8年に!という運動)を開始したり。翌昭和12年開催予定の第七回世界教育会議の準備を本格的に開始したり。幹部達はあっちこっちに飛び回って非常に忙しそう。大正後期~昭和初年(というより三浦藤作編輯主任時期)の『帝国教育』には会報がまったく載っておらず、帝国教育会は何をしている団体かよくわからなかったけど(会報なしにもそれはそれで意味はあるのだけどね)、昭和11年の帝国教育会となるとまさに「教育運動団体」って感じになってしまいました。帝国教育会の先行研究で、この時期の帝国教育会に注目するものは多い気がしますが、それも「運動団体」としての帝国教育会に魅力を感じてのことでしょうか。私もこういう状態の帝国教育会を興味深く思いますが、私はそういう視点とは別の視点で帝国教育会を分析したいので、少し複雑に思いながら年表作成してました。
 年表作成を始めるのが遅く、会が活発に動き回っていた年だったのでやたら書きとめておくことが多くて、ノルマ達成の頃には暗くなってしまいました。『帝国教育』を図書館に返して、病魔にむしばまれていたために積み重なってしまったTAの仕事をこなしました。
 体調はまだ本調子ではありません。はよ帰れや。
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