先の衆院選の影響で、民主党がにわかに動き出しましたね。妙な動きもあるようですが、一つ気になった動きがあったので、取り上げてみましょう。
教員免許更新制を廃止しようとする動きが出てきたようです(
yahooニュース9/13)。私としては、ようやく国会の中で議論ができるようになったか、というのが率直な感想。教員の不祥事が強烈に社会問題化されて、世論の後押しを受けて成立した教員免許更新制だっただけに、国会の場で冷静な議論がなされることを祈ります。ただ、気になるのは、yahooニュースで見る限り、日本教職員組合だけが廃止を要求してきたような書き方になっていること。日教組の動きは重要だと思いますが、日教組だけがクローズアップされるのは、「日教組」という団体・名前にアレルギーを持つ人々の拒否反応を引き起こすだけで、理性的な議論ができないのではないかと思います。更新制廃止要求の基盤はもっと広く、多様だと国民の皆様には理解してほしいと思います。
教員の資質向上・力量形成の機会を増やすことは、私も大賛成です。しかし、教職免許を更新可能にし、有限化する方向性には疑問をもたざるを得ないです。教員の資質向上・力量形成のために、免許更新制を採用する必然性はあるのでしょうか。教員の力量不足が問題なら、研修制度を公私共に充実させればよいわけで、免許制度全体に及ぼす必要性はないのではないでしょうか。むしろ、なまじ免許制度にかかわらせたために、予想外の問題を引き起こさないとも限りません。
実は、日本には、教員免許更新制を採用していた経験があります。明治前期の教員免許は、免許取得から数年で効力を失っていました(終身有効のものもありましたが、大半の免許は有限)。それがためにどういうことが起こっていたか。すなわち、有資格教員の不足。最低限必要な教員数すら足りず、速成で養成された非常勤教員を採用せざるを得ない明治教育の実情。優秀な人材やベテラン教師は、免許期限が切れると同時に他分野へ転職してしまうこともしばしば。これでは、教育の質を保障することもできない。教職の責任・権威・地位も確立させようがない。有期限制度では教員数の確保が難しいという事情が一つの重要な要因となって、明治半ばにおいて教員免許の終身制が始まったのです。
上のような問題が起こったのは有期限免許だけのせいではありませんが、「有期限だからこそ辞めやすい、腰掛の職業になりやすい」のも真理ではないでしょうか。一つの職業に一生をささげるという意識が薄れ、一般的に転職が考えられるようになってきた近年、教職から優秀または経験豊かな人材が流出しないとは言い切れないでしょう。せっかく戦前戦後を通して高められた教職の質を、低下させる引き金にもなりかねません。古い考え方かもしれませんが、「教職に一生をささげる」という意識は、子どもにとっても、国家社会にとっても貴重なものだと思います。更新制によって教職から去る可能性があるのは、いわゆる「不適格教員」だけではないのです。
今年、すでに免許更新講習は行われました。とても有意義だったという声もありますが、それは講習内容が有意義だったのであって、免許が更新されたから有意義だったからではないでしょう。免許を流動的で不安定なものとしなければ講習を受けないほど、教員は「自ら学ぶ心情と態度」を失ってはいないはずです。
先述のように、免許終身制は「当たり前」のものではありません。だからこそ、「当たり前」でないからこそ、我々は、今から百年前の祖先たちが考え抜いた末に出した決断について、もっと真剣に向かい合ってもよいのではないでしょうか。