今日も「
群像」更新です。
今日は「湯本武比古」氏。明治後期の教育史研究者ならご存知、『教育時論』の主宰者、開発社長です。彼も、明治34~36年の公徳養成問題に、どっぷりつかっていました。もともと徳育に強い関心をもっていたようですが、公徳養成問題と同じ時期に倫理学に関する著書を多く出版しており、同問題に関わったことで彼の道徳論が加速したようにも見えます。私の妄想かもしれませんが…
「群像」の更新とあわせて、このところポツポツ読んでいた井上哲次郎・高山林次郎(樗牛)『新編倫理教科書』(金港堂、訂正版1898年(初版1897年))を読み終わりました。中学校向けの教科書として構成されていましたが、師範学校でも使われていました。井上哲次郎といえば忠孝・愛国中心の国民道徳論の主導者のように思いますが、公徳(社会に対する道徳)についても全分量の5分の1ほどを割いて説明しています。
同著によると、家族・国家とは異なる(ただし、矛盾せず重複した)存在として、「社会」という存在があります。社会とは、生存・幸福の利害を同じくする人民の間に存在する共同体です。ここでいう幸福とは、個々人がそれぞれ身体の欲望と精神の需要を充たすことです。社会には、構成員相互の権利・幸福を尊重し、生命・財産・名誉を保証し合って生きていくためのルールがあり、これを「公義」といいます。しかし、公義を守るだけでは、社会に対する義務を尽くしたことになりません。社会に対する義務を尽くすには、「公徳」を実践しなくてはなりません。公徳とは、社会の幸福を増進させることに積極的に寄与することであり、「博愛慈善の精神」に基づいたものです。博愛慈善の精神とは、自己の利益を捨てて他人のために尽力して、なお報酬を期待しないことであり、かわいそうだと思う心(惻隠の心:孟子の言葉。「仁」の源)を拡張したものだといいます。
『新編倫理教科書』では、公義を守るにとどまる者を「悪人でない」者とし、公徳を実践する者を「善人」とします。これだけでは具体的にわからないかもしれませんが、具体例で「なるほど、そういうことか」と思わされましたので、他の箇所を参考にしながら適当に意訳をして掲げておきます。
ある人がいた。
彼は、とても厳格に法律を守り、非常に心をこめて公義を貴び、人を殺さず傷つけず(生命を保証)、人のものを盗まず(財産を保証)、嘘をついて人の名誉を汚さず、悪意をもって人の言行を批評・告発しない(名誉を保証)。腰は低く、相手を敬ってつつしむ雰囲気もある。
しかし、彼は、道に人が餓えてたおれている様子を見ても憐れまない。孤児が泣き叫ぶ声を聞いても救わない。彼に期待されている社会の事業があっても関わらない。
彼は果たして善人と言えるだろうか。
(井上哲次郎・高山林次郎『新編倫理教科書』巻下、金港堂、1898年、巻三・65頁参照)
2段落目は、社会の公義をしっかりと守っている例。公義を守ることで、「彼は悪人でない」とは言える。
3段落目は、博愛慈善の精神を持たず、公徳を実践しない例。「彼は悪人ではないが…善人ではないな」と言わざるをえない。