今日は研究室のPC入れ替え。旧PCからのデータ移行とwindows8の使いにくさとで悪戦苦闘。何とか使えるようになるのに一日かかりました。
博論は順調に進んでいますが、17日の午前までには仕上げて、倉吉を発たないといけないので焦ってます。拙著『幼児教育とは何か』(幼児教育の理論とその応用 第1巻)も順調。すでに最終校正を出版社に提出しました。3月〆切の論文も投函済み。
そして、今週末は卒業式。2年間育てた学生たちが卒業します。
知識が出て行くばかりで、頭に入れていくことができないので、記事のネタも出てこない。そこで、以下の通り、書きためていたメモを放出してみる。
もうけっこう経ちましたが、この間、拙著『保育者の専門性とは何か』について、友人から、「技術」のところが面白かったと感想をもらいました。たいした研究はできませんでしたが、意図的に入れた内容だったので、反応してもらって何よりです。
もし私が、小学校以上の段階の教職課程教員として教材研究を始めていたら、「技術」を論じるという発想はおそらく出てこなかったような気がします。「教育技術」の問題は、教育学研究や教職課程科目では、ある意味「異端」だからです。教育学において「技術」という問題は、だいたい「小手先の」とか「思想のない」とかを頭につけて、軽視されがちです。私も、大学生時代には否定的な姿勢を保っていましたし、入職時もそう思っていました。
しかし、保育者養成の現場は、そんな考え方では対応できない現実が待っていました。「理論も大事」と言いながら、実際には理論よりも技術を重んじる傾向は、教職員にも、学生にも、現場にも、根強く見られました。保育学生大会に出席することになり、他校の学生の発表を見ていても、自分の所属校の現実とそう変わらないなと思いました。私は理論系の科目担当者ですので、このような現実は私自身の存在意義にも関わりますし、何より学生や現場に対する自分の立ち位置がわからないことが我慢なりませんでした。「何のために私はこの教壇に立つのだろうか」「これでいいのだろうか」と自問自答しました。そして、自分なりに「技術」の問題に向き合おうと思ったのです。保育者養成の現場が、私に「技術」の問題を問い直させたわけです。
また、保育学生や保育現場が技術を重んじる現実を改めて見つめた時、私はかつてのような考えを維持することはできませんでした。理論をよく勉強しているがおとなしい学生と、理論学習は不十分だがはつらつとよく動く学生とでは、現場での評価は歴然としていました。結局、現場や子どもにとっては、「頭でわかっていても体が動かない保育者」よりも「頭でわかっていなくても体が動く保育者」の方が必要だし、評価も高いのです。技術がなくてはよい教育・保育はできない、これは確かに真理だなと思いました。
しかし、やはり「理論がなくてはよい教育・保育はできない」という自分の信念も確認することになりました。やはり「頭でもわかっていて体も動く保育者」こそ養成すべき保育者だと思います。なぜそのように思うか。それは、ダイナマイトが考え方次第で凶器にも利器にもなりうるように、技術も考え方次第で害にも益にもなりうるからです。その技術の真の意味を理解しているかどうかで、その技術の効果を引き出せるか引き出せないかも変わってくるからです。「思想のある技術こそ方法である」と誰かが言いましたが、まさにそうだと思います。
技術を大事にするためにも、思想および体系化された思想としての理論は必要です。理論を大事にするためにも、技術は必要です。教育とは何かがわからなければ、いくら技術のレパートリーが多くとも教育できるわけがない。教育とは何かがわかっていても、どのようにそれを実現することができるのかがわからなければ、教育できるわけがない。そうであれば、理論と技術(すなわち理論の応用)との関係を論じなければ、私の役目は果たせません。そして、自分なりに調べ、研究することになりました。その結果が、『幼児教育の理論と応用』であり、「幼児教育の理論とその応用」全2巻なのです。
「教育技術」「保育技術」の問題は、保育者養成の理論系科目担当者として教材研究を始めたからこそ触れられたのであり、かつ大胆に教材化できたのだと思います。 今回少し研究しただけでも、見えてきた研究課題があります。今後どんな形でならその研究を進められるか、今はよくわかりません(そちらにまわせる研究時間も足りないですし)。しかし、間違いなくわかっているのは、一人ではこの課題に取り組むのは無理だということです。