教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

教師論概念「教師は教科書に使われてはならない」の初出を探る

2014年05月31日 15時44分51秒 | 教育者・保育者のための名言

 以前、沢柳政太郎の「教科書に使役されて、教科書を授けるための教師となってはいかぬ」(1908年)という言葉を紹介したことがあります。「教科書は使うものであり、使われてはならない」という言葉は、教育現場では今でもよく使われる言葉ですが、沢柳の発言より前の事例を見つけたので紹介します。
 以前、学位論文をまとめているときに、見つけた史料です。

 「教科書は教員といふものが自から能く使用すべきものであるのに、教科書の為に教員が使役せられて居る事はなからうか、教員は書物の奴隷になって居るやうな事はなからうか」

 発言者は、中川謙二郎。明治26(1893)年8月6日、大日本教育会夏季講習会の期間中に開かれた講談会での発言です。日本最古の全国的教育専門団体である大日本教育会は、主催する教員講習会の課外に、有識者の講談を実施していました(8月6日、13日、20日、27日実施)。中川は、肝付兼行、西村貞、三宅秀、西村茂樹、井上哲次郎、杉浦重剛、後藤牧太というそうそうたる登壇者の一人でした。
 中川は、教育史のなかでもマイナーな人ですが(関係者すみません)、東京開成学校(のち東京大学)の出身で、文部官僚や女子高等師範学校教員を務め、普通教育・師範教育・実業教育に造詣の深かった人物です。のちに東京工業学校教授や東京教育博物館主事、文部省視学官も務めています。そのうち「大日本教育会・帝国教育会の群像」(無期限休止状態)を再開させたいので、詳しくはその時に。

 中川は、200名の講習員(多くは全国各地からやってきた小学校教員)を前にして、家庭と学校、社会と学校、教員相互、教員と児童、教員・教科書・児童、学科間、男女教員間における関係調和・協力・交流の重要性についてを論じました。紹介部分は、その講談のうち、教員と教科書との関係に言及した部分です。この部分は、講談全体のなかでのほんの一部なのであまり深まってはいませんが、児童を教育するには小学校教員が教科書に「使役」されてはならない、という教師論の一概念をはっきり述べています。また、これは、初等教育における教師と教科書との関係の特徴について、中等教育におけるそれらの関係と比較して明らかにしている部分です。中川は、小学校教員だからこそ教科書に「使役」されてはならない、といったのです。のちに沢柳は、中等教員のあり方に絡めて、教師は教科書に使われてはならない、と述べました。「教科書に使われるな!」というあり方は、まず小学校教員に対して求められ、そののちに内容の深まりとともに中等教員にも求められたということになります。1893年の中川発言と1908年の沢柳発言とは、それぞれこのような教員史の流れのなかに位置づくのではないでしょうか。
 以下、該当部分の引用です。前半部分は、中等教員に関する内容です。教科書をそのまま読むのでなく、批判的に講義することがイギリス由来の新しい教育方法として語られているところも、時代状況を示していて面白いです。また、この発言は、教員・教科書(教材)・子どもの三者を一体化する方法、または教科書を教員と子どもとの関係を媒介するもの(つまり、教員と子どもとの関係を結ぶメディア)として述べていることも興味深いところです。


 「教科書は教員といふものが自から能く使用すべきものである」

中川謙二郎「大日本教育会夏季講習会演説」(『大日本教育会雑誌』第133号、大日本教育会事務所、1893年10月、)より。
 (『大日本教育会雑誌』第23巻(近代日本教育資料叢書・史料篇一)、宣文堂書店、1969年復刻)
 ※一部の必要部分に濁点を付け、促音「つ」は「っ」に置き換え、新たに段落分けを行い、旧字体はなるべく新字体へ置き直した。

 教科書を用ひます上には、或は教科書を批評致して、夫を教授の一の方法にするやうな事を能く聞いて居ります。即ち英吉利[イギリス]の中学校抔に於きまして、教員が古い教科書を択んで用ひて居る。其古い書物に就て批評的に教授を致すので、前々から種々変更して今日の今日たる所のあるのを明かにする。只以前の事を捨置いて、今日の事丈け稽古させるといふよりは、其方が明瞭になって、教授の効力が著しいといふ事を度々聞いて居ります。
 我国に於きましても、或は中等以上の学校に於ては、此教授の方法即ち教員・書物・生徒の三ツが全く三物となって、言い換ゆれば教員と生徒との間に書物といふものが這入て教授するといふ事は、或は一の便利なる方法、且有益なる方法であるかも知れませぬ。併ながら初等の教育に於きましては決して之に倣ふことは出来ぬと思います。

 初等の教育に於きましては、教科書と教員といふものが必ず一体となる事が必要であらうと思ひます。教科書が無い時と教科書のある時と全く教授力に於ては同様であると云ふ風になければなるまいと思ひます。教科書を用ひる為に時間の節約が出来ると申しますれ共、教科書は即ち教員自己といふものゝ一部分として用ひるやうな体でなければ、初等の教育の上に此三ツの調和を全うする事は出来まいと思ひます。然るに時としては教員と生徒とか理科(Science)を講究する方法と同じく、書物といふものを真中に置いて、頻りに其れに喰って掛かって居るやうな顕象が無からうか、教科書は教員といふものが自から能く使用すべきものであるのに、教科書の為に教員が使役せられて居る事はなからうか、教員は書物の奴隷になって居るやうな事はなからうかと云ふ箇条に疑ひが御座います。其三物調和の仕方は即ち教科書といふものが教員と一体になる事は甚だ必要なる事と思ひます。

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スポーツDAY業務、のち学会発表のための移動

2014年05月17日 19時54分23秒 | Weblog

 本日は大学行事のスポーツDAY でした。私は学生生活支援委員の学友会体育局担当という分掌を担当しており、メイン担当行事でした。といっても学生が頑張っていただけで、私は大したことはしてないですが。

 予定より少なかったのですが、数百の学生たちが参加しました。盛会でした。輝く汗とほとばしる歓声。青春だなぁと思います。命が輝くこのような機会を自分たちで作り、やり遂げた体育局の学生と協力学生。心から「よくやった!」の言葉をかけたいと思います。

 

 さて、スポーツDAY 終了後、電車に飛び乗って、ただいま東京に向かっております。早稲田で開催中の全国地方教育史学会に出席するためです。明日は午前中に発表です。

 発表題目は、「1900年代鳥取県教育会における小学校教員批判ー教育研究態度の改良に向けて」です。副題は後付け。鳥取県史編纂の仕事の副産物です。資料集を作る時間はありませんでした。

 1900年代(明治30年代)に教員の教育研究が盛んになったことは先行研究であきらかですが、なぜこの時期だったのかははっきりしていません。この辺りの問いにある程度答えられた気がします。また、この頃には子ども中心教育や地域に応じた教育が追究され始めましたが(そして大正新教育へ)、教員の教育研究のなかで子どもに対する配慮が生じる契機についても触れることができたように思います(こっちはまだ勇み足ですが)。

 思っていた以上に面白くなりました。

コメント (2)
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