教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

休み中です。

2007年04月30日 16時30分29秒 | Weblog
昨日からお休み中にしました。思いっきり休んで、英気を養う予定です。
昨日はたまっていた家の掃除をしていました。
今日は帰省します。ただいま松山の実家に帰るため、フェリーに乗ってます。もうすぐ松山観光港に着きます。
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次の戦場は

2007年04月28日 23時33分50秒 | Weblog
 今日はぐるーぷ樹の練習とバイト。
 9時から11時まで広島市内で練習。13時から21時半まで東広島市内でバイトでした。
 車移動の時間が長かったので、博論について考える時間も確保できました。なるべく短く博論構想を説明する文章を、移動中ずっと考え、何とか練り上げました。今ちょっと書いてみたところ、130文字でした(笑)。これに必要な内容を肉付けていけばいいはず。ただ、ワープロで打ってしまうと満足してしまうので、最後の1週間前まで寝かせよう。
 次の戦場は、5月25日の特研。特研発表のスケジュールを決める人に、「やります?」と聞かれたのでやることにしました。18日まで勉強や研究を進めようっと。
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「教育会のイメージがつかめない」

2007年04月27日 23時35分28秒 | Weblog
 えー、特研の結果を結論から申し上げますと、「要、大幅修正」でした。
 これまで構想に書いてきた内容について「わからない」と延々と言われてきたので、今回作った構想は、非常に丁寧に説明したつもりでした。ただ、丁寧すぎたのが災いして「くどい」と言われ、「ひっかかるところが多くて長い」と言われ、終いには「さっぱり理解できない」と言われました(……)。
 ただ、今回は今までより少し対策が見えています。というのは、理解できないという言葉の意味は、「教育会のイメージがつかめない」という意味だったからです。この問題は、日本教育史研究者でも教育会とは何かよくわかっていないのが現状だし、そもそも複雑な組織構造・事業活動・社会的位置なのが教育会なので、非常に難しい問題です。ある意味、この問いが私の研究の最大のテーマなのかもしれません。そう言われてみれば、「教育会は、研究活動が明らかになってはじめて理解できる(部分がある)」とでも言えなければ、博論として研究する意味も小さいように思います。これこそ最も単純で、最も基本的で、最も重要な問いなのかも。
 まー、「難しいものは難しいなりに書くのだ」と言ってもらったので、多少、気が楽かもしれません。どうすりゃいいかは、まだわかりませんが。一番助かったのは、教育学研究がどうの、とか、大学とどう違う、など、今まで本研究で処理しきれない問題を突きつけられなくなったことでしょうか。これだけでだいぶ違うよ。

 特研は16時半前に終わりましたが、「教育会とは何か、イメージできない」と出席者全員(西洋教育史の院生と学部生)に思われては、教育会研究を専門にしている私としてはそのままではいられない。自分では今まで以上に詳しくわかりやすく書いたつもりだったので、ショックを受けたとも言う。その後ずっと、夕食もとらずに構想を直していました。くどい云々と言われたので、思いっきり文章を絞り込む。専門外の人でも教育会をイメージできるように、工夫する。
 でも、めまいと吐き気がしてきたので、もう今日はおしまいにしよう… 主原因はたぶん、寝不足と空腹だと思いますが(笑)。
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集中力不足を持ち直す

2007年04月26日 18時41分09秒 | Weblog
 今日は明日の特研に向けて勉強。明日の特研発表者は私を入れて2人。私ももう一人もドクター生。自分の分はとりあえずヨシとして、もう一人が書いた過去の論文要旨を読む。今日も集中力不足のため論文を読む視点がフラフラするので、なかなか前に進まない。結構時間がかかってしまいました。
 このところ読書がうまくいかないので、そういえば、と速読のトレーニングのことを思い出す。トレーニングによって調子よく読書ができはじめたので満足し、かつ決められた7日間のカリキュラムが終わっていたのでそのままにしていたのですが、そういえばそれから随分時間が経つ。久しぶりにやってみると、やはり前のようにはいかない。時間が経つとトレーニング効果も落ちるようで。30分ほどトレーニングをした後、読書してみる。すると、また調子よく読書ができるようになっていました。たまには思い出したように速読のトレーニングしておかないといけないなぁ。読書のスピードは、研究の進み具合に強烈な影響を与えるので。
 今日は久しぶりに、石戸谷哲夫『日本教員史研究』(野間教育研究所、1958年)を読みました。古い本ですが、教員に関する歴史研究をする人は必ず読むべき、近代日本教員史研究書の金字塔です。教育史学会編『教育史研究の最前線』(日本図書センター、2007年)の船寄俊雄「日本の教員史研究」でも、「筆者は、石戸谷哲夫の『日本教員史研究』が示した面白さ、斬新さといったインパクトの強さからすれば、依然としてそれを乗り越える研究は出ていないという印象を持っている」と言わしめています。当然以前にも読んだことはありますが、近代日本教員史の大まかな歴史像を再確認するために読み返してみました。教育会と教員は切っても切れない関係ですから。
 読書の成果をメモって今日は一旦おしまいにする。
 さて、明日は何を言われるかな。昨日までは「これで大丈夫!」と自信満々だったのですが、今日は若干心配になってくる。Y先生が一番問題とする研究の問題意識はちゃんと説明できているか。明日が楽しみでもあり、怖くもあり。
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「教育会=利益団体」論

2007年04月25日 23時55分55秒 | 教育会史研究
 今日は博論構想の仕上げ。プリントアウトして、先生に手渡す。ついでに、週10時間くらいバイトを始めた件と、求人公募に応募して就職活動を始めることも伝える。就職活動については、あくまで今は研究活動メインなので、ぼちぼち始める予定。提出書類をそろえる練習のような気持ち。もちろん落ちるつもりで書くわけじゃないけど。大学への就職はそう簡単にはいかないと思うので、数年は学生でいなくてはいけないと覚悟してはいます。ただ、私は、もう三十路が見えてきた年になったわけだし、学振からお金をもらっている間に扶養控除もはずれたし(今は収入ほとんどないけど)、親はすでに定年退職した後だし。親は生活費や学費を援助してくれるとは言ってるけど、余裕があるわけじゃないし、いつまでも甘えているわけにはいかない。バイトについては、学会参加などの旅費や飲み会などの交際費等に充てていく予定。公募については、チャンスがあれば、どんどん挑戦していこうと思います。なお、PDについては、業績面で無理なのがわかってるので、今年はやめておく。
 博論構想を先生に手渡した後は、地方教育会に関する論文をコピる。時間になったので、バイトへ行く。
 
 バイト後、伊藤光利「利益団体」(伊藤光利・田中愛治・真渕勝『政治過程論』第Ⅲ部「政治過程における組織化」、有斐閣、2000年、166~192頁)を読む。国民の社会・経済生活に根ざし、かつそのあり方に大きな影響を及ぼす「利益団体」は、さまざまな政治的現実をダイナミックかつ実証的に分析する「政治過程論」に重要な要素です。「利益団体(interest group)」は、政治に関心をもつすべての集団のことです。とくに「組織化された利益団体(interest association, organized interest、単に利益集団とも呼ぶこともあるみたい)」と呼ぶ場合は、職業的・生活的利益をもとに人々が組織化された集団を意味します。利益団体が自らの利益の保守・推進のために議会・政府に働きかける場合は、「圧力団体」と呼ぶことがあります。ただし、ほとんどの利益団体は政治に働きかけ、その働きかけが中立的か否定的かどうかは論者の主観によるので、利益団体と圧力団体を区別する積極的な理由はないそうです。この本では、教育団体も利益団体です。戦後日本の教育団体は、政策による分配で利益を得る「政策受益団体」であり、圧力活動の標的は議会(政党)より行政に向いているんだとか。
 この論文を読んでわかったことは、利益の種類と政策決定に関わる政治状況によって働きかける対象が違うということ。教育団体は、市場の利益とはあまり関係ありませんが、政府が教育重視の政策を採用する場合、経済団体・労働団体などの他の団体とは違って、直接に利益(もちろんお金だけを意味しているのではない)を得るわけです。だから、教育団体も利益団体として政策決定過程に関係してくる。戦前日本の教育政策決定の場合、帝国議会や組織化されていない世論より、文部省や政府が強大な影響力を持っていました。教育団体は、問題(とくに財政問題)によっては、政党に働きかける必要があったと思いますが、基本的には、政党よりも文部省に働きかけるのが当然といえば当然。だからこそ、教育関係者をある程度組織化し、行政機関へ諮問答申や建議によって働きかけた教育会は、戦前の教育政策決定過程を深くダイナミックに理解する上で重要な存在となるように思います。
 教育政策決定過程の分析において、文部省や政府だけにスポットをあてることは、国家機関中心史観を生み、極端に言えば政策決定は政府の仕事といわんばかりの現実認識を生みかねません。それを問題視して、政府に対する対抗勢力として政党を登場させるのもいいでしょう。しかし、納税者勢力である政党は、教育に対して大きな意義を感じている時以外、教育にかける予算の増大を歓迎しないはずです。教育の拡大を国民全体が重要視していた国民国家形成期の政党はいざしらず、明治初期の自由民権運動を見ればこれは一目瞭然だと思います。政党は、教育の利益を守り推進する利益団体とは基本的にいえないのでは。ではでは、教育の利益拡大を目指す教育世論が、教育雑誌などのマスメディアによく見られるので、世論を政策決定過程に登場させるのはどうでしょうか。しかし、世論は、つかみどころのない未組織の意見であり、直接的な政治的影響力は持っていません。世論は、そのままで政策決定過程に登場できる性質のものではないのです。そうなると、一定の利益拡大を要求するような世論を組織する存在、すなわち利益団体に注目するのが重要になってきます。教育会は、政党とつながらない限り議会に姿を現しませんが、代わりに行政機関へ直接働きかけていきました。教育会の場合、教育会の政策決定過程への関与は法制化されませんでした(公設の教育会を除く)。教育政策決定過程における教育会は、国家機構や行政機構のみに注目していては、姿を現してきません。しかし、教育会が諮問答申を通して、教育政策決定過程に一定の影響力を持っていたことは知られています。教育政策決定過程の分析にあたって、教育会は無視できる存在ではないはずです。
 問題は、教育会の影響力がどれほどだったのかを実証すること。ただ、そのときの評価基準は、行政や議会の成案をどれだけ改訂したかという基準より、背景とする教育関係者の要求をどれだけ反映し、実現させたかという基準こそ、ふさわしいもののように思います。教育会は、政策の執行を行う行政機関でなく、政策執行のための予算決定や法律立案を行う立法機関でもなく、教育(関係者)の利益を守り推進する利益団体なわけですから。

 なにやらゴチャゴチャしたことを書き殴ってしまいました。以上、利益団体論を読んで考えたこと、でした(笑)。
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戦前日本の小学校教員養成のしくみ

2007年04月24日 22時35分51秒 | 教育研究メモ
 基本的に今日も不調。読書が頭に入らない上、読書の時の視点(目で見る位置)がフラフラしてるし… どうにも集中できない時の症状。おかげで予定していたことは、半分もできませんでした。
 今日は笠間賢二「小学校教員検定に関する基礎的研究―宮城県を事例として」(『宮城教育大学紀要』第40巻、2005年、229~243頁)を読みました。日本教育史の常識的な歴史認識からいえば、戦前の小学校教員養成は道府県の(尋常)師範学校で行われていた、というのが普通だと思います。しかし、小学校教員免許状を取得した教員の実態は、そのような歴史認識とは大幅にズレています。小学校教員免許状取得者のうち、師範学校卒業者は3割程度、残り7割はそれ以外の履歴を持つ者だったのです。師範学校卒業以外で小学校教員免許状を得る主要な方法には、道府県単位で実施されていた小学校教員検定試験に合格することがありました。笠間氏は、実態から乖離した師範学校中心の近代日本教員養成史像を問題とし、この論文で1900年~1920年代の宮城県の小学校教員検定を研究したわけです。
 宮城県の小学校教員(本科・専科および正教員・准教員すべて含む)の6割~9割は、教員検定試験による免許状取得者でした。宮城県だけに限らないことですが、当時、正教員は慢性的に不足しており、教員検定はこの事態の打開策として運用されていたといいます。教員検定の方法は、無試験と試験(試験あり)の2種類に分けられました。無試験検定の対象者は、中学校・高等女学校卒業者(小学校本科准教員・尋常小学校准教員以上の免許状は教職経験が必要)、または県知事がとくに適任と認める者(教職経験年数と官公私設講習会の一定以上の受講時間をクリアーした者)などでした。小学校本科正教員(高等小学校・尋常小学校の教科を担当できる)の大半は師範学校卒業者でしたが、この無試験検定を通した免許状取得者が多い年度では6・7割に達することもありました。一方、試験検定は、学科試験と実地検定(実地授業・身体検診)によって構成されました。その合格率は20%程度という極めて難関なものであり、学科試験をパスしても実地検定で不合格となる者もいるという、かなり厳しい試験だったようです。ただ、関係者は少しでも免許状を所有する教員を増やしたいと思っていたわけですから、この低い合格率はとても容認できることではなかったようです。
 試験検定の対象者は、それ以外の人々ですが、なかでも特徴的なのが宮城県教育会主催の講習会受講者でした。この教育会主催の講習会は、明治42(1909)年から尋常小学校准教員養成を、大正3(1914)年から尋常小学校本科正教員養成を目的に開催されました。しかも、講習修了後に臨時検定が開催され、合格者は該当する免許状を取得できるというものでした。大正3年度の尋常小学校本科正教員の合格者は、計77名のうち66名(85.7%)が県教育会主催の講習会受講者だったといいますから、たいしたものです。県教育会主催の講習会は、師範学校関係者を講師としました。彼らは試験検定の試験問題出題者でもありました。そのため笠間氏は、「教員養成講習会とセットになった試験検定というルートは、師範学校による第二の小学校教員養成場面であったということもできる」と結論づけています。
 以上は笠間論文のまとめです。梶山雅史「京都府教育会の教員養成事業」(本山幸彦編『京都府会と教育政策』日本図書センター、1990年、437~498頁)でも指摘されていたことですが、講習会主催による府県教育会の小学校教員養成における役割は、従来の師範学校中心の近代日本教員養成史像を再検討させてくれます。府県師範学校関係者は、教育会に対して、講習会に限らず、基本的な組織構成や事業活動(とくに機関誌編集)にも強力に関係しています。その背景と併せてこの論文を読むと、明治後期以降の府県における府県教育会と府県師範学校の存在が、さらに大きく見えてくるような気がします。検定受検者の履歴、無試験検定の実態や郡市教育会の役割など、まだ課題が残っているようですが、非常に興味深く読ませていただきました。
 集中力不足で視点がフラフラしながらも、一気に読み切りました。それはたぶん、教員養成史に対する大きな問題意識の中で教育会を捉え、史料によって教育会の役割を実証しているからでしょう。さあて、私はどこへ行けるかな。
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だっ、ダメだ今日は…

2007年04月23日 20時12分15秒 | Weblog
 昨晩から嫌な予感はありました。嫌な予感は的中。案の定、何もできない一日に。
 夜中まったく眠れず、朝まで起きていました。午前中に登校するも、まったく何もする気がしない。その上、何だかよくわからないけど、体に響く感じで定期的に重低音が聞こえる(音楽ではなさそうだけど…)。隣から聞き取れない程度の声が延々と聞こえる。日が傾いてくると、外で学生(自分も学生だけど)がやたら騒いでいる。な…何なんだ…
 おかげで、ストレスがたまる、たまる。集中できてる日はこの程度何でもないはずなので、今日は基本的にダメなんでしょうね。
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ブログを書籍化(自分の分だけですが)

2007年04月22日 20時46分18秒 | Weblog
 昨日がんばったので今日は休みとする。
 今度7月に演奏する佐藤敏直「ディベルヴェルティメント」を、楽譜を見ながら聴いて勉強する。うーん、難しい。
 それから、突然ブログ(日記)を書籍化したくなって、いろいろ調べる。どうやらgooブログ(無料版)はそういうサービスがないらしい。仕方ないので、AutoPageの無料ブログを開設して、昔の記事をコピー&ペースト。結構手間のかかる作業でかなりまいってしまう。とりあえず、2005年3月(ホームページに書いていたやつ)から2005年6月までの計118記事を書籍化するよう注文。記事数で値段が変わるので(61~120記事・2480円、121~180記事・2980円)、記事数はちょうどいい。しかも、内容的にもちょうどよかったときたもんだ。コピペしながら思ったのですが、この2005年3月~6月という時期はまだ「牧歌的」な時代だったなぁ…。休呆さんのアドバイスをもらいながらブログで日記を始め、ちょうど2005年7月1日の博論第一次審査会が始まる直前に至る時期。その後は、無呼吸治療を開始し、2005年7月の審査会を経験してからは迷走状態(笑)に突入。体重も、ダイエット→リバウンドを繰り返して増え始める。んー、2005年6月までの時期は、つらい時期に突入する「嵐の前の静けさ」といったところでしょうか(笑)。
 今でこそ冷静に振り返ることができますが、あの頃はきつかったなぁ…
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あたまをひねりつづける

2007年04月21日 23時05分20秒 | Weblog
 今日は登校後、来週の特研で発表予定の博論構想を練り直し。どうも問題意識の部分に抽象的な感じが残っていたので、昨日より本格的に修正を入れる。修正を入れていると、抽象的に落ち着いていた部分は、どうやらごまかしていた部分のような気がしてきました。その部分は、自分の頭の中でも曖昧になっているわけです。「うぅ~ん、うぅ~ん」とうなりながら、頭をひねり続ける。具体的に説得力があるように参考文献を使いながら文字を打ち続ける。しかし、なかなかうまくいかない。「まいった」を言いそうでした(苦笑)。
 日が暮れ始めたころ、なんとか落ち着かせることに成功。夕方からのバイトまでには間に合いました。バイトが終わった後、再び登校。博論の参考史資料・文献一覧を書き上げる。前に教育学史で書いた時の一覧を若干取捨選択しながら、ほとんどそのまま利用する。が、地方教育会の研究論文を増やす予定なので、あとでもっと増えるんだろうな。
 とりあえず、来週の特研の準備はだいたいできたように思います。来週、事前に先生に渡しておかなきゃなぁ。
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特研

2007年04月20日 23時18分50秒 | Weblog
 今日は特研(ゼミ)です。西洋教育史研究室の特研に参加です。学部4年生3人による卒論に関する発表でした。私にとっては、一部、不毛な発言をしてしまったのは反省点。でも、それなりに内容を掘り下げ、次の研究につながる発言ができたように思います。参加者との関係も、良好な関係を築けそうでホッとしました。来週は私の発表。前もって先生のところへ配付資料を持って行くようなので、来週中早いうちに渡そう。
 13時半に始まった特研は、一時休憩をはさんで、17時前に終了。その後は、来週発表予定の博論構想のブラッシュアップを図る。おかげで、不満(不安)はまだ残るのですが、まぁまぁよくなったように思います。その後、バイトの準備をしていたら、こんな時間に。
 それと、1年前に書いた記事にコメントが最近ついているのに気づく。しかも有益な情報提供でした。おそらくこの方とは、ブログをやってなかったら出会うことはなかったでしょう。有り難うございます。こういう出会いは、ブログならではですね。
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前準備

2007年04月19日 18時52分56秒 | Weblog
 今日も。
 登校後、毎年健康保健センターで開かれている健康診断へ行く。その後、明日の特研参加のために前準備をする。前に言ったように、今年から西洋教育史研究室の特研に参加することになったのですが、今まで触れたことのないテーマに触れるので前もって勉強しておこうと考えたため。何の知識もない内容は頭に入らない。どうせ時間をとるなら、勉強したい。だから。
 その後、博論構想の手直しをしました。うぅーん、どうもうまくいかないなあ。
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微妙。

2007年04月18日 16時55分10秒 | Weblog
 今日も起きられず。微妙。
 登校後、27日に特研(ゼミ)で発表する博士論文構想を仕上げる。問題意識・仮説設定・課題設定・研究方法・論文構成・本論内容・結論内容のいずれも、一本筋の通ったものができたように思います。特研では、これでいいかどうか、試してみるとしましょう。あとはもう少し手直しをすれば完成する予定。これでGOサインが出れば最高なのですが…
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大日本教育会および帝国教育会における教育研究活動の展開

2007年04月17日 22時39分09秒 | 教育会史研究
 本日、4月17日は私の誕生日。
 28歳になってしまいました。三十路が近いことをじわじわと実感。
 ただ、こんな日もなかなか起きられず。うーん…
 こんな調子なので、話題が次々出てきても消化できない。「ゆとり教育」と学習意識の関係とか、教育史学会編『教育史研究の最前線』の出版とか、話題はあるのに。

 今日は博論を書こうと思っていたのですが、5月の某学会出席のための旅行日程を考えているとどんどん時間が経ってしまいました。唯一よかったのは、法経学部のどこかの講義の教科書に指定されていた、伊藤光利・田中愛治・真渕勝『政治過程論』(有斐閣アルマ、有斐閣、2000年)という本に出会えたこと。政治過程論とは、政治学の一領域で、政治アクター(政治を動かす主体?、政治家・政党・官僚・利益団体・市民など)の相互作用の動態を説明するアプローチのこと、だそうです。政治過程論は、政治的装置や法制度の説明だけではなく、現実の政治において何が起こっているかを説明しなくてはならない、という考えから、とくに利益集団の活動に注目して政治の実態を明らかにする研究とのこと。考え方そのものは、とくに最近出てきた考え方ではなくて、100年以上前からあったものです。ただ、これこそまさに、私が教育史研究においてやりたかったことを、学問的に意味づけてくれたもののように思いました。べつに「政治過程論という学問分野がある!云々」といって、大上段から説明するような大袈裟なものではないですが。
 私の教育史認識は、「教育史の主体(教育の歴史を動かす者)は人間であり、その集団である」という認識を基礎としています。もちろん、今現在の教育の動きに対しても同じように認識しています。教育史を実際に動かした者は、森有礼文相・沢柳政太郎などといった一個の人格を持った人物や、文部省・帝国大学・○○小学校・××会などといった現実に存在した組織・集団です。教育史の主体は、国家機関や学校だけではないし、「国家」「民衆」「社会」「教師」「生徒」「地域住民」などの抽象的概念でもありません。そう考え、教育会のことを知ったとき、この団体は、近代日本(とくに戦前・戦中まで)において教育史を動かす主体として具体的に認識できる対象なのではないか、と思ったのです。いろいろと調べるうちに、その思いはますます強固なものとなっていきました。
 個々の先行研究には、具体的な歴史過程を明らかにする過程で、すでに多くの集団が歴史的主体として現れています。そのなか、教育会は、巨大な組織規模を持ったにもかかわらず、行政組織とほぼ同一視されてほとんど顧みられていないか、一地域に限られた主体として認識されるにとどまっています。しかし、教育会は行政と意見を異にすることもあったし、日本全国にわたるネットワークを持っていました。教育会は、近似したところはあっても行政組織とは区別すべき主体であり、一地域の教育史の主体ではあっても同時に近代日本教育史の主体だと思うわけです。だから私は、文部省と教育会の関係を「御用団体」として切り捨てずに問い直し、教育会の全国的ネットワークの中央にあった大日本教育会・帝国教育会を研究しているのです。
 ちなみに、私が両教育会における教育研究活動に注目しているのは、両教育会が中央教育会となっていく過程で主要事業中の筆頭事業であったために、両教育会の中央教育会化に重要な役割を果たしたのではないかと仮説しているからです。中央教育会化とは、全国の教育会を組織化しその中央組織となることであり、国家の中央で行われる教育の政治過程(中央教育政策決定過程)における主体・利益団体(圧力団体)となることです。ただ単に「我々は中央教育会だ!」と宣言しただけでは、地方教育会も文部省も相手にするわけがありません。両教育会は全国連合教育会を開きましたが、ただ漫然と開くだけで20年以上(明治24~25年・明治30年~大正6年)も続くわけがありません。そうなれば、地方教育会や文部省をひきつける何かが、両教育会にはあったはずだ、と考えるのは当然です。皇族がパトロンだったとか、有名人が名誉会員や組織幹部になっていたとかいうことも大事ですが、何もしていない団体に文部省が諮問するわけありませんし、地方教育会も頼りにしません。そのため、地方教育会や文部省をひきつける何かは、おそらく組織構造だけではなく、恒常的に行っていた活動なのではないかと思うのです。そうなれば、その活動とは何か、なぜその活動が行われたのか、どうしてその活動は維持されたのか、などを考える必要があるでしょう。
 以上のようなことを、最近、「大日本教育会および帝国教育会における教育研究活動の展開」という私の博士論文のテーマについて、考えています。近代日本教育史(とくに政治過程)を動かす重要な主体として、教育会を浮上させる重要な研究だと考えているわけです。国家機関・学校中心または国家対民衆の単純化された対立構造で近代日本教育史を捉える歴史認識では、「今、実際に行われている」歴史を正しく認識することはできないと思います。歴史を正しく認識し、現在を正しく認識するために、近代日本教育史の歴史的主体として集団を出現させることは重要です。そのために重要な研究の一つとして、教育会の歴史研究は位置づくと考えています。

 いつのまにか長々と書いてしまいました。誕生日なのに… まぁ、今の私には研究が生活であり生き甲斐なので、そんな私としては記念日らしい話題なのかもしれません。
 あぁ~あ、博論構想、これでOK出ないかなぁ…
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雨上がりのうた、雨のうた

2007年04月16日 18時28分24秒 | Weblog
 今日の寝起きもぐずぐずでした。が、今日は午前中のうちにスーツ(タケを直しに出してた)を取りに行かないといけないので、無理矢理起きる。出発の際には曇り空、移動中に雨が降り出す。どうも気分が微妙に沈んでいる中、ラジオからBONNIE PINKの「Anything for you」が流れてきました。歌詞は後ろ向きな気持ちだった女性が前向きになった時の気持ちをうたったものだと思うのですが(雨上がり云々という歌詞がある)、男である私は、歌詞というよりそのさわやかなメロディにつられて元気になってきました。なんか前向きにさせるメロディですね。BONNIE PINKは昔から知っていた歌手ですけど、正直昔はそんなに気になりませんでした。でも、最近は変わってきましたね。何かあったのかなぁ。
 ともかく、スーツを引き取って登校。帰りの車で信号待ちをしている時、雨に濡れた窓越しに見た小さな花が幻想的だったのでパチリ。金魚鉢の中を見てるみたい。
 昼食後、博論の内容になる予定の内容を書く。教育会史を近代日本教育史上に位置づけるための総論を書いています。先日は明治初期の学事会議との連続性から、今日は明治日本の教員問題との関係から。
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やっぱり

2007年04月15日 23時55分55秒 | Weblog
 いやな予感が当たり、昼過ぎまで眠る羽目になりました。
 寝ても寝ても眠気がさめないイヤな感じ。そうとう寝たのに、「眠いなぁ」と思いながら起床するのはイヤなものです。
 唯一の救いは、登校後それなりに研究が進んだこと。
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