教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

2010年が終わりそう

2010年12月30日 23時55分55秒 | Weblog

 2010年がもう終わりそうです。この間、年が明けたと思ったばっかりのような… 一年が早すぎます。
 一年の計は、前年の反省から。来年の生き方を考えるためにも、この辺で1年を振り返ってみる価値はあると思います。
 私の2010年は、昨年に引き続き、目の前に現れる仕事をひたすらこなし、そしてこなすことができた一年でした。しかし、確かに何とかこなすことはできたけれど、改めて振り返ってみると、このままじゃいけない、と思いました。現状に合った生活を作り出していかなくては、と強く思います。
 みなさんの2010年はいかがだったでしょうか。


 なんか恥ずかしかったので、夕方に書いた記事はひっこめました(苦笑)。すみません。

 最近弱っているのか、弱音ばっかりが出てしまっていけませんめ。

 来年からはしっかり心を保っていかなくちゃ。そのためには心の栄養(充実感)を摂っていかなくちゃ。

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大規模講義においていかに「学び」を発生させるか

2010年12月27日 22時54分33秒 | 教育研究メモ

 大学教師にとっての難題。すなわち、100名を超える大規模講義において、いかに学生たちに「学び」を発生させるか。

 「学び」を発生させるには、学生と教材との対話、学生と教師との対話、学生と学生との対話を発生させなくてはならない。60名程度までならなんとかできないこともない。しかし、100名を超えるとそう簡単ではない。この場合、一人ひとりの理解をコーチングすることは、ほとんど不可能である。机間巡視しても、よほどの程度の者を数人指導できるにすぎない。対話を発生させるために学生に当てたとしても、ただ当てただけでは、当てた学生の周辺で若干集中が高まるだけで、教室全体としてはほとんど効果がないことも多い。

 たしかに、講義をしている際に、学生全体が教師の話にぐっとひきこまれて、集中していることを感じる瞬間はある。ただ、これは、学生と教材または教師との対話のきっかけを作ったにすぎない。その次へ進めるのが問題なのである。対話を進め、理解を深めていくところまでもっていくにはどうしたらよいか。クラス規模が大規模になると、学生たちの「学び」を維持、または「学び」から脱落させないことはとても難しい。

 大規模講義において「学び」を発生させるには、教師一人が「いい話」をするだけしかないのか。大規模講義の先例であるモニトリアルシステムや単級教授法のように、規律遵守、助教制、自学的並行的学習などを取り入れていくしかないのか。

 そもそも、大規模講義において、深い「学び」を求めることそのものが間違っているのだろうか。もしそうだとすれば、理論系講義は、学生一人ひとりに各種問題を深く考えさせなくてはならないと思うのだが、理論系講義のクラス編成が100名を超えるような大規模クラスにしか編成にしかできないのでは、まずその目標を達成することは至難である。

 こんな問題を問うのは、不毛のような気もする。しかし、それでも問うのは、単純な願いからである。学生たち一人ひとりの「学び」を豊かにしたいのである。「学び」から逃げ続けている学生たちを、「学び」へと導きたいのである。

 (お察しの通り、上記の「学び」の概念は、佐藤学氏の概念を参考にしています)

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授業がうまくなるために欠かせないこと

2010年12月25日 23時55分55秒 | 教育者・保育者のための名言

 沢柳政太郎(詳しくはこちらを参照のこと)の文章を読むと、いつも共感する。私が経験的に思っていることを述べているから。時代背景が違うのはわかっているが、100年も前にこんな風にわかりやすく論じてくれていたと思うと、感心せざるを得ない。

 沢柳政太郎『教師及校長論』(明治41(1908)年刊)の第1章第9節「師弟の関係」には、以下のような一節がある。

 近来師弟の関係が紊れたと教師の人物徳行を非難するものが多いが、余は師弟の関係をよくする方法として教授法の改良を以て最も大切なりと信ずるものである。
 教授がへたであるために生徒が興味を感じない、授業がよくないために生徒の理解が十分でない、従て又苦むことがある。さる場合には教師の人格が高くとも生徒は教師を以て自身等を苦むるものである、面白くないことを強ふるものであると考へる。そうしてその考は尤のことである。この感が一たび起ったならば生徒の教師を尊敬することを求めてもそれは出来ない話である。これに反して教師は自身等の知識を開発して呉れる人である、誠に授業は面白い[、]教師のおかげで能く明瞭に理解することが出来ると感じたときにはどうであらう。生徒は自然に教師を尊敬し、これに心服し師恩の高きを感ずるに至るであらう。これ全く授業の巧みなるより来る結果である。授業の巧拙は師弟の関係に大影響を及ぼすものである。
 (引用部分の初出は、沢柳政太郎『教師論』(明治38(1905)年刊))

 もっと授業がうまくなりたい。教育を受ける者たちが学びを楽しいと感じられるように。

 そのためには、様々な教授技術を覚えればよいのか。機械を駆使して、演出を凝ればよいのか。よい教科書を使えばよいのか。よい授業案を参照すればよいのか。もちろん、それらも有効だろう。それらも授業をうまくする手がかりになる。
 しかし、それらは授業を構成する「部品」である。必要なのはそれだけではない。必要なのは、教材をより広くより深く研究し、被教育者一人ひとりとじっくりつきあいながら理解を深め、目標と展開を練りに練り、授業後に計画と実践とを丁寧に検討して、確実に改善につなげていくこと。授業をする、ということは、授業時間数十分を過ごすだけではない。前後の準備と省察が必要なのだ。そのための時間が必要なのだ。

 今の教育現場では、授業時間数十分は確保されている。しかし、その前後は確保されているだろうか。
 よい教育を、という言葉は、授業前後の時間を確保してから発せられるべきである。教師を本気でしたことのない人にはわからないかもしれないし、部外者から見れば無駄な時間に見えるかもしれない。しかし、前後に準備と省察の時間が確保されなければ、よい教育などやりようがないのである。この技術を、この授業案を渡せば、すぐに面白い授業ができる、というのは幻想である。授業がうまくなるための特効薬など存在しない。
 教師には、一回の授業につき、せめて授業時間と同程度の時間を与えてほしい。また、教師自身も、自らの仕事をよりよくし、教育を受ける者たちをより高めていくために、授業前後の時間を確保し、しっかり使っていくよう努めなければならない。

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明治30年代初頭の鳥取県倉吉における教員の問題意識

2010年12月20日 19時59分50秒 | 教育研究メモ

 かつて、中野光先生から「題目は、もっと読み手の興味を惹くように工夫した方がいいよ」とアドバイスをいただいたことがありました。当時の所属研究室での指導は、「題目は対象を表すようにひたすら禁欲的に」でしたから、とても印象的でした。最近、あの中野先生のアドバイスをよく思い出します。そのせいか、最近、研究論文の題目がやたら長くなってしまいます。まだまだへたくそということですね(苦笑)。
 で、その長い題目の拙稿「明治30年代初頭の鳥取県倉吉における教員の問題意識―『東伯之教育』所収の小学校普及・中学校増設関係記事から」(『鳥取短期大学研究紀要』第62号、2010年、11~23頁)が、2010年12月1日付で、ようやく刊行されました。本稿は、今年開催された全国地方教育史学会第33回大会で発表したものを活字化したものです。論文構成は以下の通り。

  はじめに
1.『東伯之教育』とは
 (1) 編集方針―教育問題改善と気脈貫通を目指して
 (2) 編集者―向上心ある師範卒高等小学校教員
 (3) 支持基盤―旧久米・河村郡域の高等小学校教員
 (4) 記事傾向
2.小学校普及に対する問題意識
 (1) 東伯郡における就学率の上昇と課題
 (2) 高等小学校の改組・新設・拡充
3.中学校増設に対する問題意識
 (1) 明治30年代初頭の東伯郡における中等教育
 (2) 久米高等小学校教員による中学校設置論
 (3) 中学校設置の必要性
  おわりに

 本稿は、鳥取県立図書館で見つけた教育誌『東伯之教育』(明治32年1月~明治33年3月分)の小学校・中学校関係記事を用いて、そこに基底する小学校教員の問題意識を明らかにしたものです。同誌は、編集者・筆者ともに小学校教員であり、支持基盤として小学校教員+α(多くは自治体の首長)が支えていました。
 明らかにしたのは、教え子や保護者の教育機会に対する切実な思いに共鳴している小学校教員の問題意識でした。それは、私が思っていた以上に強く、研究するごとに驚きの連続でした。また、中学校増設に対する問題意識についても興味深い発見ができたと思います。当時の中学校増設論の関心は、一般的に、地域の経済的・文化的発展への期待に基づいていたと思いますが、『東伯之教育』に記されていたのは、ひたすら教え子の教育機会や進学実態、および保護者の思いに対応した中学校増設論でした。
 教育史研究の使命を果たす方法の一つが、できるだけ当時の実態をリアルに把握することだとすれば、本稿は明治30年代初頭の小学校教員の問題意識を再現することを試みたわけですが、少しはその役割を果たせるでしょうか。個人的には、今から100年前の教員もまた、教育問題解決策の案出を子どもたちの利益から発想してきたことを知る機会になりました。明治中後期の教員の人間性に、少し近づけた気がします。

 ちなみに、現状は、「台風去れども、未だ落ちつかず」という感じです。気ばっかり焦り、何か忘れているような感じが常にしていて気持ち悪いです。

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今を生きる不安と充実

2010年12月12日 23時55分55秒 | Weblog

 以下、ただの日記です。

 まだ来週も忙しいですが、何とか今週1週間を乗り切りました。ひとまず、仕事の責任は何とか果たせたのではないかと思います。

 自分の望む人生はなかなか歩めない、とあらためて思います。そんな人生はありえないことは知っているのに求めてしまうのは、やはり自分の強欲でしょうか。単に疲れているだけでしょうか。
 私はどこに向かっているのか。それがわからない。強欲というより、人生に疲れたというより、自分の将来が、ただ、ただ、不安なのです。ほんのささやかなことですが、「こうなったらいいな」と思っていたことが、そんなことはあり得ないということを知ってしまいました。だから、今、向かうべき方向を少し見失っているのだと思います。(仕事のことではないです)

 人間は未来に生きることはできない。今を生きることしかできない。とはいえ、未来をより豊かにするためにも、今をよりよく生きることはできると信じたい。「夢」だとか、「理想」だとか、「希望」だとかいったものは、そういうことを信じることだと思います。今への不安や不満だって、未来を変えるきっかけにもなる。今に満足して変えようとしない人が、「夢」「理想」「希望」を持つわけもないのです(いや、現状維持という「夢」「理想」「希望」というのはあり得るか…)。しかし、不安・不満だけをきっかけに今を生きるのは、自分をよほどしっかり保たないと、苦しい。
 自分を保ち、今を生きるためには、今への充実感が不可欠です。不安につつまれて見えなくなっているけれど、私は充実感を感じて生きているはずなのです。不安なことや不満なことばかりに目を向けていないで、少しでも充実した瞬間を大事にしたい。大事にしなくちゃいけない。
 不安への敏感さ、不満癖。これは、私にとっては、小さいときからずっと繰り返し育ててきてしまった性格であり、なくなることはないものです。意志をしっかりもって、コントロールして、上手につきあっていかなくてはならない。

 不安に支配されないで生きていきたい。

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教師に教育のための時間を

2010年12月05日 19時59分54秒 | 教育研究メモ

 以下、悪文・愚痴です。以前、高校の非常勤をしていた頃にも、似たようなことを言ったことがあります(2007.6.25記事)。
 こんな記事を書いているくらいなら仕事しろ、という人は、今日(執筆日)は日曜日であることに気づいてほしい。


 来週の仕事量がヤバい。その次の週も。明日から徹夜覚悟。とにかく来週を乗り切りたい。

 今持っている仕事は、どの仕事も知的・創造的作業である。どの仕事も本来ならじっくり時間をつかって作るはずのものである。が、こんなに集中していたら十分なことができるだろうか。前から少しずつ準備してきたが(というより、事前準備がなければ絶対乗り切れない)、直近に準備しないと意味がないものも多いので、まだまだやることは山積みである。いざ目の前にすると、「うっ…これは乗り切ることができるのか…?」と、正直、腰が引ける。
 さらに、これから先(来年度のことも含めて)、仕事量も減るどころか、増えることが確定している。しかも、増えるのが当然、のような空気。

 これは私の職場に限ったことではなく、今の日本の職場全体に言えることである。この空気が当たり前のようになっていることには、疑問を感じざるを得ない。短大に限らず、どの職場も苦しいわけだが、だからといって「これでいいのか…?」と思う。

 教師の仕事は知的・創造的作業であり、効率よくこなしていくことが、よい仕事につながるわけではない(もちろんそれも大事だが)。時間をかけて、教材研究にとりくみ、必要な事務作業を行い、じっくりと学生と話し合って、授業展開を構成・工夫していくことがよい仕事につながる。それなのに、今の仕事ですら手一杯な状況下で新しく増えた事務作業に割くためや、教職員不足によって増加する担当授業数のために、教材研究や授業づくり、学生の個別指導の時間を削って一つ一つに十分な時間をかけられないのは、本末転倒ではないか。
 学術研究の時間をもっと、とは言わないでおく。給料を上げろ、とも言わない。しかし、教育の時間をもっと、とは言わせてもらいたい。
 以前、学生の中に、「先生は授業時間以外、いつも研究室で遊んでるんだと思っていました」という者がいた。「そんなわけあるかぃ」と言い返しておいた。しかし、世間の認識は所詮こんなもんである。この学生は悪くない。教師の仕事は、授業中以外、外からは見えにくいから。よほど興味を持って観察しないと、どんな仕事をいつしているのかわからない。時間が空いているからといって、手が空いているように思うのは、教師の仕事の実態に合った発想ではない。「がんばれば(時間を切り詰めれば)できる」というのは、仕事の質を問わない言葉である。教師によりよい教育を行わせたいなら、時間を与えるべきである。

 「教師に教育のための時間を」
 たぶん、日本中の教師(保育者も含めよう)の多くはこんな気持ちだと思う。
 しかし、何とかしてほしいとは思うが、目の前の状況は変わらないからやるしかない。「最小のコストで最大の効果を」という言葉が、全職種をとりまくうちはこの状況は絶対に変わらない(この言葉そのものはもっともだと思うが、上述の通り、教職に全面的に適用すべきではないと思うのである)。
 我々は今を生きているから、今を切り抜けるしかない。今を切り抜けるには、すべきことを整理し、計画的に進めていくしかない。
 苦しいけれど、教育の仕事が好きだから、何とかやっていきたい。

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