教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

教師教育者としての教育史学者が考えなければならないこと―教育史学会シンポジウムに参加して

2015年09月29日 21時09分15秒 | 教育研究メモ

 先日、宮城教育大学で開かれた教育史学会第59回大会に参加してきました。科研グループで開かれている教育会史に関するコロキウムももちろんですが、第一日目のシンポジウム「教育史研究と教師の教養形成」を楽しみに出席してきました。以前から興味をもっている、教職課程における教育史教育の意義について論じる場だと思ったので。

 シンポジウムの報告者・指定討論者の報告や議論は、知らないことも多く、とても勉強になりました。とはいえ、もう少し突っ込んで聞いてみたいことがたくさんあったので、フロアの質問紙に書いて出したところ、2つも採用されて発言させていただき、驚くと同時に光栄でした。その時の質問と、時間切れで採用されなかった質問とを覚えている限りで示すと、以下の通りでした。

 まず、当日、報告者のF会員が、教育哲学会の行っていた「教員養成課程における教育哲学の位置づけに関する再検討」プロジェクト(通称「役立ち研」)とその発展した研究成果に触れて、教育史学会版「役立ち研」を組織してはどうかという提案をされました。それを受けて、その「役立ち研」をどのくらいのスケジュールで組織すべきと考えておられるか、質問しました。ただの提案に終わってはもったいない、もうひと押ししたいと思ったからです。
 以前にも取り上げたことがありますが(「教育史は何の役に立つか」という問い)、教育史の役立ち感はまだまだ未知の領域です。特に、現代日本において説得力ある形での答えは、管見の限り見いだされていません。教育史の役立ちを論じることが、軽視またはタブー視されてきた感があります。少なくとも私の研究者養成の過程では、しっかり考える機会はありませんでした。そうするうちに、「教育史なんぞ役に立たない」という世論ができてしまい、今では次々と教育史の科目や講座・研究室が閉じられていっています。大学の外に教育史の可能性を見出せばいいのでは、という考え方もあるようですが、教員養成・教師教育上の意義を認めているからには、そういうわけにもいきません。良い教師を育て、支えるには、「教職課程における教育史の位置づけに関する再検討」とでも題するプロジェクトがぜひ必要です。必要な論点はたくさんあると思いますが、特に、「今の日本において」どう役に立つか、がポイントかなと思います。
 ぜひ、教育史版「役立ち研」は立ち上げるべきです。F会員からは「君が進めたっていいんだぞ」と逆にふられましたが(笑)。

 2つ目は、教材研究としての教育史研究についてどう思うかという質問をしました。
 私の実感として、教育史学者としての自分と、教職科目担当者としての自分との間には、現状、開きがあります。この二つの自分を統合してアイデンティティを確立することなしに、教育史研究が教師教育に寄与することは難しいのではないかと思います。著しく苦しい現状のままでは、おそらく実践者として続けられない時がいずれ来るように思います。それを避けるためには、教育史研究がそのまま教師教育につながる状態を普通にすることが必要だと思います。
 私は、教育原理・教師論・保育者論などの総論的・原理的科目のなかで、何とか教育史的要素を取り入れようと教材研究・開発に努めていますが、教育史研究の成果を教材化するのはなかなか大変なことです。自分の専門以外だとどうしても深みが足りません。そのあたりを解消するためにも、私は、教育史教育の教材開発と共有の場が必要だと思っています。この場合の教材とは、教科書という固定的な教材というより、常に更新され、多くの人が参加できるようなもう少し流動的で可変的なものです(教材ポータルサイトのような)。
 ともかく、そんなアイディアを出す以前の問題として、他の教育史学者が教材研究についてどう思っているのだろうか、と思って質問しました。教育史研究と教材研究はまったくの別物という返答や、大学院の教職課程教員養成の場で教材化の活動をカリキュラム化してもいいのではという別のアイディアも出てきました。やっぱり、対話によって問題点が浮き上がってきたり、新しい考えが出てきたりしますね。そういうことをともに考える場がコンスタントに欲しいです。

 シンポでは取り上げられませんでしたが(話がずれすぎるのでだと思いますが)、教師の歴史的教養・認識や歴史的判断力がいかに発達するか、考える場が必要なのではないかという意見も提出していました。教師が歴史的教養をもって歴史的判断力を培えば、時間軸による教育問題の相対化や、現行制度や実践的判断に対する深い理解や納得・批判によって、創造的な実践や教職生活を生み出せるようになると思います。しかし、そのような教養や判断力がどのように発達するか(育つか)今のところ誰も考えていませんが、この答えが見えてこないと教師の教養形成や教師教育における教育史教育・研究をどうするか考えることはできないのではないでしょうか。
 その点、指定討論者のM会員がおっしゃった、教養形成の主体である「教師」を志望者・初任・中堅・ベテランをいっしょくたに考えるのではなく、分けて考えなければならない、という観点は大事だと思います。

 ふう、教師教育者としての教育史学者が考えなければならないことは、いっぱいありますね。

 参考までに、これまで書いてきた教育史研究・教育に関する記事が見つけにくくなってきたので、以下、まとめておきます。

 なぜ保育所と幼稚園があるのか?―戦後日本保育制度史(2011.4.19、保育者養成における教育制度史教材の考え方)
 授業についての悩み(2012.11.18、保育者養成における教育史教育について考えていたこと)
 なぜ理念・歴史を学ぶか? 『幼児教育とは何か』(幼児教育の理論とその応用1)より(2014.4.14)
 教師を元気にする教育史研究(2014.9.27)
 「教育史は何の役に立つか」という問い(2014.12.22)
 教職課程教員は教育史にどのように向き合うべきか(2014.12.23)
 私の授業実践「学び続ける教師」(2015.6.21、教育史教材の開発例について少し述べています)

 2012年3月以前には、こんなものも書いてました。
 目 次「教員・保育者養成の実践」 (2012年3月時点)
 目 次「教師論・保育者論」 (2012年3月時点)
 目 次「教育論」 (2012年3月時点)

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子どもの模倣としつけ

2015年09月18日 19時19分09秒 | 教育研究メモ

 子どもは見て学ぶことができる。模倣する主体として有能である。

 子どもは親から言われたことはしない。親の姿を見て、そこに見られたことをする。
 子どもは大人から言われたことはしない。親密関係にある大人の姿を見て、そこに見られたことをする。
 子どもは教師から言われたことはしない。教師の姿を見て、そこに見られたことをする。

 子どものしつけは、大人の生活の見直しから。

 (参考:A・バンデューラの言葉)

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道徳教育における「教えてやる」という姿勢

2015年09月08日 23時55分55秒 | 教育研究メモ

 教師は、道徳教育に取り組む自分の姿勢が、道徳を「教えてやる」という姿勢になっていないか常に確認する必要がある。

 道徳的に完璧な人間は存在しない。人間にできるのは、道徳的であろうと努力することができるだけである。教師も、道徳的であろうとしながら不道徳を積み重ねてしまう、普通の人間である。
 道徳は、日常生活の仕方であり、子どもたちの生活そのものに関わる問題である。子どもたちも、少なからず自分の生活を善くしたいと思っているし、悪いことは悪いとわかってはいる。でもできない。わかってはいるけれど、できないもどかしさを感じている。
 道徳を「教えてやる」姿勢は、言い換えれば、子どもを道徳的に劣った立場に決めつけて、道徳的に優れた立場にいるかのようによそおっている姿勢といえる。教師が道徳を「教えてやる」姿勢で道徳教育に臨んだ場合、子どもたちは葛藤を感じ、ひいては反発心を感じる。「わかってるけど、できない」、そして「自分だってできないくせに」と。

 道徳教育に取り組む教師には、「教えてやる」姿勢ではなく、「ともに考える」姿勢が必要である。ともに道徳的であろうと努力するのである。そのためには、教師は自らの不道徳性に自覚的でなければならない。そして、自らの不道徳性を諦めてはならない。常に道徳的であろうと努力する必要がある。そうでなければ、「ともに考える」と言いながら、実は「教えてやる」姿勢になってしまう。
 ともに道徳的であろうと努力する存在として、教師と子どもは同等である。では、教師が道徳教育の教壇に立てるのはなぜか。道徳的であろうとする努力には支援者が必要だからである。道徳的実践の支援者として、教師は教師でありうる。

 道徳的であろうと努力するには、「やりたくない」「めんどくさい」「しんどい(疲れる、つらい)」などの我欲を乗り越える必要がある。道徳的実践とは、我欲との対決なのである。つまり、道徳的努力を支援することとは、子どもたちの中で行われている我欲との対決を支援することである。
 我欲は道徳的実践にとっていつも悪いとは限らない。我欲は主体性の源泉でもあるからである。道徳的実践は主体的でなければならない。ある意味、我欲がなければ道徳的実践を行うことはできないのである。したがって、道徳教育は我欲を取り除くことではない。
 道徳教育は、目を背けがちな道徳的問題に子どもたちが向き合い、問題解決をさまたげる己の我欲を自覚し、そのうえで道徳的に判断して、道徳的実践に努力するよう支援していくことである。そのためには、子どもたちがどこで葛藤しているのか、どんな問題に直面したことがあるのか、教師は同様の経験はあるかなどを考える必要がある。そのうえで、読み物資料が必要なこともある。自分のエピソードの披露が必要なこともある。グループ討議が必要なこともある。
 道徳的であろうとともに努力し、道徳的問題をともに考えるために、道徳教育はある。自分の不道徳性に目を背けた「教えてやる」姿勢では、道徳教育はできない。

 (参考:山本政夫の道徳教育論)

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道徳的に不完全な人間は、道徳教育を行えないか

2015年09月01日 23時55分55秒 | 教育研究メモ

 道徳的に完全な人間など存在しない。したがって、人間が道徳を教えることはできない。
 この言は果たして真理か。

 否。
 人間の道徳的不完全性は、むしろ道徳教育を可能にする。

 人間は道徳的に不完全であるからこそ、道徳的実践に努力する。道徳とは、単なる道徳的知識や社会のルールではなく、道徳的知識やルールに対する納得に基づく実践である。それゆえに、納得づくの道徳的実践に対する努力は、道徳そのものになる。道徳的実践は感化の力を有する。深く広い道徳的理解に基づいて、道徳を実践しようと努力する教師の姿は、被教育者の道徳性を目覚めさせることができる。
 道徳教育の目的は、道徳を知識として教えることではない。道徳を知識として教えることは、道徳教育の目的ではなく、その手段である。道徳教育は、人間が本性として有する道徳性を喚起して自覚させ、道徳的判断力を育成して日常的に道徳的実践に取り組む態度・習慣を涵養することを目的とする。そのため、教師の道徳的実践に対する努力は、子どもがそれに感化される時、道徳教育の手段の一つとなる。

 道徳的に不完全な人間だからこそ、道徳的実践に努力することができ、道徳教育を可能にする。

 (参考:高山岩男の道徳教育論)

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