教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

鼻づまり解消法(我流)

2010年07月25日 23時55分55秒 | Weblog
 我流の鼻づまり解消法について、ただの備忘録(メモ)です。まだ探り探りの状況です。人によってどうも違いがあると思います。あくまで私の場合の解消法ですのでご注意を。
 ちなみに、耳鼻科へ行ったことはあるのですが、ある病院では「鼻骨が少しまがっているがたいしたことはない」と言って追い返され、ある病院では鼻にスチームをあてた後に点鼻薬を処方されました。後者の病院と先生のおかげで少し楽になったので、その後ずっと点鼻薬を常用していました。しかし、使いすぎて副作用に悩まされるはめに。

〈鼻づまりを解消する方法〉ver.1.1

① 点鼻薬を使わない。
 点鼻薬を使用すると一気に鼻が通ってすっきりするのですが、常用すると副作用のため逆に鼻がつまり始めました。使用から1時間もたたずに鼻がつまるので、おかしいなと思って副作用を疑ってみたことが転機でした。副作用は1日~2日ほどでなくなり、前のような鼻づまりはすぐになくなりました(鼻うがいを併用したので早かったのかも)。

② 鼻うがい(塩水を鼻に通す)を朝・就寝前にする。(そのほか、鼻がつまり次第する)
 私は泉精器製作所作の「鼻洗浄機INC-7000」を使っています。電気屋さんで売っていました。少し前は手動ポンプ式の鼻うがい器を使っていましたが、私には勢いが強すぎたのか鼻の中に水がたまってしまい、鼻うがいのせいで余計に鼻づまりをしていたような気がします。手動ポンプが壊れたので、代わりを探していたところ、今の機械に出会いました。ために鼻づまりがひどいときは水の勢いが弱いような気がしますが、普段はちょうどよい感じです。

③ 鼻づまりを解消する飲み薬(本来は1日2回服用のもの)を、就寝前に1日1度だけ飲む。
 佐藤薬品製造の「プレコール持続性鼻炎カプセルL」をしばらく使用した後、体質改善を意図して漢方薬に移行しようとしています。「小青竜湯」を使ってみましたが、どうも気分が悪くなってきたので(吐き気・頭痛)、使用をやめました。どうも体質にあわなかったのか、副作用にひっかかったような気がします。柴崎さんから「辛夷清肺湯」を薦められましたので、探してみようと思います。
 (追記:「辛夷清肺湯」は、小林製薬製造の「チクナイン」に多く含まれているようです。この薬は以前から鼻がつまったときにたまに使っていました。副作用については、気になったことはあまりありません。睡眠中の鼻づまりを防止するために使ったことはなかったので、今後はそういう風に使ってみたいと思います。)
 (追記2:2010年8月現在、何も使用しておりませんが、鼻うがいをしっかりすれば大丈夫のようです。蓄膿が出きったら使用を見合わせてよいとおもいます。)

④ 鼻の気道を広げるテープをはって寝る。
 グラクソ・スミスクライン販売の「ブリーズライト」を使っています。気休めのような気がしますが、横になった時に鼻の気道を確保してくれているような気がします。しないよりはいいんじゃないでしょうか。一度貼りなおすと貼りつかなくなってしまうので、ちょっと不便。

⑤ 普段、こまめに鼻をかむ。
 積み重なってくる鼻水をそのままにしておくのが一番まずいのではないかと思います。

⑥ 鼻通りをよくするツボを押す。
 「鼻通(びつう)」「迎香(げいこう)」「合谷(ごうこく)」「上星(じょうせい)」「百会(びゃくえ)」「清明(せいめい)」が押しやすいです。ツボの位置は押すと少し痛いですので、触ってみるとわかります。位置や効果など、詳しくはサイトを検索してください。5~10秒くらい、指の腹でもむように押しただけでも、うそみたいに鼻が通ってきますので驚き。
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私の睡眠時無呼吸症候群への対処法

2010年07月18日 17時21分01秒 | Weblog
 自己紹介にもあるように、私は睡眠時無呼吸症候群です。これは、病気というより、そういう体質と言ったほうがいいのではないのかと思います。特効薬がある類のものではないので、一生つきあっていかなくてはならない症状です。
 この症状は、私の場合、肥満による太い首のため、睡眠時に自重によって気道が圧迫されて呼吸が難しくなり、長時間の無呼吸(呼吸困難)状態におちいるものです。そのため、十分時間をかけて寝ても、無意識の緊張状態や眠れていない状態が続き、寝不足状態のまま目を覚ますのです。体内の酸素欠乏状態が断続的に続くため、脳や体に疲労がたまった状態で目を覚ますので、ほとんど寝た気にならないという面倒な体質です。ひどい状態だと、かならず悪夢を見るので、自分でもわかります。私の場合は慢性的な鼻づまりがあって、余計に呼吸困難状態が続くので、面倒さは二重です。
 治療方法は、最近のものはよくわかりませんが、私が治療を始めたころは、物理的な対処療法しかないとうかがいました。その治療法(CPAP(シーパップ)療法)は、鼻マスクをしてそこに直接空気を送り込む機械を使って寝る、というものです。広島にいたときは近所に治療をしてくれる主治医がいたので、この治療法を実行していたのですが、今住んでいる地域には無呼吸症候群を扱うことのできる医療機関がないので(扱っている機関には片道1時間程度かかる)、今は治療していません。治療とはいっても毎晩機械を使うだけなので、医者から何か特別の処置を受けるわけではないのですが、機械のレンタル料をかねて毎月1回話をする程度で、結構な金額の料金を支払わなければなりません。しかも、私の場合、やせなければ=首周りを細くしなければ根本的には治らないそうです。それだったら、がんばってやせた方がいいかなと思っています(といいながら、なかなかやせられませんが…)。
 ちなみに私が過去に受けてきた治療法等については、昔の記事(「睡眠時無呼吸症候群に関する私の体験談」、2007年6月1日など)にまとめています。興味がある人は見てみてください。
 なかなか良くならないので、最近、私なりに工夫して治療法を変えてみました。私の場合すぐにはやせられないので、首の太さによる無呼吸状態よりも、睡眠時の慢性的な鼻づまりによる呼吸困難状態のほうが対応できるのではないかと思っていました。普段から鼻づまりがひどいので、点鼻薬の常用と機械による鼻うがいをしていました。日に日にひどくなるので、最近おかしいなと思いはじめ、「もしかしたら点鼻薬の常用がまずいのかも…」と疑って調べてみると、案の定、点鼻薬の常用によって鼻づまりが促進されてしまうらしいのです。さっそく点鼻薬の使用を思い切って一切やめ、鼻づまりを軽減するために、朝夕・就寝前および適宜の鼻うがい、就寝前の鼻づまりを解消する飲み薬の服用、鼻の気道を広げるテープの就寝時使用を実行しました。これが先週のことです。薬の使用をやめるにあたってはかなり不安があり(1時間たたずにまったく鼻呼吸ができなくなるので)、やめはじめた日は実際に「地獄」でした。しかし、意外に早く点鼻薬常用の副作用はおさまったらしく、使用をやめた3日目にはあまり気にならなくなりました。こんなにも早く鼻づまりが解消するとは、驚くとともにうれしかったです。あと、最近の熱帯夜のため、寝汗で鼻風邪をひきやすいので、就寝環境の整備にも気を遣いました。
 鼻づまりが解消すると、睡眠時無呼吸の症状も少し解消されたような気がします。起床が少し楽になりました。完全とは言えませんが、もっとよくなるにはもっとやせなくてはならないでしょうね。最大時(4年前)に95kgあった体重は現在、78kgに減少しましたが、まだ身長に対する適正体重には達していません。このところ減っては増え、増えては減りを繰り返してしまい、なかなか減ってくれず、ずっと横ばい状態なのでじれったい気分です。落ち着いて減量に取り組む余裕がない、といって言い訳していてもはじまらないのはわかっているのですが…

 ということで、私の睡眠時無呼吸症候群への対処法をまとめると、以下の通り。
(1) どうにかして、やせる。
(2) 鼻づまりを解消する。
 ① 点鼻薬を使わない。
 ② 鼻うがい(塩水を鼻に通す)を朝・就寝前にする。(そのほか、鼻がつまり次第する)
 ③ 鼻づまりを解消する飲み薬(本来は1日2回服用のもの)を、就寝前に1日1度だけ飲む。
    →そのうち体質改善の漢方薬に切り替えるつもりです。
 ④ 鼻の気道を広げるテープをはって寝る。
 ⑤ 普段、こまめに鼻をかむ。
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よりよく生きること―夢の役割

2010年07月08日 23時39分35秒 | Weblog
夢を目指して何が悪い。
夢をあきらめないことのどこが悪い。
目的も目標もなく生きている姿よりも、夢を目指して生きる姿のほうが、
ずっとずっと輝いている。

夢はただ見るだけでは意味がない。
夢はかなえるために目指すもの。
夢は自分が理想とする将来。
夢は自分が選んだ大きな目標。

あなたが生きてきた過去、生きている現在、生きていく未来を輝かせるのは、
あなた自身の夢、あなた自身の理想、あなた自身の目標。

自分には分不相応の夢だと思うこともあるかもしれない。
それは、「今の自分」には確かに分不相応かもしれない。
でも、夢に向かって適切な努力を積み重ねれば、それはいずれ分相応の夢になっていく。
夢をあきらめないこととは、計画的に自分自身を磨いていくこと。
がむしゃらにやることも時には大事だけど、無計画では前に進むとは限らないから。

努力は1年・2年ですむかもしれない。
5年・10年かかるかもしれない。
一生かけなくてはならないかもしれない。
でも、その間、確かに、確かに、あなたの生命は輝いている。

それが「よりよく生きること」なんじゃないのか。
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戦前日本の教員免許―牧昌見『日本教員資格制度史研究』 附・免許終身制への視点

2010年07月02日 21時25分49秒 | 教育研究メモ
 今回は、牧昌見『日本教員資格制度史研究』(風間書房、1971年)をまとめてみました。まとめの方針が立ちにくく、かなりてこずりました(牧著を読んだことのある人なら、わかってもらえるはず…)。
 なお、長い本文の後に、牧著をきっかけにして、教員免許更新制と終身制とについて自分なりに少し考察しています。 
 7月1日にいったん投稿しておりましたが、あまりに読みにくい文章になっていたので、取り下げて書き直しました。 

(1)はじめに

 本書は、昭和41(1966)年に脱稿、翌42(1967)年に東北大学で学位論文と認められたものに加除修正したものです。本書の根本的な問題意識は、教職の専門職性の観点から「教職とは何か」を問い、資格法制の研究によって「どのような資格を有する者が教職を構成すべきか」「その入職基準・要件を決定するのは誰れなのか」などを検討するところにあります。直接的には、資格法制に見られる国家の教員政策と教職の専門職化過程を対象とし、2つの問題を設定しています。第1の問題は、戦前日本は、資格法制によってどのような教員を供給しようとし、どの程度まで許容し、なぜ許容したか。第2の問題は、資格政策の実施過程においてどのような問題があり、それは資格制度をどう変容させたか。本書は、資格法制のみを検討し、編年的で読みにくいのですが、現在のところ、戦前日本における教員資格制度に関するほぼ唯一の通史であり、資格法制を詳細に分析しているところに最大の意義があるように思われます。同様の教員資格制度史研究には、国立教育研究所編『日本近代教育百年史』第1巻(国立教育研究所、1974年)の第2編第1章・第2章がありますが、それは本書の著者が書いたものです。
 本書の構成は、大きく分けて、序論(序章)、初等教員資格制度の歴史(第1章~第4章)、中等教員資格制度の歴史(第5章)、まとめ(第6章)、の4つの部分で構成されています。序論では、教職の専門職性理論とアメリカにおける教職観の視点から、戦前日本教員資格制度を検討しています。序論では、初等教員の資格制度には、厳格な国家的規制に基づく直接養成による教職倫理が重視された一方で、「初等教員たるための高等教育程度の知識・技術」が軽視され、中等教員の資格制度には、高等教育程度の知識・技術が重視された一方で、「中等教員たるための長期の養成」が軽視されたと指摘しています。序論での時代・文化を飛躍した問題設定がはたして妥当かどうかはこの際問題としないとして、少なくとも序論では、戦前教員資格制度を見る視点として、教職倫理、高等教育程度の知識・技術、養成期間、という3つの視点を導いています。
 初等教員資格制度の歴史区分としては、資格制度の創設期(明治5(1872)年~19(1886)年)、整備期(明治19(1886)年~明治32(1899)年)、確立期(明治33(1900)年~昭和10(1935)年)、国民学校令体制期(昭和11(1936)年~昭和20(1945)年)の4期に分け、さらに各期においてそれぞれ時期区分しています。中等教員資格制度の歴史区分としては、創始期(明治5年~18年)・整備期(明治19年~32年)・確立期(明治33年~昭和20年)の3期に分けて検討されています。第1章から第4章までは初等教員資格制度史について、第5章は中等教員資格制度について編年的・通史的に叙述されています。以下、第6章を中心にまとめ、補完的に第1章~第5章の内容を参照しました。

(2)小学校教員資格制度の歴史
 小学校教員資格制度は、明治5(1872)年の学制から始まりました。制度創設当初には、「師範学校卒業=小学校教員資格」という認識が根強くあり、明治12(1879)年の教育令によって、資格制度の基本認識として確定しました。教育令においては、養成による資格取得を原則とする方針が確定されました。ただし、教員数を緊急に確保しなければならない学制期の状況に応じて、明治7(1874)年の文部省布達第21号(「明治七年の初等教育資格規定」)から試験検定による資格取得が認められました。試験検定は当初は官立師範学校において実施されていましたが、明治12年文部省達第3号によって府県が検定制度を実施することができるようになりました。なお、師範学校は、学制以来戦前を通して私立校は認められず(戦前通して私立教員養成校が皆無だったわけではありませんが)、官公立校に限定されていました。戦前の教員資格制度は、私立校による養成よりも、公的な試験検定を優先したわけです。
 小学校教員免許状の種類は、明治中期以降に整備されました。種類区分には、授与権者による種類と職名による種類との2つがあります。授与権者による種類には、明治19(1886)年以降、普通免許状と地方免許状(府県免許状)との2種類が設定されました(ただし、明治24(1891)年~33(1900)年の間は正教員免許状・准教員免許状・普通免許状の3種)。このうち、普通免許状は文部大臣授与・終身有効・全国通用の免許状であり(授与件数は極めて少数)、地方免許状は府県知事が授与するもので取得府県内での限定有効の免許状でした。地方免許状の期限は、当初は有期有効でしたが、明治33(1900)年に終身有効に改定されました。A県で有効な免許状がB県で無効というような地方免許状の存在は、教員資格の普遍性を否定するものですが、有資格教員の地域的偏在(たとえば中四国各県で養成された教員が大阪で集中的に奉職するなど)を防ぎ、教員を計画的に配置することを可能にするという意味がありました。この普通・地方の種類区分は、明治40年代に教育会による教員免許の全国通用化運動を経て、大正2(1913)年に廃止されました。以後は、授与権者を府県知事に統一したただの「免許状」を授与することとなり、それは全国通用の免許状でした。職名による資格の種類には、正教員/准教員、または訓導/准訓導との2種類がありました(正教員は一人で授業できる資格、准教員は正教員を補助して授業する資格)。普通・地方および正・准の種類は、下級資格より上級資格へと進ませる階梯を意味しています(注:ほかにも尋常小学校/小学校(尋常科・高等科とも教えられる)や本科(全教科教えられる)/専科(一部の教科を教えられる)という区別もあり、それも階梯として機能していたようです)。
 戦前における小学校教員免許状の有効期限は、教員資質の維持向上と不適格者の排除とのために設定されていました。それでも、明治19(1886)年の終身有効免許状(普通免許状)の創設と、明治33(1900)年の全免許状の終身有効化は進められました。それは、無資格教員対策を優先する当時の教員政策上、免許状の有効期限を維持していても有資格教員の増加方策として実益がないだけでなく、そのほかに重大な問題を引き起こしていたからです。すなわち、有効期限の設定は、教員の転退職を促進させたり、教員志望者を制限する要因となって、教員の社会的地位の低下させていました。そのため、明治20年代には免許状の有効期限撤廃を要求する声が高まりました。教職経験を教員資格として重要視する論理に支えられながら、これらの要求は、全国連合教育会などを通して文部大臣へ届けられました。これを受けて、明治24(1891)年に正教員免許状のみ終身有効となり(准教員免許状は7年有効)、明治33(1900)年の終身有効へとつながったのです。
 戦前において、小学校教員免許状を授与する方式は2つありました。ひとつは教員養成機関を卒業した者に授与する方式であり、もうひとつは教員検定の合格者に授与する方式です。資格法制上、明治19(1886)年以前は直接養成を原則とし、その補充的位置づけとして試験検定を設けていましたが、明治19(1886)年(小学校教員免許規則)以後は養成方式と検定方式とを同等のものとしました。養成方式は、初等教員の質を確保することに重心をおくものであり、小学校教員志望者を小学校教員養成機関において養成する直接養成方式(明治5(1872)年師範学校創設~)と、教員養成を目的としない教育機関における副産物として小学校教員資格を取得できる間接養成方式(明治33(1900)年指定学校方式~昭和16(1941)年廃止)の2種類に分けられます。小学校教員養成機関の教育程度は、おおむね中等教育程度でした(ただし、戦中に専門教育程度に引き上げられました)。検定方式は、小学校教員の量を確保することに重心をおくものであり、直接検定方式(試験検定)と間接検定方式(無試験検定)の2種類に分けられます。試験検定は明治7(1874)年に制度化されました。無試験検定は明治14(1881)年に部分的に、明治24(1891)年に全面的に制度化されました。
 検定方式の教員供給に果たした役割は、非常に大きいものがあります。戦前を通して、初等教員資格取得者の約7割程度は検定合格者であり、師範学校卒業生は約3割を占める程度だったのです。ただし、現職教員の数でいうと、昭和戦前期の約6割程度は師範学校卒業生であり、とくにそのうちの小学校本科正教員(尋常・高等小学校両方で全教科一人で教授できる資格)の約8割は師範学校卒業生でした。なお、師範学校入学者は、郡部出身・農家の子弟が多く、「一般の知能的職業層と異なった出身階層を占めていた」(425頁)とされています。

(3)中等教員資格制度の歴史
 中等教員資格制度については、初等教員資格制度ほどは詳しく検討されていませんが、その法制上の特質を明らかにしています。中等教員資格は、初等教員と同様、明治5(1872)年の学制において制度化されました。創設当初から、授与者は文部大臣であり、全国通用の資格でした。等級制度は当初はありましたが、明治27(1894)年に廃止されています。師範学校・中学校・高等女学校の教員資格は、師範学校教員に特例措置がある以外、共通の免許法制を設けました。とくに明治33(1900)年の教員免許令によって、師範学校・中学校・高等女学校の教員資格は共通に規定されました。なお、女子の取得した免許状は、男女分離の原則のもと、師範学校女子部と高等女学校のみに適用されています。
 中等教員資格は、官立学校(高等師範学校・女子高等師範学校・臨時教員養成所)で養成されるか、または検定(試験・無試験)に合格すると取得できました。養成方式による取得機会は大幅に拡充されることはなかったため、中等教員の供給は、もっぱら検定を通して行われました。中等教員検定は、国が実施するものであり(初等教員は地方が実施)、検定出願者の学力・身体・品行を試験によって判定する直接検定方式(試験検定)と、検定出願者の提出した学校卒業証明書・学力証明書等を通じて判定する間接検定方式(無試験検定)との2種類に分かれていました。教員検定は文部大臣の奏請による内閣任命の委員によって行われました。試験検定の出願者は、大正14年頃まで増え続けました(ただし合格者数は大幅な変化はない)。とくに小学校教員が、教員社会内での地位上昇を志して受験したとされています。試験検定合格者は、文検出身者(「文部省師範学校中学校高等女学校教員資格試験」(試験検定の正式名称)を合格した者)と呼ばれました。彼らは、合格率約1割という難関を突破した者たちであり、博学多識で「一種特異な性格」を有したといいます。また、無試験検定は、主として官立高等教育機関の卒業生について検定する指定学校方式と、公私立高等教育機関の卒業生について検定する許可学校方式によって運用されました。無試験検定の出願者は、公私立高等教育機関の拡充期である大正後期以降、急増しました。無試験検定は、合格率8割~9割であり、試験検定よりも中等教員資格を得る者を多く出したため、無試験検定合格者の急増により、中等教員の十分な供給源となりました。ただし、次第に、需要に対して供給過多となっています。
 中等教員内の無資格者は、中学校・高等女学校では1割から4割程度おり、師範学校にも1割程度いました。また、中等教員には師範学校卒以外の検定出身者が多く、とくに中学校・高等女学校では7~8割を占めていました。しかも、そのうち無試験検定合格者が、中学校では3割~6割、高等女学校では1割~6割、師範学校でも1割~4割でした。この無試験検定によって中等教員資格を得た者の多くは、教職教養科目をほとんど履修しておらず、教育実習は全く受けないで、指定学校・許可学校を卒業した者たちでした。戦前の中等教員の多くは、そんな人々だったのです。

(4)結論
 初等・中等教員資格法制の歴史は、第6章第3節では、次のように結論づけられています。以上のような資格法制は、「教員の教育勅語体制への包摂過程における重要な判定基準として機能」して、「教職の専門職化を促進するよりも、戦前官僚制を維持し、これを鞏固ならしめることに寄与」しました。また、資格法制の歴史をみると、「初等教員資格制度の歴史的課題」は、「養成レベルの高度化と検定方式の排除」であり、それは「『養成による質』と『検定による量』との相克の過程」でした。他方、「中等教員資格制度の歴史的課題」は、高等師範学校等の直接養成方式の拡充ではなく、「検定法制のなかに、教職教養要件を確保すること」でした。

 本書は、全体的に法令の分析に終始しています。ところどころ教員社会の動向などに触れていますが、あまり十分な論証には至っていません。本書の日本教員史研究上の意義は、やはり、教員資格法制の編年的整理にあったと思われます。また、部分部分を見た場合、日本教員史研究上、重要な言及があちらこちらにあり、教員史研究者にとって必読書であるのは間違いないと思います。
 ただ、研究手法上の問題が多く、読者を遠ざけているようです。とくに、序章で設定されている問題・論旨、本文途中の逐一まとめられている内容、および結論内容との関連性を見たとき、その論理的整合性にはかなり問題があるように思われます(たとえば、第1章では、師範学校卒業と教員資格との密着をいわんとするがあまりに、教員資格における試験検定の位置づけがぼやけている感があります)。論理が一貫していないため、全体としてまとめるのは非常に困難を極めました(最初この記事を書き始めたときは章節の順番にまとめようとしましたが、途中で断念しました…)。
 なお、本書では、1940年代のアメリカで発表されたラッセルとジャッドの論説を用いて、「免許状の有効期限が終身であることは、教師としての教育が終結したことを表すものであり、プロフェッショナルグロースの理念とその制度が確立していない場合は、教員資質の維持向上を妨げる恐れがある」とし、転じて「わが国の場合、教職に所要員数を確保するための終身制から、その資的向上のための有期制への発展方向をたどらず、むしろ逆の方向を示した」として批判しています(411頁)。これは、現在、中央教育審議会において、教職生活全体を見据えた教師の力量形成の観点から教員免許状更新制の見直しが図られている中、再び確認すべき点かもしれません。更新制を支持する理由として、外国では更新制をとっているから日本もそうするというようなものは、話になりません。そもそも、教員免許終身制は、日本で歴史的に必要とされ、形成された産物であり、教職に対するその意義は大きなものです。日本教員史研究において、免許終身制の意義は教員数の量的確保ばかりに注目されがちですが、終身制がもたらした教職生活の安定による力量形成の長期的推進や、教職の社会的地位の確立への貢献は捨てがたいものだと思います。その意義は、結果または方便として得られたことかもしれませんが、それこそ日本で歴史的に見出された意義として大事にすべきなのではないでしょうか。もちろん、ラッセル&ジャッドの引用がいうように、免許終身制は、教職生活を全体を通じた長期的・連続的な力量形成の体制が整っていなくては、教員資質の維持・向上どころか、その形骸化・陳腐化の温床になってしまいかねないということは否定できません。しかし、だからといって、免許更新制にする必要はないと思います。必要なのは、終身有効の免許によって教職生活を安定化し、教員自身が力量形成を図っていける生涯学習・教師教育の意識を高め、実行していけるように、それらを支える制度・組織を整備拡充していくこと(たとえば研修の効果的運用や、自己修養の時間を許容する学校の体質形成、事務作業の効率化による自己修養の時間確保など)なのではないでしょうか。
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