教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

自作純邦楽曲その2 「糸竹協奏曲第一番 “焔”」

2010年03月27日 23時55分55秒 | 純邦楽
 混迷した仕事は、金曜日にようやくひと段落しました。結論までいってないので、まだ続きますが~…。
 さて、今日は自作2曲目の「焔」。初の大合奏曲でした。動画は前回と同じく、やっつけ仕事。この曲の詩は、曲が出来上がってから何度も聴き、演奏しながらつくったものです。手前味噌ながら、それなりに曲に合っていると思っています。曲と言葉との微妙なタイミングがあるのですが、今回の動画では完璧に表現する時間と余裕と技術がなく…(←言い訳)。詩の最後の一節、入れ忘れてるし(苦笑)。
 なお、例の舞台では、この曲を光源氏と藤壺との重要なシーンで使ってくださっていました。「…おぉ、そう解釈できるのか!」と、自分で書いた曲ながら正直驚きました。作曲した時期のことやそのときの感情など、改めて自分を見返す機会を得られました。自分の曲がさまざまに解釈されることにより、表現する世界が広がっていく、そういう貴重な一瞬を感じました。
 中途半端な出来の動画ですが、ご都合がよろしいときにでも聴いてみてください。今回の動画は、楽譜の出番少なめです。なお、動画が出てこないときは、しばらくしてリロードすれば出てくることがあります。動画が出てきたあなたはラッキーなのかもしれません(笑)。動画枠以下の文章は、例のごとく、旧HPに掲載していたテキストです。



炎が点火した。

ちらちらと赤い炎は 赤い光をあげて この世に在ろうと 必死に
強くなったり 弱くなったり

炎の中に 何かが映った 見ようと思えば 見えなくなって
炎はついに天を焦がした

ふと周りを 見渡せば あるのは闇 静寂
盛んに燃える炎 赤い光が周りを照らす
静寂は沈静を呼び 炎のたぎる力を抑え いましめる

再び炎を見やると くすぶりつつあった炎は 再び力を取り戻す
細かな火の粉をはぜて 右へ左へと揺れながら
興奮とともに燃えて 燃えて

火の粉が舞い上がった 炎に押し上げられて 空高く舞い
やがて そのひかりを弱めながら ふたたび 炎へと戻ってゆく

炎が見えるか

その赤はなにゆえか
その力はなにゆえか
その熱はなにゆえか
その光はなにゆえか

炎はゆらゆらと 生きている

(白石崇閃 2002年作曲 9分50秒)
(三絃Solo、箏Solo、琵琶1、箏2、十七絃1、笛1、尺八2、太鼓)
(初演 2003年6月、ぐるーぷ樹第29回和楽器コンサート、於広島市)

 この曲は、とにかくスピード感とメロディーを重視しました。
 冒頭で「焔」を揺らした後、三絃・箏・十七絃の3パートでスペインのワルツ調に、そしてくすぶり燃え上がります。さらに、笛・尺八・三絃の音をたっぷりと聴かせた後、再びワルツ調、そして最後の急展開。我ながら盛りだくさんすぎる曲を作ったものだと思います(笑)。演奏する時には、三絃ソロ・箏ソロ・十七絃・笛のパートは覚悟してください(笑)。
 楽しく個別・合奏の練習ができること、そして初心者でも合奏に参加できること、に特に作曲のねらいをしぼりました。笛・琵琶はめったに演奏者・楽器がいないでしょうから、笛はピッコロ等で、琵琶は太棹等で代用してもよいと思います。初演では、琵琶は太棹で代用しました。琵琶パートは琵琶といってもほとんどの音が三絃のオクターブで弾けますので、三絃でも大丈夫です。
 初演の経験上、箏1・2(solo以外)・十七絃は、二人以上いたほうが迫力が出てよいと思います。
 (動画枠以下の文章の執筆時期:詩は2003年6月の初演時のパンフレットで発表、以下はおそらく2004年ごろ)
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自作純邦楽曲その1 「ひのもとのくに」

2010年03月25日 23時55分55秒 | 純邦楽
 仕事は…やばいくらい混迷状態。今日は調整のためあちこちを走り回っていました。気づいたら暗くなってたし。
 さて、今日も旧HPの保守。自作純邦楽曲第一号、「ひのもとのくに」です。youtube経由で、曲もようやく再公開できました。ひっそりと公開したかったのですが、成り行きとは言え、世界につないだ感じがしてドキドキします(笑)。まぁ、気が向いたら聴いてみてください。
 動画は適当に作ったものですので、画像悪くてすみません。初めて作ったものですし、時間も余裕もないので… 動画は、「PictBear」というフリーソフトで適当な絵と文字を描いて、「Windows Live ムービーメーカー」でまとめました。浮かんでる文字は、曲に合わせた詩です。まぁ、この曲の詩はあんまり出来よくないですが(笑)。たまに出てくる楽譜は、「ひのもとのくに」の五線譜です。縦譜は手元にスキャナがなかったのでお預け。
 「ひのもとのくに」は、私が最初に作った曲です。正月か何かで、あったかい国の実家にいる間に仕上げた思い出があります。作曲したのが2001年…もう9年も経っているのかぁ、とんでもない時間が経ってしまったようです。まぁ、あのころと比べれば、今は別の意味でキツイですが、生きるのははるかに楽しいです。
 なお、動画枠以下のテキストは、旧HPに書いていた内容。旧HPではページを開くと音楽が鳴るようにしていました。



「ひ」・・・日、陽、火、灯
   ・・・様々な「ひ」を生み出す「くに」
我々が生きる大地・・・「くに」
      ・・・我々が生きる、そして生きていく「くに」は
         「ひのもとのくに」
(白石崇閃 2001年作曲 7分35秒)
(三絃2)
(初演 三絃1パートのみ、2000年中国地方国立大学邦楽部交歓会、於島根県)

-----------------
 この曲では、三絃曲にはあまりなかった(最近は多いですが)和音の響きをとにかく出そうとしました。また、音を弾いた後に残る、残響を重視しました。さらに新曲と古典の折衷を狙いました。今考えると「この程度」ですが・・・(笑)。
 この曲が私の処女作で、あまり三絃の技法も知らなかった頃の作です。気に入っていると同時に、課題もたくさん残した曲ですね。聴いてくれたみなさんの意見を参考にして幾度か手を加え、2004年12月に最終稿を書き上げました。今BGMで流れているのが完成品です。
 最初と最後あたりは、「和」をイメージして。中間部あたり(5分ごろ※)は、鳥となって空を飛び、大空から「くに」をめぐる、というようなイメージになっています。
 (執筆時期不明、たぶん2004年ごろ)
 (※「3分ごろ」の間違い)
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自作の純邦楽曲について

2010年03月24日 23時55分55秒 | 純邦楽
 仕事はますます混迷してきました。まいったぬ。
 さて、今日も旧HPの補完作業に。
 白石崇閃名義の自作純邦楽曲は、いままで発表してきただけで8曲あります。

  「ひのもとのくに」 (2001年:三絃2)
  「糸竹協奏曲第一番“焔”」 (2002年:三絃Solo、琵琶1、箏Solo、箏2、十七絃1、篠笛1、尺八2、太鼓)
  「祭りの喧噪」 (2003年:三絃2)
  「穂波」 (2004年:篠笛1、三絃1、打楽器(巫女鈴、オルゴール、締太鼓))
  「唐牡丹」 (2005年:篠笛1、尺八2、三絃2、箏2、十七絃1、打楽器(締太鼓、鈴、オルゴール))
  「萌青」 (2005年:三絃2)
  「竹々(たけだけ)」 (2006年:三絃2・尺八2)
  「三絃練習曲「さくら七変化」」 (2007年:三絃1)

 難しすぎて初演していない曲もあります(笑)。これらは、それぞれ、邦楽集団「ぐるーぷ“樹”」(2003年、2004年、2006年)、専修大学三曲研究会(2004年)、茨城大学邦楽研究会(2004年)、花園大学邦楽部(2006年)のメンバーに演奏していただく機会がありました。静岡大学邦楽部(2007年)、専修大学三曲研究会(2008年)、東京外国語大学筝曲部(2009年)のメンバーには、楽譜送付のみさせていただく機会がありました。
 そういえばホームページが消滅したとき、少しずつホームページのテキスト(残しておきたいもの)をこちらに移行させるつもりだったのですが、ついこの間まで完全に忘れていました。忙しすぎたんですよ、ホントに(笑)。曲も、動画にすればこのブログにもどうも載せられるようなので、時間があればアップロードしてみますね。

※ 楽譜がほしい方は、私白石まで直接メールをください( siraisi☆ns.cygnus.ac.jp ←☆を@に変換)。基本的に五線譜です。三絃パートのみは縦譜があります。料金については、今のところ、実費のみいただいています。だいたい、コピー代+郵便EXPACK代で大体計600円~700円くらいです。今のところ、演奏などにあたって著作権料等はとる予定はありません。ただし、本務に忙殺されている場合があり、発送が遅れる場合がありますのでご了承ください。
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かつて私が作曲し始めた理由

2010年03月23日 23時55分55秒 | 純邦楽

 今日から新年度に向けて、研究も仕事も始めました。心機一転、昨年の経験を生かしていい仕事ができればと思っています。なお、仕事では、第1日目からいきなり面倒な壁にぶちあたりまして、なかなか大変です(笑)。
 さて、今日は邦楽の話題。かつてのHPテキストの補完作業です。
 私は、研究者・教育者としての顔と、純邦楽作曲家「白石崇閃」という顔をもっています。なんでそんな顔をもっているかというと、話は大学時代にさかのぼります。かつて自分のホームページにて、私はこんなことをのたまっておりました。

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 私が作曲するようになった理由
 私が作曲を始めたのは、大学3年のころでした。私は邦楽部に所属し、三絃を弾いていました。学生邦楽をやっていた人ならみんなわかると思いますが、既存の邦楽曲には、三絃パートがある曲がほとんどない!…ないなら俺が作ってやる!ということで、独学で作曲を始めました。初めてさわった楽器が大学1年の時の尺八だというのに、無謀なことを始めたのです。らちがあかなかったのでついに大学の作曲法の授業にもぐりこみ、基本的な楽典すらわからず先生にあきれられたりしながら、今に至ります(この頃以来いろいろアドバイスをくださっているH大学教育学研究科のH先生※には感謝の言葉も尽きません…)。
 そのようないきさつがあるため、私の基本的な志向は学生邦楽向けです。ただ、曲を完成させるのは根気がいるので、〆切がないとなかなか完成させられないという(^_^;)、情けない現状です。そのような事情で、完成している曲は、私が現在所属しているアマ邦楽団体「ぐるーぷ“樹”」の演奏会向けに作っている曲が多いです。
 近年、日本音楽にスポットがあてられ、邦楽界も飛躍のチャンスが到来しました。しかし、今ひとつ振るっていないように感じます。その原因のひとつは、童謡やポップスなどの他ジャンルと比べて、曲および作曲者の絶対数が少ない、ということがあるのではないかと私は考えます。せっかくやる気になった人が現れても、同じ曲・同じような曲ばかりでは飽きがきてしまい、邦楽人口が伸び悩む原因となるのではないかと思うためです。これからの邦楽界は、従来からのように優れた演奏家の養成とともに、多くの優れた作曲者を生む必要があります。こんな私でも、情熱だけでこれだけ作曲することができました。したがって、もともと素養のある方が作曲されれば、もっといいものができるに違いありません。私の曲を聴いて、この程度なら私でもできる!と思って作曲を始める方が増えてくだされば、これに勝る幸いはありません。
 (執筆年月不明、おそらく2004年ごろ)
 ※イニシャルに変更しました。H先生は、2010年現在、AG大学でご活躍中です。
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 私が作曲を始めたのは、こんな理由です。
 最近では私自身が邦楽界から遠ざかって久しいのでどうなっているのかよくわかりませんが、私よりも年若い演奏家が邦楽器をかかえて活躍しているのをたまに見かけます。おそらく様々な曲が生まれ、発表されていることでしょう。学校教育における邦楽器の体験は、広く行われている様子です(私の印象だと太鼓が多いようですが)。さて、これからどうっていくんでしょうね。

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教育会は現在の教育委員会の前身か?

2010年03月21日 23時55分55秒 | 教育会史研究
 S先生主催の日本東洋教育史研究会に出席するため、広島に行っておりました。
 さて、前回の記事に青隼さんから「教育会は、現在の教育委員会の前身のようなものか?」と質問がありました。教育会研究を専門としている私としてはしっかり答えたいですし、同じく教育会研究をしている研究者もたまにこのブログを見ており、私の答えにツッコミを入れたくなるかもしれませんので、独立記事を設けます。

 さて、戦前の教育会は、現在の教育委員会の前身でしょうか? 今回の質問だけでなく、以前私もそういう風に理解している人に会ったことがあります。教育会研究者としては、答えなくてはならない問いでしょう。なお、教育会とは、明治10年代以降、都道府県郡市町村を結成単位とし、各地の教育行政官・教員・名望家などを構成員として、各地における教育の普及・改良のために教育諮問・答申や教員研修、教育研究・教材開発などを担った私立教育団体です。明治23(1890)年には、全国に700余団体の教育会が結成され、会員10万人に達したといわれています。
 私は、教育会と教育委員会とは似ているが、性質上異なるものであり、歴史上の直接の連続関係はない、と答えたいと思います。教育委員会は、「地方教育行政行政の組織及び運営に関する法律」に規定された各地方公共団体ごとに設けられた教育行政機関であり、管轄区域内の学校の設置・廃止や教職員人事・研修などのさまざまな担当しています。教育会は、たびたび法制化の希望はありましたが、結局、直接対象となる法的規定はとくに設けられていない私立団体です。教育会は、都道府県・郡区町村といった行政区域ごとに結成されることが多く、活動区域はたしかに教育委員会に似ています。しかし、教育委員会は教育行政機関であり、教育会は私立団体かつ特別な法的規定はありません(明治前中期ごろの公立教育諮問会議としての教育会、いわゆる「学事会議」は例外)。
 現在教委が担っているさまざまな役割は、戦前においては各自治体がそれぞれ役割分担して担っており(都道府県知事・郡区町村長・学務課・視学・学務委員など)、教育会が担当していたわけではありません。ただし、本来なら各自治体が行うはずの教育行政事業について、教育会が代わりに担当することはありました(たとえば、教育諮問答申、教員研修・養成、社会教育事業、教育調査など)。ですので、教育会の役割は、地方教育行政の補完であっても地方教育行政そのものではありません。そのため、教育会と教育委員会との歴史的連続を主張するのは、無理ではないかと思います。
 ただ、教育委員会の目的は、法律によれば、教育の機会均等、教育水準の維持向上、地域の実情に応じた教育の振興です。教育会の目的は、各教育会ごとに微妙に異なりますが、基本的には教育の普及・改良であり、現在の教委が掲げている目的と意味合いは似ています。また、ほとんどの地方教育行政関係者が教育会の運営にかかわっており、現在なら教育委員に選出されるような地方の有識者・教育者も教育会に入会し、活動していたことが多く、人的構成からあまり区別がつきにくいのも確かです。さらに、教育会の実質的組織は、教員人事にかかわっていた教育行政官や有力校長を中心に構成されていましたので、教員人事などに影響力を持っていたのではないかと、ささやかれることもあります。教育会と教育委員会とは、ある意味似ている、とは言えるかもしれません。
 今の人々が教育会とは何かと興味をもっても、現在のものにイメージして例えるものがなくて、理解しにくいのは確かです。戦後、教育会は総力戦体制に積極的に協力していたことから糾弾され、その結果ほとんどの教育会が解体され、その財産(教育会館など)を教職員組合が引き継ぎました。戦後引き続き存続し、実質的な活動を行いえた教育会は、信濃教育会・山口県教育会など数えるほどしかありません。教育会と教職員組合とでは、歴史も目的も組織・活動内実もまったく違います。戦後、多くの地域では教育会が解体されたままで代替する組織も現れないまま、戦前の教育会が担っていた役割は失われてしまったのではないでしょうか(今も失ったままのところも?)。そのため、現在の人々が例えるものが見当たらないのだと思います。

 なお、資料はまだ目にしていませんが、戦後、教育行政官がしばしば教育会がなくなったことを嘆いていたという話をよく聞きます。教育会は、教育行政に密着していたために問題も多かったようですが、戦前の教育行政を補完するなくてはならない存在であったと思います。教育会は当時においてもさまざまな矛盾・問題を抱えていたため、そのまま今に適用するわけにはいきませんが、今でも各地域で教育を組織しようとするときに学べることはあるのではないかと思います。教育会研究は、各地域の教育の実際を支えていくために、行政から現場までひっくるめて組織化・実践するあり方を考えるときに一考する価値ある、重要な方法だと思います。それは、自分たちが実際住んでいる地域で、かつて自らの先祖や先達たちが実際に経験し、実践してきた事実から学ぶことなのですから。
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「焔」と「唐牡丹」を劇中で使用していただきました。

2010年03月19日 23時55分55秒 | 純邦楽
 写真と題名は関係ありません(笑)。今朝のいわゆる「伯耆富士」大山がきれいだったのでパチリ。家の玄関を出るとすぐ見えるんです。
 さて、東京外国語大学の柴田勝二先生が代表で制作された「語りと劇による『源氏物語』」に、私が白石崇閃名義で作曲した「糸竹協奏曲第一番“焔”」(2002年)と「唐牡丹」(2005年)とを使っていただきました。昨年春ごろにご依頼を受け、どうぞ使ってくださいと許可を出した後、本年1月31日に同大学のマルチメディアホールで行われたそうです。当日のDVDを送ってくださったので、2時間にわたる大作でしたが全部見させていただきました。物語の導入場面や重要な場面で、とくに「唐牡丹」のほうを使っていただき、とても恐縮しております。出演者も非常に白熱した演技を見せ、ストーリーは古語と現代語とを織り交ぜて、千年の歴史を感じさせつつわかりやすいものになっておりました。非常に楽しませていただきました。関係者の皆様に御礼申し上げます。
 自作曲を公開していたホームページが昨年消滅(笑)しましたので、なんのこっちゃと思われる方もおいででしょうね。かつて私は、筝・三絃・十七絃・尺八・笛・打楽器などによる邦楽曲を作曲していました。だから、このブログ名も「教育史研究と邦楽作曲の生活」なのです。この数年、半分くらい有名無実化してますが…(笑)。今でもたまに作曲したくなりますが、作曲に使っていたPCが古くなって動かなくなってしまった上に、時間と余裕がないので現在長期休業です。PCは買えばよいので、いずれまた発表できる日が来ればよいのですが…
 ちなみに、論文は無事ほぼできあがりました。
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最近3日間の検索キーワードの紹介

2010年03月12日 23時55分55秒 | Weblog
 この数日のアクセス数↓
  2010.03.11(木) 348 PV / 191 IP
  2010.03.10(水) 417 PV / 144 IP
  2010.03.09(火) 586 PV / 169 IP
  2010.03.08(月) 354 PV / 138 IP
  2010.03.07(日) 563 PV / 137 IP
  2010.03.06(土) 472 PV / 147 IP

 昨日今日と、出張で松江に行ってました。疲れて帰ってきて、ブログを開いてみると…191IP!? なっ…
 IPとは、訪問者数とほぼイコールの数字です。というと、昨日11日は、私が覚えている限り、過去最高の訪問者数を記録したということになります。年明けくらいかじわじわ増え始めていましたが、ついにここまで達しましたか。このブログを通して200人近い人々とそれぞれつながっているとは、不思議な気分ですが、うれしく、有難いことです。なぜ増えたかは、ホントにわからないです(笑)。たまにしか更新しないのに…(すみません)。
 最近増えた読者さんが何を求めてこのブログに来たか、ちょっと知りたいと思いませんか。私は知りたいので(笑)、ちょうど9日から無料お試しキャンペーンが始まったgooブログアドバンスのアクセス解析を利用してみたいと思います。いや、こりゃすごい機能だわ。とりあえず、最多検索キーワードを紹介してみましょう。
 検索キーワードは、9日のは「夢とは何か」が最多。「夢とは何か」というテーマは、一昨年ころからちょこちょこ述べてきたテーマでして、2009年3月7日の記事「、『夢』とは何か―生きるための原動力」がそのまま直の記事です(記事内容は悪文ですが(笑))。高校非常勤の末期に意識し始めたので、2008年6月辺りからの記事にはちょこちょこ書いていたと思います。飛んできたのは、受験勉強中の高校生たちでしょうか。少しでも悩みが楽になれば幸いです。
 10日の検索キーワードは「親依存」が最多でした。このテーマはあんまり述べたことはないですが、あえて言うなら2008年8月27日の記事「現代の子ども―『個人主義』より『親依存主義』?」でしょうか。羽仁もと子の言葉に触発されて、今だったらこんな風に言えるんじゃないかと思って書いた記事でした。大学院時代には、自分自身の問題として「親の世話にこれ以上なるわけにはいかない」とよくつぶやいていましたけど、こっちではないでしょうね、たぶん。
 11日の検索キーワードは「学振」が最多でした。「学振」とただ言う場合は、おもに、日本学術振興会特別研究員制度やその研究奨励金を指すことが多いです。私も2007年3月まで特別研究員をさせていただき、大変有意義な研究生活をすごさせていただきました。若手研究者とくに院生にとってはなくてはならない制度だと思います。閲覧履歴を見ると、2006年7月3日の記事「学振特別研究員と金」が興味をひいた様子。学振は金持っているようなイメージだけど、そんなに金持ちでもないし、4~6月は金欠だよという内容でした(笑)。
 そのほか、「木寺安敦」という検索キーワードで飛んできた人もいるようで、興味深かったです。木寺という人物は、2006年7月5日の記事「履歴の分からない重要人物」で書いたことがあります。明治10年代~20年代における東京の教育会を調べると、ちょくちょく名前の挙がる重要人物なのですが、会以外で普段何をしていた人なのかわからない。記事から4年近く経っていますが、結局あれから何も新しいことはわかってません(^_^;)。誰か教えてください(他力本願)。…ふむ、教育会関係者の履歴を求めている人もいるということになると、いい加減に「大日本教育会・帝国教育会の群像」を再開しなければいけないですね。私も再開したいのですが…再開する余裕と時間がないのが( 一一)。
 あとは、ちょくちょく書いている教育学・教育史関連の記事もよく開かれている様子。それなりに興味をひいているようですね。まとめる余裕がなかなかないし、ピンっ!ときたときにしか書かないので、こういう記事はたまにしか書けませんが、書く甲斐はあるようなので励みになります。

 以上、最多検索キーワードについて、紹介してみました。今まで書き溜めてきたいろいろな記事が、それぞれ興味をひいているなんて、面白いですね。でもまぁ、キーワードで飛んでくる人のほうが基本的に稀です(最多といっても多くて5~6件)。大半の読者は、「新しい記事書いたかな、たまに見てやろう」とトップページを開いてくれる常連さんなのだと思います。
 皆さん、いつも見てくれてありがとうございます! そして、グチばっかり読ませてすみません(笑)。
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倉橋惣三に興味が向く

2010年03月09日 23時11分11秒 | Weblog
 今朝から雪がずっと降っています。積もった雪は常にとけかけていてベシャベシャです。今冬の山陰では、ほとんど雪が降らなかったので、3月にドカッと降るんじゃないかと思っていましたが、やっぱりきましたね。今回で済めばいいのですが。
 さて、調子は相変わらずよくありませんが、少しずつ、短大紀要用の4月1日〆切の「論文」執筆に集中し始めました。幼児教育に関するものなので、教材研究も兼ねています。テーマは、「明治後期の保育者論」。あまりに範囲が広いので、あとで副題をつけます。先行研究をまとめながら代表的な保育思想家の保育者論を整理し、基本資料をつかって少しでも何か言えたらいいかな、という程度のものです。「研究ノート」なので、あまり期待しないでください(笑)。無事入稿できれば(笑)、6月に刊行予定です。
 この「論文」を書くきっかけは、今の職場と仕事との関連から、幼児教育に関するものを何か書かなければいけないので、もともと興味があった教育者論や教師論との関連から「保育者論」で何かまとめようと思ったことです。教材研究をしている上で、これはよいと思う「保育者論」のテキストに出会えなかったのも関係しているかもしれません。
 まとめている途中で思ったこと。倉橋惣三はやはり面白い。興味をそそります。中村五六も、東基吉も、和田実も、それぞれ興味深いですが、なかでも倉橋は面白い。今でも研究者・保育者の関心を集めるだけあるな、と本当に実感しています。「子ども中心」とは今でもよく使いますが、倉橋の言葉に触れるとその意味をさらに深く考えさせられます。真の子ども理解とは、今をひたすらに生きる子どもを捉えることであり、保育者の基本的あり方とは、まずはその子どもたちと共に生きることである…。倉橋の思想に触れると、こんなことを考えさせてくれます。
 そして、「子ども」を「被教育者」と読み替え、「保育者」を「教育者」と読み替えてみる。大学教員をも含みこんだ教育者としてのあり方を述べているようにも思うこのごろ。今の勤務校に来る前の自分には、こんな風に読み替えることはできなかったように思います。
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あばたー見てきました

2010年03月06日 19時33分47秒 | Weblog
 このところ毎日毎日煩悶の日々を送っています。理由はいろいろ(苦笑)。昨日は、仕事上で諸々が立て続けに起こり(トラブルというほどではないですが…)、イライラがつのるばかりの日でした。仕事帰りに思い切って、久しぶりに映画に行くことにしまして、「アバター」見てきましたよ。少しの間でしたが、物語にのめりこんで頭空っぽにできました。
 「アバター」、期待してた以上に面白かったです。私が見に行った映画館は3D未対応だったので普通の画面で見たのですが、これ3Dで見たらもっとすごいんだろうなと想像させてくれる映像美でした。スピード感・映像・迫力いずれも高レベルで、良くも悪くも、徹底的なエンターテイメント作品でした。「光」の魅せ方がとてもよかったです。自然発光にこだわっていたような気がします。
 内容は、ほかのサイトなどをご覧になったらわかることなので申し上げませんが、実もふたもなく言うと、金と力にしか判断基準のない軍人と、空や木々の間を飛び回る青い原住民との物語…(笑)。最後付近のショッキングなセリフ、「人類を裏切った気分はどうだ」が心に残り、製作側は何を言いたかったんだろうかとつい考えました。自らとは異なる容貌・価値観を「未開」「野蛮」と断じ、自らの正義と利益を絶対的な判断基準として、軍事力で相手をねじ伏せてきた某国。その態度への疑問と葛藤を暗示したかったのでしょうか。
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