教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

「足りない!」って気分

2006年01月30日 23時55分55秒 | Weblog
 今日はちょっと風邪気味。そのため、起きたくなかったので昼起き。ダメだなあ…
 登校後は、まず「大日本教育会・帝国教育会の群像」の執筆。今日は、松岡ミチさん。前回書いた山中さんが運営していた広島(山中)高等女学校の校長さんです。両会には女性会員も何人かいます。会内部に強情な男性主義者もいたのですが、逆に女権論者(?)もいたようです(拙著「明治二十年前後における大日本教育会の討議会に関する研究」『広島大学大学院教育学研究科紀要』第三部第53号、2004年、103~111頁参照)。会の方針としても、女子教育の重要性を提唱していましたし(裁縫科などの講習会を開いたりしています)。とりあえず、初の女性群像。
 「群像」を書いた後、これまで取り損ねてきた資料を収集に図書館へ。戻ってきてからは、両会の会計データを打ち込んでいました。始めるのが遅かったので夕方になるのが早く、読書はなし。今日の感想を一言でいえば、「足りない!」って感じです。
 と思いながら帰宅。その後、斎藤毅『明治のことば-文明開化と日本語』、講談社、2005年(旧版1977年)をとばし読み。第一章「明治の日本語-東から西への架け橋」、第二章「東洋と西洋」、第五章「社会という語の成立」、第十章「哲学語源-□儒略から西周・三宅雪嶺まで」、第十一章「主義という重宝なことばの誕生」、第十二章「学術と政治の発達に貢献した演説」を読みました。この本は、日本の学問が西洋近代科学の概念を受容する過程で、近世以前の宋学・朱子学の学問的伝統を受けてさまざまな日本語による訳語を生み出したという事実を明らかにした本です。西洋の概念をそのまま西洋の言葉で表そうという向きもあったのですが、それでは知識人とそうでない人々との間に障壁ができてしまう(知識人の考える話すことと一般人のそれとがまったく違うものになってしまう、二分化されてしまう)、という考えがあったため、急進的な考えは一般的なものにはなりませんでした。もちろん、日本語といっても、すでに帰化していた漢字・漢語によって訳語が作られていったわけですが、その意味はもともとの中国のものとは微妙に違うものとなっていったようです。
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実践研究における形式

2006年01月29日 19時33分31秒 | 教育研究メモ
 案の定、今日は目覚めたのは昼過ぎ。まあ寝たのが午前5時すぎなのでしゃあない(伊予弁?自分弁?「仕方ない」の意)。久しぶりに温泉「ホットカモ」へ行く。体調が万全じゃないのか、水分が足りないのか、かなり早くのぼせてしまいました。しかし、うれしいニュースが。上り調子だった体重が、ようやく1kg半ほど落ちてくれたのです(笑)。俄然食欲は旺盛なので、最近はおなかがすいてくると、ハクサイ・白ネギ・キノコ類・豆腐で「水炊き」を作って食べます。食欲を満たしてくれる上に太らない。友人に勧めてもらって、「えーめんどい」と嫌々ながら始めたのですが、効果はあったかな。ただ、その後遅い昼飯として、たこ焼きとポテトスナックを食べる。意味なし(笑)。汗かいたので塩分が欲しかったのかな?
 先に三味線の練習を一時間ぐらいやって、研究室へ行く。遅い登校でした。今日も稲垣著を読む。今日は第二部第二章第二節の「(三)教案および授業記録の検討」「(四)教師の教案観と授業批評会の実態」を読みました。(三)のほうは、明治二十年代後半から明治三十年代後半にかけて作られた小学校・師範学校による教案・授業記録を用いて、日本におけるヘルバルト主義教授法の主役である教授段階の適用状況を確認するという内容。当時の教案・授業記録がたくさん引用され、それらを教段形式の視点から批判しています。「予備」「提示」「比較」「総括」「応用」の形式に則って教案が書かれているけれど、それぞれの段階における内容が前後の段階と関係していないなど、するどく批判されています。実は私も研究上、明治二十年ごろの教案分析をしないといけない機会が控えており、その方法・視点など大いに勉強になりました。
 (四)のほうは、教員の教案観と授業批評会の問題を、教育雑誌に投稿された論説から読みとっています。明治三十・四十年代のころの教員は、第一に教授を意識化する形式としての教案観、第二に教案を方法として教材を内容として分離して捉える教案観を持っていたとされています。そのような教案観の下で、全国あちこちで授業研究会・批評会が開かれ、教案が形式に沿っているかどうかで批評されるという実態があったとか。そのため、稲垣氏は、明治三十・四十年代の授業研究会・批評会を、「教師に授業の定型をモデルとして提示し、あるいは、モデルの確認をもとめることによって、教授の様式を普及せしめる機能」を果たし、「真の研究」すなわち「教授の理論を形成する可能性をもつことなく」教員たちの研究エネルギーは消費されていったと結論づけています。教員による研究活動の歴史を明らかにしたい私としては、非常に興味深い結論でした。
 さてさて、上記の(四)にある記述ですが(同書299頁)、「形式を実践そのものの対象化において成立する技術のシステムとしてとらえる観点」という一文の意味わかりますか? 稲垣著は、今日読んだ部分より後ろの章節で理論研究を進めていくので、さらに読み進めていけば理解できるのでしょうが、とりあえず読んでいて私はひっかかりました。「形式」というのは稲垣著が追求する最も重要な概念だと思いますが、その意味するところは「実践そのものの対象化において成立する技術のシステム」である、というわけです。うーん、「形式」=「実践を、分析可能な対象に変化させた技術構造」と読み替えていいのかな? であれば、実践研究は「形式」の把握によって開始される、とか言えそう。これから先、読み進めて確認していきましょう。妄想かもしれませんのであしからず。
 さて、今日はNHK大河ドラマの「功名が辻」を見なくてはいけないので、早めに帰ります。今年のは、久しぶりにはまってしまいました(笑)。若手の良い役者さんがたくさんでてておもしろいっす。仲間さんが美しい。最近滑舌がよくなってきていて、さらに良し。途中の時代説明もわかりやすくて良し。ドラマは史実だとは思ってないので、時代考証はかんに障らなければいいのですが、とりあえず「桶狭間」は「丘」であり、「山内」が「やまうち」と読まれているのでちょっと歴史マニアとしては喜ばしい限り(笑)。
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今日は元気です

2006年01月28日 23時55分55秒 | Weblog
 何とか立ち直って早朝から出校しております。では、今日こそはがんばろう!
 ということで、がんばりました。今日は、まず「大日本教育会・帝国教育会の群像」を執筆。なぜかログインに手間取り、30分以上なんとなく無駄に(T_T)。ですが、なんとかログインに成功。なんと4ヶ月ぶり(!)に更新しました。先日から執筆していたのは東京府会員ですが、今日は広島県会員の続き。執筆したのは、広島県初の高等女学校の経営をリードした、山中正雄氏について。とりあえず手元の資料で書ける人を書いてしまおうというねらい。
 昼頃まで群像をいじくった後、サークル棟和室へ三味線の練習に行く。たまたま今日は現役邦楽部員(学部生)の練習日だったようで、邪魔しないように早々に退散。あまり練習できませんでしたが、とりあえず練習を始めることが大事なのでまあよし。そういう意味で、目的は達したという感じで立ち去る。
 ほか弁でスーパーのり弁当を買って戻り、昼食後、先日から読み続けている稲垣著を読む。今日は、第二部第二章第二節「浸透の実態」の「(一)学校レヴェルにおける教授実践・研究の体制」と「(二)教案の形式」を読みました。あいかわらず、所与の内容を云々、という論文内容ですが、明治三十年代後半以降の小学校教員による研究の体制・形式をかいまみることができました。本稿は、各種の研究体制において展開される教案の形式を明らかにすることが目的であるので、研究体制に焦点は絞られてはいないよう。ただ、私の当座のテーマは中央の研究体制なので、地方の一・二小学校の研究体制が明らかになったところで、背景のほんの一部が明らかになったにすぎない。けれども、少しは「目」が開いた、というべき。正直な感想は、「ほほぅ」である(笑)。
 次は、『「文検」の研究』を読む。今日は第三章第四節「乙竹岩造とその役割」。以前読んだ吉田熊次のくだりは、「文検」研究なのか吉田研究なのか不明な論文になってしまってましたが、この節は「文検」研究になっていると思います。乙竹は、戦前の有名な近世日本教育史研究者で、主著は『日本庶民教育史』(1929年)など。「三字教」という古い識字書を研究している我が研究室の先輩がひいていたので初めて知ったのですが、この『日本庶民教育史』に掲載されている幕末の識字教育の調査は貴重だと思います。ただし、そういう乙竹も、大正期以前は、他の教育学者と同じように西洋教育思潮の移入にも貢献しています。『文化教育学の新研究』(1926年)がその主著かな? こういった乙竹の学説が、「文検」の試験問題にダイレクトに反映している、というわけです。
 と、ここで、昨日の記事を見て心配してくださったのか、先輩に息抜きに誘われました。そして、研究と勉強のバランスについて、どちらかに集中した方がいいよとアドバイスをいただきました。う~ん、どうも私は欲張りなので、どちらも!という気分が抜けません。一点に集中した方がいいのはわかるんですがねぇ… 決心がつかないまま研究室に戻って読書するも、今ひとつノってこない。もともと夕方からは研究しようと思っていたので、思い切って研究に移行。
 今日は大日本教育会・帝国教育会の経費分析。地味で地道な数字の分析です(笑)。思った以上に作業は難航。資料に記された費目があまりに統一されていない、必要な情報が不足している、縦書きの漢数字が読みにくい(しかも千・百・拾・円・銭・厘などと書かれると…)、高額な雑収入・雑支出(何に使ったんだよ!)、そもそも理解できない費目がある(例えば一時取扱金・仮出金など。どっから金を出してきたんだぁ!)。数時間格闘して、ようやく分析視点がしぼられてきて、あまり細かく分析しても仕方ないことがわかりました(笑)。とりあえず、全体像は頭に入ったので、論述に必要最低限なデータ分析をすることにします。
 どうも数字を分析していると、ボケーっとデータを眺めるクセがある。おかげで帰宅のため学校を達つのは、29日の午前4時ごろになってしまいました。せっかく今日(28日)は早起きできたのに、また寝過ごしそう(-_-;)。
 まあいいや。ちょっと前進んだし。
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教授定型の普及ルート=教育会

2006年01月26日 19時39分29秒 | 教育研究メモ
 今日は、またも遅起き。寝不足な感じが残っており、寝覚めは悪いっス。
 登校後、稲垣忠彦『増補版 明治教授理論史研究』(評論社、1995年・旧版1966年)の第二部第二章を「『ヘルバルト主義』教授法の普及と浸透」第一節「普及の形態」を読みました。この節は、明治二十年代から明治三十年代における教授法の定型化過程と定型の普及ルートを検討したものです。構成は以下の通り。
 (一)教育ジャーナリズムにおける普及
 (二)制度的ルートによる普及
   (A)師範教育の内容
   (B)師範学校付属小学校の役割
   (C)教員検定試験
 (三)講習会その他による普及
すなわち、教授法の定型の形成と普及ルートの形成は、中央の制度やジャーナリズムにおいて相互に関連しながら並行的に進行し、明治三十年代前半においてその基本的形態を完成させ、明治三十年代後半において講習会や学校での授業研究会を通して拡大していったといいます。また、明治三十年代における講習会による普及ルートは、教育会が発展したものとされます。明治二十年代後半は、教育会が行政公認の教授法を普及させる「パイプ」となり、教授定型の普及・浸透の最大の役割を果たしたとされています。これによると、最近の教育会研究の傾向である教育会=教育情報メディアと捉える考え方に通じる教育会観が見られます。
 さらに、教師の教育研究の熱意・エネルギーは、教育会という「制度化されたアパラート」(誰か「アパラート」の意味分かる人います?調べたんですがわからなくて…)に吸収され、解消させられたとされています。ここには、私のテーマとしている「教育会における教育研究活動」に通じる示唆があるように思います。教育会が教員の熱意・エネルギーを吸収した、というには、本著にはその根拠が足りないなあと思いますが、結論が同じなら私の研究の意味は薄れてしまいます。根拠がないだけで批判することは薄っぺらいわけで(実証してその通りだったら、その批判そのものが意味無くなるので)。さて、私の研究はこの結論を越えることができるのでしょうか? 請うご期待。
 今日はさらに「大日本教育会・帝国教育会の群像」執筆の続き。公開はもうちょっと後になりそう。

 ところで、ふとYAHOOニュースを見ていると、本日26日の構造改革特区推進本部で公立小学校で英語を正式科目とすることを可とすることが決まったそうな。小学生を英語に親しませるのは結構だが、誰に教えさせるつもりなのだろう? 小学校教員は英語を教える訓練はされていないし、外部から講師を呼ぶにしても正式科目を非常勤講師に教えさせるのは、それでいいのかな? 小学校教員なんて誰でもできるっていう短絡的な思想が裏にないかな?
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通常業務(笑)に戻った?

2006年01月20日 19時34分39秒 | 教育研究メモ
 本日は、8時ごろ目が覚めました。体調は微妙なところでしたが、何日もこれじゃあいかんと飛び起きることができました。
 登校後まず、資料収集。例の役員分析の資料です。役員の名前は会員名簿があれば簡単にわかるのですが、いかんせん利用できる状態にある大日本教育会・帝国教育会会員名簿は飛び飛びなのです。復刻版に所載されている名簿は、明治17年、明治20年~24年、明治26~28年、明治38年、大正元年、大正4年、昭和8年のみです。明治三十年代前半に一度発行されたことはわかっているのですが、私も見たことがありません。資料はこんな状態なので、役員名を調べるために、毎年一月に掲載された正月挨拶の広告を使っています。ただ、記載されている役員名が不充分であったり、まったく乗っていなかったりする年のものもあるので、そういうのは地道に毎号に掲載された会報を頼りに調査していくしかありません。とりあえず、正月挨拶の広告を収集しておきました。写真は大正11年1月号の正月挨拶の広告。隣の頁は三越呉服店の広告です。たぶん見えないと思いますが、主事の吉田熊次(東京帝国大学教育学教授)の名前が「熊治」になっています。雑誌記事は誤植が多いのでご注意を。
 資料収集後、東広島運動公園体育館へ行って運動。その後、中国四国教育学会編『教育学研究紀要』(CD-ROM版)の原稿修正。昼飯を食べて、久しぶりに読書勉強にとりかかる。なかなか集中できなかった上に、ちょこちょこ博士論文の目的を書いていたので、あまり進みませんでしたが。
 今日はまず、稲垣忠彦『増補版 明治教授理論史研究』の第二部「『ヘルバルト主義』教授理論の導入・変容・定着」第一章「『ヘルバルト主義』教授法の導入と展開」第四節「『ヘルバルト主義』の変容」と第五節「『ヘルバルト主義』の定着」を読みました。前の続きですが、だいぶ経っているのでかなり前の内容を忘れてしまって、なかなか入り込めませんでした。第四節「『ヘルバルト主義』の変容」では、明治三十年代初期(第三次小学校令公布前)の文部省検定済みの教授法書が分析されています。この時期に、形式的段階(いわゆる五段階教授法:予備→提示→比較→総括→応用とか)の全教科にわたる機械的適用に対する批判が、教科・教材の性格を根拠として提示されました。要は、教授段階はどんな教科・教材にでも適用できるものではない、という批判です(例えば歴史は適用できない、理科は最も適用できるとされます)。ただ、その結果作り上げられた教授法には、四つの問題がありました。第一に、段階の整理に止まっていること。第二に、肝心の教材そのものは、かつての開発主義教授法と同様に、「教則」や「教授細目」といった所与のものに規定されていたこと。第三に、段階説の基礎にある「認識」(人間の解放を目指す)といった価値を含んだ概念が、形式的な心理的・論理的説明に止まって価値が抜け落ちていること。第四に、内容と形式(認識)との統一ではなく、所与の内容への段階の適用という性格をもったこと。明治三十年代初期の教授法理論は、そもそもヘルバルトや近代教授理論史が求め続けてきた、人間の解放を目指す方法原理と教育内容とを関連づけることからは、まったく別のところに変質してしまっていたというわけです。第五節「『ヘルバルト主義』の定着」では、明治33年以後の教授法書もまた、上記のような問題を抱えたまま出版・検定合格を経ていたことが明らかにされています。使えればいいや、ということで、我々はよくその精神を抜き去って方法・技術のみを使おうとしますが、そういうやり方はこれと同じ問題を抱えていることを知らなければなりません。
 次に、寺崎昌男・「文検」研究会編『「文検」の研究』の第三章「『文検』と教育学者」第三節「吉田熊次とその役割」を読みました。吉田熊次という人は、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験(「文検」)の委員を明治41(1908)年から昭和17(1942)年まで務めた教育学者です。テーマとしては、吉田の学説・研究関心を探りながら文検に果たした役割を明らかにしよう、という研究のはずですが、どちらかといえば、文検における役割を明らかにしながら吉田の学説・研究関心を探ろうという感じになっているように思います。執筆者の榑松(くれまつ)かほるさん(桜美林大学教授)が、教育学説史研究者なのでかもしれません。吉田熊次は有名な戦前の教育学者で、帝国教育会でもキーパーソンでした。どういう学者だったのか、つまりその学説はどのような特徴があったのか、という問題は個人的に非常に興味があったので、面白く読ませてもらいました。吉田の学説のポイントは、「国家を構成する国民の道徳的陶冶の問題」だそうです。時期によって、学校教育に限定されたり、社会教育に延長されたりしたそうです。
 さて、明日から二日間の土日は、センター試験のため、大学構内は進入禁止。資料と本とパソコンを持ち帰りましょう。
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現代邦楽の作曲スタンス

2006年01月15日 23時55分55秒 | 純邦楽
 とりあえず、notejapanのコンサート、終わりました~。トークもなかなか面白い展開になり(私たち出演者にとって、かもしれませんが(笑))、よかったー(^_^;)。終電にも乗れたし(笑)、これで一段落です。
 写真は、コンサート会場の広島市東区民文化センター・スタジオ1の客席です。昨日の休憩中に撮りました。Iプロデューサーが奥の方に座っていた写真もあったのですが、肖像権に配慮して客席だけを(笑)。Iプロデューサーが気になる方はNOTEJAPANのHPで探してください(笑)。
 前日、終電に乗り遅れてカプセルホテルに泊まりました。一時間ぐらい寝たかもしれませんが、人の出入りが多すぎて、ほとんど眠れませんでした。しかし、今日はトークセッションに出席するためにスーツに着替えてこなくてはならないので、早朝5時すぎぐらいにホテルをチェックアウト。路面電車もまだ動いていなかったので、歩いて広島駅へ。6時すぎの電車に乗って西条駅(東広島)に戻りました。朝食をとって、家に帰ってシャワーを浴びて、一時間ぐらい仮眠。寝過ぎるといけないので、寝る前にコーヒーを飲んで寝ました。コーヒーを寝る前に飲むと一時間ぐらいでパチッと目が覚めるといいますが、これホントに効きました。
 少し遅れて会場入り。今日は15時ごろからトークがあり、その後(開始時間忘れた)コンサートがありました。私は、トークは出演者として、コンサートはお手伝いとして参加。トークはコンサート会場の向かい側にあるスタジオ2。出演者は、私を除いて若手作曲家3名・プロ三味線演奏者1名、評論家2名でした。私は教育研究者とか広島大学邦楽部とかアマ作曲家とか、何だかよくわからない立場で参加しました。
 トーク、学会で発表するよりも緊張しました(笑)。勉強はしていきましたけど、邦楽の知識はやっぱり付け焼き刃ですからね(苦笑)。でも、他の出演者には学者肌の方がいなかったので、予想以上にうまい具合に役割は果たせたような気がします。トークの内容では、作曲家Kさんが芸術としての現代邦楽を主張し、そんな現代邦楽は一般人にとって面白くないと主張した評論家のIMさんと、激しい対決がありました。私は、その間に立って(どちらかといえばIMさんより)、小難しい説明をはさんでいました(笑)。予想をはるかに裏切って、結果的にそうとうマニア向けなトークになっていました。司会進行のIさんは、相当困っていたのではないかと…
 トーク全体の論点は、現代邦楽は一部うけする芸術表現か、大衆うけする娯楽表現か、といったところでしょうか。もともとの論題「三味線音楽の現在、、、未来」から考えると、ちょっと抽象的に流れた感がありますね。あらかた論争が済んだ後、司会進行のIさんが気を利かせて、演奏家のNさんに三味線を始めたきっかけとか音楽大学における邦楽教育の実態などを聴いていました。
 時間が経ってしまって自分が話した内容は、あんまり覚えていないのですが(笑)、いくつか覚えている論点をば。

 1,日本音楽の各分野は、かつてそれぞれ様々な身分社会に支えられていたけど、これからはその意味での分野の枠を守っていく必要はない。歴史的に高度な音楽表現を追求してきた箏曲・三曲を基礎とする現代邦楽において、より高い芸術表現を求めるのはわかるが、それが日本人の生活を離れては音楽としての意味がないですよ、といった趣旨のこと。
 2,作曲家さんに対して。作曲は自分の高度な芸術表現だと居直らず、より多くの人々に邦楽を聴きたいと思わせるような作曲をしてください、というような趣旨のこと。
 3,日本音楽の学問研究と作曲の連結。(これは、私も専門家ではないので中途半端な議論になってしました。でも、しゃべって、ちょっと興味がわいてきたかな)

 前日の終電事件にひっぱられて会場入りが遅れ、トークに必死だったせいか、コンサートの打ち合わせが不十分になってしまって、ちょっとドタバタしてしまいました。うーん、打ち合わせって面倒ですし、手伝いにリハーサルはいらないような気がしていましたが、そうはいきません。打ち合わせは、やっぱり大事ですね。
 関係者の方々、二日間お疲れさまでした!
 一番疲れていたのは、コンサートの全曲目およびトークにすべて出演した、メインの演奏者のNさんでした。お疲れさまでしたー
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カプセルデビュー( 苦笑)

2006年01月14日 23時55分55秒 | Weblog
 今日は広島市内でコンサートNOTEJAPAN邦楽ノートVol.3「三味線音楽の現在2」のお手伝い。二日間にわたる珍しい日程のコンサートです。写真は、その会場となった東広島文化センター・スタジオ1の舞台袖です。ここで私は待機して、仕事をしていました。
 このコンサートのプロデューサーであるIさんは、私が所属していた(いる?)広島大学邦楽部の大先輩です。その関係で、コンサートのお手伝いをしている、というわけ。仕事は、演奏者の補助と簡単な舞台設営。メインの演奏者である、Nさんはプロの三味線奏者。今日のコンサートでは、そのほかに琵琶奏者のSさん、太棹奏者のYさんが出演しました。皆さんの高い演奏力は当然、Nさんの純粋な音楽への情熱、Sさんの艶っぽさ、Yさんの大胆かつ繊細さに心打たれました。また、司会には評論家のKNさんがこられていて、興味深い話を曲の合間にされていました。舞台袖ではほとんど聞こえず、かなり残念。
 本日のコンサートは、「三味線新作展」ということで、Nさんが若い作曲者に委嘱し初演するという企画でした。若いというのは思っていた以上でして、全員私とあまり変わらない年齢の作曲家の方々でした。計4名の作曲家の方々が東京からわざわざ広島までやってきたわけです。せっかくなので、一曲一曲作曲家を舞台に上げて、生の作品の解説がありました。ちなみに、若いというのは作曲家だけではなく、演奏者のお三方と司会のKNさんも非常に若く、新進気鋭というか、将来への期待がふくらむコンサートでした。
 非常に興味深い日だったので、打ち上げ開始が遅かったのを忘れて飲んでたら、
 あっ、終電が行っちゃった…(笑)
 東京からの出演者の中に一人、カプセルホテルに泊まる、という人がいたので、便乗してご一緒させてもらうことにしました。そのホテル、広島で名高い(笑)流川通りの近くなので、移動中ネオンの光が目立ちました。でも、最近は悪質な客引きが厳しく規制されているためか、昔歩いたときみたいに声をかけられたりはしませんでした(笑)。
 ということで、はじめてカプセルホテルに泊まりました。「カプセルイン広島」というところで、寝床は清潔かつ広さも十分だったのでホッとしました。ただ、思った以上に人の出入りが多く、またカプセルもきしむので、何度も目が覚めてあまり眠れませんでした。
 後で知ったのですが、このホテル、夜中いつもCMが流れている有名なところだったみたいですね。けっこうしっかりしたホテルだったので、よかったかな。
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日本音楽の展開

2006年01月13日 23時19分30秒 | 純邦楽
 先の記事にも書きましたが、今日は早起き成功。朝食を食べて、明後日の準備をするために即図書館へ。研究室にいると、なんやかんやとやらなくてはならないことが出てくるし、邪魔されると困るので、図書館で準備に集中したかったのです。必要なものを取りに研究室に寄ったら、修士論文をかかえた後輩が徹夜ごしで研究室にいたらしく、椅子を並べて寝てました。こいつもがんばってんね。
 今日は、読書勉強かつ研究室事務。佐藤先生退官記念事業の案内を印刷したり、郵送したり。読書は、小泉文夫『日本の音-世界のなかの日本音楽』(青土社、1977年)を読み切り。従来の続きで、第二部「日本の音-伝統音楽への入門」の「琵琶楽」「能・狂言」「尺八とその音楽」「箏曲と三曲合奏」「三味線音楽」「大衆の邦楽」「現代邦楽」と、第三部「日本音楽の基礎理論」の「音素材」「音組織」「リズムと楽式」を読みました。

 日本音楽の特徴は、音の高さや大きさを出すことには特には見いだせません。その特徴は、高さを加減したり、強さの表情をつけたり、拍に伸縮をつけたりすることに見られ、特に語りものの音楽の中に特に強く見られるといいます。三味線という楽器は、声や歌の文句を邪魔せず、メロディーを奏でると同時にかつリズムを刻む楽器で、歌や踊りの伴奏に非常に適した楽器です。三味線音楽は、日本人の生活のあらゆる面に密着していた音楽であり、最も庶民的なものが芸術的に結晶しているといいます。三味線音楽は、劇場(歌舞伎・義太夫)で、お座敷(長唄・浄瑠璃・端唄・小唄・都々逸)で、家庭(長唄・小唄など)で、農村(民謡・津軽三味線)で、さまざまな音楽的広がりを見せ、聴かれた場所やそれと結びついた芸事によって音楽の性格がいろいろに変わっています。盲人社会(京都に拠点があった)の音楽的表情を表した上方の地唄、華やかな江戸好みの長唄、といったように。
 地唄は箏曲と密接な結びつきをもって発展していきました。箏曲の日本における発展は、二つの流れがあります。一つは、それなりの家庭の女子の教養としての流れ。もう一つは、盲人社会の独占職能としての地唄・箏曲の流れ。また、十六世紀に三味線の名手でもあった『六段』の作曲家・八橋検校によって、三味線音楽とも合流しました。箏曲は、盲人社会において、純音楽的・理論的構成美を備えた独特な音楽に発達していきました。その純音楽的な興味は、明治以後においても洋楽の影響や社会的・文化的変化に直面しても、力強く生き残っていくカギになったといいます。
 箏・三絃・尺八(胡弓)による三曲は、西洋の音楽理論からすると一見無駄である奏法、すなわちほとんど同じような旋律を合奏します。その理由は、三曲が、女子の教養や盲人社会を背景として、家庭的・室内楽的性格と内的な音楽追求の性格を有しており、人に聴かせる音楽というよりも、演奏者自身が異なった楽器で同じような旋律を合わせる喜びを表すための音楽であるためとしています。
 箏曲は、明治以降、西洋の音楽理論を積極的に取り入れて西洋化が進みました。そのため、西洋的な要素の強い現代邦楽においても、箏という楽器は目立っています。一方、一番日本的な音楽を奏でる楽器であるとされる三味線(日本の楽器になったのは遅くて十六世紀なのですが)は、民衆に深く結びついていただけに、伝統的なものと強力に結びついている楽器で、西洋音楽的な感覚・美意識などを表すことは非常に困難であるといいます。しかし、だからこそ、伝統的な要素が性格に活かすことができ、日本音楽を現代的(西洋的ではなく現代的)に発展させた音楽が生まれる可能性がある、と評価されています。
 そこで、三味線音楽の美しさを純粋な形で保存しなければならない、と来ます。高度な芸術性を保つには、流派や家元制度といった芸術の維持制度が非常に適しています。しかし、これらの制度は、先日まで見てきた学問の制度化における大学と似たような機能をもっており、その音楽の担い手を固定化し、音楽の発展を阻害する機能も有します。ともかく、日本音楽の特徴を自分で体験し、より深く楽しみ、理解しようとする姿勢が一般的になってくると、これらの制度は向きません。そのような音楽姿勢に合致するのは、大衆邦楽(端唄・うた沢・小唄・明清楽など、もしかしたら今の演歌やJ-popもそうだったりして)が向いています。この閉鎖性が、ひいては現代邦楽(現代日本音楽)の問題点にもつながってきます。
 現代邦楽をめぐる問題は、上記の問題に加えて、明治以降の西洋音楽の流入がさらに問題を複雑にしています。小泉氏が述べる現代邦楽の問題点は、整理されて次の五点。 
 第一は、【学問研究の不足】。傑作は生まれても、日本のよさも、西洋のよさも、どちらも持ち合わせない作品が生み出されていく問題。つまり、日本音楽の特徴や美しさの根源はどこにあるのか、哲学・歴史・近代科学的な学問的追究が足りない。
 第二は、【作品の不足】。西洋音楽に造詣の深い作曲家が邦楽の作曲を手がけることが多くなったのはいいが、「洋楽畑」と「邦楽畑」という作曲家の二分化がおこってしまった。また、邦楽内部の細分化状態もそのままで、音楽の領域が細かすぎる。作曲家は、学問研究の基礎を作品に反映させる努力と、邦楽内部の分裂状態を乗り越えて幅広い表現技術を身に付ける努力をしないといけない。いわば、作曲家は学者であり、演奏家でなくてはならない、といったところか。
 第三は、【民衆の支持不足】。現代邦楽の作品発表の機会は、はたして社会的要求を受けたものだろうかという問題の投げかけ。ここは一番説明が足りないと思う箇所だが、団伊玖磨氏との対談集『日本音楽の再発見』(講談社現代新書、1976年)で言っていたような、演奏会チケットを売りさばくために身内で売り買いしている状態などをいうのだろうか? 
 第四は、【現代邦楽の閉鎖性】。現代邦楽は、聴衆も含めた閉ざされた集団の中で、巧緻な作品を賞翫する雰囲気に支えられた状態にある。浅く広く音楽知識・経験を得ることで、それぞれのジャンルが持っていた独自の美しさを失わないように、一般大衆から高度に洗練された芸術家の美意識まで応えうる、広い音楽を目指すべきだという。現代邦楽の大衆化(マス化)を目指せ、といったところだろうか。
 第五は、【過去と現代の根本的違い】。過去の日本音楽は、それぞれの分野でそれぞれの身分・階級が支えた。雅楽は貴族社会で、能楽は武士社会で、箏曲や琵琶は盲人社会で、三味線音楽は下層の町人社会が… しかし、現代に至って、それらを守り育てていく必要はない。現代では、一人の人間が個人としてありとあらゆる種類の音楽を同時に享受し、生み出していく社会的要求に音楽は支えられている。

 日本人は、西洋音楽と比べて、日本音楽は特殊で未発達な音楽だと思いがちです。でも、西洋音楽すなわち近代ヨーロッパで発達した音楽理論に則った音楽もまた、ヨーロッパという特殊な地域で、近代という特殊な時代に構築されていった音楽です。小泉氏は、国際に通用する普遍的音楽であるとする西洋音楽の「信仰」とでもいうべきものを打ち壊し、伝統的な日本音楽を研究する意義を見いだした学者でした。今回読んだ『日本の音』のような著作も多いですが、『日本伝統音楽の研究1-民謡研究の方法と音階の基本構造』(音楽之友社、1964年・初版1958年)のような理論的研究や、世界中を飛び回って行った民族音楽の調査など、非常に優れた学問研究も進めました。『日本伝統音楽の研究』などは、全4巻を予定し、「日本のリズム」「旋律法」「楽器」の研究を進める予定だったようです。しかし、結局、『日本伝統音楽の研究2-リズム』(音楽之友社、1984年)が、1983年の著者死去後に親しく教えを受けたものたちによって出版されました。56歳という学者としては早すぎる死は惜しむべきでしょう。
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なんとか

2006年01月13日 14時11分17秒 | Weblog
 今日は、仕事(研究室事務・トーク準備)がたまっててやばいので、さすがに早起きできました(笑)。普段、体調が悪い時以外は、やっぱり気が抜けているんだな(^_^;)。
 午前中は予定以上に仕事が進んでおります。なんとかなりそう。
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早起きだけどいつもと同じ?

2006年01月11日 19時45分23秒 | 教育研究メモ
 今日は自然に7時起き!がんばるぞぅ
 ということで、洗濯物干したり朝飯食ったりして、学校には8:30ごろ着きました。メールやら事務仕事やらを処理して、久しぶりに図書館へ。図書貸し出しの延長が目的だったのですが、あまりに久しぶりなので、先行研究などを集めたり。研究室に戻って昨日からの続きの読書勉強をするかと思いきや、ずっとほったらかしになっていた資料を製本(くるみ製本、一冊600円ぐらいになるのかな?)に出したり、すでに製本に出していた資料を引き取りに行ったり。気がついたら昼。いつものことをする時間は、いつもと同じ時間から始まることになってしまいました。うーん、なんか損した気分です(笑)。
 今日もまず、稲垣忠彦『増補版 明治教授理論史研究』から。今日は、第二部第一章「『ヘルバルト主義』教授法の導入と展開」の、第一節「『開発主義』教授法の持続」(明治20年代前半期の文部省検定教授法教科書の特徴を分析)、第二節「『ヘルバルト主義』の導入(一)」(明治20年代後半期の…以下同文)、第三期「『ヘルバルト主義』の導入(二)」(明治31年…以下同文)を読みました。簡単にまとめれば、明治十年代末から20年代前半にかけて開発主義教授法の系列に属する教育書が「正統」の地位を与えられていたこと、明治二十年代後半の教育書にあらわれたヘルバルト主義教授法は帝国大学ハウスクネヒト門下のルート(教授理論の導入)と高等師範学校のルート(段階の導入)の二つの経路から導入されたこと、明治31年以降の教育書にあらわれたヘルバルト主義教授法は小学校教則大綱との形式的な結合を強化して元のものに比べて屈折・変容していること、が明らかにされてます。
 寺崎昌男・「文検」研究会編『「文検」の研究』は、第三章「『文検』と教育学者」の第一節「『文検』に関わった教育学者たち」と第二節「委員と試験問題」を読みました。まとめれば、「文検」教育科の試験執行を担当した委員は、特定の学校(東京帝大・東京高師・東京女高師、1916年以降は早稲田・慶應)の教員が担当し、試験問題は彼等の学問傾向・関心に強く影響を受けたということが明らかにされています。ただ、他の科目(地理科が例に挙がってる)に比べれば、教育科の問題傾向はそれほど委員の人物に左右されなかったとか。基本的には、常に当時の新しい教育思潮や理論(外国輸入)の実際への適用に気が配られた問題傾向だったそうです。
 最後に、明日の教育史研究会のテキストを読みました。
 んー、舌にできたできものがイタイ…
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開発主義・文検・伝統音楽2

2006年01月09日 23時09分51秒 | 教育研究メモ
 今日の寝起き(笑)は、昨日と同じくらいでした。やっぱりまだ二度寝の習慣が抜けきれなくて、時間を無駄にしています。先日、新成人を対象に行った「時」に関する調査で、一番もったいないとおもう時間は「寝過ぎたとき」だそうで。もっと有意義に時間を使えるようにしないとなぁ。
 今日も登校して勉強しましたが、先に今年一年の簡単なスケジュールを立てた後、勉強(読書)。今日は昨日の続きです。
 
 まず、稲垣忠彦『増補版 明治教授理論史研究』の第四章「『開発主義』教授理論の特質」を読みました。これは、開発主義教授法書の代表著作である若林虎三郎・白井毅『改正教授術』(1883年)を分析してその教育実践の質を明らかにし、さらには当時の視学官の言葉を借りて開発主義教授法の普及における問題点も指摘した研究です。
 『改正教授術』は、形式陶冶的目標(表現力など)を教授の目的として掲げ、従来の知識伝達→暗記を目的とした教授形式を否定し、教師自らが実践の目的・過程・方法を構成的に把握する教授形式を提示した、意味ある教授法書でした。しかし、①全教科にわたって実物の提示と問答という教授定式が成立し、②その教授定式が教授目的・内容と背離し、③観察方法の形式化、④所与の事典的・概説的知識の伝達方式への「開発」の限定、⑤小学校教則綱領の規定による教授内容の体系の消失、という問題がありました。要するに、ペスタロッチーやジョホノットの教授法を形骸化してしまったという問題を有したのです。また、普及の過程で、開発主義教授法の形式的な受容や伝達・普及方法などにより、さらに形式化が進んでしまったという、踏んだり蹴ったりの状況を生んでしまったようです。このような開発主義教授法は批判の対象となり、明治二十年代にかけて、次第に公定の教授内容の効果的伝達・注入を目的として、より効率的な伝達の方式としてヘルバルト主義教授法にとってかわられることになりました。
 
 お次は、寺崎昌男・「文検」研究会編『「文検」の研究』の第二章「『教育科』『教育ノ大意』の試験問題」を読みました。本章は、教育科・「教育ノ大意」が求めた教育学的教養の性格、すなわち当時の中等教員に求められた教職教養の性格を明らかにすることが目的です。本章は、二節にわかれていてそれぞれ筆者が違います。
 第二章第一節の西山薫「専門的学識を問う『教育科』」は、「文検」(文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験)の教育科(師範学校教育科教員の検定試験)の試験問題と模範解答(受験参考書による)を分析した研究です。第二章第二節の岩田康之「教職教養としての『教育ノ大意』」は、明治40(1907)年以降、教育科志願者ならびに小学校本科正教員免許取得者等以外の「文検」志願者に課せられた科目である、「教育ノ大意」の試験問題と模範解答(受験参考書による)を分析した研究です。教育科の試験問題は、教育実践との関わりの中で論じさせたり、諸科学や社会事象と関係させて教育学の学問的位置づけを行わせたりするなど、教育学の専門的知識を構造的に把握させるものでした。その試験問題は例えば、「疲労の性質を生理的心理的に説明し教育上の注意に及べ」(昭和4(1929)年教育科予備試験)や「教育上に於ける勤労思想の発達を述べよ」(同年教育科本試験)などです。特に心理学関係の問題など、今の私には絶対答えられませんぞ。
 「教育ノ大意」の試験問題は、心理学・論理学といった基本的知識を説明させる性格が強く、学校教育の基本部分を尋ねるものが多く、他の社会現象との関連や教育の本質を構造的に尋ねることはほとんどなかったそうです。問題は例えば、「教科及び教材の統合とは何ぞや」(昭和4年教育大意第50回予備試験)や「左の意義を説明せよ イ.観念連合、ロ.概念の内包、ハ.形式的陶冶」(同年教育大意第51回予備試験)などでした。このような問題に対して、受験参考書等では、当時の教育現実と社会体制の動きや教育学の研究動向に敏感に反応しながら、模範解答が作成されていたことが明らかにされました。
 当時の教育学は、大学・師範学校などで講壇化されていました。その上に、「文検」の試験問題を受けて作成された受験参考書などによって、同質の教育学知識を持った教員を再生産していたと考えることもできましょう。「文検」めぐる世界を「文検世界」というそうですが、文検世界では、新しい教育学研究の成果を一般化・教科書化しながら、学問の通常科学的発展のために必要な後進者を再生産していったと考えられそうです。中等教員が教育を分析する切り口(すなわち教育学研究の視点)なんかも、そこで定型化されたのでしょう。そこで再生産された「教育学者」は、どんな性質を持ったのでしょうか。興味深いところです。
 
 最後に、昨日の続きの通り、小泉文夫『日本の音』の続きⅡ「日本の音-伝統音楽への入門」のうちの、「正月の芸能と民族音楽」「雅楽」「仏教音楽」の三節を読みました。「正月の芸能と民族音楽」では、民族芸能の基本的意義が述べられています。民俗芸能自体は楽しいものではないかもしれないけれども、それが意味するものは、人間の生活の中にある「生きていることのよろこび」というものを味わうための文化や娯楽であって、自分たちが体験し、自分たちの生活をその中に反映させることができるものであるとしています。そして、民俗芸能は芸術音楽のように固定した形がなく、自分たちの好みによって発展させ、創造的に形を変えることが許されているものであるとしています。雅楽も仏教音楽も、歴史的経緯や担い手が違いますが(雅楽は宮廷人、仏教音楽は僧侶、民俗芸能は民衆)、やはり歴史的には変化をしてきた音楽だといいます。つまり、伝統芸能は昔とまったく同じ形で保存しなくてはならない、というような思想・行為そのものには学問的・芸術的意義はありますが、絶対的真理のようなものではないですし、また現実にはあり得ないことというようにも考えられます。
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開発主義・文検・伝統音楽

2006年01月08日 19時56分41秒 | 教育研究メモ
 今日は昨日より一時間ほど早く起きられました。ホッとします(笑)。
 今日は日曜なので学食が開いていないので、昼食は「ほっかほっか亭」のスーパーのり弁当(490円)にしました。中身は、普通ののり弁当に唐揚げ弁当のおかずがついた、たいへんお得な弁当です。というより、今日言いたいことは弁当そのものではなくて、ほか弁の受付をしてくれたおかあさんについて。受付のおかあさんがおつりを渡す時、ふと手が触れました。その手はものすごく冷たく、たくさんのアカギレ・シモヤケを認めました。この人は間違いなくものすごくがんばっている、と直観。かなり感動。俺もがんばらないといけないな、という気になりました。

 弁当を持って登校。今日はようやく勉強に専念できました。まず、稲垣忠彦『増補版 明治教授理論史』(評論社、1995年・旧版1966年)の第三章「『開発主義』教授理論の理論的系譜」を読みました。これは、明治十年代において広く普及した開発主義教授法の理論的系譜を追い、その特質を明らかにしたものです。開発主義教授法は、教授方法に対応した内容の欠如というペスタロッチー(1746~1827)の直観教授理論の欠陥を、実生活にもとづく科学観に則って教授内容へ自然科学を導入した、ジョホノット(1823~1888)の教授理論を、東京師範学校長の高嶺秀夫や東京師範学校付属小学校が中心となって普及させたとされる教授法です。ただし、その理論的系譜に沿ってそれぞれの特質を検討していくと、ペスタロッチーからジョホノットに至る過程で、人間が自ら主体性を確立し独立するという社会観が希薄になり、ジョホノットから東京府師範学校附属小学校に至る過程で、諸科学の基礎としての教授内容から体系性・科学観の欠落した事典的・概略的知識としての教授内容へと変化したことが、稲垣著によって明らかにされています。
 次に、寺崎昌男・「文検」研究会編『「文検」の研究』(学文社、1997年)の第一章である船寄俊雄「『文検』の制度と歴史」を読みました。これは、「文検」(文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験)に関する法令と試験日程との対応関係を整理概論したもの(受験生についても少し書いてある)。よく整理されてあって、「文検」研究の基礎知識として重要な研究であると思います。ちなみに、先日書いたように、私はこの本を戦前教育学の研究書として読んでいます。なぜ、「文検」と教育学が関係あるのか。寺崎氏は、序章「なぜ『文検』に着目するか」において、大きく次の二つの目的を提示してます。すなわち、(1)「文検」の科目である教育科と「教育ノ大意」の分析によって政府公認の教育学の具体を明らかにすることと、(2)「文検」に関わった教育学者の参加実態(学説を含む)を明らかにすること、の二つです。その目的が達成されているかどうかは、今後読んでいくわけですが、「文検」が戦前日本の教育学を規定したのではないか、という仮説は、科挙によって中国の学問が多分に規定されたという中国科学史の研究成果と似ているように思います。先日読み終わった中山著によると、古代中国の学問は、科挙によって仕官のための学問として体系化されてしまったといいます。これは、もともと戦国時代に諸子百家が仕官のために諸侯に論じてまわった学問という、古代中国の学問の特質も関係しているようですが。「文検」における教育学も中等学校教員の資格試験のための学問であって、その意味では「仕官のための学問」ということができましょう。制度化された学問は、効率化されて学問内容の急速な深化が可能になる一方で、固定化されて創造性を失う(新しいパラダイムを生むことが難しくなる)といわれますが、戦前日本の教育学もそうなのでしょうか? 第二章以後、どのようなことが明らかにされているのか、気になります。

 最後に、おおかた一ヶ月もほぼ休止状態にあった、邦楽の勉強も。今日は小泉文夫『日本の音-世界のなかの日本音楽』(青土社、1977年)の一章、「アジアのなかの東洋と西洋」を読みました。同書の他の章については、昨年12月11日の記事をどうぞ。「アジアのなかの東洋と西洋」では、アジア諸国における西洋音楽と伝統音楽の関係を見ることで、日本における伝統音楽のあり方を探った論考と見ました。以下、小泉論文の要旨です。
 1960年代の伝統音楽に対する態度には、二つの異なった傾向が見られたそうです。第一の傾向は、西欧人が、東洋諸国における東洋音楽の古典的価値の軽視・喪失を強く警告していたこと、第二の傾向は、東洋人が、自身の伝統音楽の近代化(西欧化)を必然と感じていたことです。第二の傾向の延長上には、伝統音楽とヨーロッパ音楽の教育が並行して行ない、かなりの成果を上げていた国(アラブ連合など)がありました。そして小泉氏は、伝統音楽を故意に避け、無視してきた日本の音楽教育は、他のアジア諸国の中でも極端な偏向教育であると指摘しています。小泉氏は、1960年代・70年代の音楽研究の国際的現状を、西洋人が東洋音楽を、東洋人が西洋音楽を研究する現状にあると分析しました。そして、その方向性を、ヨーロッパ音楽を普遍的価値を持つ音楽としてではなく、ひろく人類文化の問題として、限定あるローカルな表現として研究していく方向に定めるべきと論じました。その方向において新しい成果を見いだすには、東洋の側からアプローチしていくことが重要であるとしましたが、日本人はすでに西洋一辺倒の音楽教育によって、公平かつ客観的判断が困難になっている、として嘆いています。
 音楽は、社会の発達とともに階層化するとされます。ヨーロッパ音楽教育を徹底した日本では、上層にヨーロッパ音楽、下層に邦楽・邦楽調流行歌という音楽の階層化が起こり、高学歴層はヨーロッパ音楽を好み、邦楽を蔑視するという状況にあると、小泉氏は分析しています。そのわりに、日本におけるヨーロッパ音楽は、教養・知識として、ある自己満足的趣味として受動的に享受されるに止まり、自らの生活からオリジナルな表現を閉め出しているとしました。また、一方の伝統音楽にも、教育体系から阻害されてきた経緯も相まって、基本的に、感受性は細やかな割に狭く、深い人間的表現を求めるまで包括的・総合的は求められないと、手厳しく批判を加えています。
 小泉氏は、日本の伝統音楽の発展を阻害する要因として、音楽教育制度におけるヨーロッパ音楽の著しい偏重状態を一貫して指摘しています。現代ではどうでしょうか。小泉氏の論じた頃よりも伝統音楽を取り巻く問題は、現代では、見識の浅い私なんかでも、J-popなどの浸透によりさらに複雑化していると感じます。また、確かに教育指導要領には伝統音楽が編入されましたが、実際のところ、体系的な教育が行われているのでしょうか? 教材を単に並べるだけになっているならば、もともと科学的内容を教授する方法が、日本への導入過程で事典的・概論的知識の教授法へ変質した開発主義教授法の場合に感じるように、内容そのものを軽視することにつながってはいないでしょうか。
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今年の目標

2006年01月07日 19時35分46秒 | Weblog
 今日も不覚にも寝坊。はやく早寝早起きの生活リズムをつくらないとなぁ。
 今日は、学校へ行って中山茂『歴史としての学問』(中央公論社、1974年)のまとめを完成させました。ようやく終わった~。内容はまあ、昨年やった「あとがき」のまとめで換えさせてください。中山著はずっと書いてきた通り、科学史の理論書です。教育史研究に直接適用するなどという暴挙はするつもりはないのですが、歴史認識・歴史観なんぞというものは、以前よりも遙かに拡がりました。この本を読んで得た歴史観は、本年度中に書く予定の博士論文に反映していくことでしょう。たぶん。でも、その前にまだ読まなくてはならん本がたくさんあるなぁ。
 ということで、本日より、稲垣忠彦『増補版 明治教授理論史研究-公教育教授定型の形成』(評論社、1995年・旧版1966年)の読書再開と、寺崎昌男・「文検」研究会編『「文検」の研究-文部省教員検定試験と戦前教育学』の読書開始。ちなみに「文検」というのは、明治18(1885)年から昭和18(1943)年まで(昭和22年~24年にも開催)にわたって施行された、正式名称「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」の略称です。すなわち、中等学校(師範学校・中学校・高等女学校)教員の資格を得るための戦前の国家試験のこと。寺崎・「文検」研究会編は、教員養成史の欠落を埋めるとともに、戦前日本における公認の教育学とは何か、を考察した研究です。
 なお、読書勉強を中断して、2時間ぐらい三味線の練習をしました。かなり久しぶりなので、やっぱり弾けなくなってる… 7月9日(日)開催の第32回ぐるーぷ“樹”和楽器コンサートは、なんとしても成功させたいので、がんばります。

 【今年の目標】
(健康) 適正体重まで減量!
(研究) 博士論文完成!
(作曲) 大合奏曲一曲完成!
(演奏) 7月9日のコンサートをやり遂げる!
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謹賀新年

2006年01月01日 23時55分55秒 | Weblog
 明けましておめでとうございます。
 ついにこのブログが年を越してしまいました(笑)。
 今年もどうぞごひいきにー
 なお、テンプレートを変えてみました。コレっ!というのがあんまりなかったのですが、去年と同じというのは面白くないので、とりあえず暫定ということで。

 我が家では、必ず年越しそばを食べた後、旦那寺へ除夜の鐘をつきに行きます。ですので、いつも旦那寺からの帰りの車で年を越します。また、我が家では、正月三が日の朝夕に、家の神さんと仏さんに供物を供えます。朝は雑煮(餅と大根と人参を鰹節としょうゆで煮込んだもの)を供え、夕は白飯を供えます。これらは、全部家の男連中がやることになってます。父曰く、そもそもは女性差別の現れであって、神事であるこれらの作業は女性がしてはいけないという意味を持っていたのですが、今はいつも家事をする女性を休ませるという意味(これすらも差別の現れですが…そこには父は気づいていないみたい)だそうです。
 朝食をとって、先祖の墓参りと初詣。私の近所には通称「椿神社」と呼ばれる伊豫豆比古命(いよずひこのみこと)神社という大きな神社があり、毎年われわれはそこに初詣に行っています。今年は参拝時間が早かったせいか、以外と人が少なくて、楽に参拝できました。ちなみに参拝で面白かったことが一つ。突然小さな女の子に手をつながれてしまいました(笑)。状況からして、その子が階段をお父さんの手につかまって下りようとしたのだと思うのですが、たまたまちょうどいい位置に私の手があったのでつかまったのではないかと。さすがにこれはびっくりしました(笑)。
  
 昼食後は、ここのところ無駄に夜更かしが多かったので疲れてしまったのか、寝込んでいました。結局、夕方に神さまに供える白飯を炊くために起き上がるまで、起きなきゃ、やることがいっぱいある、と思いながら、うとうと寝てました。その後、父の手伝いをし、父の年賀状を投函しに中央郵便局へ行って帰ってきたら、すでに22時すぎ。それから中山著をまとめにかかったのですが、やはり時間が足りない。中途半端で今日はおしまい。
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