教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

ペース配分無視「マラソン」のツケ?

2009年12月22日 18時04分58秒 | Weblog
 年末にきて、気力が低下しっぱなしです。先月からずーっと力を使いっぱなしで、補充できてない感じ。1日・2日の休日では回復しそうにもない様子。最近、仕事をするために、心身のエンジンをかけるのに、かなり苦労しています。何でこんなにきついんだろう。
 考えてみれば、9月下旬くらいから息を抜く余裕がまったくなかったことに気づく。休日はあったけど、だいたい翌週にある授業や校務の準備をしていて、ちゃんと休んでない。これに加えて研究発表や論文作成を行っていたので、空き時間は無きに等しい。休まなきゃいけないのはわかっているけど、やらなきゃいけないことを前にして休めるほど、私は器用にはできていない。やり始めたからにはこだわってしまって、時間ばかりかかってしまう。まるでペース配分無視でマラソンを走っているよう。マラソン嫌いなのに(笑)。
 元気なときはなんでもなかったようなことでも、このところかなり引きずるようになってしまっています。落ち着く場所がどこにもなく、落ち着く時間的余裕もない。幸い、年末は少し余裕があるので、ゆっくりすべきなんだろうけど、この際やっておきたいことも山積している。年末はそれをやっておきたい気持ちのほうが強い。
 ん~、この精神状態は、とってもマズいなぁ。
 つまり、いつもの「ヤツ」が来たってわけか。真正面から戦うとキツイので、やりすごす方法を考えなくては…
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明治10年代後半、不況期において小学校教員に求められた意識と態度

2009年12月10日 22時52分23秒 | 教育会史研究
 そういえば、以前発表した論文について紹介していなかったので、改めて。
 平成21年3月18日、中国四国教育学会編『教育学研究紀要』(CD-ROM版)第54巻が発行され、同誌に掲載した拙稿が活字化されました。題名は「明治10年代後半の大日本教育会における教師像―不況期において小学校教員に求められた意識と態度」です。その論文構成は、以下の通り。

  はじめに
1.明治10年代後半の『大日本教育会雑誌』における教員記事
2.明治16年末~18年前半における理想的教員像
 (1)理学知識の蓄積
 (2)各科教授法の原理的理解と熟達
3.明治18年後半~19年末における理想的教員像
 (1)村民と誠実に交流する態度
 (2)教職意識と社会貢献の態度
  おわりに

 節タイトルに出ている時期区分は、資料の『大日本教育会雑誌』に掲載された教員関係記事の傾向から導き出したものです。
 明治10年代後半の制度上からみた教師像は、儒教道徳を基礎として学識と技術との熟練を目指すものが主流だったとされていますが、大日本教育会では、もう少し現実問題へと対処する方向で教師像が提示されていました。とくに明治18年後半以降になると、明らかに、提示される教師像に変化が現れます。どのように変化したのかは、上述の論文構成を見てもらえばわかるように工夫しました。
 当時の小学校費は町村負担であり、町村支出の少なくない割合を占めていたため、松方デフレによる不況の影響をこうむった町村では、小学校費を削減し始めます。そのような状況下では、教員は座して学校費削減を見ているわけにはいかず(学校費の大半は人件費、すなわち教員の俸給)、村民と交流する必要性を生じました。また、教職の重要性・公益性を高め、自覚し、行動に移していく必要性も生じました。当時の『大日本教育会雑誌』上の教員関係記事を読むと、当時の教員に差し迫った問題を解決する方向性を示す内容が見られます。そこからは、教員は変わらなければならないという意識が、私にははっきりと感じられました。
 このような内容の論文を1年前に書いて発表しました。

 ちなみに、中国四国教育学会編『教育学研究紀要』(CD-ROM版)は、審査なしで基本的に自由に書けるので、私はよく投稿します。来年3月発行予定の巻にも、また投稿します。ただ、この紀要は、同学会員以外は手に入れにくいという難点をかかえた媒体です。中国四国内の学者・院生による多彩な内容の教育学論文が多数掲載されているので、外部者からはネット公開を切望されることも多いのですが、乗り越えなければいけない障害もなかなか多く、しばらくそのままではないかと思います。ひとまず、昨年内の実行は無理でした。拙稿を読んでみたい方は、図書館の相互サービスなどを利用して、手に入れてみてください。
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小学校歴史教科書における寺子屋記述

2009年12月01日 19時14分39秒 | 教育研究メモ
 短大の紀要に「小学校歴史教科書における寺子屋記述」と題しまして、論文を掲載しました。明治から平成までの小学校歴史教科書(一部は尋常小学校)において、「寺子屋」がどう記述されてきたかを明らかにしようとした論文です。教育課程史と寺子屋研究史とを主な背景にすえて、検討しました。時代設定が長いため総説的にしか書けておらず、教科書史を専門にされている方には物足りないかもしれません。内容は、教科書史・教材史研究としても、日本教育史研究史としても読める内容になっているんじゃないかと思っています。
 論文構成は以下の通り。

  はじめに
 1.寺子屋記述の出現
  (1)明治初年における寺子屋否定
  (2)明治10年代の文部省における寺子屋研究の開始
  (3)記事本末体的内容編成の教科書における寺子屋記述の出現
 2.寺子屋記述の発展
  (1)文部省発の寺子屋研究の進展
  (2)徳川吉宗に関する教材としての寺子屋
  (3)郷土史教材としての寺子屋
  (4)人物主義的内容構成の教科書における寺子屋の教材化の可能性
 3.寺子屋記述の再発見
  (1)国定尋常小学校教科書における寺子屋記述の不在
  (2)『くにのあゆみ』における寺子屋の再発見
  (3)封建・身分制維持機関としての寺子屋認識
 4.戦後における寺子屋記述の展開
  (1)民衆性・前近代性を示す教材としての寺子屋
  (2)文化発展の原動力としての寺子屋
  おわりに

 結果的に、いろいろたくさん課題を残してしまったなと思いますが、何とかまとめ切りました。
 この論文の元になったものは、実は、昨年つくった前任校でのレジュメです。母校の研究室にS先生が後期から着任されたので、私も時間をつくって先生の大学院の授業に出席していたところ、他の学生と同様にレポート発表をすることになりました。その授業では、鈴木理恵氏の「歴史教育における遣唐使の発見―メディアとしての教科書分析」(教育史フォーラム・京都編『教育史フォーラム』第2号、2007年、35~54頁)を解説・批判し、さらには一人ひとり自分で教科書教材を選んでその歴史を研究してみようという課題が出されていました。後々別テーマで研究しようと思っていたテーマが「寺子屋」に関係しているので、私は小・中学校歴史教科書における「寺子屋」を選んで課題に取り組みました(当然、口頭発表の数には入れておりません笑)。
 その際、つい熱を入れて取り組んだ結果、他に発表する大学院生たちが焦るほどのボリュームになってしまいました(笑)。S先生からもちゃんと書けば論文になるんじゃないか、とアドバイスいただいたのをいいことに、調子に乗って論文にしたわけです。その過程で、中学校歴史教科書における寺子屋記述については捨象しました(もともと近年の記述しか検討してなかったのもあるので)。
 ですので、なんとなく鈴木氏の論文に似ているように見えるかもしれません。対象も問題意識も違いますが、もとはそこから出発しているので。例のごとく、激務の間を縫って書き上げたので、仕上げの頃は気を失いそうでした…。
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