教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

どこまでいつまで

2013年03月30日 20時30分14秒 | Weblog

 来週から平成25年度が始まりますね。
 どんな新入生がやってくるのだろうか。4月・5月は、新入生が短大生活になじむと同時に、附属幼稚園での実習へのスムーズな導入を図るために、かなり気を遣わなければならない時期。しかも新規参入の委員が2つもあるため、自分自身の仕事も整えていかねば。そして手を抜いてはならないのは授業とその準備。

 今度の4月1日で、現勤務校に着任して5年目が始まります。このところ、「勉強したい」と切実に思います。自分の言葉が、年々軽く、深みがなくなっていくような気がして焦るのです。時間が経つごとに、教える内容に対する実感が薄まっているように感じています。5年目研修を受ける時の先生方の問題意識って、こんな感じなのかなぁ。

 いい話ができなくなっている。おもしろい話ができなくなっている。 
 実際にできているかどうかは知らない。どちらにしろ、その自信が低下していることが問題なのだ。

 このまんまじゃダメだ。
 教える内容を知識的にも精神的にも濃く深くしなければならない。そのためには、教材研究と修養とを積み重ねなければならない。新年度には、教材研究・修養の時間を少しでも捻出しなくては。

 あーもう、どこまで、いつまで、がんばらなきゃいけないの!

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大日本教育会夏季講習会の開始―明治20年代半ばの教員改良策

2013年03月24日 20時35分28秒 | 教育研究メモ

 職場では来年度の話題で持ちきりです。来年度も心してかからなければ、生き残れそうにありません。短大が本来の使命を果たすために、学生の夢の実現のために、一人ひとりの教員の仕事をいかに組み上げていくか。重い重い課題です。

 ああ、いろいろ考えることが多くて、頭がこんがらがってまともに動かない…ぐぐぐ

 さて、先日、拙稿「大日本教育会夏季講習会の開始―明治20年代半ばの教員改良策」(中国四国教育学会編『教育学研究紀要(CD-ROM版)』第58巻)が活字化されました。大日本教育会において、明治24(1891)年に始めて開催された夏季(夏期)講習会について、明治26年までの3年間分を検討したものです。論文構成は以下の通り。

 はじめに
1.明治24年~26年における夏季講習会の開催
 (1)夏期講習会の開始―中等教員養成と学科研究
 (2)多様な受講者と高い受講意欲
 (3)現職小学校教員への学習機会の提供
2.高等教育機関の学者による最先端の講習内容
3.夏季講習会の真のねらい
 (1)学力形成・教職意義の理解による教員の品位向上
 (2)「研究」する教員を求めて
 おわりに

 教育会開催の教員講習会に関する研究は、最近少しずつ進んでいると思われますが、本論文ほど詳しく研究したものはあまり見当たりません。そういう意味では研究上の意義はあるかな。本稿によって、大日本教育会の教員改良事業の具体像が少し明らかになりました。明治27年以降の講習会についてもすでに研究を進めています。
 個人的には、明治期の小学校教員の旺盛な学習意欲が生々しく読み取れたので、とても興味深く研究を進めました。なお、大日本教育会において「夏期」講習会と表記されるようになるのは、明治26年の講習会終了後の記事以降でした。なぜかは不明です。

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新しい人生の段階へ

2013年03月20日 21時15分49秒 | Weblog

 少し燃え尽き気味の年度末です。
 ときどき「博論もう終わった?」という声をかけられますが、まだ、仮の論文を主査になっていただく予定の先生にお渡ししただけです。今は、今後1年間かかる審査を始めていただけるか、ここで撤回せざるを得ないかの瀬戸際におります。正直、合格発表を待つ受験生の気分です……
 そうこうしているうちに、来年度の体制が動き出しました。初めての重たい学内委員を引き受けることになりましたので、研究時間が増えるわけではありません。しかし、鳥取県から依嘱されている新鳥取県史編纂の委員も、本気で取り組まなければなりません。某出版社と一緒に始めた某研究事業も、本格的に始めなければなりません。
 現在準備しているテキストは、2月の第2巻出版に引き続き、4月初旬に第1巻を出版します。これで、今の職場に入ってから4年間がんばってきた教育面でのお仕事が、ひとまず完結すると思っています。新しい学生もたくさん入ってきます。新しい実習指導や学生指導も始まります。
 公的生活は、新しい段階へこれから間違いなく突入します。
 これで私生活を支えてくれるパートナーがいてくれれば、もっとがんばれそうですが…(笑)。まあ、かすかな可能性も兆候も見えないし、お見合いすらする気ない奴が何を言うかって感じですね(苦笑)。

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なぜ「教育技術」の問題に触れたのか?

2013年03月12日 19時45分30秒 | 教育研究メモ

 今日は研究室のPC入れ替え。旧PCからのデータ移行とwindows8の使いにくさとで悪戦苦闘。何とか使えるようになるのに一日かかりました。
 博論は順調に進んでいますが、17日の午前までには仕上げて、倉吉を発たないといけないので焦ってます。拙著『幼児教育とは何か』(幼児教育の理論とその応用 第1巻)も順調。すでに最終校正を出版社に提出しました。3月〆切の論文も投函済み。
 そして、今週末は卒業式。2年間育てた学生たちが卒業します。

 知識が出て行くばかりで、頭に入れていくことができないので、記事のネタも出てこない。そこで、以下の通り、書きためていたメモを放出してみる。


 もうけっこう経ちましたが、この間、拙著『保育者の専門性とは何か』について、友人から、「技術」のところが面白かったと感想をもらいました。たいした研究はできませんでしたが、意図的に入れた内容だったので、反応してもらって何よりです。

 もし私が、小学校以上の段階の教職課程教員として教材研究を始めていたら、「技術」を論じるという発想はおそらく出てこなかったような気がします。「教育技術」の問題は、教育学研究や教職課程科目では、ある意味「異端」だからです。教育学において「技術」という問題は、だいたい「小手先の」とか「思想のない」とかを頭につけて、軽視されがちです。私も、大学生時代には否定的な姿勢を保っていましたし、入職時もそう思っていました。

 しかし、保育者養成の現場は、そんな考え方では対応できない現実が待っていました。「理論も大事」と言いながら、実際には理論よりも技術を重んじる傾向は、教職員にも、学生にも、現場にも、根強く見られました。保育学生大会に出席することになり、他校の学生の発表を見ていても、自分の所属校の現実とそう変わらないなと思いました。私は理論系の科目担当者ですので、このような現実は私自身の存在意義にも関わりますし、何より学生や現場に対する自分の立ち位置がわからないことが我慢なりませんでした。「何のために私はこの教壇に立つのだろうか」「これでいいのだろうか」と自問自答しました。そして、自分なりに「技術」の問題に向き合おうと思ったのです。保育者養成の現場が、私に「技術」の問題を問い直させたわけです。

 また、保育学生や保育現場が技術を重んじる現実を改めて見つめた時、私はかつてのような考えを維持することはできませんでした。理論をよく勉強しているがおとなしい学生と、理論学習は不十分だがはつらつとよく動く学生とでは、現場での評価は歴然としていました。結局、現場や子どもにとっては、「頭でわかっていても体が動かない保育者」よりも「頭でわかっていなくても体が動く保育者」の方が必要だし、評価も高いのです。技術がなくてはよい教育・保育はできない、これは確かに真理だなと思いました。

 しかし、やはり「理論がなくてはよい教育・保育はできない」という自分の信念も確認することになりました。やはり「頭でもわかっていて体も動く保育者」こそ養成すべき保育者だと思います。なぜそのように思うか。それは、ダイナマイトが考え方次第で凶器にも利器にもなりうるように、技術も考え方次第で害にも益にもなりうるからです。その技術の真の意味を理解しているかどうかで、その技術の効果を引き出せるか引き出せないかも変わってくるからです。「思想のある技術こそ方法である」と誰かが言いましたが、まさにそうだと思います。

 技術を大事にするためにも、思想および体系化された思想としての理論は必要です。理論を大事にするためにも、技術は必要です。教育とは何かがわからなければ、いくら技術のレパートリーが多くとも教育できるわけがない。教育とは何かがわかっていても、どのようにそれを実現することができるのかがわからなければ、教育できるわけがない。そうであれば、理論と技術(すなわち理論の応用)との関係を論じなければ、私の役目は果たせません。そして、自分なりに調べ、研究することになりました。その結果が、『幼児教育の理論と応用』であり、「幼児教育の理論とその応用」全2巻なのです。

 「教育技術」「保育技術」の問題は、保育者養成の理論系科目担当者として教材研究を始めたからこそ触れられたのであり、かつ大胆に教材化できたのだと思います。 今回少し研究しただけでも、見えてきた研究課題があります。今後どんな形でならその研究を進められるか、今はよくわかりません(そちらにまわせる研究時間も足りないですし)。しかし、間違いなくわかっているのは、一人ではこの課題に取り組むのは無理だということです。

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再び道徳教育の教科化について

2013年03月02日 15時15分54秒 | 教育研究メモ

 先週2月26日、教育再生実行会議が道徳教育の教科化を提言しました。前の教育再生会議もそうでしたが、これらの会議に集められる「有識者」と政治家は、どうあっても道徳教育の教科化を進めたくてしかたない様子。確かにわかりやすい手ではありますが、単にポーズとしてわかりやすいだけで、「いじめ対策」の根本的な策ではないことはわかっているのかどうか心配です。現状を何とかしなくてはいけないという問題意識はわかりますが、学校関係者以外の大人が安心したいがための対策では無意味です。
 いじめ問題は、子どもたちの集団性の問題であると私は思っています。子どもたちが自ら「異質」を作って排除し、または「見下す存在」を作って優越感に浸ろうとする問題です。たった一つの教科で済む問題ではなく、学校教育全体の問題であるとともに、家庭・社会を含めた子どもを取り巻くストレスフル・不安定な環境の問題です。社会改善とともに進めなければ解決しません。「学校で何とかしてよ」では済まない問題なのです。
 道徳教育の教科化についての私の考えは、基本的には以前述べたことと変わっていません(2008年9月3日記事)。私は、かつての修身科の全てが悪いとは思いませんし、現行の学校教育全体における道徳教育の全てがよいとも思っていません。しかし、もしも教科化が安易に行われた場合に、学校教育全体における道徳教育(すなわち全教職員による全機会における道徳教育)への意識が薄まることを最も懸念します。
 おそらくこの後、具体策を考えるために教科化に向けた諮問が中教審にかけられると思いますが、そうなった場合、中教審の役割は重いでしょう。子どもたちの道徳性をよりバランスのとれた形で形成するための、家庭・社会・学校がそれぞれやるべきことを適切・明確に示した施策方針を打ち出す必要があります。われわれ教職課程における道徳教育関係教科担当者にとっても、他人事ではない動向が今後も続くことは間違いありません。

 あとは近況。
 先週、大きな行事が終わり、一瞬一息つけそうな時期になりました。博士論文(仮)はこつこつ書き直し、もう少しで半分くらいに達します。3月中の〆切に、なんとかなりそうなペースです。また、3月半ばに論文1本の〆切(博論とリンク)。それから、この4月出版予定の拙著『幼児教育とは何か』(幼児教育の理論とその応用1)は、2校が届きましたので校正中です。これを出版社に提出すれば出版まであと少しです。

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